でもずっと一緒
「宮本さん、マルちゃんどうぞ」
僕が、注射器を片付けている間に、診察台の上を拭き終えた篠原先生が、次の患者さんを呼んでいる。宮本マルは、13歳と高齢のマルチーズで心臓が悪い。そして最近は腎臓の数値も芳しくなく、大分厳しい状況だ。その診察に僕の補助は必要ないから、僕は裏の処置室でその次の診察の準備をする。
動物病院は、ゆりかごから墓場までだ。さっきのチワワのように、予防接種にくる場合もあれば、軽い風邪のような症状で来ることもある、かと思えば、末期の癌や心臓病で通っている子もいるし、爪が折れたり、階段から落ちたという怪我で来ることもある、さらには救急病院さながら心配停止状態で運び込まれてくることもある。だから、飼い主さんと一緒に、可愛い仔犬に微笑んだかと思えば、深刻な病状説明をしたり、緊急蘇生処置をして、死別の宣告をすることもある。
とはいえ、僕はまだそれほど重症な症例は担当できないから、篠原先生の指示を受けて手足のように動いているに過ぎない。それでも様々な症例が入り乱れた日は、どこに気持ちを置いて仕事をするべきなのか、翻弄されてしまう。
受付を受けたカルテが、処置室の所定の場所に順番に並んでいる。今日の日付のハンコが押された横に今日の主訴、つまり診察を受けたい理由が書いてある。僕はまだ2年目の新人だから、あまり難しくなさそうなものを選んで診察することになる(とはいっても、難しくないと思って診察すると、思わぬ重症だったりするので、その場合は篠原先生にパスすることになるのだが)。
幸い1番目に並んでいたカルテは、軟便というあまり命にかかわらなさそうな主訴、しかも1歳と若い。若い動物ではあまり難しい病気ではないことが多い。まさに僕にうってつけだ。南田タマちゃん、猫らしい名前だ。僕はそのカルテを手に取って、篠原先生が使っていない方の診察室に入った。待合室側の扉を開けると、待合室には南田さんと思われる、40代後半の品の良い、奥様然とした方が左隅の日当たりの良い椅子に座っていた。猫が入っているであろうキャリーがその脇に置いてあり、優しくそっと手を乗せている様子は印象派の絵のように柔らかい。
「南田さん、どうぞお待たせしました」
僕は、南田さんに声をかけ、診察室に呼び入れた。自分の名前を呼ばれて、南田さんは、こちらに小さく会釈をしてから、少し前かがみにキャリーの中を覗き込み猫に何かささやいてから、立ち上がった。きっと怖くないのよとか、何か安心させるようなことをタマちゃんに伝えたのだろう。
「初めまして、先生。よろしくお願いします」
診察室に入ると挨拶をしながら、診察台にキャリーを下した。この病院は初めての初診さんだが、動物病院には通いなれているらしい。初めて病院にくる人は、キャリーをどこにおけばいいのか、困惑されることが良くあるのだが、南田さんはそうではなかった。よくみれば、キャリーも意外と年季が入っている。
「こんにちは、今日担当します、獣医師の水野と言います。今日はどうされましたか」
自己紹介と、一般的な診察で行う問診を始めた。南田さんは、受付で聞いた通り、猫が軟便だと訴えてきた。以前からお腹が弱く、何度か軟便を繰り返してきたが、何となく自然に治っていた。しかし、昨日便の中に動く米粒くらいの白い虫を見かけてしまったので、来院したとのこと。
これはまさに、僕にうってつけのわかりやすい症例だ。若い猫(もっと小さい子猫のことの方が多いが)で便から虫が出たとなったら、腸管内の寄生虫だ。便の中を動く米粒くらいの白い虫といえば条虫だ。条虫であれば駆虫薬を処方すれば治療することができる。つまり僕にも治療できるということだ。が、ここで早まってはいけない、念のため検便することを勧める。条虫以外の寄生虫もいるかもしれないからだ。
以上のことを考えながらも、まずはタマちゃんをキャリーから出してもらい、体重や体温を測ったり、体を触っていわゆる触診をしたりして、他の病気を疑う明らかな症状がないかを調べていく。
横開きのキャリーから素直に出されたタマちゃんは、ほとんど白色だが、長めのしっぽと左耳から眼の半分くらいまでの一部だけ黒キジ柄が入っているという特徴的な柄だ。体格も1歳らしく、みっちりと良い筋肉がついていてしなやかだ。南田さんにされるがままにキャリーから出てきただけあって、診察台の上でも物おじせず、南田さんの手に頬を擦り付けてゴロゴロ言っている。
猫のゴロゴロには癒されるなーと思いながら、触診を進めたが、体重もしっかりあるし、痩せすぎでももちろんない、特に病気らしい様子はなさそうだ。やはり寄生虫なんだと確信を深めつつ、検便を勧める。やっぱり、という顔で南田さんがカバンからビニールで何重かに包んだ、昨夜とった便を手渡してくれたので、診療は非常にスムーズに進んだ。
検便が終わるまで、待合室で待ってもらうよう伝えると、南田さんは小さくうなずき、よろしくお願いしますと言って、キャリーに入ったタマちゃんと一緒に待合室に出て行った。
検便の結果、条虫以外の寄生虫はいなさそうだとわかった。そのことを、口頭で南田さんに伝えたあと、カルテに処方を書いて、看護師の関口さんに渡した。
関口さんは今年3年目になる、僕の少し先輩の看護師さんだ。少しぽっちゃりしているけれど、ハムスターのようにチョコチョコと一生懸命動いてくれる。黒目がちで大きな目も小動物を思わせる。僕の慣れない診察も関口さんがフォローに入ってくれると、何となく場が和んでとてもいい雰囲気になる。
取りあえず、この診察での僕の仕事は終わったので、次に並んでいるカルテをみて、僕の診察できそうなものを選んでいく。
ということを繰り返しながら、5件程度診察をこなすと、いつのまにか午前の診療時間の終わる12時になっていた。




