④「縦横無尽! タピオカおじさんの怪」
OLはタピオカを手に道を歩いていた。駅前に新しくできた『タピステーション』の人気メニュー、黒糖きな粉ミルクだ。今日は金曜日の仕事帰り。一週間頑張った自分への、ささやかな報酬である。
OLは二車線の比較的太い道である茶沢通りから、古い小劇場付近の角を曲がって、細い路地に入る。
濃厚な甘みとタピオカのもちもちとした触感を楽しみながら歩いていると、ふと、電柱の下に人影があることに気づいた。近寄ってみると、それは喪服に身を包んだノッポなおじさんであった。片手にタピオカを持ち、時折ちらちらとこちらに視線を送ってきて、ひどく気味が悪い。
ふと彼女の脳裏に、SNSで見かけたとある都市伝説が浮かんだ。『タピオカおじさん』なるバカバカしい名前の都市伝説。同僚と話のネタにして盛り上がっていたくらいで、半信半疑ではあったが、しかし、タピオカを持って道を一人で歩いていると遭遇するという条件を、今の自分は満たしていないだろうか――。
そんなことを思う。思ってしまう。
そもそも、都市伝説などでなくとも、人気のない道で男に見られるというのは不気味以外の何物でもない。OLは足を速めて、おじさんの横を通り抜けようとした。
その時である。
喪服を着たノッポなおじさんは、がっと背後からOLの肩を掴んだ。
突然の出来事に心臓が口から飛び出しそうになる。
「お前、タピオカ、好きか?」
背後から男の声が聞こえた。
「ひっ」
――まさか。本当に?
声が思うように出なかった。
咄嗟に都市伝説を思い返す。はてさて、何と答えるのが正解だったかと。
まず逃げようとしたり助けを求めようとするのはNGのはずだった。それどころか、振り向くことすら許されない。それらを破れば、その時点でタピオカに潰されて死ぬという話だった。迂闊に声を出すことはできない。
しかし正しく回答をすれば、命は助かるはず。まずは落ち着くことにした。
OLは息を一つ吸って、吐いた。
「す、好きです」
「そうか。それは十全だ。タピオカは素晴らしいものだからな。ぬはは」
おじさんは満足そうに言って、タピオカをチュウと一口すする。
「じゃあ、どこのタピオカが好きなんだ?」
続けて質問が来る。都市伝説で話されている通りの展開だった。
OLはごくりと唾をのみ込んだ。この質問に何と答えれば良いかは、意見がわかれるところなのだ。一説には『タピチャ』であると言われ、一説には『タピステーション』であるとも言われ、かと思えば己の好きな店を言うのが良いとする意見もある。
OLは迷った末に、二つの条件を満たす返答をすることに決めた。
「タピステーションです」
「そうかそうか! それは良い! あそこは良いタピオカを使っているからな! ぬはは」
おじさんは唾を飛ばしながら大きな声で言って、タピオカをまた一口チュウとすすった。
OLはほっと胸を撫でおろす。どうやら正解であるらしいと。
これで残る懸念は、このおじさんが都市伝説を装った不審者であるということだけだが、その場合は大声で助けでも何でも呼んでやろうと決心する。
しかし――タピオカおじさんの質問はそこで終わらなかった。
「ではさらに問おう。何味のタピオカが好きなのだ?」
え、そんなの聞いてない――。
OLは一瞬で頭が真っ白になった。『タピオカおじさん』は好きな店を聞くだけではなかったのか。何と答えたら良いかまったくわからなかった。
しばらく沈黙を貫いていると、喪服を着たおじさんは肩を掴む手に力を込めた。
「おい。どうした。早く言わなければ――処すぞ? おい。上を見てみろ」
言われて、OLが恐る恐る見上げると、家の屋根の上に、黒く大きな球体が安置されていた。目の錯覚か、赤黒いオーラのようなものを纏っているように見える。
それはまるで、巨大なタピオカのようであった。さらに目を凝らすと、球体の真ん中の辺りには、人の顔がぽつんと点のように存在し、虚ろな目でこちらを見ていた。
異形の姿。顔のある黒い球体、タピオカおじさん。
あまりの恐怖にガタガタと足が震えた。
「早く答えろ。本当に処すぞ?」
処す。え? 殺すってこと? 死ぬ? 自分が?
心臓がバクバクとうるさく鳴り始めた。何か、何か答えなければ――。
でも返答を間違ったら……死? え、死ぬの? 本当に――?
