でもずっと一緒
「はーい。どなた」
聞きなれた南田さんの上品な声がインターホン越しに答えた。
「こんにちわ、瀬川動物病院の瀬川です。ちょっと近くに寄ったものですから、タマちゃんの様子を拝見しようかと思いまして」
僕たちのことはおくびにも出さず、瀬川先生がいつもの軽い調子で呼びかける。軽快で爽やかな声には裏を感じないが、さすがに急な訪問にびっくりしたのだろう、南田さんの戸惑ったような声が再度インターホンから答える
「そうですか、でもちょっとお部屋汚れているから、せっかくだけれどまた病院へ伺いますから、その時お願いします」
それはそうだろう。急に動物病院の先生に訪問されたら普通びっくりする。
「わかりました。じつは、新しいサプリメントができて、タマちゃんによさそうなのでお持ちしたんですよ、それだけお渡ししてもいいですか」
と、よどみなく申し出る。この親切な申し出を無下に断るわけにもいかないと思ったのか、南田さんは了承して、玄関に出てきてくれることになった。
カチャカチャとチェーンと鍵を開ける音がして、玄関のドアが薄く開く。奥にタマちゃんがいるのが少しだけ見えた。瀬川先生が、肩から斜め掛けにした小さなポーチからサプリメントの瓶を出して、南田さんに手渡すかと思った瞬間、手が滑ったのか、瓶が床に落ちて中身が飛び散った。幸い瓶はプラスチック製だったようで、割れなかったものの、ふたが緩んでいたらしい。
びっくりして、一歩後ろに下がった南田さんの足元に、タマちゃんが駆け寄ってきた、そして、タマちゃんが駆け寄ってきた、さらにタマちゃんが駆け寄ってきた。
数分の後、玄関には20匹近くの猫が、至福の表情を浮かべてまき散らされた粉にまみれてゴロゴロと体をくねらせながら転がっていた。どの猫も、白地で左目と耳の周囲に斑、尻尾は長くてキジ柄の猫ばかり。
その真ん中で、南田さんが立ちすくんでいて、その膝が小さく震えている。瀬川先生が、そっと肩に手を回すと、まるでその重みに耐えられなかったようにひざを折りしゃがみ込む。一匹のタマちゃんが、しゃがんだ南田さんに気が付いて、体を支えるためについた右手にスリッと顔をすり寄せた。
「南田さんは、亡くなったタマちゃんを追って、似た猫をそこいらじゅうから集めてた。調べてみたら、色々な保護団体に連絡を入れて、似た猫を何頭も引き取っていることで有名だったらしい」
後日、篠原先生が謎を解けた経緯を教えてくれた。例の3ケタの記号は、トリアダントの変法という方法で書かれた、歯の状態を示す記号だった。はじめの院長のメモでは、左上の奥歯が1本無いと書いてあった、次に篠原先生が見たときは両方とも奥歯はそろっており、わずかに歯肉炎があるだけだった、そしてその次の時は奥歯は問題なかっけれど右上の犬歯がなかったと。
「外見がとても似ていても、歯の状態は動物による個体差がすごくあるんだよ。同じくらいの年齢で、同じものを食べていても全然違うことがほとんど」
そのため、最初にみたときからタマちゃんは前のタマちゃんと違う固体なのではないかと疑い始めたらしい。そして2回目にみたときにはそれは確信に変わったそうだ。
「だから往診で、本当のところを突き止めようと思った。それに何でそんなことをするのか理由も聞きたかったし」
が、それ以来南田さんは来なくなってしまった。真実を篠原先生に気づかれてしまったとわかったからだ。そこで、篠原先生は瀬川先生に連絡を入れて、南田さんらしい、寄生虫を繰り返す患者さんが来たら教えてほしいと伝えておいた。そんな折、数か月前から瀬川先生の病院に南田さんが通院をはじめたという連絡があった。それと並行して、院長の伝手で保護団体にもヒヤリングを入れて、どうやら同じ柄の猫を複数引き取っているという人物がいるということも突き止めた。その情報を併せると、猫の数はかなり多いことが予測され、多頭飼育から飼育崩壊になる可能性が出てきたことから今回の運びになったということだ。
「動機はなんだったんでしょうね」
窓際に立っていた、篠原先生がこちらをふり見いた。今はおろしている長い髪が、肩にまとわりつきながら後ろに流れる。
「ペットロス。タマちゃんという同じ柄の猫を5年前に亡くしたらしい」
5年も前のこと、とちょっと驚くような顔をした僕に、わかってないなといつものクールな瞳を向け
「悲しみは、時間が流れるだけでは解消しないんだよ。まずは否定の気持ちが起こる、こんなの嘘だって、その次に怒りや罪悪感など混乱する気持ちになる、それが過ぎるとようやく死を受け入れられる受容の時期になりやがて回復していく。南田さんはこの2番目の時期に怒りや罪悪感を誰にも吐き出せずにいて、どんどん迷い込んでしまった。その時にたまたまタマちゃんに似た子と出会ってしまって、依存していったのだと思う」
そんなこともあるのだろうか。たくさんのタマちゃんに囲まれて、南田さんはどういう気持ちで過ごしてきたのか、想像してみようと思ったけれどうまくできなかった。
「だから、石井さんは水野先生に怒りをぶつけたことで、少しはステップを登れたと思うよ」
不意に石井さんのことを持ち出されてはっとした。
「私たちは、患者さんをいつでも治せるわけじゃない。そして寄り添っているつもりで飼い主さんと一緒に泣くことは、必ずしも飼い主さんの慰めにはならないからね」
そういって、もう一歩僕に近づいてくる。小柄な篠原先生と距離が縮まると、自然僕はうつむくような姿勢になる。
「私たちは、患者さんの死にあたって、決して泣いてはだめ。飼い主さんが悲しみのあまり、私たちを攻めたいと思うなら、それを受け入れるつもりで毅然といなくては。一緒に泣いて悼むのは、誰にともなく許しを得たいと願う自分の心の甘えだと私は思ってる」
でも、本当は先生も辛いんでしょうね。という言葉は、全く望まれていないとわかっていたから、僕は黙って僕の横をすり抜けて明日の診療のための資料を取りに行く篠原先生を見送った。