5話:緑の迷路と赤いとうふ。
気を取り直して、俺はただいま人生初の『めつみ』作業に勤しんでいます。
勤しんでいる……のですが……。
「おや? これは、どうしたことでしょう」
だだっ広い柿畑。その隅っこで黙々と作業を続けているうち、ふと、不思議な感覚に見舞われたのです。
それまでの俺は、脚立の最上段で、高いところにある枝の蕾を順に摘み落としていました。
あ、ちなみに脚立の使い方は由愛さんにご教授頂き、今では無事扱えるようになりました。
「一枝に一つを残して……なるべく大きくて形が整ったのを……」
そのまま足場を下りながら、一番低い場所の枝まで同じ作業を繰り返します。
この蕾がやがて花を咲かせ、実になるそうで。
なので、このめつみ作業も、柿が実った時をある程度予想して行う必要があるのです。
実になった時に互いがぶつからないよう、狭い範囲で向かい合う蕾はどちらかを摘む。
夏に日焼けしないよう、天……真上を向いたものは摘む。
萼が四つでない、いわゆる『奇形』の蕾は、実になっても奇形となり商品価値が大きく下がるので、摘む。
柿は葉っぱから養分を吸収して育つので、葉っぱは極力落とさないようにする。
新枝の最先端につく他より極端に小さい蕾(米粒大の、通称「おくれ」と呼ばれる蕾)は、小さな実になるだけでなく他の蕾の栄養を横取りしてしまうので、必ず摘む。
…………などなど。
もちろん、自然物だけに百パーセントの予想はできません。ですが、一つの枝にかかるだけでこれだけのことを考えなくてはなりません。
このめつみ作業……簡単に見えて、かなり集中力の要る作業なのです。
それこそ、口調が丁寧語になってしまうほどに。
……てなわけで、何度も何度も脚立に上っては下り、枝と枝の間に頭を入れ込んでは、蕾を摘んでいく。
目に入るのは枝と葉っぱの若緑ばかり。
枝と枝、葉っぱと葉っぱが幾重も重なり合うもんだから、一枝を見定めるだけでもけっこう苦労したりする。
「よしっと、終わった。……て、あれ」
手の届く範囲を終え周りを見渡すと、後方、進んできた方向の枝にやり残しを発見。
さっそく脚立を立て直して、再度上る。
「おし、おっけい……ああっ?」
やり残しを終えると、前方、今度はついさっきまでいた場所にやり残しを発見。
さっきぜんぶ摘んだと思ったのに……。
脚立の上からと、地面から。
斜面の上からと下から。
見る方向や角度によって枝の向きも変化する。それによって、摘み残しの枝を見逃してしまいがちになるのだ。
おかげで、脚立を持っては行ったり来たり。
俺は地面で大忙し。
脚立がアルミ製の軽いやつで良かった。これが鉄製とかだったら運ぶだけで息切れしているところだ。文明の利器に感謝。
四方八方が緑色、その中でぐるぐるするもんだから、作業を繰り返すうちに俺は完全に方向感覚を失ってしまっていた。
柿畑の迷宮にでも入り込んだような気分。これこそが、不思議な感覚の正体だ。
……俺、無事にこの蕾地獄を抜けられるんだろうか……先はまだまだ見えない。
「はなくん、どう? できてる?」
脚立の中段に立っていると、のんびりとした声が前方から聞こえてきた。
でも肝心の由愛さんの姿が見当たらない。
「わからんこととかないかな? ……んしょ、んしょ」
「はい、今のところは大丈夫です」
返しつつ声のする方に目を凝らすと、葉と葉の隙間に愛くるしい小さな"おてて"を捉えた。
どうやら由愛さんは、少し高いところの枝に手を伸ばしているらしい。
小さな"おてて"が新枝を掠める……も、あとちょっと届かない!
なにもないところを、ぐー、ぱー、ぐー、ぱー。
そしてもう一度、チャレンジ!
もうちょっとっ、もうちょっと……そこだっ、そこでぎゅっと!
