フローズン(13)
(1)
しばらくして馬車が到着すると、グレッチェンはパイパー邸と同じウエスト地区内に位置する、シャロンの実家へと早急に送り届けられた。(シャロンは事情聴取を受けなければならないため、彼女と共に帰ることは叶わなかった)
突然、急病を患ったグレッチェンが警察関係者に付き添われ邸宅に送られてきたことに、シャロンの母であり、グレッチェンの義母に当たるマクレガー夫人は大いに戸惑い、説明された事情に衝撃と動揺を隠せずにいたものの、まずはグレッチェンを休ませることが最優先だと、彼女の看病を快く引き受けたのだった。
グレッチェンはその後丸二日間高熱で寝込み、熱が引くと今度は胃腸の調子が悪化し、固形物はおろか水分を口にするだけでも胸やけと共に胃に激痛が走る……という症状に苦しめられていた。
医者から渡された解熱剤の副作用と心労が重なったことが原因だと見抜いたシャロンは、店で取り扱っている漢方の胃腸薬を飲ませ、胃腸に優しい食事をごく少量ずつ摂らせたり、夜中に激しい胃痛で苦しむグレッチェンの傍に付き添ったりと、甲斐甲斐しく彼女の看病に専念し続けた。
そのお蔭で、グレッチェンの体調は少しずつだが回復の兆しを見せつつあったのだったーー。
(2)
――事件から十日後――
マクレガー家の厨房にて、下働きのハンナがアフタヌーンティー用の菓子の仕込みをしている最中、背後でふと人の気配を感じた。 女中頭のエドナかと思って振り向いた視線の先には、この家の女主人の一人息子で十日前から滞在中の――、シャロンが扉の前にて佇んでいた。
「あら旦那様、こんなところにいらっしゃるなんて珍しい。一体何のご用でしょうか??」
「忙しいところにすまない。グレッチェンの食事の用意はどうなっているのかと思ってね。いつもこの位の時間にエドナが食事を運んでくるのだが、今日に限って中々持ってこないので……」
「あ、申し訳ありません……。実は、若奥様のお食事はもう用意はしてあるのですが……」
「おぉ、そうか。それならいいんだ……、って、このトレーでいいのかね??」
シャロンは流し台近くのテーブルに置かれている、薄布を被せたトレーを運ぼうとする。
「だ、旦那様!!そのようなことを旦那様にさせたとあっては、後で奥様やエドナさんに私が叱られてしまいます!!」
ハンナが慌てて止めようとするが、「大丈夫だよ。母は私に代わって薬屋で店番をしているから家にはいないし、エドナもグレッチェンに食事を運ぶ途中で、いつも私がトレーを奪って部屋まで持っていくのを黙認してくれている。だから、君もそういうことにしておけば誰からも叱られることはないよ」と、シャロンは爽やかな笑顔で微笑み掛けると同時に、穏やかながら有無を言わせぬ強い口調で、ハンナの制止を遮る。
まだ十代半ばの若さであり、マクレガー家に奉公し始めて半年足らずのハンナでは、父親と言ってもおかしくはない程年上の男性による強気な態度を前にして、これ以上言葉を続けることなど出来る筈がない。
だから、トレーを手にして厨房から出て行くシャロンの後ろ姿を見送るより仕方がなかった。
(……どうしよう……。エドナさんからは、いつもより三十分程遅れて食事を運んで頂戴、と言われていたのに……)
おろおろと狼狽えつつも、ハンナはとりあえず気まずい思いを誤魔化そうと菓子作りを再開したのだった。
(3)
グレッチェンの部屋の前まで来たシャロンは、ノックと共に「グレッチェン、食事を持ってきたから入るよ」と声を掛ける。
食事の時間が遅れてしまったことでシャロンの気が無意識に焦っていたのだろう。
声を掛けた際、グレッチェンの「……ま、待ってください!……」という、シャロンが中に入るのを止めようとする声を聞いてすらいなかった。
そして、そのまま部屋の中へ入るとーー
まず始めに、サイドテーブルの上に置かれた、湯を張った金盥が目に留まった。
次に、湯で濡らしたタオルを手に、薪ストーブの前で全身を硬直させて立ち尽くすグレッチェンの姿。
そのグレッチェンはと言うと、上半身は何も身に着けておらず、下半身はドロワースを履いているのみ。要は、ほぼ裸同然のあられもない格好をしていたのだ。
「…………」
「…………」
たっぷり十秒は、お互いの姿を凝視したままで硬直していた。否、衝撃が強すぎて、お互いにそうするしか他になかったのだ。
けれど、グレッチェンの肌が羞恥心により徐々に紅潮していく様に、シャロンはハッと我に返る。
