フローズン(14)
(1)
今にも唇が触れてしまいそうな程間近に迫っていた、シャロンの顔を両手でぐいっと押しのける。
「旦那様、若奥様。今日も警察の方がお越しになられたのですが……、お会いになられますか??」
扉を叩いた人物――、マクレガー家の女中頭エドナが、扉越しに用件を伝えてきた。
「グレッチェン」
「大丈夫ですよ。一昨日と比べたら、体調もだいぶ良くなっていますし……」
「……そうか。だが、くれぐれも無理はしないでおくれよ??いいね??」
返事をする代わりに、グレッチェンは小さく頷いてみせる。
「エドナ、客人をこの部屋へお通ししなさい」
「かしこまりました。では、失礼致します」
白髪頭をシニヨンに結った女中エドナが、部屋の扉をゆっくりと開ける。
エドナのすぐ後ろには彼女よりも頭一つ分以上背が高く、赤毛のおかっぱ頭で黒縁眼鏡を掛けた女性、レティシアが立っていた。
「ご機嫌よう、マクレガーさん、ミズ・グレッチェン。応接室で待つのも時間が惜しかったから、この女中さんにお願いして直接部屋の前まで連れて来てもらったわ」
と言う事は、先程の攻防戦をこの二人に聞かれていたかもしれない。
現に、エドナは何事もなかったかのような態度で静かに部屋から去っていったが、レティシアは、グレッチェンには気付かれぬようシャロンに向けて、軽蔑をたっぷりと込めた冷たい視線をそれとなく送り付けてきたのだった。
「ミズ・グレッチェン。あれから体調の方はどう??」
「はい。まだ本調子ではありませんが……、だいぶ元に戻ってきました。お気遣いありがとうございます」
「それなら良かった。一昨日の貴女の尋常でない様子から、ちょっと心配していたの」
二日前にもレティシアは、事情聴取を行うためにグレッチェンの元へ訪れていたのだ。
しかし、グレッチェンはパイパー氏から受けた暴行未遂の詳細を気丈にも全て語ったものの、その時の恐怖や嫌悪感等が一気に蘇り、聴取直後にすっかり取り乱してしまった。
グレッチェンのたっての希望でシャロンも傍に控えていたのだが、詳細を改めて知り、再びパイパー氏への激しい憤怒と憎しみに駆られつつも、取り乱す彼女を懸命に宥め続けていた。
レティシアが帰った後も、グレッチェンの恐慌状態は一向に収まらなかった。
シャロンはグレッチェンの痩せ細った身体を自身の膝の上に乗せ、黙って抱きしめ続けた。ぐずる幼子をあやすようにして、髪や背中を優しく撫で続けながら。
何時間もの間そうしている内、徐々にグレッチェンは落ち着きを取り戻し始める。それと共に安心感を得だしたからか、やがてシャロンの腕の中でうつらうつらと微睡始めた。
窓に目を向けると、すでに外は暗闇に包まれていた。
「グレッチェン、寝る時間にはまだ早すぎるが今日はもう眠った方が良いだろう。ほら、ベッドへ行こうか」
ところが、グレッチェンはしきりに頭を振って拒否の意を示す。
どうしたものかと困惑するシャロンだったが、「……シャロンさん、……今夜一晩だけ……、……私と、……一緒に寝てもらっても、いいでしょうか……」と、切羽詰まった必死の表情でそう懇願してきたのだ。
普段のグレッチェンからは想像もつかない、心身共に弱り切っているからこその甘えを、無下になどどうしてできようものか。
結局、同じベッドの中で一晩中グレッチェンをただ抱きしめながら、シャロンも眠りについたのだったーー。
(2)
シャロンは立ち上がり、自身が使って居た丸椅子に座るようにと、レティシアに差し出す。
ありがとう、と礼を述べてレティシアは椅子に座り、ベッド脇に腰掛けるグレッチェンと向き合う。
「今日はね、事情聴取ではなくお見舞いも兼ねて、貴女達二人に話したいことがあってここへ訪れたのよ」
「話したいこと……、ですか??」
グレッチェンは背筋をしゃんと伸ばし、姿勢を真っ直ぐに正す。
「単刀直入に話すわね。まず、裁判中だったジョセフ・パイパーの処遇だけど……、妻子を含めた複数の女性への暴行・傷害罪、及び殺人未遂罪が確定し、法的な裁きを下された。貴女が女として辛い目に遭ったにも関わらず勇気を出し、全て語ってくれたことも間違いなく一役買ったことになるから、心よりお礼を言わせてもらうわ。本当にありがとう」
