フローズン(5)
(1)
――それから、数日が経過したある日ーー
「グレッチェン、今から出掛けてくる。夕方までには戻るから、それまで店番を頼むよ」
フロックコートを羽織りがてら、シャロンはグレッチェンに声を掛ける。
また今日もですかと、危うく言い掛けたものの寸でのところで言葉を飲み込み、代わりに「……分かりました。いってらっしゃいませ……」と短く答える。シャロンは返事こそ返さなかったが軽く片手を上げ、外へと出て行ったのだった。
ただ一人ぽつんと、店に取り残されたグレッチェンは引き続き、昨日入荷された薬を種類別に仕分ける仕事を黙々と行った。
大陸東方の国から取り寄せている様々な漢方薬は、即効性はないものの人体への害や負担も少なく、かつ安価なため、店の売れ筋商品の一つだ。なので、定期的に入荷しないとすぐに売り切れてしまう。
白や薄青、黄色等、色とりどりの包み紙にて、種類ごとに包装された薬をそれぞれ薬棚の引き出しへと仕舞っていく。
やがて作業は終わり、ちらりと壁時計に視線を移す。
時刻はもうすぐ昼の二時を過ぎようとしていた。
しん、と、静まり返った店内に、秒針が進む音のみがやけに耳に響き、グレッチェンの不安を煽り続ける。
今までだって、シャロンが研究に没頭する余り部屋に閉じ籠るなど、一人で店番をすることなんてざらだったというのにーー、否、店番を一人で行うから不安を感じている訳ではない。
この建物の中にシャロンの姿がなく、完全に一人きりで過ごしていることが不安なのだ。
思い返してみれば、共に店のカウンターの中で佇んでいようと、二階の私室に籠りきりになっていようと、常にシャロンはグレッチェンの傍に居続けていた。
それなのに、パイパー邸訪問後に起きた夫婦間での諍いをきっかけに、シャロンは店を開店して一時間程過ぎた辺りから夕方まで、行先も告げず毎日のように、ふらりとどこかへ出掛けてしまうのだ。
おまけに、帰ってきたら帰ってきたで服がやけに煙草臭いとくる。
始めの内はハルの元へでも行っているのかと思い、左程気に留めていなかったのだが、連日ラカンターに出向く用などシャロンにある筈がない。仮にラカンターに行っていたのだとしても、「開店準備の邪魔だ。用が済んだらとっとと帰れ。自分の仕事をサボるな」とでも言って、ハルがシャロンを長居させるようなことはしないだろう。逆にシャロンも、ハルの元で何時間も過ごすのは嫌がるだろう。
――まさかと思うが、女と浮気をしているのでは……
不安に駆られる余り、つい余計な勘繰りを巡らせてしまう。
けれど、ここ数日のシャロンの動向が気になって仕方がない癖に、グレッチェンはどうしても行き先を尋ねることが出来ずにいた。
あの諍いの後から、グレッチェンとシャロンとの間に見えない壁が築き上げられてしまったからだ。
諍いの直後はともかく、今となっては仕事中でもそれ以外でも、何でもないごく普通の会話ならば交わしてはいる。だが、お互いにそれ以上は踏み入れることができずに、変にぎこちない態度で探り合うように接しているのは明白であった。
(2)
すっかり手持無沙汰になってしまったグレッチェンは、カウンターの上に右手を乗せると、秒針の音に合わせるように人差し指でコツコツと叩く。行儀が悪いことだと分かっているが、こうでもしていないと気持ちがざわざわとしてどうにも落ち着かなかった。
(ひょっとしたら……、暇な時間帯に一人で店番させているのは、私がパイパー夫人の元へ出掛けないようにするため……??)
ふとした拍子に思い浮かんだこの考えは、一か所だけ欠けたまま失くしていた、未完成のパズルの一片が見つかったような、グレッチェンの疑問が一気に腑に落ちた、気にさせてくれたのだった。
しかしそれならば、衣服に染み付いた煙草の臭いについてはーー??
