レティシア・ブランシェットの華麗なる休日①
「フローズン」に登場した女性警察官レティシアの一日に迫ったお話です。
時系列は、フローズンの事件から約一年後。
華麗なる、と言いつつ、あんまり華麗じゃないかもしれません。
(1)
ベッドを覆い隠す天蓋の僅かな隙間より、朝の光が差し込んでくる。
上質な素材の寝具に身を包まれ、眠っていたレティシアだったが、一筋の光により目を覚ました。
額や頬に掛かる長い前髪を掻き上げ、さっと身を起こす。
後ろも横の髪も顎まで伸ばした前髪に合わせ、短く切り揃えられている。
ベッドから抜け出して天蓋を真横へ引き、近い位置にある窓辺まで進む。
天蓋と同じように、カーテンを引く。
窓硝子を通して、明るい日差しがレティシアの髪をより一層赤く輝かせる。
緊急時に備え、迅速に動かなければならない職業柄、目覚めた後の彼女の行動はとにかく速い。
早速、扉の下に挟んである新聞に目を通し始めている。
新聞を読み終えるかどうかの頃合いに、ようやく彼女を起こしにきた女中が部屋へと訪れ、「レティシアお嬢様、もう起きられたのですか」と、目を丸くして驚いた顔をする始末。
三十四にもなってお嬢様はないだろう、と毎度のことながら苦笑を浮かべたが、特に咎めたりはしない。
ただちに朝食を準備致します、と、慌てた様子で部屋を出ようとする女中に、「あぁ、別に慌てなくてもいいのよ。今日は非番だし、ゆっくりするつもりだから」と、気にするなと、ひらひらと手を振って軽くいなした。
それでもバタバタと忙しなく部屋を去っていく女中の背中を見送り、新聞を畳みながら今日の予定を頭の中で整理していく。
非番だからゆっくりすると言ってはいるが、実際は非番であっても彼女の一日は多忙を極めていた。
レティシアは、この街の警察に所属する警視であると同時に、夫を亡くした寡婦、もしくは問題のある家庭を持つ女性達を引き取り、字の読み書きや職業訓練などを習わせ、自立支援を行う施設の長でもあった。
そのため、非番の日には必ず入所者達の様子を窺いに行かなければならない。
「さぁ、今日も忙しくなるわね」
寝間着姿で大きく伸びをし、軽く身体の柔軟をしている間に、朝食を乗せたトレイを手に、再び女中が扉をノックしたのだった。
(2)
フラットマンションと呼ばれる、階数の高い煉瓦造りの大きな屋敷と、季節ごとに種類が変わる花々で埋め尽くされた、広大な庭園。
ここで暮らす者達を断固として護るべく、周囲を壁のように囲い込む、黒くそびえ立つ鉄柵。
その鉄柵の入り口の前には、門番をしている体格の良い髭面の中年男と、スーツを着た二十代後半くらいの青年が立っている。
「おはようございます、シューリス刑事。その様子ですと、今日は夜勤明けですか??」
「えぇ、そうなんです。本当ならば、すぐにでも自宅に帰って寝たいところですが、どうしてもブランシェット警視に伝えなければいけないことがありまして。警視は非番の日は必ずこの施設を訪れますから」
「あぁ、だから、ここで所長をお待ちになっているのですね」
「はい」
シューリスと呼ばれた刑事は、ひどく疲れた顔で気弱そうに微笑んだ。
小柄で童顔なせいか歳より若く見えるだけでなく、控えめな性格も相まってどことなく頼りなさげに見えてしまうが、稀にみる実直さをレティシアに買われ(使い勝手の良さを気に入られとも言えるが)、最も信頼の置ける部下として扱われている。
それだけでなく、入所者の子供や職業訓練等の指示者を除き、男性は立ち入り禁止のこの施設内に足を踏み入れることも許されている。
シューリスの読みで行けば、レティシアは午前中にここの施設に来る筈である。
現に、この門前に向かって一台の辻馬車がこちらへ近づいてきているではないか。
思っていた以上に早い上司のお越しに、シューリスは門番に気付かれない程度に、ホッと胸を撫で下ろした――が。
目の前で止まった馬車から出てきたのは、レティシアではなく――、アッシュブロンドの髪を綺麗に編み込んだ、小柄で華奢な身体つきの若い女性だった。
