1話:不安と後輩。
ここで、柿について自分なりに調べてみた。
――柿。
正式には「カキノキ」というカキノキ科の落葉樹で、一般に秋頃スーパーなどに並ぶのは、その果実である。
学名は「ディオスピロス・カキ」。「ディオスピロス」と存外に立派な名だ。
日本から、遠くヨーロッパ、アメリカ大陸へと広まったことから、「カキ」という言葉でもって世界に通用する。
もう一つ、「パーシモン」と呼ばれることもあるが、あちらはアメリカ東部原産の"アメリカガキ"その木を指し、よくゴルフのクラブの材料として使われていたのはこちらだ。
つまり、あのおれんじ色のまんまる大きい果実の「柿」は日本の特産物といえるのである。
また、柿は大きく「甘柿」「渋柿」に分けられ、俺がバイトすることになっている『乙葉おれんじふぁーむ』では……どちらを栽培してるんだろう……。まあ追々わかるかな。
ちなみに俺は柿を食べたことがない。
一度たりとも。
もともと果物をあまり食べないというのもあるんだけど、一番の原因は小さい頃、近所のオバハンがドロドロに熟した柿にむしゃぶりついてたのを見て軽いトラウマになっていたからだ。
だから柿はある意味、俺の因縁の相手ともいえる果物なのだ――。
…………ちょっと違うか。
* * *
四月も残すところあと数日。
俺が通う私立此花大学のキャンパス内。その中庭のベンチで、サンドイッチと紙パックのコーヒーという簡素な昼食としゃれ込んでいた。
柔らかな木漏れ日を浴び、さえずる小鳥たちの歌声を聞きながら優雅な午後を満喫……。
したいところなんだけど……。
「ああ、あああ……明日からバイトかぁ……」
今の俺は心穏やかではなかった。
先日決定した乙葉おれんじふぁーむでのバイト。明日がその初出勤日なのだ。
そりゃそうだ。なんせバイトなんてこの人生で初めてなんだから。
どんな作業をするんだろうとか、明日はちゃんと起きられるんだろかとか、由愛さんの前でダサい失敗したらどうしようとか……不安は尽きない。
「うごご……今日はちょっと食べ過ぎたっす……」
隣でなにか呻いているが、それは放置しつつスマホの無料アプリ『BINE』を開く。
この『BINE』。実に便利なアプリで、なんと無料でメールや電話ができるのだ。
まさに跳ねるように周囲との交流を楽しめるとのことでついたこの名……と俺は思っていたのだが、実際は少し違うようで。
それというのも、開発時、ネーミングに関してこの『BINE』にするかもう一案の『BOIN』にするかで、社員が二分されるほど揉めに揉めたらしい。
最終的に、『BOIN』はその内に秘めたスケベ心が仇となり苦杯を舐めたのだが、『BOIN』派だった社員も「まあ、一応揉めたからいっか」ということで譲歩したという。……それいったいどういう趣旨ですか?
……ごほん。
うん。今はアプリの説明なんてどうでもいいんだよ。
本命は、このアプリの中で繰り広げられたメッセージなんだ。
『はなくん、こんにちは。明後日からお手伝いやけど、改めてよろしくね。最初はわからんことばっかりで戸惑うと思うけど、ゆっくり覚えていってくれたらいいから。ほんじゃ、また明日。遅刻は厳禁やで~(なんやよーわからん生き物のスタンプ)』
これが昨日、なんとあの由愛さんから送られてきた『BINE』。
こないだの顔合わせの時、実はちゃっかり連絡先を交換していたのだ!
……まあ単にバイトを始めるにあたって連絡が取れやすいようにってことなんだが、そんな細けぇこたぁいいんだよ!
