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番外編 『おまじない』

5/2の「キスの日」にちなんだ話。

グレッチェンとシャロンの新婚話、というか、ただイチャイチャしているだけの話ですが、途中、自傷表現が出てきますので苦手な方はご注意ください。

(1)

 陽が傾き始め、少しずつ空全体に薄っすらと陰が掛かり始めた冬の夕暮時ーー、グレッチェンは店先ではなく、奥の部屋の隅に置かれた流し台にて林檎の皮を剥いている。

 あと三十分もすれば、客引きに出向く娼婦達が店の商品を買いに訪れる時間帯となるので、その前に十五分休憩を挟みお茶を飲んだりするのだが、今日は近所の人から林檎を貰ったため、休憩時に夫のシャロンと二人で食べようと思っての事だ。

 くるくると器用にナイフを回し、皮を繋げたまま一度も切らさず剥けた達成感に少しばかり浸っていると、いつの間にか、隣にシャロンが佇んでいる。

 あと少しで用意できますからーー、グレッチェンがそう言おうと口を開く直前、いきなり顎を掴まれて唇を塞がれてしまった。

「……んんっ……」

 グレッチェンが胸元をトントン叩いて抵抗の意を示したところ、すぐにシャロンは唇を離し、彼女を解放する。

「……き、休憩時間とはいえ、今は仕事中です……!何を考えているんですか……!」

 生真面目で潔癖なグレッチェンは淡いグレーの瞳を吊り上げ、シャロンをキッときつく睨みつける。しかし、そんな彼女に臆するどころか逆に面白がるように、シャロンは唇の端を持ち上げて笑っている。

「君が私を嫌いになっていないか、確認しただけだよ」

「ですから……、仕事中には……!」

「ふむ、仕事中でなければ構わないんだな??」

「そういう問題ではありません」

 これ以上は付き合いきれない、と、グレッチェンは呆れ果て、シャロンに背を向ける。

「今、林檎を切ってすぐにテーブルまで持っていきますから、大人しくお茶でも飲んで待っていてください」

 グレッチェンは、わざと、ハァッと大きく肩で息をつく。シャロンはやれやれ、と肩を竦めながら、流し台の近くに置かれたテーブル席に、言われた通りに大人しく腰掛けたのだった。


 結婚してからというもの、シャロンは「確認」と称しては隙あらばグレッチェンにキスを仕掛けてくる。

 別にキスをされることが嫌な訳ではない。シャロンには口が裂けても言わないけれど、正直な話、嬉しかったりもする。

 ただ、何の脈絡もなく突然されるのは心の準備が追いつかないし、今みたいにするべき時ではない時でもお構いなしなのが困りものなのだ。

 思春期の少年でもあるまいに、一体何を考えているのかしら、と、林檎を櫛形に切りながら悶々と考え事をしていると、指に鈍い痛みが走る。


 手を滑らせた弾みで。ナイフで指を切ってしまったのだ。


「……痛っ……」

 思わず小さく悲鳴を上げたグレッチェンの左人差し指には、小さな切り傷ができていて、傷口から薄っすらと血が滲み出している。

「どうした、グレッチェン……、あぁ、ナイフで指を切ってしまったのか……」

 グレッチェンの声を聞きつけたシャロンがすぐ傍に近づき、怪我をした方の手を大事そうにそっと握る。

「すぐに消毒薬と薬、あと包帯を持って来よう」

「そんな大袈裟に心配しなくとも、ほんの掠り傷ですよ」

 グレッチェンは、過保護な夫の言動に思わず苦笑を漏らす。


 だが、次にシャロンが見せた行動を目にした途端、彼女にしては珍しく声を張り上げる羽目になった。


「シャロンさん!それは絶対に駄目です!!やめてください!!!」


 グレッチェンが叫んだ理由ーー、シャロンがグレッチェンの傷口に唇を近づけ、血を舐めようとしていたからだ。


「……いくら貴方でも……、死んでしまいますから……。これだけは……、本当に……、本当に……、やめてください……。……お願いします……」

 恐ろしさの余りグレッチェンは全身をガタガタと震わせ、涙目になりながらシャロンに切々と訴えかける。

 シャロンもさすがにやり過ぎたと反省したのか、「……すまない、少々悪ふざけが過ぎたよ……」と、申し訳なさそうに詫びる。

「……少々どころじゃありません……」

「そうだな……、いや、本当に悪かったよ。今後は二度としないと誓うよ」

「……当たり前です……」

 シャロンは、青ざめた顔をして震えているグレッチェンを宥めるため、そっと抱きしめる。

「お詫びに、怪我の手当をさせてくれないか」

 そう言うと、シャロンはすぐにグレッチェンから離れ、薬箱を取りに行ったのだった。



「これでよし……っと」

 シャロンは、グレッチェンの指に傷薬を塗り、傷の上にガーゼを巻きつけた後、軽くキスを落とした。

「傷が早く治るよう、おまじないだよ」

「……またそういう、歯の浮くような……」

 歯の浮くようなこと、よく言えますね、と言い掛けたグレッチェンは、はたと言葉を切る。


 そう言えば、以前にも同じようなことを言われたような……。


 記憶を手繰り寄せるグレッチェンの様子を黙って見ていたシャロンだったが、ふと彼女のシャツの袖口を捲り上げて、細く白い手首にそっと口付ける。


 その仕草を目にしたグレッチェンは、ようやくあることを思い出したーー。


(2)