恐怖。
実際の所、もはや彼女の返答は関係なかった。
なぜなら、すでに恐怖が彼女を包み込んでいたからだ。
逢魔時空の形成条件は、対象となった人間の感情の昂りである。彼女の恐怖が臨界点に達してしまった瞬間に、返答の如何に関わらず、逢魔時空は形成されるのだ。
空が真っ赤に染まった。
「こ、黒糖きな粉ミルク、です」
しばしの沈黙。
「お前は何もわかっちゃいない。タピオカはミルクティーと相場が決まっとろうが!」
「そ、そんな――」
「黒糖だのきな粉だのは邪道である! タピオカ様が泣いているぞ! 震えているぞ! タピオカ様の制裁を受けよ! タピオカ様の怒りを享受せよ!」
ノッポな喪服のおじさんは、両手を広げて芝居がかった口調でそう言うと、天に両手を上げた。するとタピオカおじさんは屋根を転がり、OLへと落下を始める。
自分を押し潰さんとするタピオカおじさん。
OLは足から力が抜けて、へたとその場に座り込んだ。
その時である。
「どっせぇーいっ!」
どこからともなく学ランの男がすっ飛んできて、タピオカおじさんをサッカーボールみたいにして蹴り飛ばした。道の先に点々と転がっていく。
スタっと軽やかに着地したその男は、顔に天狗のお面を被っていた。
天狗の男が飛んできた方向から走ってきた、ひょっとこのお面を被った女性に連れられ、OLはその場から走り去る。その際、犬のお面を被った背の低い少女ともすれ違った。
去り際に振り向くと、青い燐光をまとった少女と、赤い燐光をまとった男が、並んで立って、喪服を着たノッポなおじさんと向かい合っていた。
〇
「さて、ここからは妖怪の時間ね」
犬塚はお面を持ち上げつつ言った。猿田も天狗のお面を上にずらす。
「来たか。良かった。あいつも喜ぶだろう」
ノッポな喪服のおじさんはチュウとタピオカをすすりながら青白い妖力を身に纏い、後方に飛びのいて二人から距離を取る。猿田はすぐさま六節棍で追撃に移ろうとしたが、近くの屋根の上から包帯男が三体飛び降りてきて、それを遮った。今日の包帯男は昨日の青白い燐光ではなく、みな赤黒い燐光を帯びていた。
すぐに襲い掛かってくる様子ではないので、猿田は警戒しつつ一歩下がる。包帯男たちは、昨日戦った時のように筋骨隆々というわけではなく、通常の人のサイズだった。
犬塚は喪服を着たノッポなおじさんに木刀を突き付ける。
「あんたが死体遊戯っ!?」
「なんだ? その香港映画みたいなダサい名前は。俺の名は山田だ」
「名前はどうでもいい。お前がこいつらを操ってるのかって、聞いてんだよ」
猿田は山田と名乗ったおじさんを守るようにして立つ、包帯男たちを見渡した。
「違う。俺にはそんなことはできない。俺は『死体を元通りに修復する』異能の持ち主だ」
「じゃあ……別の奴が操ってるってことか?」
「そうだ。今日はお前たちに挨拶したいと言っていたよ」
山田はちらと背後に目線を送った。
先ほど猿田が蹴飛ばした巨大タピオカが、ポンポンと道を跳ねてこちらに向かってくる。最後にひと際大きく跳ねると、空中で球体から人型に変化し、山田と二人の間に着地した。
それは黒の全身タイツを着た小太りのおじさんだった。コメディアンのような風貌である。赤黒い妖気を纏っていた。
小太りのおじさんは恭しく礼をすると、しゃがれた低い声で言う。
「どうもはじめまして。仮の肉体で失礼するよ。肉体を操っているのは僕だ。来てくれて嬉しいよ」
「あんた……だれよ?」
山田に突き付けていた木刀の切っ先を、小太りなおじさんにずらす。
「うーん。もったいぶるつもりはないんだけど、それはこの妖怪タピオカおじさんに勝てたら教えてあげよう。あは。ご褒美があった方が燃えるだろう? ちなみにこの肉体が宿した異能は『球体への身体変化』。一昔前なら釣瓶落としとか呼ばれてたりしたのかな?」
「あんた……妖怪の死体まで操れるってわけ?」
「そういうことになるね」
「おい。そいつはプログラムの書かれた包帯巻いてないのに、なんで動いてんだよ」
