フローズン番外 「復讐」 (後編)
乱暴な手つきで抱き上げられた次の瞬間、幼女は辺り一面に響き渡る程の大きな悲鳴を叫んだ。そして、腕の中でじたばたと暴れ出し、子供ながらに激しい抵抗を示した。
幼女が予想外にも抵抗したため、男は面喰い、内心狼狽えた。
てっきり、恐怖に打ち震え、成す術もなく大人しくされるがままになると思っていたのだ。
少なくとも、彼の娘が同じ目に遭った場合、声を出すことさえもままならなかっただろう
彼の誤算は、この幼女と内気で大人しかった自身の娘を同列に並べて考えていたことによる、安易な思い込みと詰めの甘さであった。
「騒ぐな!大人しくしろっ!!」
「嫌っ!!おろして!!母さま、母さま!!父さまぁ!!」
「くっ……、痛い!!!!」
口だけでも塞ごうと、幼女の口元に宛がおうとした手を思い切り噛みつかれる。まだ小さく脆い乳歯とはいえ、力一杯噛まれた痕には血が滲み出している。
一気に怒り心頭に陥り、頭に血が上った男は幼女を地面へ投げ落とそうとした――
パン!と乾いた音が轟くと共に、「エリザベス!!!!」という、女性の悲痛な叫び声が届く。
幼女――、エリザベスという名前らしいーーを抑えつけることに無我夢中で、男は気付いていなかった。
娘の悲鳴を聞きつけたエリザベスの両親――、薬屋の夫婦シャロンとグレッチェンが、店の中から飛び出してきたこと。
男と娘の傍に駆け寄ろうとしているグレッチェンの身体を、腕を拡げてシャロンが制している。が、もう片方の手には、男に銃口を向けた状態で短銃を固く握りしめていること。
先程の音は、彼の足元の地面に向けて発砲したということ。
シャロンは、男と同じく不惑を越えているが、歳よりも随分と若く見えた。
年相応に、黒髪の中に白いものが少し入り混じっているし、加齢による視力の衰えからか銀縁眼鏡を掛けているものの、線の細い、爽やかで落ち着いた物腰の紳士といった体である。
しかし、シャロンの涼しげなダークブランの瞳も端正な顔映せも、真冬のヨーク河を覆う氷の膜のように冴え冴えと冷たく凍てついていた。
「私の娘を今すぐ放せ、ジョセフ・パイパー」
男――、ジョセフ・パイパーは奥歯をギリギリときつく噛みしめる。
「聞こえないのか??それとも、もう呆けでも始まったのか??今一度言おう。娘を放せ」
「嫌だ、と言ったら??そもそも、元はと言えば、お前達夫婦が私の人生を滅茶苦茶にしたせいでこうなったのだ!!」
「……逆恨みか。再犯者には無期懲役の終身刑、もしくは死刑だって充分に有り得るというのに……。つくづく地に堕ちたものだ……」
「うるさい!!これ以上私を侮辱するならば、この娘の首をへし折るぞ!!」
パイパーは唾を飛ばしながら、エリザベスを拘束していた手を片方だけ離し、そのまま首元へ宛がおうと――
パン!!
