フローズン番外 「復讐」 (前編)
昼日中の歓楽街にて――
この街の建造物の例に漏れず、二階建ての白い石造りで作られた建屋の前で、一人の男が佇んでいた。扉付近に置かれている、『薬屋マクレガー』と書かれた立て看板を、憎々し気に睨みつけながら。
男は、この店の店主と妻をひどく恨んでいた。
あの日、彼らが自宅に来さえしなければ、順風満帆に進んでいた我が人生が狂う事はなく、今まで積み上げてきた全てを失う事がなかったというのに。
大層下らない理由で罪を着せられ、ブラック・マリアと呼ばれる護送車で監獄まで運ばれたあげく、三年もの間、劣悪過ぎる環境下で服役させられた。
冷たく固いベッド、吐き気をもよおしたくなる程の不味い食事、絶えず冷たい隙間風の吹く監房は特に真冬が厳しく、囚人同士の私語は厳禁。日に日に心身の健康が削り取られていく中での重労働。あれでよく身体を壊さなかったものだ、と、自身をいっそ褒め称えてやりたいくらいである。何しろ、小太り気味だった体躯はげっそりと痩せ細り、豊かだった筈のブルネットの髪は白く、頭頂部はすっかり剥げている。いかに服役中の生活が過酷なものだったという証拠に他ならない。
服役中の重労働で体得した職業技術など、出所後は何の役にすら立たない。だから、出所しても大部分の者は路頭に迷う。けれど幸運なことに、一部の親族は彼を憐れみ、元通りの生活には程遠くとも、どうにか食べていけるだけの仕事と住む場所を提供してくれたお蔭で、最低限の暮らしは送れている。
それでも、代々銀行の頭取を務めていた、ゆくゆくは自分もそうなる筈だった、そのために努力や苦労を重ね、下げたくもない頭をひたすら顧客や上司に下げ続けていたのが、全て水の泡と化したのは変わることのない真実だった。
彼が復讐すべき相手は夫婦の他に二人――、彼の元妻と一人娘――、もいたのだが、彼が出所した時、すでに彼女達は海を隔てた隣国へと移住してしまっていた。
裕福な中流階級から一転、その日暮らしの下層民に成り下がった彼に、莫大な渡航費を工面するなど一生掛かっても厳しいだろう。
だから、「いくらこの国と比べ、隣国が自由な国柄とは言え、臆病で世間知らずな母娘がまともに暮らしていける筈などあるものか。いずれは困窮し、母娘共々惨めに野垂れ死ぬに決まっている」と、そう願う事で妻子への復讐心を宥めたものだ。
その代わりに、彼はあの夫婦への憎悪を増幅させ続けていた。
――あの者達にも私と同じ、否、あの者達が最も傷つき、苦しむ方法で復讐を!!……――
しかし、出所後しばらくの間、彼は自分の生活基盤を築き上げることに専念した。
模範囚だが再犯の可能性もなきにしもあらず、と警察から監視されていることに気付いていたため、何年か後に監視の目が薄れた頃が狙い目だと思ったのと、夫婦を絶望の底に突き落とす材料が中々揃わなかったからだ。
そして、更に二年程待ち続けた後、ようやく復讐の材料が揃った。
結婚して長らくの間、夫婦は子宝に恵まれなかったのだが、遂に待望の我が子が誕生したという。
ようやく生まれた一粒種の愛娘を、夫婦、特に夫の方は、自他共に親馬鹿と認める程に溺愛しているらしい。
――目に入れても痛くない勢いで可愛がっている娘を突如奪われたら、あの者達はどのように苦しむのか……、大層見物だな……――
ところが、まだ幼いせいか、夫婦は娘を一人で外へ出すことは絶対に避けているようだった。娘が外へ出る時は必ずと言っていい程、妻か夫、もしくは夫婦共に付き添っていたので、復讐の機会は中々巡っては来なかった。
だから時々、こうして夫婦の店の前で、虚しく睨みを利かせているより他がないのであった。
ふと、誰かからの刺さるような強い視線を感じた。
しかも、自分の目線より遥か下の方、足元から見上げられている様な――
「おじさま、お店にご用??」
幼児特有の高い声質と拙い口調。
視線と声の方向に目線を下げると、淡い桃色のハイウエストのドレスーー、ケイト・グリーナウェイドレスと呼ばれる子供向けのドレスを着た四歳くらいの幼女が、彼をじっと見上げていた。
思わず、彼は目を疑った。
アッシュブロンドのおかっぱ頭、幼いながらに理知的に整った美しい顏立ち、父親譲りのダークブラウンの瞳。
間違いない。
幼女は、彼の復讐に置いての最も重要な材料である、夫婦の一人娘であった。
その瞬間、彼は心から神に感謝の念を送った。
――神よ。私に、絶好の復讐の機会を与えて下さり、ありがとうございますーー
男の濁りきった昏い瞳に狂気が宿る。
そうとは知らず、幼女はにっこりと無邪気に笑い掛けてきた。
どうやら、人見知りを全くしない質らしい。
「おじさま、お店にご用なんでしょ??どうぞ!入ってくーださい!!」
にこにこと微笑みを絶やさない幼女は、母親譲りの美しさも手伝い、まるで天使のようである。そう、この世の穢れなど何も知らない、天真爛漫で純粋無垢な天使。
この天使を残酷にいたぶり、打ち捨てたとしたらーー、もしくは、この世から本物の天国へと送り付けたのなら――
考えるだけで、自然と男は凶悪極まりない、不気味な笑いが込み上げてくる。
幸い、昼間の歓楽街は人通りが少ない。
今も、この店の周辺には人一人、歩いている様子が見受けられない。
(このまま、この娘を連れ去って人買いに売りつけるか、ヨーク河の下流に突き落とすか??もしくは、走行する馬車の前で突き転ばせるか??)
どうすれば、あの夫婦をより一層苦しませられるか、思案を巡らせている男の様子を、幼女は店に入るのを躊躇っていると勘違いしたようだ。
「おじさま、ひとりでお店にいくの、怖いの??じゃあ、リジーがついてってあげる!!」
幼女は男の右手をぎゅっと掴むと、店の方へと引っ張っていこうとする。
「大丈夫だよ、お嬢さん」
男は、幼女に向かって、にやりと唇の端を捻じ曲げて笑う。
「店には入らない。代わりにお前を連れて行くだけだ」
男は幼女の手を振りほどくと、脇の下をそれぞれの手できつく掴んだ。
ここでようやく、身の危険を感じた幼女の顔付きが恐怖で引き攣り始める。
それに構わず、男はその小さな身体を軽々と抱き上げたのだった。
夜に後編を投稿します。