タピオカおじさんは全身黒のタイツに身を包んでいる。まさかあれにプログラムが書かれているのだろうかと猿田は訝しんだ。
「そんなものは鼻から必要ないからさ」
タピオカおじさんはあっけらかんと言った。
「はぁ……? じゃあ、なんでそんなこと?」
猿田は困惑する。意味が分からなかった。
「ぷふ。プログラムで操ってることにした方が、なんかロボっぽくて面白いと思ったからさ」
後ろに立っている山田がげんなりした顔で言う。
「こいつ、頭がおかしいんだよ。プログラムの書かれた包帯なんて本当は必要ないのに、わざわざプログラマーに金払って発注して、それっぽいもの書かせたんだぜ? 機械音声作ったり。大事なことだからもう一回言うけど、こいつは、頭が、おかしいんだ」
「おいおい、失礼だな。だいたい、君にだけは言われたくないよ。設定というのは大事だろう? 神は細部に宿るって言葉もある。小道具にこだわるのは当然のことだろ。トンカラトン2・0のテーマは、匿名性と量産性なんだ。あは。殺されたら自分もあんな風に操られてしまうっていうシュールな恐怖に、リアリティをもたせる為の創意工夫と言ってほしいね」
タピオカおじさんはへらへらとそんなことを言った。
いかれたやつだと猿田は率直に思った。確かに頭がおかしいようだと。
「もういいわ。黙りなさい」
犬塚は苛立たし気に言って、山田を木刀で指す。
「とにかく、こっちの男は本体ってことよね」
「そうだな。ぬはは」
山田は素直に頷いた。
「じゃあ……狙うならこっちってことねっ!」
犬塚は問答無用で山田に切りかかった。
「おっと危ない」
すると最寄に突っ立っていた包帯男が突然喋り、機敏に反応した。
山田の体を担いでピョンピョンと二度跳躍し、塀から家の屋根の上に着地する。
「ダメだよ。この人は貴重な人材なんだ。君たちの相手はそこのタピオカおじさん達だよ」
「逃がさないわっ!」
犬塚はすかさず跳躍して後を追おうとする。
しかし道路に突っ立っていたタピオカおじさんが、まんまるに体を変化させて垂直に飛び上がり、犬塚の真下から高速のタックルをかました。
「……がっ!?」
犬塚は下方からの不意打ちをもろに食らい吹き飛んだ。しかも攻撃に転じていた為、妖力をほとんど防御に回していなかった。
「犬塚っ!?」
猿田は後方を振り返る。犬塚の体は遥か彼方へ飛翔し、後ろにあった病院の一室に突っ込んだ。窓ガラスが粉々に割れて飛び散っている。
犬塚の体に当たって跳ね返った球体のタピオカおじさんは、大きく弧を描いて地面に落ちると、ギュルギュルと音を立てて高速回転し、勢いをつけてギュンと飛び出して犬塚の後を追った。
猿田も追いかけようとするが、そうはさせまいと二体の包帯男が立ちふさがった。新手である。前に二体、後ろに二体。全部で四体の包帯男に囲まれた。全員日本刀を持っている。
「さぁ、ヒーローショーの始まりだよ」
猿田の正面にいる包帯男の一体が喋った。
「おいおい、マジかよ。いったい何匹操れるんだよ」
猿田はたじろぐ。昨日のように、全身ムキムキのジェノサイドモードとやらになっていないのが救いではあったが、それでも一人で相手するのは骨が折れそうだった。
「それじゃあ、生きてたらまた会おう。ま、死んだら死んだで、骨は拾ってやるよ。もちろん拾った骨は俺が修復して再利用してやるがな。ぬはは」
そんな捨て台詞を残して、山田は包帯男に抱えられて去っていった。
〇
「おい! 犬塚! 大丈夫か?」
猿田はインカムに向かって問いかけた。
「平気よ。あんたもさっさと、こっちにきなさいよ」
「俺も包帯四匹に囲まれてんだけど」
「はぁ? 増えてるじゃないの! って、このっ!」
インカムの向こうから建物が崩落する音が聞こえた。
「犬塚っ!?」
「うるさいわね! こっちはこっちで何とかするから、あんたも早く来なさい!」
「しゃあねぇ、やるか」
猿田はクルクルと棒状の六節棍を頭上で回してから両手で構えた。妖力の出力を上げる。赤い燐光が燃え盛る炎のように輝きを強め、猿田の体と得物を包んだ。