「んぎゃぁ?!」
シャロンが眉一つ動かさず、パイパーの爪先に向けて銃を撃った。
撃たれた衝撃と痛みで、パイパーはその場に崩れ落ちる。
拘束する力が緩んだ隙に、エリザベスはパイパーの腕の中から素早く擦り抜け、母の元へと全速力で駆け出す。グレッチェンも制止するシャロンの腕を振り切り、娘の傍まで急いで駆け寄る。
「母さまぁ!!!!」
「エリザベス!!」
爪先の痛みを堪えながら、すかさずパイパーは母娘に近づこうとするが、すぐにまたシャロンがもう片方の爪先目掛けて銃を撃つ。無様に地に倒れ込むパイパー。
「下衆が……。私の大切な妻と娘に近づくな」
シャロンは銀縁眼鏡を冷徹に光らせ、吐き捨てるように呟く。
そんな彼の傍らでは、グレッチェンがエリザベスを腕にしっかりと抱きかかえている。恐怖から解放され、母に抱かれたことで安心したからか、エリザベスはわんわんと大きな声で泣きじゃくった。
「……エリザベス、さぞかし恐ろしかったでしょう……。でも、もう大丈夫よ。父さまが悪者をやっつけてくれるわ」
「……本当??」
「えぇ、普段は頼りないけど、いざという時の父さまは誰よりも強いもの」
エリザベスはまだ泣き吃逆をしつつも、「父さまぁ、あの悪いおじさま、やっつけてくれるの??」と、泣き腫らした目で穴が空きそうな程シャロンをじぃぃーっと見つめた。
「勿論だとも、エリザベス。完膚なきまでに叩きのめしてやるつもりだ」
エリザベスは、わぁっ!と歓声を上げ(完膚なき~の意味は良く分かっていないが)、「父さま、頑張ってねー!」と応援の言葉を掛ける。すると、それまで一貫して冷たく凍てついたシャロンの表情が、一瞬だけ緩む。
それでも、幼い娘に暴力的な場面を見せてはいけない、と判断したグレッチェンは、後はシャロンに任せ、エリザベスと共に店の中へと戻って行く。その際、エリザベスが母の肩に顎を乗せながら、パイパーに向かって思い切りアカンベー、と舌を突きだしてみせる。途端に、額に青筋を浮かべるパイパー。偶然にも、娘が行った精一杯の仕返しを見てしまったシャロンはついつい噴き出してしまう。
「貴様!何が可笑しい!!」
「我が娘ながら、気丈で打たれ強い質だと感心しただけだ」
両の爪先から血を流し、その場に座り込んでいるパイパーの元へと、銃を構えたままシャロンはゆっくり歩み寄る。
「はっ……、殺したければ、その銃で私のこめかみを撃ち抜けばいい。ただし、お前も殺人の罪に問われ、ブラック・マリアの護送で監獄行きだ!!」
「貴様のような下衆一人のために、人生を棒に振る気などサラサラないさ。私には一生かけて守るべき家族がいるからな」
ところが、シャロンは言葉とは裏腹に、パイパーの眉間に銃口を押し当てる。
「だが、家族を守るための正当防衛だと認められれば問題はない」
「……なっ……」
「貴様は、過去に未遂とは言え私の妻を暴行した。そして今回は、娘を誘拐し、危害を加えようとした。これ以上、妻も娘も危険に晒してなるものか!!」
激高すると共に、シャロンは銃の引き金に掛けた指を引く――
「バン!!!!」
弾が飛び出すか飛び出さないか、ギリギリのところでシャロンは引き金を引くのを止め、代わりに大声で叫んだ。
死への恐怖心が極限まで達していたパイパーは、シャロンの叫びと共に泡を噴いて失神し、どさりと地面に転がった。
「……馬鹿な男だ。本当に撃つ筈など毛頭ないと言うのに……。それに……、相手がどんな輩であれ、人を殺めるのはもう懲り懲りなんだよ……」
誰にも聞き取れないような小声でぽつりと呟くと、シャロンはネクタイを首から取り外した。パイパーが気絶している間に両腕を背中側に回し、後ろ手で拘束するためである。
シャロンがパイパーの両手首を縛り上げていると、「マクレガーさん!!一体、どうしたんだ!?」と、ようやく騒ぎに気付いた近所の人々がわらわらと彼らの傍に集まってきた。
「この男が、エリザベスを誘拐しようとしたので返り討ちにしたまでです」
「何だって!?何て不逞な野郎だ!!あんな可愛らしい娘を!!」
「エリザベスは無事なのか?!」
「えぇ。今、家の中で妻が必死に慰めてくれていますので、ご安心を」
エリザベスの無事を知り、その場にいる者全員が一様にして胸を撫で下ろす。
「皆さん、ご心配して下さり、本当にありがとうございます。とりあえず、一刻も早くこの男の身柄を警察に渡したいので、どなたか巡回している警官を呼んできてもらえないでしょうか??」
シャロンの言葉を受けて、一人の若者が警官を探しに慌てて走って行った。
情状酌量の余地が一切見当たらないパイパーは、おそらく二度と生きて太陽の下を歩くことは叶わなくなるだろう。
「……貴様は本当に、どうしようもなく愚かで、救いようのない馬鹿だな……」
白目を剥き、だらしなく唇の端から涎を垂らして地面に横たわるパイパーを、どこまでも冷ややかな目つきでシャロンは見下ろしていたのだった。