「あ……」
その女性は、シューリスと目が合うと淡いグレーの瞳を二、三度瞬かせた後、「おはようございます。朝早くからお疲れ様です」と、軽く会釈をしてみせる。
「あ、いえ……」
控えめでありながらも理知的な美しさに思わず見惚れ、シューリスは上手く言葉を返せないでいた。
彼女の名は、グレッチェン・マクレガーといい、この施設に入所しているロザリーとプリシラという母子と面会するため、時々施設へ訪れている。
グレッチェンは一年近く前、ロザリーの元夫でプリシラの父でもあり、複数の使用人女性への度重なる暴力行為で逮捕されたジョセフ・パイパーによって暴行未遂を受けていた。
しかし、女性として心身に大きな傷を受けたにも関わらず、加害者家族であるロザリーとプリシラ、厳密に言えば、幼いプリシラを慮り、彼女が少しでも早く立ち直れるようにと細やかながらも心を尽くしてくれている。
今にも消えてしまいそうな、儚げな雰囲気に似合わず、気丈で心優しいグレッチェンに、シューリスは密かに仄かな憧れを抱いていた。
だが、彼女はすでに夫がいる身なので、あくまで彼の心の内に留めるだけにしている。
第一、彼女の夫シャロンが妻に暴行を働いたパイパーに対し、狂気的とも言える非情な仕打ちを平然と行う様を目の当たりにしたのだ。
絶対に有り得ないが、もしもの話、彼女に言い寄ったりして彼にバレた日には――、確実に、潰され兼ねない。
彼は、線の細い爽やかな紳士の仮面を被った悪魔だ。
想像するだけで背筋が凍り付き、歯の根が合わなくなる程震えが込み上げてくる。
何故、彼女があんな恐ろしい男の妻になったのか、顔の良さに絶対騙されてやしないか、と、つい要らぬ心配をしてしまう。
最も、レティシア曰く、『妻を溺愛しているのは良いけど何かと過保護だし、正直気持ち悪い』とまで言われている辺り、彼女のことは物凄く大切にしているみたいだが。
「あの……」
夜勤明けの疲れからか、妙な考え事に耽っていたシューリスを、グレッチェンは訝しげに見上げてくる。
少し小首を傾げた様子が可愛らしく、またも見惚れるシューリスを全く意に介さず(むしろ全く気付いていない)「少し早く来すぎてしまったのですが……、施設内に入っても大丈夫でしょうか??」と、グレッチェンが遠慮がちに尋ねてきた。
「えっ?!あ、はい!!」
「??」
憧れの女性を前に、シューリスは挙動不審な態度ばかりを示してしまう。
案の定、グレッチェンの表情は段々困惑したものに変わっていく。
「あら、おはよう、グレッチェン。随分と早いわね」
「レティシアさん」
いつの間に到着したのか、レティシアがグレッチェンの肩をポンと軽く叩いて挨拶をする。
「ごめんなさいね、うちの部下の対応が悪くて。でも、私が来たからにはもう大丈夫よ。一緒に中へ入りましょ」
「はい、ありがとうございます」
グレッチェンは先程までの固い表情と打って変わり、はにかんだ笑顔をレティシアに向ける。
レティシアはグレッチェンと共に鉄柵の入り口を潜っていく。
『……シューリス。いくらグレッチェンが可愛いからって、狼狽え過ぎよ。ちゃんと仕事しなさい』
シューリスの横を通り過ぎ様、レティシアはこっそりと彼に厳しく耳打ちをしていく。
明らかに動揺してみせるシューリスを、レティシアはニヤニヤしながら意味ありげな視線を送りつける。
「で、何て言ってた訳??」
門の向こう側から、両手を細い腰に当ててレティシアはシューリスの背中に呼びかける。
シューリスはレティシアに背を向けたまま、右手を掲げ、親指と人差し指を使って『○』を形作る。
へぇ、と、意外そうに小さく呟くと、「分かったわ!ありがとう!!もう帰っていいわよ!!」と叫ぶ。
二人のやり取りを不思議そうに眺めていたグレッチェンだったが、あえて何も聞かず、振り返ったレティシアに伴われ、花が咲き乱れる庭園から施設へと歩みを進めたのだった。




