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でもずっと一緒

 しばらくたった日の8:40宮本さんからの電話が入った。心臓の悪いマルちゃんの飼い主さんだ。診療は9:00からだが、僕らは入院の管理をするため、8時過ぎには病院にいる。

受話器を取ったのは長田さん

「苦しそうなんですね。移動はできそうですか。はい。はい。では、お待ちしているので、すぐに病院に向かってください」

 受話器を置くと、関口さんと僕に指示を出す

「宮本マルちゃん、呼吸が苦しいから今から来るから。先生は留置と薬の準備、関口さんは酸素ケージ組み立てて。私は篠原先生とエマージェンシーの準備に入るから」

 ベテランの看護師さんは時に新人獣医師より的確に状況判断できる。僕も長田さんの言葉に誘導されて、エマージェンシーつまり緊急事態に対処すべく、レントゲンや薬の準備を始めた。

 宮本さんが到着したのは、9時5分前。マルちゃんはパンティングという浅薄呼吸をして、やや舌の色が悪かったけれど、意識はある。まずは酸素を充満させることのできるケージに入れて、呼吸状態の改善を試みる。心臓が悪いことを考えると、おそらく心臓からうまく血が回らなくなったせいで、肺に水のたまる肺水腫の発症が疑われた。

 高濃度の酸素で、少し落ち着いたところで、篠原先生と僕とで手早くレントゲンを撮る。やはり肺水腫だ。かなり心臓も大きくなっているし、厳しい状況のように見える。

 診察室で、その画像を見せながら篠原先生が宮本さんに現状を伝えている。診察室の外から聞く限り、宮本さんも落ち着いているように思う。

「では、このままお預かりします。薬がうまく効けば落ち着いてくると思いますが、急なことがあれば、すぐにご連絡します」

 いつも通り、落ち着いた声の篠原先生。

「よろしくお願いします。かなり厳しい状態だと思いますので、娘にも会わせてあげたいんです。今大学で隣の県に一人暮らししているのですけど、明日には戻ってこられるようなので、ご迷惑と思いますけれど、来られる時間がわかったらまた連絡させていただきますね」

 といって帰っていった。その後、病院はいつもの業務が始まる。動物病院では厳しい状態の動物入院のもいれば、家に子犬を迎えたばかりの幸せな家族がワクチンを打ちに来たりする。僕らは、激しく気持ちを上下させなければいけない。

 幸い、マルちゃんは上手く利尿剤が効いたようで、呼吸も少し落ち付いた。娘さんは明日朝9時に面会にくるという連絡もあった。この分なんら、もう一度会うことができるだろう。それぞれの人に、それぞれの動物との思い出がある。

 少し苦しくなくなったマルちゃんは、僕らがケージの前を通ると、狭い中で追ってくる。扉にさえぎられて聞こえないが、時折鳴いているような仕草もしている。動物は本当に迷わない。快・不快とは感じても、不快が終われば不幸のままではいないのだ。


 その時、僕はワクチンと肥満についての相談を受けていた。

「先生、うちの子ちょっとしか食べていないのに太っちゃうんですよ」

このくだりは、キャリア2年半の僕でも、大分聞きなれたセリフだ。「動物は、自分で買い食いはできませんからねぇ……」といえば角が立つので、おやつの量を聞いたり、食事の内容を聞いたりして、調整できる箇所を一緒に探す。場合により、減量用のフードを勧めたりするが、肥満は意外と解決が難しい病気だ。

「う~ん。もう減量フードは試したんですね。じゃあ、次はどうしましょうかね」

 とすっきりしない返答をしていた時、小さく扉をたたく音がして、緊張した顔の関口さんが狭く扉を開け、振り向いた僕に小さく『先生エマです』と告げて、目配せして扉を閉じた。エマはエマージェンシー緊急事態の略だ。僕は、行っていた診察を手短に終わりにして2階へ走る。診察中の患者さんには緊急事態を伝えて、すぐに診察を終えることもあれば、診察が終わりかけているときは不安を与えないように、自然に切り上げることもある。

 2階では、既に篠原先生と長田さんがエマージェンシーの処置に入っていた。どうやらマルちゃんが急変したようだった。マルちゃんはすでに人口呼吸器につながれていて、そのモニターの音がから今現在は心臓が動いていることを知らせていた、しかし、その波形は正常なものではなく、おそらく肺から十分に酸素を取り込めていないようだった。