今日の包帯男たちは、筋骨隆々のジェノサイドモードとやらではない。タピオカおじさんを動かすのに、妖力のリソースの大部分を割いているのかもしれない。
念動力を操る自分ならば、勝てない相手ではないはず。
臆するな。
猿田は自分で自分に言い聞かす。
「覚悟はできたかい?」
包帯男の一人が言った。
「かかってこいやぁ!」「かかってきなさいよっ!」
猿田と犬塚の声が重なった。
それと同時に、日本刀を持った四体の包帯男は、一斉に猿田に飛び掛かった。
前方の包帯男たちは上から日本刀を振り下ろし、後方の包帯男たちは姿勢を低くして足元をすくうように刃を振るった。前後からの上段下段の同時攻撃。
猿田は仰向けに倒れながら跳躍して地を這うような斬撃を回避。同時に手に持った棒を目の前で回転させ、上方からの斬撃二つをまとめて弾く。
着地する前に地面に片手をついて、そこを支点に体を捻り、逆立ちの状態で両足を広げて後ろにいた包帯男たちの顔面に蹴りを入れる。
ドゴッと鈍い音がして、二体は左右に吹き飛んだ。
そのままバク転の要領で後方に着地すると、すかさず前にいた二体が切りかかってくる。右側からの斬撃は棒で受け止め、左側からの斬撃は胸ポケットに入れていた鉄扇で受け止める。キィンと硬質な音が響いた。
猿田はすぐさま棒を振り回して反撃。二体の包帯男の胸元に当たって、ばらばらの方向に飛んでいく。しかし休む間もなく、先に蹴り飛ばした二体がむくりと起き上がって、続けざまに猿田に襲い掛かった。波状攻撃である。
猿田は腰の荒縄を放り上げて電柱に巻くと、念動力で引き寄せて飛び上がる。二体の斬撃は空を切った。
猿田は電柱の天辺に蛙のような格好で着地して、下を見る。
四体の包帯男は道路の上に立ってこちらを見上げていたが、追ってくるのではなく、斧で木を倒すみたいに日本刀を振るい、猿田が乗っていた電柱をへし折った。
猿田は倒壊する電柱の上を猿のように器用に走って勢いを付け、真上に高々と跳躍した。
空中で、さてどうしてくれようかと、頭を働かせる。地面では四体の包帯男が、猿田が落ちてくるのを待ち構えていた。落下地点を予測し、そこを囲むようにして四体が立っている。餌を待つひな鳥のようであった。
その時、インカムから窓ガラスが割れる音が聞こえた。
急いだほうが良さそうだと考えた猿田は、瞬時に決断。技を放たんとする。
まず手に持った六節棍に念動力を込め、一つの棍と五つを繋げた棒の形態を作る。それから棍の方を左手に持ったまま、槍を投擲するように棒を地面へと投げつけた。鎖の尾を引きながら、棒はアスファルトの地面に穴を開けて深々と突き刺さる。それから猿田は念動力を送って、伸びた鎖を巻き取りながら、突き刺さった棒に螺旋の力を加える。
棒はギュウゥンとドリルのように回転。すると鎖で繋がった猿田の体も連動して、竹とんぼのように高速回転を始める。その状態で棍とは逆の手に持った鉄扇をパンっと振って広げると、妖力を込めてピンとまっすぐ腕を伸ばした。
鉄の刃を持った人間竜巻の完成である。
”猿田天狗道第二三手 一棍五棒鉄旋蜻蛉“
猿田は地面に着くと棍から手を放し、足を支点にグルグルと激しく回り、取り囲んでいた包帯男たちを一陣の竜巻のように次々と切り裂いていった。
回転の余力でよろめきながら、猿田は地面に手をついて中腰の姿勢で止まる。
彼の背後では、四体の包帯男たちがズタズタに切り裂かれて地に伏し、徐々に白骨に戻っていく。
「ふぅ…‥」
妖力の消費の激しい大技ということもあり、全身に軽い脱力感があった。
その時である。
「〈阿吽の法〉っ!」
インカムから犬塚の声が聞こえてきた。
「おい犬塚。なんだ今のっ!?」
「私の異能を発動したわっ! 異能の効果時間は三分! 腕の端末に残り時間が表示されるから、一〇秒以内に駆けつけなさいっ!」
