一章
薄闇に 霞がかりて
君探り 優し声に
伸ぶる手かな――
「どうだ? 気分は?」
男は目覚めたばかりの少女の頬に冷たい水の入ったグラスを押し付けた。
「冷たい――」
ぼんやりとそんな事を呟いて粗末な寝床で上半身を起こす。
風は相も変わらず、ガラスのない窓に鳴いている。
起きてはいた。しかし目を瞑っていたかった。この男の気配で目覚めるのは心地いい。もう少しそんな空気に浸っていたい。
ひょろりと背の高い男は、黒いシャツに黒いスラックスで、崩れかけたビルの中ではやけに小ざっぱりとしている。黒い髪は長く、後ろで一つに束ねられていた。
「銀月。何故、飯を食わない?」
銀月――
と、男は低く優しい声で少女を呼び、前髪に指を通す。
銀月と呼ばれた少女は寝床の横に置いた茶色い紙袋に視線だけをやる。
「一人だと……美味しくないもの」
髪から頬に降りた手に猫のように肌を擦りつける。
「仕方ないな。グラスを持ってろ。食わせてやろう」
そんな言葉に胸が躍る。そんな銀月は、あと数年で少女とは呼べなくなってしまうだろう。痩せた体に長い手足。アーモンド形の目は鋭く、動きはしなやかで野生のヤマネコを思わせる。
男は紙袋からクッキーを取り出した。
「ほら――」
銀月は、口を開けて彼の指がクッキーをくれるのを待つ。彼の手で運ばれたそれを噛み砕くとほんのり甘くておいしい。
なのに、なぜ一人だと何の味もしないのだろう。
口に付いた白い粉を払ってくれて、また一口――
「銀月。俺の所に来れば毎日食わせてやるぞ」
「だめ。あそこは煩い――」
かぶりを振って小さな声で申し訳なさそうにそう溢す。
「またそれか――。お前はいい、身軽だから。だけどここまで上がってくるこっちの身にもなってくれないか……」
男は溜息を洩らした。
「ごめんなさい……」
「いいんだ。謝らなくていい。ただ、この食い物はお前の仕事の報酬だろう?」
彼の手から口に運ばれる菓子を咀嚼しながら、困ったように傾く男の顔を見ているととても申し訳なくなる。この男にこんな顔をさせているのは自分だと思うと悲しい。
「違う。これは子供にあげる。そうすると喜ぶから……」
「お前、俺以外の人間と喋れるようになったのか?」
男は少し驚いた様に銀月を見た。
「大人は嫌い。子供は少しなら……いい――」
銀月は喉を詰まらせてげほげほと咳込む。そんな銀月に男は、先ほど渡したグラスの水を飲むように促す。
「そうか――」
帳町は五つのブロックに分かれている。
帳町の居住区で、比較的安全な東ブロック。ここには農場や鍛冶屋や機会の修理屋、商店などもある。銀月のビルもここにある。そして『灰鴉』と呼ばれる、ならず者達の住まう西ブロック。飲み屋や博打場、娼宿がある南ブロック。北ブロックは立ち入り禁止で、有刺鉄線で囲われたエリアには建物はなく、地下に続く扉があるだけだ。しかし帳町の人間達の命綱である向こう側からの物資が届くのがここで、月に一度ヘリが三機この上空に飛来して荷物を降ろしてゆく。物資というのは最低限の食料、医療品、衣服、燃料などだ。
これを管理し、帳町全体を治めているのが中央ブロックに居城を構えるこの男、逆木綜夜だ。
つまり、この男こそ、この帳町を治める支配者だ。
「俺はお前が飯も食わずに痩せていくのを見るのは忍びない。今は俺が時間を作ってここにきているからいい。でも何かあって俺が来なかったらどうする? 銀月、飯を食わなければ人は生きられない。それをよく覚えておけ」
綜夜は銀月の柔らかい髪を撫でた。銀月は小さな子供のようにうなだれた。
「わかった。気を付ける……」
蚊の鳴くような声で、銀月は呟く。小さい頃から銀月には欲というものがあまりよくわからないのだ。それが他の人と違うという事も最近は理解している。
下界が苦手なのもおおよそそこから来ているものかもしれない。
「銀月、依頼だ――」
綜夜は少し伏せ眼がちに、しかしはっきりとした声で放った。