「す、すまない!!まさか、身体を拭いている最中とは……」
紳士にあるまじき失態を犯したことを即座に恥じ、慌ててシャロンはトレーを持ったまま部屋の外へと出て行く。
(そうだ、薬を取りに自室へ行こうか……。その間に、グレッチェンも身支度を済ませるだろう……)
グレッチェンのあの様子からして、部屋には入れてくれるに違いないがたっぷり説教もされてしまうだろうな……、と覚悟を決めながら、シャロンは彼女に服用させる漢方薬を用意しに一旦自室へ下がったのだった。
数分後、薬とトレーを持ってグレッチェンの部屋の前に再び訪れる。
「グレッチェン……」
「どうぞ、もう身体も拭き終わって着替えましたから……」
皆まで言葉を言わせなかったものの、声色や口調からして別段怒ってはいなさそうだ。
やれやれ、助かった、と肩で息をついてから、もう一度部屋の中へと足を踏み入れる。
グレッチェンは、淡い若草色の部屋着用ドレスの上にクリーム色のカーディガンを羽織り、ベッドの上に腰掛けていた。一週間近く拒食状態で小鳥の餌程度しか食べられず、まともに食事が摂れるようになったのもここ二、三日の間のことだったので、すっかり頬がこけてしまい、華奢な身体が更に小さくなってしまった姿が何とも痛々しい。
「グレッチェン、さっきはすまなかった」
「いえ……、吃驚しましたし、恥ずかしくはありましたが……、決して怒ってはいませんから大丈夫ですよ」
どうかお気になさらずに、と、グレッチェンは控えめに薄く微笑んでみせる。
「ところで……、話は全く変わりますが今日の食事は何でしょう??体調が戻りつつある今、ちょっとした楽しみと化してきているんです」
「食欲が戻って来たのは良い傾向だと思うよ」
金盥を床に置き、代わりにトレーをサイドテーブルの上に乗せ、食器類に被せてあった薄布を取り外す。
「今日はライスプティングですね」
グレッチェンの頬と口許がごく僅かに緩む。
ライスプティングは、彼女の好物の一つなのである。
狐色に薄く焦げ目がついた、牛乳で作られるぶ厚い上皮と、底に沈むとろとろに蕩けた米とを器用に匙で掬い取り、軽く息を吹きかけて口に運ぶ。
その動作を繰り返すごとに綻んでいくグレッチェンの表情を眺めるのが、シャロンはとても好きだった。
「グレッチェン、今は胃腸に優しい物を少しずつしか食べさせてあげられないが、体調が完全に元に戻り次第、甘い物を好きなだけ食べさせてあげよう」
「……本当ですか??」
「あぁ、本当だよ」
「……では、お言葉に甘えて、ヴィクトリアサンドイッチとキャロットケーキが食べたいです」
「覚えておくよ」
「アップルパイもお願いします」
「あぁ、分かったよ」
「それと、アップルシャルロットも食べたいです。……あぁ、あとはゴールデンシロップ添えしたフラップジャックもいいですね……。それから……」
「…………」
一体、どれだけの菓子を食べる気でいるのだろうか。
それだけ心身が順調に回復している証拠だと思えばいいのだが、甘い物が苦手なシャロンは、グレッチェンが食べたいと言う全ての菓子がテーブルの上にずらりと並ぶ様を想像しただけで胸やけが起こり、気分が重たくなった。
「でも、お菓子もいいのですが……」
言い掛けて、口を噤むグレッチェン。
「何だね??言い掛けたなら、最後までちゃんと話したまえ」
「…………」
グレッチェンは恥ずかしそうに目を伏せるのみで中々口を開こうとしなかったが、やがて観念したのかシャロンの耳元で要望を告げる。要望を聞いたシャロンは、ははぁ、と軽く笑ってみせた。
そう言えば、ロザリーが毒を求めに店に訪れて以来、一度もしていなかった気がする。
それまでが半ば鬱陶しがられる程に隙あらば仕掛けていたのだから、反動でひどく寂しい思いを感じていたに違いない
「別に、今でも構わないが??」
「体調が悪いせいで唇が荒れてしまっていますから……、今は嫌です」
「そんなこと気にならないさ」
「シャロンさんは良くても私が嫌なんです」
グレッチェンは鋭く睨んではシャロンを牽制するが、お構いなしにシャロンは顔を近づける。
「駄目です。私の体調が完全に戻ってからにしてください」
「別に病気が移るとかではないから構わない」
「そういう問題ではありません」
攻防戦を続ける二人だったが、盛大なノックの音と共に戦いの幕は強制的に降ろされてしまったのだった。




