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フローズン(8)

 プリシラとグレッチェンが部屋から出て行ったのと入れ違いに、黒い山高帽を被り、フロックコートを着た男――、ジョセフ・パイパーが応接間に入って来た。


「……お帰りなさいませ……」

 ジョセフはロザリーを一瞥した後、彼女に背を預ける。慣れた手つきで、ロザリーは彼のフロックコートを脱がせるのを手伝った。

 スラリとした長身のロザリーと、小柄な背丈に加えて中年体型に近づきつつあるジョセフとでは、傍から見ると容姿の釣り合いがまるで取れておらず、どう贔屓目に見てもジョセフの方が不格好であった。もしかしたら、容姿の美醜の差によって生じる劣等感等も、彼女に暴力を振るう一因なのかもしれない。

「……今日は、お帰りが早いのですね……」

「夕方から降り出した雨の勢いが収まるどころか、時間が立つにつれ余計に雨足が強くなってきているだろう??風も強く、まるで嵐が到来したような天気の中、通常の帰宅時間に従業員達を帰らせるのは危険だ、という上の判断で、早々に帰宅させられたのだ」

「……そう、でしたか……」

「何だ、私が早く帰ってきたことが不服なのか??」

「……い、いえ!……とんでもございません!……」

 ロザリーは即座に否定の意を示した。

 ジョセフからさりげなく離れるため、部屋に置かれたコート掛けの傍まで行こうとしたロザリーの背中に、鋭い声が突き刺さる。


「……誰か、ここに来ていたのか??」

「……いいえ、誰も来ていませんわ……」

 ロザリーはゆっくりと振り返ると、わざと不思議そうな顔つきを作ってみせる。


 茶器やティーポットは片付け、台所の流しまで運んだ。

 暖炉の傍で乾かしていた客人の衣類も彼女に渡した。

 あの若い婦人がこの部屋にいた痕跡は全て消し去った。


 夫に彼女の存在が見つかる筈などない。

 いや、絶対に見つけさせたりはしない。


 心臓を鎖で締め上げられているような痛みを胸に感じつつ、ハンガーを手に取り、フロックコートをコート掛けに掛ける。

 ジョセフは博古架の下の段に置かれていた、瓢箪型の徳利を手に取り、直に口をつけて酒を煽る。そして、平静を必死に取り繕うロザリーの動きに怪しい所がないか、執拗に目を光らせ、一挙手一投足を逐一観察していた。ロザリーの緊張感は益々高まるばかりだ。

 しかし、彼の中ですぐに疑いが晴れたのか、ジョセフは徳利を持ったまま、どかりと音を立てて椅子に座りこむ。

 表情には出さないものの、夫の強すぎる猜疑心がどうにか落ち着いてくれたことに、ロザリーは心の底より安堵したのだった。

「……今すぐ、お酒に合う軽食をお持ち致しますわ……」

 そう言って、ロザリーが台所へ足を向けようとした時であった。


「ロザリー」


 異様なまでに優しげな猫撫で声で、ジョセフが彼女の名を呼ぶ。


「ロザリー」


 もう一度、ジョセフは彼女の名を呼ぶ。

 

「……はい……」


 ロザリーは振り返ることもままならず、その場に立ち竦む。 

 椅子から立ち上がったジョセフは、一歩、また一歩と彼女の元へとゆっくり近づいていく。


「ロザリー」

 

 遂に、ロザリーのすぐ傍まで近づいたジョセフは、背後からそっと彼女を抱きしめ、金色の巻毛を指に巻きつけて弄ぶ。

 一見すると夫婦間の甘いやり取りにしか見えないが、ロザリーの恐怖に引き攣った表情と、彼女の首筋に唇を寄せるジョセフの鋭い目付きは、お互いへの愛情など全く存在していない事を証明していた。

