第四話
出産時の事故により、グレッチェンを産み落としたのと引き換えに彼女の母は命を落とした。
彼女の父レズモンド博士、姉のマーガレットは、妻や母を失った深い悲しみと喪失感を愛する者を奪った憎しみという形で彼女にぶつけ、日常的に虐待を繰り返していた。
上流階級の者なら受けて当然の教育を施さず、屋敷の奥深くに彼女を幽閉。外へ一歩も出さないどころか、家族とごく一部の使用人以外には存在すらもひた隠しにしていた。それに飽き足らず、姉は言葉や軽度の身体的虐待、父に至っては趣味で収集している毒薬の反応を、彼女を使って試していたのだ。
幼い頃から死なない程度に様々な毒を与えられたせいか、彼女の身体には常識では到底考えられない異変――、彼女の唾液には軽度の毒性、血液には強度の毒性を持つようになってしまったのだった。
特に血液の持つ毒性は、ごく少量であっても大人一人の命を瞬時にして奪える程の殺傷能力のみならず、ひとたび体内に入ってしまえば毒性反応が一切検出されない。つまり、彼女の血液は毒薬として最高の条件を満たしていたのだ。
シャロンがグレッチェンを傍に置き続ける理由の一つとして、彼女の特異体質を誰かに悪用されないよう、監視するためでもあった。ところが、その彼女自身が特異体質を利用した裏稼業を始めてしまったのだ。
九年前の火事で身寄りを亡くした彼女を引き取る際、親族から渡された多額の口止め料を元に研究を続けてきたシャロンだったが、やがて資金は底を付き、薬屋の売り上げも資金に回すも足りる訳がなく、高利貸しに金を借りる事態にまで陥った。
借金だけが嵩んでいく彼の姿を見るに耐えかねたグレッチェンは、「私の血液を、毒薬として秘密裏に高値で売ろうと思います」と言い出したのだ。
当然シャロンは猛反対した。しかし、グレッチェンの意志も固く、遂には「これ以上私のために貴方を苦しめたくないんです。どうしても毒を売ることを許可していただけないのでしたら……、私はこの街を離れて一人で生きて行くことにします。勿論、私の素性も身体のことも、貴方のことも決して口外致しません。研究費にあてたお金は一生かけて少しずつお返ししますが、それ以外で貴方にはなるべく関わらないようにしますから……、もう貴方の自由に生きて下さい。……長い間、大変お世話になりました……」
突き放した言葉とは裏腹に、その時のグレッチェンは今までで一番辛そうな表情をしていた。マーガレットに罵倒されている時よりも、博士に毒を注射で打たれている時よりも。
彼女自身も自覚しているからか、言うやいなやすぐにシャロンに背を向ける。
グレッチェンの寂しげな後ろ姿。出会った頃と比べれば肉はついたものの、折れそうな程に華奢である。
その背中が自分から一歩遠ざかった瞬間、気付くとシャロンは彼女に跪き、柳よりも細い腰を抱いて縋りついていた。
「……行かないでくれ、アッシュ……。私には、どうしても君が必要なんだ……」
グレッチェンは淡いグレーの瞳を見開いたまま、彫像のようにその場に固まってしまった。
自分より一回りも年上の男、それも人一倍プライドが高く、他人、特に女に弱みを見せることを何より嫌う質でいつも悠然と余裕ぶっている男が、二十歳に満たない小娘相手に必死に取り縋っているのだから。
「……秘密裏に血液を売ることも、私としては不本意だが……、……許可しよう……。だから……、私の前からいなくならないでくれ……」
打ち捨てられた子犬のように憐れで幼気な瞳から、グレッチェンは視線を逸らせなかった。
ずっと、シャロンに庇護され守られてきたとばかり思っていたのに。
その実、守っているつもりだった彼の方がグレッチェンの存在を拠り所にしていたなんて。
「……分かりました……。それならば私は今まで通り、ここにいようと思います……」
そう言うと、グレッチェンはシャロンに向き直り、まだ跪いたままの彼の黒髪をそっと撫で上げたのだったーー。
――ちょうど四年前、グレッチェンが十七歳、シャロンが二十九歳の時のことで、彼女が毒として血液を秘密裏に売り始めたのも、その頃からだ。
我ながら酷い男だと思う。それでも、シャロンは彼女を自分の傍にどうしても置いておきたかったのだった。




