吸血鬼三人衆を見かけました
「はぁ……、はぁ、はぁ」
子供達が抜け道に使っていた村の裏手から抜け出して十数分ほど……。
レゼルクォーツさんとフェガリオさん、それから、あのよくわからない変な子が後を追ってくる気配はなく、私は無事に迷いの洞窟と噂されるその場所に辿り着く事が出来た。
子供が遊んでも安全な小さな森の、その奥……。地肌が剥き出しになったその中心に、どっかりと開いた大きな闇穴。それが、洞窟への入り口だ。
入口はひとつ……、けれど、中に広がる道は無数だという話だ。
複雑に入り組んだ迷路のように、この闇は足を踏み入れた者を喰らい尽くす……、と。
大人達が話していた恐ろしい話の数々に、子供達は皆震え上がって、この場所には近付かなかった。
「行こう……」
最後に、一度だけ後ろを振り向く。そよそよと微かに撫でつける風を受けて葉揺れが起こり、陽光が照らし出す世界は平穏そのものだ。……私の心の中とは大違い。
茂みからひょいっと飛び出して来た野兎が、私の方をちらりと見遣り、その場に座り込む。
「……一人?」
ぴくぴくと長く茶色い野兎の耳が私の声に反応を寄越す。
まだ小さそうだから、近くに親がいそうなものだけど……。
じっと私の事を見つめる野兎は気持ちよ良さそうに小さく鳴いてみせると、また茂みの中へと消えて行った。
きっと親の許に帰って行ったのだろう……。私とは違い、帰る場所がちゃんとあるのか。
ふぅ……と、小さな吐息をついた私は、ゆっくりとまた大穴に向き直った。
ここに入れば、今度こそ終わり。誰に見つけられる事もなく、……終わる。
「さようなら……」
無意識に呟いた一言には、少しだけ涙の気配が滲んでいたように思う。
自分は今、『誰』に別れを告げたのだろうか……。『誰』に、この心を残しかけたのだろうか。
一瞬脳裏に浮かんだのは……。
「違う……。私は、私は」
私は緩く首を振って、自分の手のひらをきつく握り締めた。
早く楽になりたい、お父さんとお母さんの待っている場所に逝きたい……。
村を襲った隣国への報復も、死んでからも村の人達を苦しめた吸血鬼に対する怒りや恨みも、何も出来なかった自分への苛立ちも、何も晴らせてはいないけれど……。
「私には……、時間が、ない」
早く、早く……、この世界から消えて亡くならなければ、また、誰かを不幸にしてしまう。
そうしなければ、――また、あの『悪夢』が大口を開けて、私を飲み込みにやってくる。
「ごめんなさい……っ」
色々な感情が渦巻きながら、私の心を苛む。
それでも、……私が選んでしまうのは、終焉を誘う闇の大穴への道。
何も見えないその中を、ゴツゴツとした岩肌を伝いながら奥に進んで行く。
自分の手元も、道の在り方も、何もかも……、見えない闇。
普通であれば、心に不安と恐怖を与えるはずのそれが……、今は酷く心地良い。
「苔……?」
ここならゆっくりと眠れに入れそうだ……。そう口元を和ませた直後、私の目に淡い黄緑の光が映った。洞窟の中に生えた、発光する苔の類がそこかしこに顔を見せており、洞窟内の輪郭を僅かに照らし出している。これはこれで……、幻想的な光景に思えなくもない。
地壁から手を放し、今度は道の真ん中を歩き始める。
私以外の存在は見当たらない……。噂通りの孤独感満載のその道を暫く歩き続け、適当に道を曲がったりしながら進んで行くと、やがて、おかしな匂いが鼻をつき始めた。
胃の奥に不快感を伴うような……、生臭い、何かの匂い。
(獣でも入り込んだ……? だけど、これは)
ここに来るまで、一匹たりとも森の動物の姿をこの洞窟内では見かけなかった。
自然に生きる動物達なら、嗅覚や野生の勘を頼りに洞窟の中に踏み入ってもおかしくはないけれど……。
「んっ、……ここは」
一本の道を進み続けた私の目に、大きく円を描くかのような広々とした空間が広がった。
強烈な異臭が吐き気を促してくるその場所には、奇妙な紋様が地面いっぱいに描かれている。
そして、『異臭の根源』となっているらしき、――獣の類ではない、人としか思えない者の無残な姿。
肉を何か鋭利な物で引き裂かれたのか、背中からは夥しい量の血が溢れ出している。
それは一人ではなく、私の目で確認できるだけでも三人以上はそこでこと切れているようだった。
(何なの……、あれ)
魔性と評すに相応しい、美しいけれど嫌な気配に満ちた三人の男性が足元の死体を踏み付け、愉しそうに笑っている……。あの人達が……、殺した、の?