 --遡ること、九年前ーー


 夜も十一時を過ぎ、あと少しで日付が変わりゆく頃ーー。

 灰色の髪に、灰色の瞳を持つ、病人の如き顔色の悪さと痩せ細った身体の少女が、天蓋付きの大きなベッドの上で一人枕を抱えている。その表情は、ひどく思いつめていて、今にも泣き出しそうだった。

(……やっぱり、今夜もシャロンさんは来て下さらなかった……)


 一週間前、父レズモンド博士によって、少女の唾液と血液が毒性反応を持つということを知り、気味の悪い娘だと嫌われてしまったのかもしれない。

 その証拠に、出会ってから一か月、ほぼ毎晩のようにシャロンは夜更けに少女の元へやってきては、字の読み書きや勉強を教えてくれたり、他愛のないおしゃべりに付き合ってくれていたのに、この一週間ぱったりと姿を見せなくなってしまったのだ。

 実の父や姉からずっと虐げられてきた少女にとって、シャロンは初めて自分に優しくしてくれた人で、今では唯一の心の拠り所だっただけに、彼にまで嫌われてしまうくらいならいっそのこともう死んでしまいたい、とすら思い始めていた。

 しかし、少女が自ら命を絶つのを防ぐため、博士はナイフや鋏といった先端が尖っているもの、長い紐状のものは彼女の部屋に絶対に置かなかったし、窓も外側に囲いを作って飛び降りられないようにしてしまっている。


