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でもずっと一緒

 あの出来事から1週間。今日もいつも通りの診療が行われている。僕、こと水野圭介は獣医師国家試験に受かったれっきとした獣医師だ。まだ2年半のキャリアではあるものの、臨床の現場で日々切磋琢磨しているところだ。

 篠原先生はこの病院における僕の指導官みたいな先輩獣医で、キャリアは安定の10年。背は小さくて華奢だけれど、大型犬を診察台に持ち上げることもできるし、喧嘩などで血まみれで来院した動物を見ても殆ど動揺を見せない。美人と言っていい整った顔に、犬の涎が飛び散ってももちろん動じない。

 けれど冷たいというわけではない。何度も同じ質問をする飼い主さんの訴えをじっと聞き、飼い主さんにも分かりやすい言葉を選んで説明することで、その不安を解消する様子は職人的な技術以外にも、にじみ出る優しさをやはり感じるのだ。長いストレートの黒髪と、整った顔立ちの篠原先生を美人先生としたっているのは、鼻の下を延ばした男性だけでなく、おばさんや子供たちと幅広い。まあ、当の本人は自分の外見には無頓着で、白衣の袖に検査用の染色液が付いていたり、襟元に、動物用のフードが付いた後を拭っただけのシミが付いていたりすることも多い。ポーカーフェイスというかクールというか、心の動きの見えにくい人だ。


 僕は、臨床2年半とまだまだ駆け出しで、難しい病気を見る事ができない。いや僕だけでなく、獣医師たちは国家試験を通過して、就職先で修業をするように、実践的な知識を身に着けていくものなのだ。

だからできるだけ、指導官でもある篠原先生の診察の補助として、一緒に診察室に入り、その様子や診断過程などを観察して、知識を増やしていく。

「加藤さん、モカちゃんどうぞ」

 僕が待合室に声をかける。腰かけていた中年女性が立ち上がり、その手に持っていたリードが出口に向かってぴんと張ったのが見えた。

「モカちゃん、まだ帰らないよ。これから診察だからね」

 リードの先で必死に前に進もうと肢を空回りさせているチワワのモカちゃんに声をかける。せっかく出口近くまでの逃亡に成功したモカちゃんだが、飼い主の加藤さんにリードを手繰られひょいと持ち上げられて、診察室に連行された。

「はい。では体重からみるからね」

 篠原先生がチワワのモカちゃんが飛び降りないように、注意しながら診察台の上に乗せる。モカちゃんは、もう全身でガクガクブルブルだ。この状態の犬をむやみに触ろうとすれば咬まれることになる。篠原先生は、モカちゃんに極力プレッシャーを加えないように、手際よく身体検査を進めていく。耳を伏せて、ぎりぎりの様子のモカちゃんに一定の緊張感を持ちつつ、優しく触れて検査を進めるのは実はかなりの熟練の技だ。技ということを感じさせない、なめらかな動き、肩からさらりと流れる黒髪、その下に見える白いうなじ。

「ちょっと、水野先生、聞いてましたか。7種のワクチンをすってきてもらえます」

 うっかり篠原先生に見とれていた僕は、先生の指示を聞いていなかったようだ。診察台の向こうから飼い主さんが怪訝そうな顔で僕を見ている、診察台の上では、チワワが震えながらワクチンを打たれるのを待っていた。

 僕はあわてて、はいと返事をして、診察室を出てそのバックにある処置室にでた。その部屋の冷蔵庫にはワクチンや冷蔵保存が必要な薬や試薬が保管してある。僕は、指示された7種のワクチンを取り出して手早く注射器にすって診察室に戻る。

 僕が戻った時もまだモカちゃんは診察台の上で震えていた。篠原先生が、いつも左のポケットに持っている犬用のおやつを飼い主さんに手渡し、注射をする間、おやつを見せながらモカちゃんををあやすようお願いしている。先生にワクチンを渡すと、僕は軽くモカちゃんのお腹を支え、頭をなでる。お腹を支えるのは、注射にびっくりして犬が動いて、余計に針が深く刺さったりしないように、動きを抑制するためだ。篠原先生は、素早く注射を済ます。モカちゃんは震えていたが、注射されたことには気が付いていない様子だ。モカちゃんの緊張が移っていた飼い主さんにも笑顔がみえた。

「はい終わり。えらかったね」

 軽くチワワの頭をなで診療の終了を伝える、飼い主さんがモカちゃんを抱っこして診察を出ていく。ワクチンを打つというのは、作業としては、注射の中ではいちばん難易度の低い、『皮下注射』をすればいいからそれほど難しいことではない。しかし、簡単なことにはそれなりの難しさがあって、ワクチンで痛がると飼い主さんは可愛そうがって次回のワクチンにくることに抵抗が出てしまう。だから、ワクチンという基本的なことだからこそ、神経を集中しながら、みためは堂々とした動作でかつ素早く接種する必要がある。僕もようやく肩の力が抜けつつあるが、やはりまだ緊張して、その緊張が飼い主さんと犬に伝染してしまい、ぎこちない診察になることが多い。



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