ただの文字列のはずが、由愛さんの柔らかな笑顔がまるで目の前にあるかのように浮かんでくる。
今やこのメッセージは俺の不安を和らげる魔法のクスリとなっているのだ。
「……ふがが。さっきからなにをニヤニヤしてるっすか先輩?」
ふと、隣で呻いていた生き物がスマホをのぞき込んできた。どこか小動物のような芝生のような香りが鼻腔をくすぐる。
「え、先輩……バイトするっすか」
「ああ明日からな。あ、それと一応卒業単位は取れてるから、明日からしばらくは学校には来ないぞ」
「ま、マジっすか!?」
ベンチから小さな躯体を跳ね上げるその生き物。
正確には俺の三つ下の後輩……名前を保科綾という。
ワシャワシャとした短髪と垂れ目がちな大きい瞳がどことなく犬っぽい女の子。
見た目だけでいえば、由愛さんと大差ないほどの小柄な少女なのだが、大人オーラな由愛さんとは違って中身までぜんぜんなお子ちゃまだ。
「じ、じゃあアタシは、明日から誰とお昼を食べれば……?」
「え? おまえ、まだ一回生に昼食べるような友達いないの?」
「ぐっは……!」
あ、どうやら知らぬうちに会心の一撃を見舞ってしまったらしい。
「うぅ……、この都会のジャングルへ出てきてはや一ヶ月、道を誤りかけたアタシを助けてくれた恩人の先輩が、こんなにも早く夢幻と消えてしまうとは……」
「んな大げさな……。俺は消えないし、そもそもここ田舎だから」
俺たちがいるこの此花大学は、比較的田舎町の郊外にある。
ただこいつが、ここでさえ都会に見えるほどの田舎から出てきた……まさに右も左もわからない生粋のド田舎娘なのだ。
今月の頭に初めて出会った時も、こいつが大学と間違えてラブホテルに入っていきそうなのを俺が慌てて止めたのがキッカケだった……。
まあ、そのラブホの名前が『此花大学(夜のほう)』で、うっかり間違えるのもわからなくもない……のか?
ともかく、それ以来なぜか俺が彼女の案内役になっており、今もこうしてお昼ごはん仲間となっているのだった。
「うう、やっと大学にも慣れてきて教室を間違える回数も一桁におさまってきたっすのに……。不安っす」
……。
それって一講義に一回どころじゃないよね? どっかで二回以上部屋間違えてるよね?
いつもの犬っぽい陽気さはどこへやら、しょぼんと肩を落とす保科。
う~ん……。
ちょっと可哀想な気もするけど、こいつもこれから長い大学生活がある。ずっと俺にまとわりついてるわけにもいかんだろう。
「保科。俺もバイト初めてで緊張してるけど、頑張って行くから。おまえも友達作りとか勉強とか、いろいろ頑張ろうぜ」
「うー……頑張るっすけど……現実とはいつでも残酷っす……」
不満げに唸るも、どこか諦めたような表情だ。
「あ、ところでその『乙葉由愛』ってのは?」
「ん? バイト先の人だよ」
ま、俺のなかでは、実は彼女は人ではなく天使か妖精の類ではないかという疑惑があるんだけどな!
「む、またニヤけてるっす。も、もしやその方、先輩の…………もむもむ」
「ん……? て、ちょっ! おま!?」
気づけば保科は、ベンチにあったサンドイッチを頬張っていた。
それは俺の、最後の楽しみにおいてあったテリヤキたまごサンド……。
「お、お前……! よくも……よくも俺のたまごサンドを食ったな……!」
「もぎゅもぎゅ……? あっ……ご、ごめんなさいっす! つい数年前の大不作の頃を思い出して! そしたら急にお腹が減って……!」
「お前の故郷どんだけ田舎なんだよ!」
しかもさっき食い過ぎたって言ってたくせに!
ああ……俺のテリヤキたまごが……。
「ごご、ごめんなさいっす! 今度うちの実家でとれた熊とイノシシ持ってくるっす!」
「スケールでけぇな!」
狩人かおまえは!
この子の家はどんだけ山奥にあるんだろうか……。
ところで、あれやこれや騒いでるあいだに、さっきまで抱いてた不安な気持ちはどこかへ飛んでいったらしかった。
今章から少し、作業の描写が入ってきます。
なるべく簡潔に書く予定ですが、分かりづらい部分があればご指摘いただければ幸いです。