彼を見つめて銀月は思う。いつから、こんな顔をするようになったのか。
南ブロック、北部。
夜空に輝く満天の星と、優しく照らす丸い月。
夜になると灯りが灯り、人々が動き出すこの区画はあまり好きではなかった。フード付きの黒いロングコートを身につけ、人に紛れる。それでなくても、月夜に輝く稀有な銀髪は目立つ。が、各々の欲望に忠実なこの場所では、誰もフードから覗く、流れる銀糸には興味はないのだろう。
――さわがしいな、早く帰りたい。
銀月は小さく息を吐いた。
依頼の内容は、最近この南ブロックで発生している殺しの犯人を見つけ出し、始末すること。大体の目星はついているらしい。被害者は女性のみで、遺体には太い針のようなもので全身を刺され、奇妙な穴が空いていたと聞いた。殺しが行われるのは一週間に一度。そして今日がその日だ。
「何か聞きたいことはあるか?」
ふるふると首を横に振る。綜夜はそんな銀月の様子に苦笑を漏らした。寝具から立ち上がり、素早く身支度を整える。
「気をつけろ」
綜夜がさらりと銀月の頬を撫でる。心地良さに目を僅かに細める。そして、名残り惜しげに、彼の側を擦り抜け扉に手を掛けた。
「いってくる」
野生の獣のように鋭く瞳を光らせる。そこには先程まで、男に甘えていた少女の姿はなかった。
人通りの多い大通りを抜ける。一つ道を外れると薄暗く入り組んだ路地に出た。周囲を見回し、人がいないのを確認すると銀月は大きく跳躍した。建物の屋根に飛び乗ると辺りに目を凝らした。犯行は人気のない路地裏で行われる。
銀月は通常の人間より夜目も利き、身体能力も高い。何故だかは分からないが、気付いた時からそうだった。それに疑問を抱かない訳ではないが、追求しようとも思わない。ただ、彼の役に立てればそれでいい。さながら、主に褒められたい飼い犬の如く。
――見つけた。
紅い唇がそう形作る。しなやかな動きで屋根から屋根をつたう。目的の場所までたどり着くとそこから飛び降りる。小気味良い音を立て、地面に着地する。
そこには、一人の男と、全身を何かで貫かれ穴が空いた骸が横たわっていた。聞いた通りだ。この男で間違いない。夥しい血の量が地面に染み、顔には恐怖を貼り付けたままだ。
「あなたが悪い人?」
銀月は首を傾けた。小柄な中年の男は突然、空から現れた少女に驚いているようだった。それも束の間のことだった。男は銀月に向かって腕を振り上げる。後ろに飛び退いた。が、頬に一筋の赤が走る。見れば、男の爪が異常なほど伸び、尖り、頬を掠めたようだった。
「あなたも私と同じ化け物?」
銀月の身体から多数の光る刃が出現した。男は息を呑む。
「どうでもいいや」
男目掛けて多数の刃が降り注ぐ。男は避け、爪で弾いたが、無傷では済まなかった。衣類は裂け、そこからは血が流れる。
「くそっ!」
男は歯噛みする。今度は、唸りを上げ爪を振りかざした。銀月はそれを避けずに受け止めた。皮膚を貫き痛みを伴う。けれど銀月は表情一つ変えなかった。
「おわりだよ」
爪が突き刺さったままの状態の銀月から無数の刃が再び現れ、男の身体を串刺しにした。鮮血を溢れさせ、低く呻き男は動かなくなった。男の腹部を蹴り、自らの身体から爪を引き抜く。地面に転がった男の屍に一瞥をくれると、踵を返した。後は、彼が上手くやるだろう。
朝日が眩しい。気付けば夜は明けていた。強い陽射しに目が痛い。人に見られないようにビルの合間をつたって塒に戻った。寝室にしている部屋の扉を開く。そこには、質素な寝台に足を組んで、腰掛ける綜夜の姿があった。
「おかえり」
銀月の姿を目にすると、片手を上げ爽やかな笑みを向ける。
「……ただいま」
俯き加減で返答を返す。いつも一人だからこういうやり取りは、あまり得意ではない。
「ご苦労様、さすが銀月だ。これ、報酬」
側に置いてあった紙袋を持ち上げる。
「見ていたの」
まるで見ていたかのような物言いに、銀月は顔を顰めた。
