フローズン(17)
(1)
辻馬車の座席に浅く腰掛け、シャロンは小窓からしきりに外の様子を窺っていた。
スーツの胸ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認した後、すぐに時計を仕舞う。しかし、いくらと経たない内にまた時計を出しては時間を確認、胸ポケットに仕舞うという動作を、何度なく繰り返し行っていた。
(随分と遅いな、グレッチェン……)
この施設に男性が訪れることは基本的に禁止されている為、やむなくグレッチェン一人だけで施設に行かせたものの、心配ばかりが募っていく。
やはり、規則を押し切ってでも彼女と共に中へ入れば良かった、などと紳士らしからぬ考えを巡らせていると、御者が誰かと話している声が聞こえてきた。
もしかしたら、と、扉に視線を移すと同時に御者の手で扉が開かれ、シャロンの待ち人――、グレッチェンが馬車に乗り込んできたのだった。
シャロンはグレッチェンの手を取り、車内に引き上げるのを手伝う。
車内に乗り込んだグレッチェンは、シャロンのすぐ隣に腰を下ろした。
「シャロンさん、お待たせして申し訳ありませんでした」
「いや、気にしないでおくれ。それより、首尾よく事は運べたかね??」
「…………」
シャロンの問い掛けに、グレッチェンは表情を曇らせた。
「……上手く行かなかったのか??」
「……それが、私にはよく分からないのです……」
「??」
裏庭での、グレッチェンとプリシラが交わした会話の内容を、一通りシャロンに説明する。
話を聞き終えたシャロンは、ふむ、と呟くと、グレッチェンにこう告げたのだった。
「よく君は九年も前の言葉を覚えていられるなぁ。大したものだよ」
「…………」
全く思いも掛けなかった言葉に、グレッチェンはつい目が点になってしまった。
「確かに、私の元へ引き取った当初の君は、私以外の人間、私の母やエドナ達に脅えていつも避けてばかりいたが、共に暮らす以上、それでは母達の心象を悪くし兼ねないと思ったのでそう諭したのだよ。でも、その言葉がきっかけで、君は何とか周囲と打ち解ける努力を始めた。それと同じく、君からその言葉を聞いたプリシラ嬢も、時間を掛けて少しずつ、周囲に心を開いていくだろう……、と、まずは様子見しつつ、彼女を信じてみないかね??」
「…………」
「……こればかりは我々がどれだけ心を尽くしても、彼女自身がこの状況を受け入れなければ、どうにもならないことだ……」
「……はい、分かっています……」
頭では理解しているがーー、つい反論を述べそうになるのを辛うじて喉の奥に押し込む。
「だが、全く希望が見えてこない訳でもない気がするけれど」
「……えっ??」
グレッチェンは驚き、シャロンの横顔をじぃっと凝視する。その視線に合わせて、シャロンはグレッチェンに向き直った。
「君の話では、今まで笑顔を全く見せることのなかったプリシラ嬢が、僅かにだが初めて笑ってくれた、というではないか。些細な出来事かもしれないが、それは大きな一歩でもあると私は思うのだよ」
グレッチェンの視線を避けることなく真っ直ぐに受け止めながら、シャロンがはっきりと言い切ってみせる。
「……そう、ですね……。私も……、お嬢様が小さくても大きな一歩を踏み出したのだと……、そう信じたいです……」
何層もの分厚い氷の壁で塞がれた心を溶かしきるのに、一体どれ程多くの時間を労し、愛情が要されるのか、皆目見当もつかない。
それでもプリシラの、傷付き凍り付いてしまった心が、春先の雪解けのように徐々に溶けていければいい。
家路へと動き出した馬車に揺られながら、グレッチェンはそう強く願わずにはいられなかった。
「グレッチェン、どうしても気になるようだったら、また彼女に会いに行ってあげなさい」
シャロンの意外な言葉に、自然と俯きがちになっていたグレッチェンはさっと顔を上げる。
「……いいんですか??」
「駄目だと言った場合、君がまた何をしでかしてくれるか、考えただけで恐ろしいからね……」
「……すみません……」
痛い所を突かれた上に反論の余地もないため、素直に謝ってみせる。
「うむ。いつもそのように素直だといいのだがねぇ……」
冗談半分のからかいに対しグレッチェンは怒ることなく、ただただ申し訳なさそうに首を竦めるばかり。
珍しく殊勝な態度を取る妻が余りに可愛くて、シャロンはつい噴き出しそうになるのをどうにか堪えていたのだったーー。
(2)
――それから、長い年月が流れたーー
「郵便屋さん、お手紙くーださい!!」
裏口の郵便受けに手紙を入れようとしていた配達夫に向かって、その家の娘であろう幼い少女が両手を差し出す。
艶のあるアッシュブロンドの髪に、幼いながら理知的に整った顔立ちのみならず、ニコニコとあどけない笑顔を耐えず浮かべる様は、何とも愛らしい。
少女の満面の笑みに釣られ、配達夫も思わず表情を緩める。
「はいよ、お嬢ちゃん。確かに手紙を預けたから、ちゃんと家の人に渡すんだぞ??」
「はーい!!ありがとうございまーす!!」
片方の手で受け取った手紙をしっかり握りしめ、もう片方の手を頭上に掲げ、少女は去っていく配達夫に大きく手を振った。
「エリザベス??勝手に家から出て行っては駄目だと、いつも言っているでしょ??」
少女――、エリザベスと同じ髪色とよく似た顔立ちの小柄な女性ーー、母親のグレッチェンがいつの間にか外へ出てきて、娘のすぐ傍に佇んでいた。
「違うよ、お手紙をもらいにいっただけだよ……」
母に叱られたことが心外だったのか、エリザベスはおもむろに唇を尖らせた。
「そうだったの……。ありがとう、エリザベス。でも、このお手紙は父様のお仕事に関わる大事なものなの。だから母様に渡して頂戴」
「嫌っ!!リジーが父さまに渡しに行くの!!」
「折り曲げたり、汚したりしてはいけないものだから駄目よ。ほら、早く母様に渡して」
「やだやだやだ!!絶対汚したりしないから!!リジーに渡しに行かせて!!」
普段のエリザベスは素直で聞き分けの良い子供なのだが、時折、どうしても譲れないことがあると頑なな態度で両親を困らせることがしばしばだった。
(……この意固地さは、一体誰に似たのかしら……)
グレッチェンは、ふぅ、と軽く溜め息をつく。
「……分かったわ。絶対に、汚したり折り曲げたりしないわね??」
「うん!!……じゃなくて、はいっ!!」
「……じゃあ、父様のところへお手紙を届けること、お願いするわね」
すると、エリザベスはパァァッと顔を輝かせ、先程の笑顔を瞬く間に取り戻した。
「えへへー、母さま、ありがとう!!大好き!!」
甘えるようにして、足元に身を摺り寄せるエリザベスの姿に、グレッチェンも厳しい顔付きから一転、穏やかな笑みを浮かべて、娘に微笑みかける。
「エリザベス、もう一つの手紙は母様宛なの。それだけは母様に頂戴??」
「はい!!」
エリザベスは萌黄色の封筒をグレッチェンに手渡すと、「絶対に汚したり折り曲げたりしない。汚したり折り曲げたりしない……」と呟きながら、シャロンに手紙を渡すべく家の中へと戻って行った。
一人になったグレッチェンは封筒の宛名を確認すると、再び静かに微笑む。
外国切手が貼りつけられた、その手紙の差出人の名はーー、プリシラ・×××と記されていたのだった。
(終)




