4話:農園のおねいさん。
「今日からしてもらうのは、【摘蕾作業】。ここでは『めつみ』って呼んでるんやけど……まずはこの枝見てくれるかな?」
由愛さんの手に添えられた柿の枝。
長さ30㎝ほどの先端の枝は、まだ葉っぱと同じように若い黄緑色。もう少し太めな茶色い枝から初々しく生え伸びている。
「この茶色いのが去年までに生えた枝で、黄緑色なのが今年新しく出てきた枝。柿の実はこの新しい枝に実るねん。……ほら、ここに蕾がついてるやろ?」
「あ、はい。枝と葉っぱの付け根にですよね」
短めの枝に四つほど、それぞれ葉っぱの根元に小さな粒があった。
シワシワっとしているけど、よく見ると萼っぽいのが四枚集まって蕾を形づくっている。
由愛さんいわく、これが将来的に果実になる部分らしい。
「じゃあ、『めつみ』ってことは、こいつを摘むんですか?」
「うん、そのとおり。基本的にこの一枝分に一つだけ蕾を残して、あとは全部手で摘んでいく。それがこれからしばらくする作業やねん」
説明しつつ、由愛さんが実践してくれる。
「枝の真ん中あたりの、なるべく大きくてキレイな形の蕾を残して……っと。こんな感じかな」
「なるほど~」
あっというまに、新枝の蕾は真ん中あたりの一つを残すだけとなった。
ぴっぴと指で押すだけで簡単に摘めるようだ。由愛さんもまったく力を入れている様子がない。
「まあ、他にも細かいことはあるねんけど、それは実際に作業しながら説明するね」
「あのー、ところで、どうして蕾を摘むんですか?」
そもそもなところが気になったので、尋ねてみた。
それでも由愛さんは嫌な顔ひとつせずに答えてくれる。
「柿みたいな果実はね、ほとんどの場合「形がよくて大きい実」ほど商品価値が上がるんよ。だからこうして、よさそうな蕾を一つだけ残してあげると、ここに栄養が集中して大きい実になるんやで」
「な、なるほどっす」
小さい柿より大きい柿の方が価値が上がる。
だから、数を減らしてでも大きい実を育てることが優先される。
素人考えで、摘まずにおく方が沢山の柿がなるんじゃないかと思ったけど、そんな簡単な話じゃないのか。
……でも、まあ。
けっこう身構えていたけど、作業自体は予想外に単純だ。
一連の説明を受けて、今まで自分の中でくすぶっていた不安が一気に霧散したような心地になった。
「なるほど。うん、これなら素人の俺でもすぐにできそうで……」
畑を見渡す。
果ての見えない樹木の列が、そこにはあった。
その樹一本一本に、これでもかというほどに茂る枝、枝、枝。
比例して広がる葉っぱ、葉っぱ。
今日はぽかぽか快晴だというのに、樹の周辺だけ影になっている。もちろんそれは無数の葉っぱと枝のおかげである。
「……」
俺の不安は、さらなる変身を遂げて胸の内に還ってきた。
「あはは……、ここだけで1町やからね……」
隣で遠慮がちに俺の心境を察してくれる由愛さん。
その優しさが、今は心に染みますぜ……。
「やっぱり、この畑にあるだけ全部、ですよね……?」
「うん……。他の畑も合わせたら、ここの畑二回分くらい……かな」
「おうふ……っ」
――「木」っていう字は、三つ揃ったら「森」になるのよ。
俺の錯乱具合を表すかのように、謎のセリフが脳裏に木霊した。
なぜか姉ちゃんの声だった。
「この三人やったら一ヶ月以上かかるから、休日限定で他のお手伝いさんもお願いしてるんよ……」
「そうだったんすね……」
一ヶ月って……。
俺みたいなド素人にでも手を借りたいという理由がわかった気がする。
「作業自体は簡単やけど、一番大事なのはやっぱり根気かなぁ」
……根気、とな。
この約二十年間。周りに、それこそ人生という名の川にゆらゆら流される水草のごとく過ごしてきた俺だ。
正直いうと、根気どころか張る根もあるのかどうか怪しいところです。
でも……だ。
「ま、制限時間とかはないから、ぼちぼちとやっていこ~」
由愛さんは、拳を軽く掲げて元気づけてくれる。
ハードな作業であることを身に染みて知りながらも、こうして俺をフォローしてくれている。
ここまで融通の利くバイトに招いてもらっただけでなく、由愛さんにはこれほど親切に接してもらっているんだ。
そんな彼女のために、俺は今こそ……立ち上がるべきなんじゃないのか?
――そうだ。
俺は、由愛さんをガッカリさせるわけにはいかない。
根気がなけりゃ……気合いでカバーするまでだっ!
「えっ? あ、はなくん……? ちょっ……」
俺は修羅のごとく、柿の樹の端にある脚立に向かって疾駆する。
……待て。
思い返してみろ、俺。
俺にだって、あるじゃないか。根気。
風を切りながら、ふとかつての記憶が蘇ってきた。
それは数年前……。一人ぼっちで部屋にこもりがちだった日々だ。
俺はあの時、たしかに自分のなかに根気を見た。
苦しくて、何度も諦めたい気持ちに駆られながらも、黙々と作業をこなしていたあの頃。どこか痺れた感覚とともに、俺は思ったんだ。
――俺って、けっこう根気あるじゃん? ……と。
よし……!