 ジョセフは首筋に寄せていた唇を、今度は耳元に近づける。


「ロザリー……」


 ジョセフは目を伏せ、恍惚とした表情で天を仰いだ後、指先で弄っていたロザリーの髪を思い切り掴んで引っ張り上げたのだった。


「……!!……」


 恐怖の他に痛みも加わり、美しい顔を更に歪めるロザリーの髪を掴んだまま、ジョセフは床へと突き転ばせる。

 悲鳴を上げながら転倒したロザリーを、助け起こすどころか足蹴にしながら、「この嘘つき女が!」などと、大声で彼女を罵倒し始めた。


「お前!私を上手く出し抜けるとでも思っているのか!!ふざけるな!!女の癖に私を馬鹿にするな!!」

「……馬鹿になど、しておりません、わ……」

「うるさい!!口答えするなぁ!!」


 どうにか半身を起こしたロザリーの頬に、ジョセフは容赦なく平手打ちを食らわせる。


「お前は上手く隠した果せたつもりだろうがな!暖炉の傍に落ちていた、あの靴下は何なんだ!!」

「……靴下……」

「とぼけるな!お前!私が、下げたくもない頭を顧客の豚共に下げ、必死で働いている間に、年若い男でも連れ込んだのだろう!?あの靴下は、大きさこそ小さいが、どう見ても男物だ!!」

「……あれは、間違えて、プリシラに買っ……」


 ロザリーはどうにか白を切ろうと咄嗟に嘘をつくも、再びジョセフの平手が頬を打ち払う。


 確かに気が動転していたので、慌てた状態で衣類をグレッチェンに渡していたのは事実である。

 だが、すぐに衣類の一部が落ちていないか、確認した、つもりになっていた。


 それなのに、まさか、靴下を見落としていたなんて……。


 自らが犯した失態に愕然としている間にも、ジョセフはロザリーの腕を引っ張り上げ強引に立たせるが、そのまま椅子と座卓のある場所へと彼女を投げ出した。 

 派手な音を立てると共に椅子は倒れ、ロザリーが身体をぶつけたことで座卓も元に置かれた位置から大きくずれる。

「……う……」

 座卓の角で額を切ったらしく、ロザリーの額には薄っすらと血が滲んでいた。

 ジョセフは、心身共に傷付いた妻の姿に罪悪感を覚えるどころか、喜色満面といった体で気分を高揚させている。ヘラヘラとした笑みさえ浮かべる夫が、倒れ込んでいるロザリーの細腕を掴み取ったーー。




「ミスター、マダム・ロザリーから手を放してください」




 決して大きくはないのによく通るその声は、ジョセフの荒々しい息遣いと、ロザリーの盛大な悲鳴を一瞬にして止めることに成功した。


 ジョセフとロザリー共に、今し方聞こえてきた声の方向を恐る恐る確認してみるとーー


 いつの間に階下に降りて応接間に入ってきたのか、ロザリーとジョセフのすぐ真後ろにて、グレッチェンが一人静かに佇んでいた、いやーー、静かにしているように見せ掛けつつーー、彼女の薄い唇はきつく真一文字に引き結ばれ、淡いグレーの瞳には仄暗い憎悪の炎が燃え盛っていた。


「……お前、一体何者だ。何故、私の家にいる??」

 掴んでいたロザリーの腕を乱暴に放り出すと、できるだけ落ち着き払った態度を持ってして、ジョセフはグレッチェンに尋ねた。

「……私は、グレッチェン・マクレガーと申します。大雨の中、傘を忘れて困っていた私を、マダム・ロザリーとプリシラお嬢様が親切にもこの邸宅に連れて来て下さり、色々とお世話して下さったのです」

 どこか厭らしさを含んだジョセフの不躾極まりない目線にも臆せず、グレッチェンは淡々と答える。


「……マクレガー……、だと……」


 ジョセフの眉間の皺が一層深まり、目付きも険しさを増す。


「……ひょっとして、シャロン・マクレガーの血縁者か??」

「はい、如何にも。私は、シャロン・マクレガーの妻です」


 グレッチェンの答えを耳にした途端、ジョセフは彼女に聞き取れないような小声でぶつぶつと何やら呟き始めた。彼の薄茶色の瞳はやけに茫洋としつつ、心ここに在らずといった雰囲気である。


 そんな得体の知れない薄気味の悪さに加え、先程プリシラの部屋で彼女から聞かされたジョセフの話も相まり、グレッチェンは彼に対して激しい嫌悪の情を募らせる一方だったーー。

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