「はぁ、満腹満腹~!」
「腹は膨れましたが、はぁ、やれやれ、やはり男の血は不味いですね」
「文句言うんじゃねーよ!! このタラシ野郎が!!」
「好みは大事ですよ、好みは」
「『餌』があるだけいいと思う……」
……『餌』? 『味』?
私は岩陰に身を隠し、彼らの様子を窺う。大声でナルシスト風の男性に怒鳴っている強気そうな男性の大口に、吸血鬼特有の鋭利な牙が覗いている。
口元とその牙や服のいたるところに血の痕が残っている事から考えて……、彼らが足元の人達を『吸血』した挙句、惨殺した事は間違いない。
まさか……、こんな洞窟の奥で吸血鬼と出くわしてしまうなんて、私はどれだけ吸血鬼と縁があるのだろうか。ここでもし見つかれば、転がっている死体と同じような扱いを受けて最期を迎えるのは間違いない。レゼルクォーツさんの時は、嫌悪感もなく身を委ねてしまったけれど、私にだって吸血鬼に対する好みはある。あの乱暴そうな男性やナルシスト、それから、だばだばと口から飲み切れない量の血液を垂れこぼしているような人達の餌食にはなりたくない。
幸いな事に、彼らは洞窟のさらに奥へと続く沢山の通路の中のひとつに進み始め、私の存在には全然気づいていない。迂闊に動いて見つかっても困るので、私はそのまま岩陰に身を潜め続けた。
早く、早くどこかに行ってほしい……。そう思いながら瞼をきつく閉じていると、洞窟内に響く足音が止まる気配がした。
「はぁ~……。この前みたく、死体でもいいから、もっと盛り沢山の血を飲みてぇよなぁ」
「そうですか? 喜んでいたのは貴方だけで、死体の血など鮮度が悪くて飲めたものではありませんよ。だというのに……、よくもまぁ、あんな遊びまで仕込んだものです」
「ははっ、人間を驚かすのは面白いからな! 派遣されたアイツらの間抜け顔、お前達だって見ただろ!? いやぁ、本当に面白かった~!!」
「あまり派手に動きすぎると……、『狩られる』ぞ……」
「大丈夫だって! 『あんな奴ら』に狩られるほど、俺達間抜けじゃねーし!!」
再び聞こえ始めた足音と、聞いてしまった……、血の気が一気に下がるような吐き気のする話。
今……、あの吸血鬼達は、何と口にしただろうか?
話の中にあった情報を頭の中で整理し、導き出された明確な答えにぞっとする。
違うかもしれない。だけど……、そうだとしか思えない話の内容に、私は奥歯を噛み締め、地面を爪が割れるくらいに掻いた。
「アイツらが……、皆を」
隣国の襲撃を受けた村には、悲劇の死を遂げた皆の遺体があったはずだ……。
兵士達が撤収した後、……もし、あの吸血鬼達が村に訪れ、死体から血を啜ったとしたら?
そして、あとから来ると予想をつけた対象を驚かせるために、自分達の傀儡としたら……。
あの吸血鬼達が、結果的に村の人達を二度目に苦しめた第二の仇という事になる。
「許さない……っ」
私一人が立ち向かったところで、きっとすぐに返り討ちにされてしまうだろう。
だけど、この目で、耳で……、『仇』を前にしてしまった以上、この心が、許してはおけなかった。
さっきまで死にたい死にたいと思っていたのに、この心に溢れる強い殺意の感情は何だろう。
武器になる物は何もない……。だけど、ここで見失ってしまえば、二度と仇を討てなくなってしまう。
「行かなきゃ……」
「どこにですか~?」
「え……」
私がゆっくりと立ち上がり、三人の吸血鬼の姿を追おうとした瞬間、また暢気な高い声音が響いた。
目線を下に落とすと、……にっこり笑顔の男の子が一名。
何故自分のサイズに合わないだぼついた服を着るのかはわからないけれど、また会ってしまった。
確かにクッキーを与えて村に残してきたはずなのに……、どうやって追いついたの?
