3話:本格的な機械と脚立。
『乙葉おれんじふぁーむ』の最下段。その畑道の上で俺たちは集合していた。
「遅刻はせんかったようやな……」
今にも振り下ろされん斧のような鈍い眼光とともに、農主さんの低い地声が空気を震わせる。
上下統一の薄いグレーの作業着、首に巻いたタオル……『S・K・E』と描かれた、くたびれた桃色のキャップ帽。
腕組みする無精髭のおじさまは、これぞプロといった風格を醸していた。
……帽子以外。
「今日から柿の摘蕾作業を始める。じゃあ、由愛ちゃん。例年と同じように、端からSSの道沿いにやっていってくれ」
「うん、わかったー」
「……ん?」
……SSってなんだろう。
そう思い首を傾けていると、由愛さんがこちらに顔を近づけて、
「(SSは『スピードスプレーヤー』っていって、農薬を散布する機械のことやで。ほら、あそこにある赤いやつ)」
そのまま由愛さんが指さす方向、遠くの畑道の隅っこには、寸胴を寝かせたような赤い乗り物が置かれていた。
たしか、ここに初めて来た時に見たやつだ。ごついタイヤが六つもついて、なんだか亀みたいな形の乗り物。
あれって農薬散布の機械だったんだ。
「(病気とか害虫とか……そういった柿によくない原因を防ぐのに使うの。この畑道は主にその機械が通るためにあるから、この辺の人たちはみんな"SSの道"って呼んでるんよ)」
と、こっそりと説明してくれた。
由愛さん……あなた。
あなたって人は……なんて気配りのできる人なんやっ!
「な、なるほど。教えてくれてありがとうございます!」
「んへへ、いえいえ~」
お礼を言うと、今度こそホンモノのはにかみを見せる由愛さん。
そのさりげない優しさに、俺は秘かに、ただし猛烈に感動した。
けして「こっそりと耳打ちしてくるなんて、なんだかイケないお話してるみたいですね、げへへ」なんて思っちゃいない。
「それと……バイト」
「は、はいっ!?」
急に呼ばれてビックリした。まさか俺の脳内を読まれたのかと思ったぜ……。
いや、別にやましいことは思ってないんだけどね?
「お前は今から、この柿山に潜む伝説の生き物"トリコ"を捜してくるんや」
「トリコ……?」
「ああそうや。ありとあらゆる武具を使いこなすシワシワの肉食動物、それがトリコや。見かけ以上にヤツは手強いから……死ぬなよ」
「は、はい、わかりまし……」
て、うそこけっ!!
すかさず顔だけでツッコんだ。
いきなりなに大嘘こいてんだよこのおっさんっ!
しかもトリコって隣のバアさんだろ!? こちとらネタはあがってんだよ!
「もぉ、叔父さん! 変なこと言ってへんの! ……はなくん。まずは今日の作業のことを教えるから、私と一緒に来てくれる?」
「は、はい。わかりました」
「脚立はもう上に用意してあるからなー」と言いつつ、農主さんはすぐ近くの三脚ハシゴに上り、さっそくなにやら作業を始めてしまった。
……やはりあの農主さんは一筋縄ではいかなさそうだ。
「んじゃ、私たちも始めよか」
農主さんのいる段のひとつ上の段、その端っこには三脚ハシゴが二つ、一本の柿の木を挟むように立てられていた。
「……」
足を掛ける部分は五段。
全長1メートル50センチほどの、細長い体躯。
それは、植木屋さんなどが園芸で使うような立派な三本足のハシゴだった。
さっきも思ったが、以前乙葉家で農主さんが言ってた「脚立」ってこれのことだったんだな。もちろん、俺が想像していた屋内用の小さい四本足のハシゴとは全然違う……。
「はなくんってたしか、脚立使えるんやったっけ? 叔父さんからチラッと聞いたんやけど……」
「……えっ?」
「脚立使えるなら心強いわぁ。私、このとおり背低いから、どうしても厳しいところあるんよねぇ……」
はなくんが慣れてきたら色々助けてもらうかも……と申し訳なさそうな由愛さん。
「いいえ、由愛さん。気にしないでください。俺でよければ、なんなりとお任せください」
と、クールに決めたいところだったのだが、今の俺には無理だった。
ど、どど、どないしょ……。
こんな背の高い脚立使ったことなんて、一回もありまへんがな……!
俺は、目の前の本格的な脚立を前に戦いていた。
「まぁ、それはともかく、まずは低いところで基本的なことから説明させてもらうね」
う~ん……どないしまひょ。
使えるって豪語した手前、正直に言うのがどこかはばかられる。
でもなぁ。
木の幹の側にある脚立を見やる。
畑道こそある程度水平に伸びてはいるが、柿の植わる範囲は緩やかながらも斜面になっている。
そこに脚立を立てて作業するんだろう。
現に下段の農主さんはそうしている。しかも天板に立って作業してなさる。
あの斜面で、脚立のてっぺんで、両手離しでの作業……。
ド素人の俺には厳しい……!
「はなくん? こっちに来てくれる?」
由愛さんに呼ばれて我に返る。
いつしか、少し離れたところの低い枝の近くで由愛さんが手招きしていた。
「あ、今行きますっ!」
……ま、まずはやるべきことをちゃんと覚えよう。
脚立については、あとでタイミングを見て言うことにしよう……。