「……いえ、礼には及びません……」
「レティス、パイパーに下された判決は??」
シャロンの問い掛けを受けたレティシアの表情が、一瞬だけ不快気に歪む。
だが、それはシャロンに対してではないと、次の言葉で明らかになった。
「……懲役三年の実刑判決よ……」
予想以上に軽い判決にシャロンは絶句し、唇をきつく噛みしめた。
「……たったの三年、ですか……」
「……えぇ、そうよ。たったの三年。でも、これでもまだマシな方よ。通常では懲役一年、下手すれば数か月間の執行猶予を言い渡されるだけですぐに釈放されてしまう事例もあるわ」
「…………」
「おかしいわよね??私だって納得できていないもの。これが下層階級のものであれば、即刻死刑にされ兼ねないのに。それだけ、正式に法で取り決められている訳でもないのに、この国には身分や階級差別がはびこっているのが伺える。そして、それが当然と化している。実に下らないわね」
革命により、身分制度が撤廃された隣国で長年過ごしてきたレティシアには、この国の在り方に憂いと苛立ちを募らせているようだ。
「……って、話が逸れたわ。ジョセフ・パイパーについて、他に聞きたいことは??なければ、もう一つの話をしたいのだけど」
ここで、三人分のお茶を用意したハンナが扉を叩いて、中に入ってきた。
警察関係者の客人にいささか緊張を覚えているのか、微かに手を震わせながらも丁寧にカップにお茶を注ぐハンナに、「ハンナさん、ありがとうございます。お仕事ご苦労様」とグレッチェンが労いの言葉を掛ける。
「い、いえ……!勿体ないお言葉ですっ!!」
ハンナはひどく恐縮し、お茶を注ぎ終わるとそそくさと部屋から出て行った。
「あら、可愛らしいお嬢さんだこと。……で、ジョセフ・パイパーについてか、もう一つの話か、どちらが知りたい??」
「パイパー氏の話は……、もう結構です……」
グレッチェンはちらりとシャロンを窺い、それとなく視線を送った。
(君が聞きたいと思わなければ、私もそれに倣おう)と、シャロンも視線で答える。
「じゃ、今度はもう一つの話。マダム・ロザリーと娘のプリシラ嬢を、私が設立した施設に引き取ったわ」
「そうですか……、良かった……」
ずっと気掛かりだったロザリーとプリシラの無事が知れて、グレッチェンは心底ホッとしたのか、大仰に胸を撫で下ろす。
「マダム・ロザリーから二人への伝言よ。『あのような暴力沙汰に巻き込んでしまい、本当に、本当に申し訳ございませんでした。謝って済む問題ではない、決して許される筈などないと百も承知ですが、それでも心よりの謝辞を述べさせて下さい』ですって」
レティシアはカップを手に取ると、一気に紅茶を飲み干した。
「話は以上よ。そういう訳で、私はもう帰るわね。余り長居して、また体調を崩される訳にはいかないし」
言い終わるやいなや、さっと席から立ち上がったレティシアに、「あ、あの……」とグレッチェンが遠慮がちに尋ねる。
「……私の体調が回復しましたら、お二人にお会いするために施設を訪問してもいいでしょうか??」
「別に構わないけど……。なぜ貴女はあんな酷い目に遭いながら、それでもあの母娘を気に留め続ける訳??」
レティシアに尋ね返されたグレッチェンは言葉を詰まらせ、何と答えるべきか迷い、ひたすら視線を忙しなく彷徨わせていた。顔色もやけに青白く、唇もぴくぴくと痙攣している。
また体調が悪化し出したのか、と思ったレティシアが質問を取り下げようと口を開きかけた時、グレッチェンが唇を震わせてたどたどしく答え始めた。
「……実は……。……私、自身が……、……幼少時より、……実の父から、虐待を……、受けて、育ったので……。……だから、お二人をーー、……特に、プリシラお嬢様がーー、……かつての私、の姿、と、重なって……」
「グレッチェン、これ以上は……」