「まさか、俺はそこまで暇じゃない。部下から報告を受けただけだ」
結局、見張らせていたんじゃないか。あまり変わらない気がする。
「怪我してるって聞いたから待っていたんだ。おいで、手当してあげよう」
寝具から立ち上がって綜夜が、銀月の腕を引く。いつもと違う甘ったるい香りが鼻をくすぐる。
「綜夜、変な匂いがする」
「変な匂いって……、失礼な奴だな。俺、臭いか? 毎日、風呂は入っているけどな」
反対の腕を顔前に持っていき、鼻で息を吸い込む。
「ああ、香水の匂いのことか。きっと何処で移ったんだな」
「その匂い嫌い。――シャワー浴びてくる」
彼からする匂いと凝固した血液が不快だった。
「昔みたいに一緒に入ってやろうか?」
銀月の耳元で意地悪く笑う。乱暴にその腕を振り払い、押し退けた。
「いい! 一人で入れる! 来ないで!」
備え付けの簡素な浴室の扉を開ける。錆びかけのノズルが、甲高い音を立て回り出す。温かい水が身体に降り注ぐ。透明だったものは、赤く濁り排水口に吸い込まれていく。自分から流れる血も赤いのだと確認して、呆然と眺めた。
汗と体液を流した身体は幾分か軽くなった。綜夜は相変わらず、寝台にいて腕を枕にして寝転がっていた。
「上がったか? お前の部屋は何もないから、退屈すぎて死にそうだ」
起き上がり、ほら、と綜夜が自らの脚の間を指差す。きっとここに座れということだろう。
「手当くらい自分で出来るからいい」
「何だ、反抗期か? 育ててやった恩を仇で返すなんて俺は悲しいよ」
確かに、銀月を拾い育ててもらったのは感謝している。そうでなければ今頃、飢え死んでいただろうから。少し戸惑ったが、大人しく彼の脚の間に座った。綜夜はベッドの側の備え付けの棚から、用具を出した。消毒液を染み込ませた綺麗なガーゼで、傷口を押さえる。そして、器用に包帯を巻いていく。
「いくら丈夫だからって身体に穴を開けるなよ」
「面倒だったし、早く終わらせたかったから」
避けられずに確実に仕留められると思ったから、かなり強引だったがあのような方法を取った。
「お前らしいな。はい、終わり」
包帯の上からつう、と傷口を撫でられる。痛いような、むず痒いような奇妙な感覚だ。
「……ありがとう」
「素直で宜しい。じゃあ俺は帰るから」
銀髪を一撫でし綜夜は立ち上がり、扉の方へと歩いていく。
「綜夜! あの……」
その後ろ姿に声を掛けると彼は振り返った。無言で続きを促さられる。
「また来てくれる?」
綜夜は僅かばかり驚愕の表情をしたが、すぐにいつも通りの表情に戻る。
「当たり前だろ。俺がいなくてもきちんと飯食えよ。あと、傷口の消毒もまめにな」
彼は銀月を子供扱いする節がある。もうそんな歳ではないのに。人を上手くかは分からないが躊躇なく殺せるようになった。反対にいつかは自分も、誰かに殺されるかれしれないと覚悟もしている。
「大丈夫だよ、分かってる」
軋む音を立て扉が閉まる。一人になると静寂が訪れる。チェストの上の紙袋に手を伸ばす。中にはふわふわのパンが入っていた。口に含むと中からはジャムが口内に広がる。けれど、やはり味がしなかった。一口だけ齧ったそれを再び、紙袋に戻して銀月は固いベッドに身体を横たえた。たまに今日のように小さな反抗をしたくなる。だが彼にとっては、取るに足らないものだと知っている。
(綜夜の匂いと変な匂いが混ざってる……)
まだ、彼の体温が残っている気がした。その温もりに包まれながら目を閉じた。
いつしか落ちた眠りの時、夢うつつ――
暗闇の中で銀月は誰かを待っていた。
足音、笑い声。
殺しのカウントダウンが始まる。
トタン屋根から飛び降りて男の後ろに立った。掌から刃を引き抜く。
男が気配に気付き振り返るその刹那。
銀月の刃は男の左胸に深くめり込んだ。
わずかな震えが刃を通じて銀月に届く、最後に心臓は小さくピクリと振動して止まった。
「ば、化…け物……」
男の上瞼に怯えた瞳が潜り込んで、銀月の刃は急に重くなる。
