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フローズン(16)

(1)


 ――それから、数日が経過したある日――


 冬の寒さもいよいよ本格化しつつある中、コートもマフラーも身に着けないままでプリシラは施設の建屋から飛び出し、裏庭に向かって一目散に駆け出していく。

 施設内を走っている間は、悲鳴に近いロザリーの声と共にプリシラの後を追う騒々しい足音が耳に届いていたが、外へ出て行った途端に母の声も足音もぱたりと止んでしまった。    

 後を追うのを諦めたか、はたまた娘の姿を見失ったのか。

 とにかくも、やっと一人きりになったプリシラは冷たい木枯らしに身を震わせながら、息せき切って裏庭へと足を急がせたのだった。


(……お母様、やっぱり私を追い掛けてはくれないのね……)

 自分から逃げ出した癖に、母が自分を探し出そうとしてくれないことについ寂しさを感じる。

(……仕方ない、よね……。今、お母様は外国の言葉をお勉強する時間だし……)


 本当ならば、プリシラもロザリーと一緒に勉強をしなければいけないのに。


 幼心にもいけないことだと承知はしているが、それでもプリシラは母以外の大人と一定以上の時間を過ごすのが苦痛で堪らなかったーー。


 父のジョセフが逮捕され、行き場を失くした母娘共々、この施設に保護してくれたレティシアが、「ジョセフ・パイパーの性格上、刑期が空けた後で貴女達の元へ、報復しに来る可能性が充分に有り得る。よって、彼が服役している間にこの街を出て、ここから遠くの街へ移り住んでもらうわ。もしくは……、いっそのこと、この国を出て海を隔てた隣国に移り住むとか……。まぁ、どちらにせよ、身の安全を考えるならばこの街を出た方が賢明よ。私の方から仕事と住む場所の斡旋等、最大限支援はするから。どちらを選ぶのか、しっかりとよく考えて頂戴」と、ロザリーに提案を持ち掛けたのだ。


 悩んだ末にロザリーが出した答えは、「……今後も元夫の影に脅える生活を送り続けるなんて、到底耐えられませんわ。それならば、言葉も習慣も違う、知り合いも誰一人として存在しない外国で、一から新しい生活、新しい人生を娘と共に送りたいと思います」だった。

「マダムは結婚前、家庭教師(ガヴァネス)の職に就いていた、と聞いたわ。隣国では女性への高等教育の場を拡げているから、教職に就いてくれる人材をいつでも必要としている。私の知人にも教育関係の仕事に従事する者が何人かいるので、彼らの伝手を頼ることも可能よ。だから、生活の糧に関しては心配しないで。それよりも、この施設で暮らす間に隣国の言葉を、会話も読み書きも完璧に覚えること。まずはそこからね。一流の語学教師を雇うし、必要とあらば私も教えるので、母子共にしっかり勉強するのよ」


 レティシアは言葉通り、プリシラ達のために語学教師を施設に呼びよせ、ロザリーは一日でも早く隣国の言葉を習得しようと、必死で勉強に励んでいる。

 

 自分も母と同じく、頑張って言葉を覚えなければーー、と頭では理解している。

 逃げ出した後で、やっぱり自分は駄目な子供だ、と、必ず自己嫌悪に陥り、明日こそ母と一緒に勉強するんだ、と心の中で誓い、ロザリーにも誓ってみせる。


 それでも次の日が訪れ、勉強の時間が近づくと、やっぱり無理だと怖気づいてしまう。


 塞いでいく一方の心に追い打ちを掛けるかのように、北風がプリシラの小さな身体目掛けて強く吹き付けてくる。

 ぶるり、と身を竦ませ、風を少しでも避けるべく裏庭の端――、ウィンタージャスミンの木の下にしゃがみ込む。開花期が二月から四月にかけての木なので、十一月の後半の現在では花どころか蕾すら形を成していない。


 カサカサ、カサ、カサリ。


 踏み鳴らされた落ち葉の音が背後から聞こえ、肩をびくりと震わせて振り返る。


「……あ……」

 ロザリーか施設の職員かだと思っていたプリシラは、思わず間の抜けた呟き声を漏らした。


「こんにちは、プリシラお嬢様」

 高めだが落ち着いた声、愁いを帯びた淡いグレーの瞳、理知的に整った顏立ち、アッシュブロンドのおかっぱ頭をした小柄な若い女性――、それはプリシラが母以外で唯一恐怖を感じない大人――、グレッチェンだった。



(2)

 吃驚して青い瞳をパチパチと細かく瞬きさせ、言葉を失うプリシラに、グレッチェンは気まずそうにして硬い表情を崩した。

「驚かせてしまい、申し訳ありません。体調も戻ってきましたし、今日は安息日で仕事もお休みでしたから、お嬢様達にお会いしたくてこの施設に訪れたのですが……。そしたら、貴女のお母様に、寒さで震えているだろうからこのケープを渡してきて欲しいと、お願いされまして……」