恐怖と哀しみに押し潰されそうになるのを必死で堪え、途切れ途切れに、辛うじて言葉を紡ぐグレッチェンを見兼ね、すかさずシャロンが遮る。
「そういうことね……。また私は貴女に辛いことを思い出させてしまったようね、悪かったわ」
「…………いえ…………、そのようなことは……」
決してレティシアのせいではない、と、グレッチェンは二、三度頭を振った。
「……もしかしたら、貴女なら、頑ななあの娘の心を開かせられるかもしれない……」
どこか寂しそうにぽつりと呟いたレティシアだったが、すぐに気分を切り替える。
「ミズ・グレッチェン。体調が完治してからが前提ではあるけど、施設を訪れた際に、貴女に是が非でも協力してもらいたいことがあるの」
今度は、レティシアの方からグレッチェンへと、ある頼みごとを持ち掛けたのだった。
「……私が力になれるかどうかは分かりませんが……、精一杯尽力させて頂きます」
「ありがとう、助かるわ。でも、貴女もくれぐれも無理はしないで」
「……はい……」
レティシアは、グレッチェンの痩せた両肩をそれぞれの手で二、三度撫でた後、「じゃ、今度こそお暇させてもらうわ。……あぁ、そうだ、ハロルドから貴方に伝言を忘れるところだった」と、思い出したようにシャロンに向き直る。
「あいつが私に??どうせ説教じみた言葉だろうが、一応教えてもらおうか」
さも面倒臭そうに眉根を寄せるシャロンを無視し、「『こっちでやれるだけのことはやっておいたから、お前は心置きなくグレッチェンの傍にいてやれ。そんでもって、思う存分甘やかしてやるこった』ですって」と、レティシアは告げた。
「レティス、ならば私からの伝言も頼んでいいかね??」
「何なのよもう、私は伝書鳩じゃないのよ??面倒臭いわね。……で、貴方からハロルドには何て伝えればいい訳??」
「『お前に言われなくても、すでにそうしているから心配は結構。後、様々な根回しに関しては恩に着る』と」
「相変わらず素直じゃないわねぇ……。でも、とりあえずは伝えておくわ」
「ありがとう、助かるよ」
「いいえ、どういたしまして。じゃあ、本当にもう行くから。ミズ・グレッチェンもお大事にね」
程なくして、レティシアは二人を振り返ることなく部屋から出て行ったのだった。
(3)
「シャロンさん、ブランシェット警視はハルさんともお知り合いなのですか??」
「あ、あぁ、まぁ、そんなところかな……」
「…………」
グレッチェンは、淡いグレーの瞳に不信感を露わにしてシャロンのダークブラウンの瞳をじっと見据えてくる。
「……シャロンさん、私を信じてくれ、と仰るならば、嘘や誤魔化しは止めて下さい」
「……な、何のことかね??」
「とぼけても無駄ですよ。ハルさんの本名を呼び捨てにするくらい、警視は彼とも親しかったということですよね??」
「…………」
グレッチェンの瞳の奥が鋭く光を放ち、シャロンの眉間を突き刺してくる。
「……もしかして、昔のシャロンさんとハルさんが、白昼堂々歓楽街で大乱闘起こした原因になった女性とは……」
「…………グレッチェン、君は本当に恐ろしい女性だな…………」
「……やっぱりですか……」
わざと大きく嘆息するグレッチェンに、「いや、しかしだな、それはかれこれ十六年も前の話であってだね……。……って、グレッチェン??そんな目で私を見ないでくれ……。私が今愛しているのは君だけなんだ、信じておくれよ……、頼む!この通りだ!!」と、ひたすらシャロンは頭を下げては苦しい釈明を延々と続けたのだった。
本来、警視とは、各管区で治安維持にあたる多くの警官を指揮監督する(by英国執事とメイドの素顔)立場なので、実際はレティスのように警視自らが事情聴取を行うことはまずないでしょう。
ですが、本作ではレティスが「女性が関わる事件担当」ということで、女性の被害者には彼女自らが率先して事情聴取を行っている設定にしました。
パイパー氏も現行犯逮捕の上に、それまでの女性への暴力行為の証拠全てレティスに調べ上げられていたので、裁判がサクサクと進んでいき、あっさり有罪判決が下された次第です。




