でもずっと一緒
それから数か月がたったある日、いつものように処置室に並んだ順番待ちのカルテをみるとカルテ見覚えのある名前があった、南田タマ、10月ごろ、僕が診察した軟便の猫だ。寄生虫が見つかったから駆虫薬を出した。原因のはっきりしない、下痢や軟便は多いけれど比較的診断のはっきりした症例。確か、穏やかな飼い主さんと人懐こい猫だった。
カルテを開いてみると、僕が診察した2か月後にも一度来院している記録があった。この時は院長が診察したようだ、診断は今度は『回虫症』これも、腸管内の寄生虫の一種だ、前回僕がしたのは条虫だけれど、駆虫薬は同じ藻を使う。駆虫しきれなかったのだろうか。と自分の処方に少し不安を持ちながら、書き込んである今回の主訴をみる。『軟便。便の上を虫が歩いていた』。嫌な予感がした。
「南田さんどうぞ」
待合室の声をかける、前と同じようにキャリーを小脇において、椅子に腰かけていて、呼ばれると小さく会釈して診察室に入ってきた。寄生虫の駆虫は比較的治療が簡単な部類とはいえ、動物の病気はどんなに簡単に思えても、絶対治ると言い切ることはできない。それはわかっているのだけど、しかしやはり治療がうまくいっていないと、後ろめたい気持ちになる。穏やかな顔をしているけれど、南田さんもどう思っているのだろうと勘ぐってしまう。
「また、便から虫が出ましたか」
という僕の質問に、思った以上に穏やかな声が返ってくる
「そうなんです。院長先生にもお薬もらったんですけどね。この子がなんか特別なのかしらね。でも元気だから、またお薬もらえるかしら」
南田さんが僕に不信感を持っていないことがわかると、現金なもので診察に自信と自分のペースを持ち込むことができる。前と同じ症状なのだから、南田さんが希望している通り、同じ薬を出すというのも一つの選択だけれど、やはり繰り返しているのはおかしい。
「そうですね。でも、まずはタマちゃんを診察させてください。体重を測ったりして、知らないうちに痩せてしまっていたりしても問題ですから」
と診察へ導いた
「そうよね。でも今日はちょっとタマちゃんご機嫌斜めみたいなの。先生怪我しないように気を付けてね」
と言いながら、南田さんがタマちゃんをキャリーから取り出した。確か、前回の診察では診察台でもゴロゴロ言うほど懐っこい子だ。今日は、待合で犬にでも遭遇して緊張したのかなとある程度予測したが、それを裏切るくらいタマちゃんは怒っていた。耳は伏せてぺったんこにしているし、前肢はいつでも攻撃できるよう、わずかに浮かしているのがわかる。ウーッと重低音の威嚇の声も出している。この状態でうかつに手を出せば、確実に咬まれること必須だ。動物の診察では、動物があまりに攻撃的になっている場合、不本意ながら、十分な診察ができないこともある。どこで撤退するかの勘も、僕ら臨床獣医師のスキルの一つと言えるかもしれない。
そういう意味で、今のタマちゃんは手を出してはいけないパターンだ。幸い体重だけは測れて、前回より500gも増えていることが分かったから、すぐにキャリーに戻してもらうことにした。
「怒っちゃていてごめんなさいね」
とても、そんな怒った猫を扱っているようには思えない優しい手つきで、南田さんがタマちゃんをキャリーに戻す。飼い主さんのことは信頼しているようだし、南田さんも怖い猫も扱いに慣れているようだ。
仕方がないので、持ってきてもらった便で検便をすると、特に寄生虫の卵は見つからなかった。どうやら、便の上を這う条虫の感染だけのようだ。
前と同じ薬を出して、しばらくしたら検便だけもう一度するように念押しした。
ところが、それから数か月ごとに南田さんは病院を訪れた。毎回、寄生虫が出たという。その時々で、条虫が出たり、回虫が出たり、その2つが一緒に出たりする。タマちゃんの体重も100g単位で増減して不安定だ。寄生虫症という簡単な診療で、篠原先生に相談するものはばかられたが、もしかして何か気が付いていない病気が潜んでいるのではないかと不安に駆られ、ついに篠原先生に相談を持ちかけた。
仕事終わりに、篠原先生に相談を持ちかける。僕が話す経過を最後まで聞くと
「それで、南田さんは怒っていないの。なかなか治らないことに対して」
と病気の治療とは関係ないことについて聞いてきた。確かに、僕らは動物を診ているようで、実際対峙するのは飼い主さんだから、飼い主さんの感情はとても大切だが、僕が心配しているのはタマちゃんの健康で、対人、クレーム対応の方を先に気に掛ける篠原先生に少しムッとする。この人はいつも冷静すぎる。
「ふつう、それだけ治らなければ転院されてもおかしくないよね」
確かに正論だ。でも、このところは僕がずっと継続してみてきたのだし、タマちゃんも機嫌が良いときは僕に懐いてくれたし、そういう安心感で来てくれているのだろう。そうは口に出して言えないけれど、僕の努力を認めてほしいものだ。
「免疫が下がるような何かがあるのかもしれないね。次来たら私がみるから声かけて」
そっけなく言って篠原先生は帰って行った。数少ない僕の患者さんを取られると思うと、少し悔しい気もしたが、少し肩の荷が下りたような気がしたのも本当だ。
また次の月、南田さんが現れた。8月の熱い時期だ。夏は暑いので、昼近い時間は空いていることが多い。カルテには、また軟便と書いてある。僕は篠原先生に、カルテを手わたした。
「南田さん、どうぞ」
篠原先生が南田さんを診察室に呼んだ。診察室のドアが閉まる音がして
「あらいつもの先生じゃないのね」
という南田さんの穏やかな声が聞こえて少しうれしくなる。自分を指名してくれる患者さんができることは嬉しい。
「今日のタマちゃんのご機嫌はどうですか」
と聞く篠原先生の声がして
「今日は機嫌いいみたいです」
と答えながら、キャリーからタマちゃんを出しているだろう音がした。ピッという体重計が止まった音がしたが、タマちゃんの唸り声は聞こえないから、今日は機嫌がいいらしい。
「また軟便が出たんですね。何度か繰り返していますが、切っ掛けなどは感じますか」
篠原先生がいつもの僕よりは突っ込んだ質問をする
「そうねぇ、特にきっかけは感じないですけれど」
「風邪をひきやすいとか、急に元気がない日があるとか、軟便でなく下痢をすることもありますか」
オープンな質問にあまり反響がなかったから、今度はクローズな質問で、聞いているようだ
「特に気になることはないですよ。いつも元気だし、食欲もあるし。またお薬をもらえば治ると思います」
それにはすぐに答えずに、篠原先生が一般身体検査を続けているようだ。そこまで聞いていたけれど、次に並んだ外来が増えてきたので、僕は次の患者さんの診察に入ることにした。僕も晴れて3年目に入り、今ではだいぶ広い病気の診療をすることができるようになってきたのだ。
「南田タマちゃんどうでしたか」
その日の夜、診察が終わるのを見計らって、ずっと気になっていたことを篠原先生に聞いた。
「あの人は、難しいね。検査をするのはどうしても了承してくれなかった」
「すごく優しいんだけれど、とても頑なで。自分の価値観がはっきりしているのかもしれないね」
つまり、僕らは患者を治すことはできなくて、あくまで治療の手伝いをするだけ、飼い主さんの意向を汲むだけってことかと、また少しがっかりした。
「次来たら、もう一回診察させて。南田さんは何か引っかかる」
そういうと、残ったカルテを書きに3階へ上がっていってしまった。