 グレッチェンは、木の根元でしゃがんだままのプリシラの肩に、襟元にマフが取り付けられた赤いケープをそっと掛けてあげる。


「……お嬢様の隣に、座っても宜しいですか??」

 プリシラが返事の代わりにコクンと頷いてみせると、グレッチェンも木の根元に腰を下ろした。


 グレッチェンはプリシラを叱る訳でも施設内に連れ戻す訳でもなく、ただ黙ってプリシラに寄り添っているだけだった。


 グレッチェンの真意が全く掴めず、プリシラは困惑するのみだったが、彼女が傍に居続けてくれることが決して苦ではなかった。

 会うのは今日で三回目、しかも言葉を多く交わした訳でもないのに、不思議なものだとプリシラは思ったーー

 

 くしゅん!くしゅっ!!


 グレッチェンが何度か、くしゃみを繰り返す。

 そう言えば、グレッチェンが体調を崩していると、ロザリーからちらりと聞かされたような……。

 さりげなく横目で見たグレッチェンの横顔は頬が少し扱けていて、体躯が一回り小さく痩せてしまった気がする。


「……お姉様、あの人やお母様や私のこと……、怒ってる??……」

 プリシラは、恐る恐るグレッチェンに問い掛けてみる。

「……あの人には怒っていますが……、マダム・ロザリーとお嬢様には怒っていませんよ」

 静かな声で、それでいてやけにはっきりとした口調でグレッチェンは答える。

「……そっか……。……じゃあ、……私のこと、嫌い??」

「とんでもない!私はプリシラお嬢様のことが好きですよ」

「……私も、お姉様のこと、好き。ちっちゃくて可愛くて……。なのに、優しくて強いから」

 自分よりもうんと小さな子供に『小さくて可愛い』と言われ、グレッチェンは思わず苦笑を漏らす。

「……でも、お母様とお姉様は好きだけど……、他の大人は、怖いから苦手……」

 それっきり、プリシラは口を閉ざしてしまった。


 プリシラの大人に対する不信感や恐怖の根は相当に深い。


 そう悟ったグレッチェンの胸の奥に、ぎゅぅっと絞り上げられるような強い痛みがもたらされる。


 シャロンに出会うまでの自分が、まさにプリシラと同じだったから。


「プリシラお嬢様」

 グレッチェンに名を呼ばれ、プリシラは彼女の方を振り向く。

「……私も、かつては人が恐ろしくて堪りませんでした。人に脅える余り、いっそのこと、この世から消えてしまいたいと数えきれない程願っていました。正直、今も人への恐怖心は消えていません……。ですがそれ以上に……、……人というものを好きになりたい、と思っているんです。……何故なのか、分かりますか??」

 グレッチェンの問いに、プリシラは大きく首を横に振る。

「私が……、生まれて初めて信頼を寄せた方の言葉です。『君は私のことを、心の底から信頼してくれている。ならば、私の周りにいる者達のことも同様に信じて欲しい。少なくとも、その者達は君を害する真似など絶対にしない。それは私が、彼らが君を傷つけたりしない人達だと信じているし、彼らも私の信頼を裏切りたくないと考えているから。そんな彼らを信じるということは、結果的に私を信じることにも繋がってくるんだよ』と……」

 プリシラは難しい顔で首を傾げながらも、グレッチェンの話の内容を一生懸命理解しようとしている。

「……つまりですね……。マダム・ロザリーと私を信用して頂けるように、貴女には周りで関わる人々のことを信じて欲しいのです」

「…………」

「……今すぐとまでは言いませんし、ゆっくりでもいいんです。世の中には恐ろしい人も沢山いるけれど、貴女の身を真剣に案じ、苦しみや悲しみは勿論、喜びも一緒に分かち合ってくれる人が必ず現れてくれる、と。ですから……」


 拙いなりにもプリシラを諭している途中で、またもやグレッチェンはくしゃみを何回か繰り返してしまった。


 その姿を目にしたプリシラは目を丸くし、クスッと笑った。

 プリシラが初めて見せた笑顔に、グレッチェンは目を瞠る。


「……お姉様、寒いの??」

「……えぇ、とても寒いです……」

「……またお風邪を召したら大変よ??……私も施設に戻るから、一緒に帰りましょ??」


 プリシラはスッと立ち上がると、座っているグレッチェンに小さな手を差し伸べる。


「……ありがとうございます……」

 差し出された手を掴み取ったグレッチェンは、少しだけ微笑んでみせたのだった。


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