言われて腕の端末に目を落とすと、地図の上に新たに数字が表示され、カウントダウンが行われていた。残り二分五〇秒、四九秒……刻一刻と時間が減っていく。
「もう一〇秒経ったが」
「いいから急ぎなさいって言ってんの!」
「わかったよ怒鳴るなっ!」
慌てて猿田は鉄扇を閉じて懐にしまい、地面に刺さっていた六節棍を抜き取ろうとする。
しかしアスファルトに深々と突き刺さった六節棍は、なかなか抜けなかった。
〇
時を僅かに遡る。
タピオカおじさんに飛ばされた犬塚は、病院の窓を突き破って患者用ベッドの上で弾むと、猫のように身を翻して床に着地した。
腹の辺りを抑える。かなり痛みがあった。防御がおろそかになっていたところへの一撃。一撃でかなり妖力を持っていかれた。
「おい! 犬塚! 大丈夫か?」
インカムから猿田の声が聞こえてくる。心配そうな声音だった。
油断していた自分に腹が立ち、ついつっけんどんな態度で返す。
「平気よ。あんたもさっさと、こっちにきなさいよ」
「俺も包帯四匹に囲まれてんだけど」
「はぁ? 増えてるじゃないの! って」
目の前のガラスから球体のタピオカおじさんが猛然と突っ込んで来るのが見えた。
「このっ!」
犬塚は妖力を纏った木刀を前にかざして突撃を受け止める。直撃は避けたが、犬塚は背後の壁を突き破って廊下に投げ出された。背中に鋭い痛みが走る。
「犬塚っ!?」
またも心配そうな声。やられてばかりいる自分に腹が立つ。
しかし、こうして一緒に戦う人間がいるということに、心の奥の方で光が灯ったような気もした。それが何故かまたムカついて、犬塚はさらに声を荒げる。
「うるさいわね! こっちはこっちで何とかするから、あんたも早く来なさい!」
「しゃあねぇ、やるか」
飛ばされた犬塚は立ち上がり、歯を食いしばった。
もう一ミリたりとも油断しないと、自分を戒めた。
目の前では犬塚と衝突したタピオカおじさんが、大きく弧を描いて床に着地しようとしていた。
大きな黒い球体に点のようについたタピオカおじさんの顔と目が合う。
「あは。手加減なしで行くよ?」
「かかってこいやぁ!」「かかってきなさいよっ!」
猿田と犬塚の声が重なった。
地面に着地したタピオカおじさんはまたギュルギュルとやり始めた。犬塚は咄嗟の判断で廊下の奥へと走る。
直後、犬塚のいた場所にタピオカおじさんが突っ込んだ。
壁の表面が抉れる。
タピオカおじさんはそこの壁でまたギュルギュルやって方向を変えると、廊下の壁を縦横無尽にバウンドしながら犬塚を追ってきた。
タピオカおじさんは壁に当たるたびに進行方向を微妙に変える。まるでラグビーボールのようであり、動きの予想が全くつかなかった。こんな狭い廊下では、タピオカおじさんの体当たりを見切るのは不可能であると言えた。
距離を詰められ、背後に迫ったタピオカおじさんに向けて犬塚は牽制の太刀を振るが、当たらない。代わりにまたも体当たりを食らい、ゴロゴロと廊下の端まで転がった。
「――っ」
全身が痛んだが、また猿田に心配されるのが癪だったので、犬塚は意地でも声を出さなかった。
犬塚と衝突したタピオカおじさんは大きく弧を描いている。着地すればまたこちらに飛んでくるつもりだろう。
とにかく今は分が悪いと判断し、立ち上がると、すぐ脇にあった階段を転がるように駆け下りた。逃げの一手。足を動かしながら、思考も加速させる。
犬塚の戦闘において最も重要なのは、いつ『阿吽の法』を発動させるかであった。『阿吽の法』を発動すれば、それまでに減った妖力に関しても回復させることができる為、最初から使うのは余り得策ではない。また、三分という制限時間も存在する為、勝利への道筋をきちんと付けてから発動させるのが望ましかった。
犬塚はひとまず、この建物内で戦闘するのは余りに不利であると考え、階段を下りた先にある病室に入り、窓ガラスにダイブして路上に飛び出した。タピオカおじさんもそのすぐ後ろに続く。