 どうすれば、今すぐ死ぬことが出来るだろうか。


 陰鬱な表情でしばらく考え込んでいると、ふと名案が閃いた。


 自分の血が少量で人を殺せるものならば、その血を舐めればいいだけじゃないか。


 何で、こんな簡単なことをすぐに気付けなかったんだろう。

 皮膚を傷つける刃物がなくても、歯で噛みつくなり爪で引っ掻くなりすれば、掠り傷くらいはいくらでもつく。


 意を決した少女はごくりと唾を飲み込むと、寝間着の裾を捲り上げ、青白く細い手首をカンテラの光の下に晒しーー、思い切って歯で食らいついたのだったーー。



 シャロンは、少女の元へ今後も訪れてもいいものか、この一週間ずっと悩んでいた。

 別にレズモンド博士から、少女の元へ行くことを止められたわけでもなければ、少女の姉であり婚約者のマーガレットに少女との関係を知られた訳でもない。

 ただ、少女の唾液や血液を使った実験を手伝わされている手前、彼女にとてつもない罪悪感を感じていて、合わせる顔がなかったのだ。

 けれども、いつも何かに怯え、すぐにでも消え失せてしまいそうな程儚げなあの少女を、やはり一人にしてなどおけない。

 その想いは日増しに強くなっていき、そして、ようやく決心をつけたシャロンは大きく深呼吸した後、躊躇いがちに少女の部屋の扉を叩いた。

「アッシュ。私だよ、シャロンだ」


 少女からは返事一つ返って来ない。


 もしや、嫌われてしまったのだろうか……、と、不安を感じつつも、シャロが思い切って扉を開けた直後、目に映る光景に思わず叫び声を上げてしまった。


「……君は一体何をしているんだ!!」


 シャロンが目にしたものーー、床の上に座り込み、口元と左手首を血で真っ赤に濡らしながら、それでも尚、必死になって少女が手首に噛みついている姿だった。


 少女は、最早怒鳴り声に近いシャロンの叫びに、大仰なまでに肩をビクッと震わせて動きを止めた後、恐る恐るシャロンの方を向き直る。

 シャロンは少女が何をしようとしていたのか瞬時に悟ると、怒りとも悲しみとも取れる感情を噛み殺した苦い表情をして少女にもう一度目を向ける。

「……くっ……」

 言いたい言葉が山程あるのに、強すぎるショックにより頭が付いてこない。そんな自分に苛立ったシャロンは踵を返し、その場を後にしたのだった。


 少女は床に座り込んだまま、去っていくシャロンの後ろ姿を呆然と見送ることしか出来ずにいたが、しばらくしてハッと正気を取り戻す。

「……せっかく、来てくださったのに……。……今度こそ、もう、終わり……」


 今すぐ、この世から消えてしまいたい。

 それなのに、なぜーー。


「……こんなに血を舐めているのに、なぜ私は死ねないの……」


 遂に少女は、堰を切ったように大きな声を上げてわんわん泣き出してしまった。


 大好きな人にも嫌われてしまったし、死ぬことさえもできない。

 これまでも辛い事ばかりだったけど、今が一番辛くて辛くて堪らない。


 ーー神様、どうして私はそれでも生きていなきゃいけないんですかーー


 ………………


「アッシュ、そんなに泣かないでおくれ」


 一瞬、泣き過ぎが原因で聴力が麻痺し、幻聴が聴こえてきたのかと、思った。


 顔を上げると、薬箱とスコッチの瓶を手にしたシャロンが、切なげな目をして少女を見下ろしている。

「言いたいことや、聞きたいことは山のようにあるが、まずは手当が先だ」


 シャロンは、薬箱の中から脱脂綿を取り出し、スコッチを垂らして綿を湿らせる。

「消毒液が切れていてね。酒臭いが、これで我慢してくれないか」

 少女は黙って小さく頷いてみせると、シャロンはそれを使って手首を汚す血を拭きながら、傷口を消毒していく。

「……つっ……」

 アルコールが傷に染み、少女は思わず顔を歪めるがこの痛みは自業自得なのだから、と、声を漏らさないよう我慢していた。

「……傷口に染みて痛いのだろう??……でもね……、それ以上に、私の心も痛いんだよ」

「……え……」

 思いがけないシャロンの言葉に、少女は思わず彼の顔を凝視する。シャロンは少女の傷の手当てをしているので、自然と俯きがちになりながら言葉を続ける。

「アッシュ。私はね、君が博士の娘だからだとか、マーガレットの妹だからだとか、そんなこと関係なしに……、何があっても君の唯一の味方でありたいと思う。だから……、頼むから……、死のうとしたり自分を傷つけるような真似だけはしないで欲しい。私が今言いたい事はそれだけだ」

「…………」

 淡々とした口調でそう話しながら、消毒が終わると傷薬を塗り、真っ白な包帯をグルグルと少女の腕に巻きつけていく。その後、ハンカチで口元を汚す血を丁寧に拭いていく。

「……あ、あの……」

 少女は、小さな子供のように両手をもじもじさせて、チラリと上目遣いでシャロンに視線を送る。

「……ごめん、なさい……。もう、二度と、こんなこと、しません……」

 心から申し訳なさそうに、シュンと項垂れる少女の姿が何ともいじらしく、シャロンは思わずクスリと微笑むと、彼女の頭をポンポンと軽く撫でる。

「分かってくれればそれでいいんだ」

「……はい……」

「よし、良い子だ。良い子には、怪我が早く治るようにおなじないを掛けてあげよう」

「……おまじない??」

  きょとんと小首を傾げる少女に優しく笑い掛けると、シャロンは包帯を巻いた腕の上にそっと唇を落とした。

「……!……」

 少女は吃驚して、反射的に手を引っ込めてしまうが、シャロンは一向に気にせず

 、「よし、これで必ずや傷が早く治るだろう」と、満足そうに再び笑ってみせたのだったーー。


(3)

「あの時のおまじない、どうやら利いていたみたいだな」

 あれから九年経った今、左手首の傷は跡形もなく綺麗に治っている。

「うら若い女性の美しい肌にあのような傷が残っていては、余りに不憫だから、傷が残っていなくて、本当に良かっ……」

 今度はシャロンが言葉を失い、目を丸くする番だった。


 何と、グレッチェンの方からシャロンにキスをしてきたからだ。


 それは一瞬触れる程度の軽いものであったが、慎み深い彼女の意外な行動にシャロンが驚いてると、恥ずかしそうに目を伏せながらグレッチェンはこう言った。

「……確認、と、おまじない……、です……」

「……何のだね??」

「……秘密です……」

 これ以上は耐えられない、とばかりに、グレッチェンは再び流し台の前に立ち、林檎を切る作業を再開しようとする。

 すかさずシャロンも立ち上がり、懲りずにまたキスをしようとしたところ、代わりに櫛型に切った林檎を口の中に押し込まれてしまう。

「もうそろそろ休憩が終わりますから、さっさとその林檎を食べて店に戻って下さい」

 いきなり甘えてきたかと思ったら、すぐにいつものつれない態度に変わってしまった妻に、林檎をシャリシャリと齧りながらシャロンは、(……まったく、相変わらず意固地で素直じゃないなぁ。でも、そういう部分も含めて実に可愛らしいとは思うがね)と、心の中で一人呟いていたのだった。


(終)

訂正

5/2じゃなくて、5/23の間違いでした・・・

つまりは一ヶ月近くフライングして書いてしまったと・・・

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