そこで目が覚めた。
日は高い。
ガラスのない窓には小鳥がとまっていた。
ふと報酬の袋を見れば小鳥が集っている。
帳町は食料も燃料も配給制だ。十分ではないが決まった量を分け与えられる。
しかしそれでは足りないし、灰鴉に奪われてしまう事も少なくなく、東ブロックでは闇市なるものが開かれ、食料や燃料がやり取りされている。しかし、通貨はなくトレードだ。
皆燃料が余れば食料と交換し、余裕のある者は身を守る為の武器などを手に入れる事もできる。医療品は中央エリアで手に入る。白兎と言われる者達が専門に管理していて、簡単な医療行為を行う事もある。布地なども中央で年に何度か支給される。
東エリアの若い女たちはそれを縫って服を作る事を仕事にしている。古着もやり取りされていて、また仕立て直して、売るのだ。それで子供らは食料を得ている。ここでは食べ物も着るものも、金銭の役目も果たす。
今それが目の前で鳥の餌になっている。
銀月は不思議と腹は立たない。食い物も着るものもいらない。
「またか――」
初めての殺しの時の夢は、仕事の後によく見る。
(化け……物? 生き物? 人間?)
そんな言葉たちを舌で転がしてみる。
どうもしっくりこない。だけど今、答えはいらない。綜夜がその答えを、いつかくれると言ったから。そもそも生きるというのも、死というのもよくわからない。
何故みんな死ぬことを怖がるのだろうと銀月は思うことがある。
この街はそこいらに死が転がっている。子供らは頭がい骨を積んで遊び、大腿骨でチャンバラごっこをしている。死はそこにあるのに。
銀月は初めての殺しの夜、化け物だと罵られた時、体に秘められた刃が特別なことだと知った。
いつだったか随分前に何度か綜夜に聞いたことがあった。
「ねえ、綜夜は刃がでないの?」
銀月が聞いた時、綜夜はすぐには答えをくれなかった。聞こえないふりを何度か繰り返して、ある夜答えてくれた。
「体の中に刃を持っているのはお前だけかもしれないね。俺には出せない。他の奴らも出せないだろうね。だけど、特別な能力を持っているのはお前だけじゃない。帳町にはたまにわけのわからない能力が突然目覚める奴がいるんだ」
大好きなビルの屋上に寝転がっていると、夜空は銀月を受け入れてくれる。その一部になれた気がして嬉しい。
錆びた鉄の柵にもたれて、綜夜は俯いていた。
「私は人間?」
「……」
「綜夜は私の事好き?」
どれだけ待っても答えは返っては来ない。
「――銀月。お前の髪は美しいな。初めてのお前を見たとき、その髪が満月の光を吸って七色に光って本当に美しかった。だからその名をつけたんだ」
綜夜は銀月の問いには答えずに、代わりにそんな事を話してくれた。
「本当?」
「本当だ。まるで月から生まれたんじゃないかと思った」
綜夜は体を仰け反らせるようにして、夜空に浮かぶナイフのような月を見上げた。
「お前を欲しいと思った。手に入れたいと思ったんだ。だから連れて帰ったんだ」
「うん」
「本当だ。信じてくれるか?」
どうしたのだろう。こんな口数の多い綜夜は知らない。
銀月の胸は痛んだ。彼は自分には「好きだよ」と「大切だ」と言えないのだと思ったから。だからこんなに苦しそうなんだと。綜夜を苦しめているのは銀月自身だと思った。
「ねえ、綜夜? 私は生きていていいの?」
暫しの沈黙を経て、危うい緊張感は闇に溶ける。
綜夜は銀月の前で膝をついた。
そしてその指が髪に触れる。
このまま、夜空に吸い込まれて、月になれるならどれだけ嬉しいだろう。
銀月はそんな事を考える。
「銀月、全ての答えは、いつかあげよう。それまで、あるがままにいればいい――そして、生き延びるんだ」
だから、答えはいらない。綜夜がそう言ったから――
銀月は綜夜が手当てしてくれた傷を見ていた。丁寧に巻かれた包帯に綜夜の優しさを感じる。それでいい。
「生きてる?」
またそう問う。
今日も答えはない。それが日常の風景。