ああ! 惜しいっ! "おてて"は再び空を掴む。
もう一度、ぐー、ぱー、ぐー、ぱー。
……てかなんなの、あのきゃわわな動き。
その攻撃は俺に効くんですけど。
やっとのことで、高い枝のめつみを終えたらしい由愛さん。
カタカタと脚立の音がしたかと思うと、俺の足元からふっと顔を覗かせた。
「どう? できてる?」
「あ、はい。でも、ちょっと方向感覚がわかりにくくなりますね……」
「ああ、わかるよ。私もたまに混乱するしね。そのへん終わったら、一回下りてきてくれる?」
ちょうど終えたところだったので、そのまま地面に下りる。
「ほら、今まで通ってきたところ、草がキレイに倒れてるやろ?」
「あ、ほんとだ」
由愛さんの指さす方を見れば、膝ほどある雑草たち。俺が通ったと思われる箇所だけ見事にぺったんこに倒れていた。
「脚立を持っての移動がしやすいように、わざと倒れやすい牧草を植えてあるねん。倒れた草を見たら、自分が通った場所分かりやすいやろ?」
「なるほど……」
草を道しるべにすれば、めちゃめちゃに動かない限りは方向を見失わずにすむのか。
まさか、この雑草たちにも役割があったとは……。こんなところまで工夫が行き届いてるんだな。
「そろそろ、お昼にしよか」
鳥や風の音に混じって、遠くからお昼を知らせるチャイムが鳴っていた。
「あ、もうそんな時間なんすね」
「集中してたら時間過ぎるのも早いよねぇ」
由愛さんのあとについて畑の最下段に戻る。しばらくして、農主さんもタオルで顔を乱暴に拭きながら戻ってきた。
俺の脚立の場所より倍ほども離れたところに農主さんの脚立が置いてある。
は、早い……。やはりプロは違うぜ……。
「じゃ、お昼にしよう。はなくんも適当なところに座ってね」
「はい」
昼食のテリヤキたまごサンドを持って、ちょうど座りやすい草っ原に腰かける。と、少し違和感を覚えた。
「そういえば、朝は草が濡れてたような……」
違和感の正体は、尻がぜんぜん濡れなかったことだった。
さっきまで靴に染みこむくらい朝露があったのに。
周囲の草を見やると、今では何事もなかったように、そよそよと風にその身を揺らしていた。
「ここ、水はけいいんですね」
「うん。このへんはそういう地形やからね。柿とか他の果樹の栽培にもちょうどいいんやで」
果樹を栽培するには、水はけのよい環境は重要らしい。このあたりも果樹栽培のためにかつて拓かれた土地だそうだ。
逆に、水はけの悪い環境に向く作物といえば、なんといっても稲が代表的だろう。
それぞれの作物に、それぞれ適した環境。
農業って、自然の摂理の利用が不可欠なんだと、素人なりにどこか感慨深い気持ちになった。
上を見上げると、今日は雲ひとつない青空。
太陽がギラリと照りつけるも、吹き下ろしの風があっというまに熱を奪っていき、むしろ涼しいくらいだ。
蒼を横切る電線、蒼の中で「ぴーひょろろ」とトンビが円を描く。
「のどかだなぁ……」
テリヤキたまごサンドを頬張りながら緩やかな時間を眺める。
定番の大好物も、なんの補正だろうか、ひときわ美味しい。
初仕事の疲れもあったのか、ちょっと目を閉じただけでもすぐに眠れそうな、昼休みのひとときだった。
* * *
農園ののんびりした空気にアテられ、怖いほど上機嫌で帰宅。時刻はちょうど六時半をまわったところだ。
「ただいまぁ……あ、姉ちゃん? 今日早くないか?」
「おお、おかえり草太」
アパートの玄関を開けると、ちょうど姉ちゃんが台所に向かっていた。
いつものポニーテールを頭のてっぺんでまとめて、珍しくエプロンなんて身につけている。
そこに描かれる"頭に鹿の角をつけた謎のマスコットキャラ"も相まって、どこか気味が悪い。
「今日は仕事が早く終わったんだよねぇ。それに草太は初バイトで疲れてるだろうから、今日は姉ちゃんが晩ご飯作ってやろうと思ってね」
マジか。
姉ちゃんがご飯作るなんぞ、それこそこのアパートに引っ越してきた初日以来だ。
「もうできるから座ってな」と促され、手と顔を洗って席につく。
「さ、できたぞ」
座卓に置かれたご飯と、
「……杏仁豆腐?」
深めの皿に入った白い豆腐に、赤い粉がまぶしてある。……さらにその上には、なにやらゼリーのような透明の物体が。
「いや、麻婆豆腐だ」
「いや、これどうみても麻婆豆腐ではないよね?」
「いや……正真正銘だ」
「いや……ならこの透明なのはなんなんだ?」
「片栗粉と水を混ぜたら……でけた」
「……じゃ、この赤い粉は?」
「……、……はばねろっ♪」
「"てへぺろ"みたいに言うんじゃねーよ?」
本日の夕食……『ハバネロのかかった豆腐、水溶き片栗粉のせ』だった。
「……ちょっと、最近草太に任せっきりだったからかな、料理の腕落ちちゃったみたいで」
失敗した自覚はあるようで、しおらしく姉ちゃんが頭を垂れる。
ずれたメガネがなんとも哀愁漂っている。
「俺がここに来た時は、たしか普通のご飯だったもんな」
「あれから三年……時間の流れって残酷だな」
苦笑しつつ、とりあえずレンゲを手にとり、麻婆豆腐(?)をすくってみる。
と、豆腐ととろみ部分が完全に分離してやがる……!
「い、いただきます」
「草太よ……無理しなくてもいいんだぞ?」
「いや、せっかくだし……。腹も減ってるし……」
失敗作とはいえ、せっかく姉ちゃんが作ってくれたんだ。一口くらい食べるのが筋ってもんだ。
「……わかった。じゃあ、あたしも食べるよ」
二人で麻婆豆腐(?)を乗せたレンゲを持つ。
くっ……武者震いってやつか。手が震えやがるぜ……。
「じゃ、いただきますっ」
「いただきまっす……!」
そしてその夜。
俺たち姉弟は一晩中、トイレと布団を行き来した。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
作業描写などで「ここわからない」などあれば、ご指摘頂けると助かります。
次回からも「春のめつみ編」ですが、農家巡り回に入っていきます。