再び頭を抱え込んで思案に耽っていると、扉が開く。すぐにグレッチェンは頭を切り替え、客の女に呼び掛けた。
「いらっしゃいませ。ゲルダさん、今日も『いつもの』で宜しかったですか??」
「あぁ、『いつもの』で」
グレッチェンは手馴れた様子で、棚から女が常用している薬の瓶を探し出すと、すぐにカウンターの上へ置く。
「そう言えば、ゲルダさんがうちの店に来るのは久し振りですね」
「この薬屋に来るのは三カ月振りかしら。ここのところ、生活環境が変わってねぇ、忙しくてバタバタしていたから。あぁ、聞いた話によれば、あんた、ちょっと前にシャロンさんと結婚したんだって??おめでとう!」
「……ありがとうございます」
現在の複雑な心中は一旦横へ置いておき、グレッチェンはかろうじて表情を緩めてみせる。
「中々の色男だから浮気の心配はあるかもしれないけど、シャロンさんは女に優しくて紳士的な人だからさ、あんたのことを大事にしてくれるだろうよ」
「……そうですね……」
「あたしの亭主はとんだ暴力男だったからさ、つくづく思う訳よ。やっぱり優しい男が一番だって。結婚したばっかりのあんたの前で言うのも何だけど……、あたし、亭主の暴力に我慢できなくなって遂に三行半つきつけてやったんだ」
「……えっ??……」
ゲルダは常日頃、暴力夫と別れたいとよく愚痴を零していたと同時に、夫と別れたとしても、子供達と共に暮らせるだけの収入を得られる仕事がないから無理だ、と、暗い顔で嘆いてもいた。
「あの……、三人のお子さん達は??」
「勿論、私と一緒にいるよ。実はね……」
さも聞いて欲しそうに語り出したゲルダの話に、グレッチェンは目から鱗がぽろぽろと落ちるのではと錯覚を覚えた。それ程までに彼女の話は、今のグレッチェンにとって実に興味を引かれるものだった――。
ようやく身の上話を終えたゲルダに、グレッチェンは詰め寄る勢いで顔を近づける。
「ゲルダさん、貴女がお世話になっているというその施設について、もっと詳しくお話を聞かせていただけないでしょうか??」
「あ、あぁ、別にいいけど……。でもさ、何でまた、仲睦まじい新婚夫婦とか言われているあんたが『夫に先立たれたり、離縁が原因で行き場をなくした女やその子供達を保護する』施設なんかについて知りたがるのさ??」
訝しむようなゲルダの視線を真っ直ぐ受け止めつつ、「実は……、私の知人女性とそのお嬢さんが、旦那様からの暴力に大層苦しめられていて……。その施設の存在を知らせることで、少しでも彼女達の力になれれば……、と、思ったのです」とだけ、答えた。
そう言う事なら……、と、ゲルダは身を寄せている施設について詳しく教えてくれたのだった。
何でもその施設を開設した人物は、隣国で警察官を務める傍ら、人権活動家としても活躍しており、現在はこの街の警察で女性が関わる犯罪を担当する女性警視だという。そのため、万が一逃げてきた女性を連れ戻そうと、施設まで追い掛けてきた夫が暴力を振るおうものなら、たちまち警視とその部下によって現行犯逮捕されてしまうのだとか。
他にも、施設を出た後で路頭に迷ったりしないよう、職業訓練や字の読み書き、計算などを教え、自立支援も行っているらしい。
ゲルダの話を聞いている内に、次第にグレッチェンの中で『ひょっとしたら、毒を使わなくてもロザリーとプリシラを救う術になるかもしれない』という思いが、大きく膨らみ始めていく。
施設の話がゲルダの誇張ではなく事実そのものだとしたら、ロザリーは罪を犯すことなく夫と別れ、プリシラを守ることが出来る。 更に、今まで通りの裕福な暮らしは無理だとしても、母娘共につつがなく暮らしていけるだけの力を身に付けられる。
勿論、施設に身を寄せるかどうかは彼女達が決めることなので、何とも言えないけれど。
それでも、暗闇に差し込む一筋の光を見出した気になったグレッチェンは、ゲルダが店を去った後、いても立ってもいられないとばかりに店から飛び出した。
向かう先はウエストエンド地区――、ジョセフ・パイパ―宅であった。