空中に飛び出した犬塚には、どうしようもなく隙が生まれていた。方向転換をすることが不可能なのだ。よって、僅かに遅れて飛び出したタピオカおじさんの体当たりを、またしても思い切り食らってしまう。犬塚は真下のアスファルトに叩きつけられた。
肺にある空気が全て吐き出されるような衝撃。背中に激痛。
タピオカおじさんは犬塚に当たると、中空で大きく弧を描いた。
犬塚はよろよろと立ち上がる。今の攻撃に耐えるのに、妖力のリソースをかなり割いてしまった。次の一撃を食らえば危ない。
しかし、外に出ることはできた。辺りを見渡す。茶沢通り。二車線の広い道だ。ここでなら有利とは言わないまでも、十分に戦うことができると判断。
異能の発動を決心する。
「〈阿吽の法〉っ!」
瞬間、彼女の纏う青い燐光が紫色に変わった。
全身に力がみなぎる。失われた妖力が取り戻され、それどころか、上限を超えて大幅に上昇する。
犬塚は木刀を握る手に力を込め、タピオカおじさんをきっと睨む。
「おい犬塚。なんだ今のっ!?」
「私の異能を発動したわっ! 異能の効果時間は三分! 腕の端末に残り時間が表示されるから、一〇秒以内に駆けつけなさいっ!」
そう言いつつ、犬塚はタピオカおじさんに向かって飛びかかる。その動きのスピードは劇的に向上していた。
「もう一〇秒経ったが」
「いいから急ぎなさいって言ってんの!」
「わかったよ怒鳴るなっ!」
〇
タピオカおじさんに向かって飛んだ犬塚は、空中で小柄な体をさらに小さく折り畳んで高速回転する。
”局所集中・雨車軸“
地面でギュルギュルやっているタピオカおじさんに向けて渾身の一撃を振り下ろす。しかしすんでのところでタピオカおじさんは回避した。大幅に上昇した妖力による一撃が、轟音と共にアスファルトをクレーターのように抉る。
「ちっ」
犬塚は舌打ちしつつ、タピオカおじさんが逃げた方向を見る。
タピオカおじさんは向かいにあった小劇場の壁でギュルギュルやって方向を変え、こちらに向かってきた。
しかし今の犬塚は大幅に妖力が上がっている。むしろチャンスであると判断し、木刀に妖力を込めつつ腰を落とし、居合のような構えを取った。
”抜刀奥義・村雨“
犬塚にとっての必殺の一撃を放つ。
渾身の妖力を込めた、鋭い一閃。
スカッ。
しかし、空を切った。
「あは」
タピオカおじさんは、切れ味鋭い変化球のように、大きく真横に曲がったのである。
「なっ……?!」
必殺技というのは妖力の消費が大きい。そうホイホイと気軽に撃てるようなものではない。外したことに犬塚は動揺する。妖力が減ったことで激しい脱力感もあった。
犬塚の必殺の太刀を躱したタピオカおじさんは、別の建物の壁で回転して向きを変え、今度はジグザグに曲がりながら接近してくる。
「ちょ!? そんなの反則でしょーっ!」
犬塚は反射的に真横に跳んでそれを回避。スピードが上昇していなかったら躱せなかっただろう。
そこへ猿田が空からスタっと降ってきて、犬塚の隣に並んだ。
犬塚はちらと腕の端末を見て苛立たし気に叫ぶ。
「遅いっ! 遅刻よっ! 何やってんのよ!」
残り時間は二分と少し。
「こっちだって急いだんだよ! ギャーギャー言うな! てかこの時間が無駄だろうが!」
タピオカおじさんはまたも進路を変え、二人にジグザグで飛来する。
身体能力が上がっている犬塚は何とか反応するが、ぼさっと突っ立っていた猿田は直撃を食らう。
「ぐえーっ!?」
猿田はゴロゴロと地面を転がった。
「情けない声出してんじゃないわよ!」
猿田に当たったタピオカおじさんは大きく弧を描いて着地、ギュルギュルして、今度は上下に揺れながら犬塚に飛んでくる。
「どんな魔球よっ!」
犬塚はあえて前に走り、スライディングでタピオカおじさんの下を潜り抜ける。
すれ違いざまに切り上げを放つが、上下にぶれるように動くタピオカおじさんには当たらなかった。
「ぷふ。へたくそ」
煽られ、犬塚の頭に血が上りかけるが、努めて冷静になるよう言い聞かす。
時間を確認する。残りは一分半。半分を切った。