待ってろ柿の蕾ども……。
俺の……超大作RPGのレベル上げで三日完徹したほどの根気を……。
とくと見せてやるぜっ!
「うおおおおぉぉ……ッ!!」
最初の勢いそのままに、樹の最上部で揺れる新枝、そこに飛び移る勢いでハシゴを駆け上った。
「うおおおおぉぉ……ッ!?」
そして脚立ごとスッ転んだんだ。
ガシャァァン、と景気のよい音とともに地面とお尻がごっつんこ。
ひぃぃっ!?
尻がっ! 尻がぁぁっ!
尻からの衝撃が電気みたいに響き、頭の上で元気なヒヨコがぴよぴよと飛ぶ。
……塙山草太、なんと果樹農園でヒヨコの生産に成功しました。
「は、はなくん……! 大丈夫っ!?」
「ひーほ、ひーほ……っ。だ、大丈夫ですぅ……」
由愛さんの言葉に、ヒヨコが四方に霧散する。そして俺も冷静になる。
どうやら頭にも衝撃がいって思考がおかしくなっていたらしい。
尻はまだジンジンと響くけど、幸い他に怪我はないようだった。
「よかったぁ……。怪我せんくて……」
「うう、すんませんです」
「あのさ……、はなくんって、あのぅ……、もしかして、さ……」
どこか所在なさげに、由愛さんはまごまご言いよどむ。
なんとなく、言いたいことはわかった。
「はなくんって……脚立、使ったことなかったりする?」
「……………………、…………はぃ」
予想通りの質問。そして俺は正直に答える。みっともないが、こんなところで見栄を張っても仕方ない。
「ほっか……」
二人とも口を閉ざし、しばらくの沈黙。
うう、バイト初日から馬鹿なことをしてしまった……。
だが、恥ずかしさに苛まれる俺に反して、由愛さんの言葉はまったくの予想外だった。
「う~ん……。これは、叔父さんに聞いた話だけで判断した私が悪いわ。しかも勝手に期待するようなこと言って……。……ごめん」
「え……っ?」
突然の由愛さんの謝罪に、冷静になったはずの心が再び熱を帯びた。
さっきまでのとはまた別の、違和感にも罪悪感にも似た熱。
いやいや、それは違う。
今回、使えない道具をちゃんと使えないと言わなかった挙げ句、勝手に暴走したのは俺だ。
完全に俺の自業自得。ここで由愛さんが謝るのはまったくもって違う。
「あ、頭上げてください……っ。今のは俺が勝手に……」
「ううん、私の責任。はなくんは、バイトといってもここの雇われさん。その依頼をしたのは、私。雇われさんの安全をちゃんと守れへんだのは、依頼主である私の責任」
うう……。
由愛さんの言ったことは、たしかに正論である。
「部下のミスは上司の責任」……うん、理に適っている。
でも、納得いかない。
「いやでも、由愛さんの言うこともわかります。でも今回は俺に謝らせてください。由愛さんはなんにも悪くないんですし……」
言いながら頭を下げる。
由愛さんのそれよりも、もっと低く。
色々と流されがちに過ごしてきた俺だけど、今はとても譲る気にはなれない。
「う~ん……。それじゃぁ……」
しばらく、地面で頼りなく揺れる由愛の影だったが、
――ぽこん。
「……?」
急に頭頂部にやってきた軽い音、衝撃。
思わず顔を上げると、そこにはぐー拳を握った由愛さんの表情があった。
どこか寂しげな、それでいて若干の怒りを孕んだような。まるで子の帰りを心配する母親のような。
「今回は怪我なくてよかったけど、今度からはちゃんと無理なことは無理って言うこと。危ないことをする時は、先にちゃんと報告と確認をすること。わかった?」
「は、はい……」
「うん。じゃ、この話はこれでおしまいっ」
そうして、由愛さんはニッコリと笑った。
いつもの優しい由愛さんのそれだった。
現状に頭が追いつかずにしばらくポカンとする俺だったが、なんとなく心の奥が理解する。
……ああ。これが由愛さんなんだ。
まだ出会って二日しか顔を合わせていないけど。
今までになく、彼女は大人なんだって思い知らされた。
こんな失敗をもうしないように、由愛さんはちゃんと叱ってくれた。
そして、俺が変に溜め込んで次に進むことを怖がらないように、ちゃんと折り合いと道筋をつけてくれたんだ。
実際、罪悪感に溢れていた俺の心は嘘みたいに軽くなっていた。
「ありがとうございます……。由愛さん」
音にもせず、口元だけでそう呟く。
今回は、大失敗だ。
でも、改めて良い上司に出会えたなと実感したバイト初日の朝だった。
「そんじゃ、作業しよか」
「はいっ」
よし、気を取り直して頑張ろう!
「と、その前に、脚立の使い方からやね」
「……はい」
……覚えることはまだまだ沢山ありそうだけどな!