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第九話

 身体を震えさせながらも汚れた枕を取り外し、シャロンの両腕を掴んでどうにか仰向けにひっくり返してみる。

「……なっ……」

 まだ起きる気配のないシャロンの顔を見た途端、グレッチェンの表情は一段と凍り付くこととなった。

 シャロンの鼻から口、顎にかけてが血でべっとりと汚れていて、それを拭おうとしたのか、右の掌にも血がこびり付いていた。

(……もしかして……、……労咳を、患ってしまったの??……)

 労咳は現代の医学において、治療は非常に困難とされている病だ。

 一度発症したら最後、最先端の医療を受けられる上流階級ならいざ知らず、中流以下の一般人の場合、大抵の人間は死に至ってしまう。

 鼻から下が血に塗れているのは、喀血によるものかもしれない。

 長年の不摂生により、ついに彼の身体が悲鳴を上げてしまったのか。

(……嘘よ……。そんなの嫌!……)

 気付くとグレッチェンの視界はぼやけ、世界が水面に映る景色のようにゆらゆらと滲んで見え始める。

 だが、悲嘆に暮れるよりも先に、今目の前にある、すぐにやらなければいけないこと、シャロンの汚れてしまった顔を拭いてあげなければ。

 グレッチェンはズボンのポケットからハンカチを取り出し、水差しの水を使って湿らせた後、シャロンの顔に付いた血を丁寧に拭いていく。拭いている間中も涙は止まらず、シャロンの顔や衣服の上に涙の痕を次々と残していった。

「ん……」

 濡れたハンカチの冷たい感触と、グレッチェンの瞳から降り落とされる滴によって、シャロンはようやく目を覚ました。

「……グレッチェン??」

 起き抜けに、若い娘が泣きながら身体の上に覆い被さっていれば、誰であっても面喰うだろう。

 現に、シャロンも状況が全く掴めず唖然とするしかなかった。

「……グレッチェン、寝込みを襲うのは別に構わないが、何もそんな悲壮感漂う顔をしなくても……」

「……そんなんじゃありません!……血で汚れたシャロンさんの顔を拭いていただけです……」

「……血??」

 シャロンはまだ完全に目が覚めきっていないせいか、反応がいまいち鈍かったが、数秒間逡巡したのち、「あぁ……、これは……。……疲労が溜まり過ぎたことで、鼻血が出てきてしまっただけだよ」と答えた。

「……思いの外出血が大量だったせいで、眩暈が生じてしまってね。血を拭く前に、ついベッドに倒れ込んでしまったのだ。あぁ……、枕が台無しに……」

 脇に避けられた枕を見て、シャロンは嘆きの声を上げた。

「…………」

「……もしや、労咳による喀血だと勘違いしたのかね??」

「…………」

 グレッチェンは、自らの早とちりによる間違いに、穴があったら隠れたい程の羞恥心に見舞われ、思い切り顔を俯かせる。

「……あぁ、でも、心配を掛けただけでなく、また君を泣かせてしまったな……。最近、君を泣かせてばかりで不甲斐ないにも程がある」

 シャロンの自嘲気味な発言を否定するように、グレッチェンはこれでもかというくらいに首を横に振った。

「相変わらず、君は優しいな。そんな君のためにも研究を再開せねば……」

 そう言って、よろよろとベッドから身体を起こしたシャロンの腕を、咄嗟にグレッチェンは掴み取る。

「……もう、私への研究はやめにしませんか……」

 グレッチェンを見上げたシャロンの表情が瞬時に曇る。

「……これ以上、シャロンさんの身体に負担を掛けたくないですし……。私は、このまま特異体質と折り合いをつけながら、生きていきたいんです……」

「……つまり、研究を途中で放棄しろ、と言いたいのか??」

 鋭く冷ややかな声で、シャロンはグレッチェンに問い掛ける。そんな彼に、グレッチェンは遂に素直な気持ちを吐露したのだった。

「特異体質も含めて私、ということを、シャロンさんにだけは受け入れて欲しいんです!貴方と、その……、キスを交わした時に……異変が起きなかった原因だって、解明出来なくたっていいじゃないですか……。貴方となら大丈夫、ということが分かっただけでも……、私にはもう充分なんです……。自分勝手で我が儘な言い分だということは百も承知していますが……、私の気持ちもどうか理解して下さい……」

 言い切った直後、これではシャロンに九年間抱いてきた想いをぶつけているようなものではないか、と、気付き、このまま窓を開けて外へ飛び降りてしまいたい衝動に駆られた。

 ベッドの上に座り込んでいるシャロンは一体どんな顏をしているのか、見たいような見たくないような、いや、やっぱり見たくなどない。彼の反応が怖くて仕方ないから。

「……すみません。今の発言は忘れて下さい……」

 グレッチェンはシャロンの方を一切見ずに立ち上がり、部屋から去ろうとした。しかし、シャロンに手首を強く掴まれ、あえなく阻止されてしまう。

「……放してください……」

「嫌だ」

 シャロンはグレッチェンの手首を掴んだまま、ベッドから降りる。

 そして彼女に近づくとか細い身体を引き寄せて、唇に軽くキスを落とした。

「……確かに君の言う通りだ。理由はどうあれ、どうやら君にキスをしていいのは私だけ、という事実は今回はっきりした」

 悪びれもせず、にやりと微笑むシャロンに、「……また、そんな恥ずかしい台詞を抜け抜けと……」と、一度ならず、二度までもシャロンに唇を奪われたグレッチェンは、歓喜と羞恥で頬を薄っすらと赤らめながら、軽く睨む。

「そんな赤い顔して睨まれたところで、可愛いばかりでちっとも怖くない」

「ですから……!そういう台詞は他の方に使ったらどうですか?!」

「君も意固地な女性だ。いいかね??アッシュ」

 唐突に本名を呼ばれ、グレッチェンはドキリとして思わずシャロンの顔を見つめる。

 シャロンは涼しげなダークブラウンの瞳で、グレッチェンの淡いグレーの瞳を真剣な眼差しでしっかりと見据える。

「研究だとか、罪を犯した共犯者同士だとか、そんなことを差し置いても、君は私にとって一番大切な女性なんだ」

 思いもよらないシャロンからの告白に、グレッチェンはしばし言葉を失ったまま、その場で呆けたように立ち尽くしていたが、やがて遠慮がちに口を開いた。

「……その言葉、そっくりそのままお返しします……。私には……、貴方しかいないんです……。貴方のお傍に……、ずっと置いて下さい……」

 懇願する形でようやく想いを告げたグレッチェンにシャロンは、「そんなの当たり前じゃないか。私は、君だけは絶対に失いたくないんだ」と優しく答えた。

「ただ……、一つだけ約束して欲しい。君をもう危険に晒したくないから、もう二度と毒は売らないでくれないか。私も君の身体を治す研究に関して今後、身体や金銭面に無理のない範囲で行うから。せっかくお互いの想いを交わし合った以上、どちらかが倒れる、もしくは共倒れになるような真似だけは絶対に避けたい」

 今度はシャロンがグレッチェンに懇願する番だった。

 彼の真摯な言葉に、グレッチェンはゆっくりと大きく頷いたのだった。これまでに見せたことがなかった、大層無邪気で嬉しそうな顏をしながら。



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