焦りが生じる。先ほどの様子だと、猿田だけを当てにするのは些か頼りない。何とか阿吽の法の有効時間中に決着を付けたかった。
タピオカおじさんはまた方向を変えてこちらに飛んで来る。今度はグルグルと円を描きながら動いている。残像でタピオカおじさんが分身しているように見えた。某人気ダンスグループの某トレインみたいな動きである。
「きもいのよーっ!」
スカッ。
カウンター気味の太刀を振るうがやはり空を切る。
犬塚とすれ違ったタピオカおじさんは、地面に手をついて起き上がった猿田にぶつかった。
「ぐえーっ!?」
またも吹っ飛ぶ猿田。
猿田にぶつかったタピオカおじさんは大きく弧を描いて――。
犬塚はそこに、大きな隙を認めた。
咄嗟に走り出して地を蹴り、”雨車軸“を放つ。
「おっと」
道路にクレーターが一つ増えるが、今回もギリギリのところで回避された。しかし犬塚はそこに確かな活路を見出した。瞳に光が灯る。
残り時間は一分を切ろうとしている。時間がない。
「猿田っ!」
インカムに向けて叫ぶ。
「はいっ!」
犬塚の剣幕に押されて、やたらとハキハキとした返事を返す。犬塚はこちらに折り返してきたタピオカおじさんをかわして、起き上がりつつある猿田の方へと駆け寄った。
それから相手に聞こえないように声を潜める。
「あんた、バレーは得意?」
「……はぁ?」
「よく聞きなさい。時間がないわ。あんた、今からあいつの攻撃を正面から受けて、レシーブしなさい」
「えぇ、痛そう」
「いいからやるっ!」
犬塚は木刀を地面に打ち下ろした。軽くアスファルトが抉れる。
「わかったよ! こえぇよ!」
猿田は観念した。
犬塚は猿田の後ろに移動し、居合の構えで木刀に妖力を漲らせた。ありったけの妖力を込める。木刀の刀身は、紫色の水が逆巻くような、怪しい輝きを放った。
猿田は腰を落とし、妖力を全身に滾らせ正面を見据えた。
タピオカおじさんは地面でギュルギュルギュルギュルと回転すると、ギュンと発進し、超高速で変幻自在に揺れながら飛んでくる。無回転シュートのような、ありえない軌道。狙いは犬塚らしく、猿田からは微妙に逸れていこうとしていた。
猿田は全神経を集中させてその動きを見た。攻撃を当てる必要はない。体を当てるだけで良いのだ。犬塚の考えはわからなかったが、失敗して馬鹿にされるのも癪である。
猿田はふっと息を一つ吐き、それから渾身の妖力を腕に込め、大きく横に跳んだ。
腕の先がタピオカおじさんに触れる。ぶつかった衝撃で猿田はゴロゴロと地面に転がり、
――そして。
タピオカおじさんは大きく弧を描いて宙に舞った。
居合の構えを取っていた犬塚は、カッと目を見開く。
”抜刀奥義・村雨“
あらん限りの妖力を注いだ必殺の一閃がほと走る。
犬塚の太刀は顔面にめり込み、球体を凹ませ、そしてタピオカおじさんは弾丸ライナーでかっ飛んでいく。
この一撃を受けて妖力が尽きたのだろう。タピオカおじさんは人型に戻りながら地面と水平に飛んでいき、道路の先にあった高架に体を打ち付けた。
コンクリートが人型に抉れた。
これにて、完全決着である。
犬塚が空中で一回転して着地すると、タイミングを図ったかのように、彼女を包む紫の燐光が青に戻った。阿吽の法の効果時間が切れたのだ。
「ふん。どうよ! これが私の真の実力ってやつよ!」
犬塚はこれ以上ないくらいに無い胸を反らした。
しかし妖力を消耗したせいで、足元がふらつき、後ろ向きに倒れそうになる。
猿田は慌てて支えてやった。右腕で抱きかかえるような格好になる。
「はいはい。かっこ良かったぞ。ほれ」
猿田はそう言いながら、左手を広げて差し出した。
パン。二人は小気味良い音を鳴らしてハイタッチを交わす。
「ま、あんたにしちゃ、上出来だったわ」
それからすぐに、犬塚は猿田の腕の中でプイと顔を反らした。
「あんたは私と『阿吽の契り』を結んだんだから、これからもしっかり頼むわよ」
「……へいへい」
パチ、パチ、パチ、パチ――。
そこに、わざとらしい拍手の音が響いた。