「何で……、ここにいるんですか?」
「暇なので、同行しようかな~と思いまして~」
「ここは、一度入るとそう簡単には出られない迷いの洞窟です。わかってますか?」
「そうなんですか~? まぁ、でも、何とかなりますよ~」
自然の脅威が生み出した恐ろしい場所を侮りすぎでしょうが……。
歩き始めて暫くは闇が続くこの洞窟内は、途中から光苔の灯りがあるとは言っても、道の把握は非常に困難……、というか、私も帰り道を全くわかっていない。
黄色に近いクリーム色の髪をしている男の子の前にしゃがみ込んだ私は、真顔でその両肩に手を乗せた。
「私は、帰り道を知りません。どうする気ですか?」
「何とかなりますよ~」
「……はぁ、そうですか。では、お好きになさってください。私は行きますから」
「どこにですか~?」
「貴方には関係ありません」
この男の子に付き合っていると、何だかとても疲れてしまう気がする。
何というか、危機的な状況をわかっていない……、のではなく、わかっている上で、この男の子はそういう状況を楽しんでいる節があるというか。
きっとこの場に残しても問題はないと判断し、私は三人の吸血鬼達が消えた方へと向かって走り出した。仇を討つのに必要な武器も、腕力も、策もないのに……。
「馬鹿ですね、私は……」
それでも、彼らの話を聞いてしまった今の私には、追いかけるという選択肢以外は存在しなかったから……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「何……、この変な、匂い」
吸血鬼達が向かったと思われる道を進みながら足を急がせていると、徐々に妙な匂いが鼻をつき始めた……。血の匂い、ではないと思う。
微かなそれを嗅いだ瞬間、本能的に生命の危険を含んだそれから逃れようと、二、三歩後ずさった。
スカートのポケットから花模様のハンカチを取り出し、口と鼻を覆う。
この匂いは……、まさか。
「おやおや~、毒素ですね~」
「また出た……」
引き離しても引き離しても私の後を追ってくる小さな男の子……、に、見える吸血鬼。
私とは違い、何のダメージも受けていない男の子が辺りを見回すと、くるりとこちらに振り向いた。
「引き返した方がいいですよ~? これ、相当濃い毒素ですから~」
「毒素……」
元々、最期を迎える為にやって来たとはいえ、村人達の仇と思われる吸血鬼達を見つけてしまった以上、私としては何が何でも一矢報いたい。
だけど、この毒素がある限り……、身動きさえもままならなくなる可能性がある。
一体、どうすれば……。俯き、小さく嗚咽を漏らした私の背中を、男の子が擦ってくれる。
「そんなに、『あの子達』の後を追いかけたいんですか~?」
「え……」
「さっきの吸血鬼三人組ですよ~。あれは、この人間の世界に遊びに来た、所謂許可なしの部類で、まぁ、そんなに強い力も持っていない子達ですけど、人間の女の子からすれば脅威だと思うんですよね~。――たとえ、仇であってもね」
「見て……、いたんです、か?」
男の子がいつ私に追いついていたのか、それはわからないけれど……。
この子は把握しているのだ。さっき私の目線の先にいた三人組の吸血鬼達の事も、彼らが村人達の遺体から吸血し、傀儡とした事も……。
慰めるように背中を擦りながら私の顔を覗き込んできた可愛らしい顔に、私は息を呑む。
そのアメジストの双眸に揺らめく、子供らしからぬ妖しい気配。
やはり、見かけ通りの可愛らしい子供ではないのだと、そう改めて実感しながら洞窟の壁側に逃げる。
けれど、男の子はのほほんとした笑顔を崩さずに私の傍へと歩み寄って来た。
「大丈夫ですよ~。僕は同意もなしにお嬢さんの血を吸ったりはしませんからね~」
「……どこかに、行ってください」
「そんな寂しい事を言わないでくださいよ~。あ、そうだ。お嬢さんはこの先に行きたいんですよね? 何の力もないけど、あのば……、じゃなくて、三人の吸血鬼にお仕置きをしたいんでしょう~?」
「それが……、どうしたん、です、か。貴方には関係ないでしょう」
漂ってくる毒素がゆっくりと時間をかけて私の体内に侵食し、動く力を奪っていくのがわかる。