「宮本さんいつ来る」

 という篠原先生のいつもより大きめの声

「15分で到着します」

 という長田さんの返事

「ボスミン用意しておいて、アトロピンも」

 勤務してから何度か見たエマージェンシー、僕はまだうまく動くことができない

「宮本さんが受付に来たら、すぐにこちらに読んできて」

 長田さんが僕に指示を出す。僕は1階に戻り宮本さんの到着を待つことになった。2階の騒乱に反して、1階は穏やかな時間がさっきと変わらずに流れていた。受付で関口さんも不安げにしながら、いまは自分が与えられた受付という業務を遂行しようと口を引き結んでいる。

「宮本さんまだかな」

 じりじりした時間を持て余して、聞いても仕方ないことを聞いてみる。

「そうですね、でも、娘さんは間に合わないですね」

 と、少し目を潤ませて関口さんが答えた。ずっしと何かの重りが僕の胸にのしかかり、気の利いた回答も思いつかないまま、無言で宮本さんを待った。10分ほどして宮本さんが駆け付けた。

 助けを乞うような宮本さんの目線を受けながら、いっときの時間も惜しく、身振りで付いてくるように伝え、2階へ急ぐ。階段を登る間に『15分ほど前に急に容態が変わって、かなり厳しい状態です』と、毒にも薬にもならない型どおりの言葉を伝えて、先を急ぐ。

「宮本さんいらっしゃいました」

 人工呼吸器のある手術室の扉をあけると、幸いマルちゃんの心臓はまだ頑張っていた。意識はないが、確かに心臓は動いている。

「マル」

 駆け寄った宮本さんが、いつもより高い声で短く名前を呼ぶ。もちろんマルちゃんの体は反応しないけれど、こういう時、きっと声は聞こえていると僕はいつも思う。その根拠は非科学的だけれど構わないと思う。

「頑張ったね、待っててくれたのね」

 優しくマルちゃんの頭をなでる。この感触も必ずマルちゃんに伝わっている。そう思うのは、僕の幻想なんだろうか。目の奥が熱くなってくる。これ以上ここにいたら泣き出しそうで、僕は部屋を出る。目の端に、いつもと同じく凛としている篠原先生の顔が見えた。僕もいつかは悲しくなくなるのだろうか。

 それからしばらくして、モニターの心拍数が減少し始め、やがて正常リズムが聞こえなくなった。ドラマのように、ピーと単調な音がすれば、ドラマのように『ご臨終です』と言えるけれど、実際は、心電図モニターは何かの信号をそれは生命活動ではない何かを拾って、不規則に音を立て続けるものだ。

「もう結構です。もう可愛そうだから」

 という宮本さんの声がして、モニターの音と人工呼吸器の耳障りな音が止まった。長田さんが顔を出し、手術室の前に立っていた僕に、宮本さんを待機室にお連れするよう告げた。待機室は、飼い主さんが他の方と会わずにいられる部屋で、こういった死亡時や面会な度で使う部屋だ。

「こちらにどうぞ」

 と言いながら誘導する僕に、無言で宮本さんが続く。ハンカチを握りしめ、眼に押し当てている。取り乱した様子はなく、悲嘆のうちにも覚悟があったことが察せられた。

宮本さんを部屋へ通した後、僕らはマルちゃんの遺体をモニターや点滴から完全に開放する。そして、乱れた毛をブラッシングしたり、鼻や口などに綿花を詰めたりと、エンバーミングのようなことをして、死出の旅の支度をした。綺麗に整ったマルちゃんは、まるで眠っているだけのようにも見える。その胸が上下することはもうないのだけれど。


「やはり、宮本さんは覚悟されていたんですね。全然取り乱していなかったですし」

 しばらく前に、宮本さんは覚悟ができているし、マルちゃんを助けることは僕らにはできないといった篠原先生の言葉にムッとした僕だったが、今日の様子をみると、やはり篠原先生は冷静に判断していたのだと納得できた、その意を篠原先生に告げた。

「私は、読み間違えたけどね」

 相変わらず表情の変化には乏しいけれど、かすかに悔しそうな色合いが顔に浮かんでいる。目を見れば、ぎょっとするほど暗い。見てはいけないものをみたようで、僕は思わず目をそらした。

「私は、明日までは持つと思った。娘さんはマルちゃんと会えなかったし、マルちゃんが亡くなった今、娘さんがこの病院に来ることはないでしょ。だから私は、この結末が正しく終息したのかわからないんだ」

 だから、私たちは動物の死の時間を正確に予測しないといけないんだ。と、独り言とも僕に対するアドバイスともつかない口調で言いながら、マルちゃんのブラッシングを続けていた。



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