このまま身を預けて倒れこんでいれば、いずれ死ねる……。
だけど、やる事が出来てしまった今の私に必要なのは、動く力と、吸血鬼を打ち倒す武器と方法だ。
この吸血鬼の相手をしている暇はない。一度さっきの場所に戻って、態勢を立て直さないと。
「毒素を無効化し、尚且つ、あの吸血鬼達を『殺す』方法がひとつだけあるんですけどね~」
「え……」
よろりと倒れ込みそうになりながらも背を向けた私に、気になる一言がかかった。
この毒素を……、無効化する方法が、ある? しかも、あの吸血鬼達を葬る方法が……。
目を見開いて意識を向けてしまった私に、男の子がにっこりと悪意のない笑みを強める。
「私を……、騙すつもり、ですか?」
「いえいえ~、騙したりなんてしませんよ~。ただ、僕の『お仕事のついで』と言いますか、お嬢さんのお手伝いをしてもいいかな~と思っただけなんです~」
「……信じろ、と?」
距離を取り、一見無害な子供を静かに睨みつける。
何か良からぬ事を企んでいないという保証はどこにもない。
私を言葉巧みに騙して、振り回して遊んでやろうという魂胆かもしれないし、隙あらば血を吸ってやろうという考えかもしれない。
そう訝しむ私に、男の子は表情を少しだけ困ったように崩し、やれやれと両肩を竦めてみせた。
「警戒心の強いお嬢さんですね~。まぁ、吸血鬼相手にはいいんでしょうけど。でも、僕の事は本当に信用しても大丈夫なんですよ~? 僕は可愛い女の子の味方ですからね~!」
「信用なんて、そう簡単に出来ません……」
「ん~と、じゃあ、まず自己紹介でもしましょうか~」
「いりません」
すっぱりと拒絶した私にも、男の子がめげる事はなかった。
だぼついた服のズボンから折り畳み式のナイフを取り出してみせると、それを私の方へと放ってくる。
……これを、どうしろと? とりあえず護身用として拾い上げてみるかと手を伸ばすと、そこにひょいひょいと色々な物が投げ込まれてきた。
「何ですか……、これ」
「武器の提供ですよ~! ナイフや短剣、鞭に毒薬、お嬢さんにも扱えそうなものを出してみました~」
その小さな身体のどこにこんな大量の武器を隠し持っていたのか……。
必要なら大人用の武器や暗器も出そうかと笑う男の子に、私は首を振った。
まだ信用出来ないけれど、武器が手に入ったのは有難い。
これを忍ばせておけば、吸血鬼達に攻撃を仕掛ける事も出来る。
(だけど、これじゃあ致命的な傷は与えられないわ……)
吸血鬼は不死とも噂される種族だ。
通常の武器では効果などなく、傷をつけられても致死には至らない。
銀の弾丸、聖水を浸した剣、神官様が神に祈りを捧げ武器に特殊な術を施した物などでないと、殺す事は非常に難しいと聞く。今更ながらにその事を思い出した私は、結局のところ何の考えもなしに追いかけて来た自分の衝動と浅はかさに溜息を零した。
けれど、そんな私の心情を察したのか、男の子はその場を跳ねながら、ある補足を入れ始めた。
「ちなみに~、その武器のお得性については、吸血鬼に有効な『毒』の効果が付与されているってところですかね~。あ、僕には向けないでくださいね? 流石に悲鳴あげちゃいますから~」
「どうして自分にも危険な物を平気で持ち歩いているんですか……」
「『お仕事』だからです!」
えっへん! と言わんばかりに胸を張った小さな男の子に、私の身体からがくっと力が抜けてしまう。もしも武器の刃先が自分の身体に当たったりしたら、とか、そういう事を考えないのだろうか。楽観的というか、ある意味無敵にも思える男の子の言動に、徐々に警戒心を突き崩されていく。
「ね? 僕を連れて行ったら何かとお得ですよ~! 吸血鬼が攻撃してきたら、盾にもなってあげますし、お嬢さんを毒素からも守ってあげます~」
「毒素が吸血鬼には効かないというのはわかりました……。でも、私は」
「問題なっしんぐなのですよ~! ほんのひととき、お嬢さんに僕の『パートナー』になって頂ければ、ね?」
「……パート、ナー?」
私の中で、自分への警戒心が揺らぎ始めた事を感じているのだろうか。
男の子は武器に手を伸ばしかけた私のそれに温もりを重ねると、吸血鬼の証たる鋭い牙を覗かせて囁いた……。
2016・06・21
改稿完了。