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番外編 九年後(前編)

 グレッチェンとシャロンが結婚してから、およそ九年の月日が流れたーー。


「ドナさん、いつもの漢方薬です」

 涼しげな顔立ちをした黒髪の壮年男性――、この薬屋の店主シャロンが、奥の部屋からカウンターの中へ入ってくると、カウンター越しに立っている女性に薬の包みを受け渡す。

「あぁ、ありがとうございます」

 女は、軽く頭を下げてシャロンに礼を述べると、薬の代金を支払う。

「この漢方薬のお蔭で、だいぶ身体の冷えが改善されてきましたよ」

「それは良かった!漢方には即効性はないですが、長い目で見て服用し続けることで、少しずつ効果が表れてきますからね」

 シャロンは爽やかに微笑みかけると、店から出て行こうとする女を見送りがてら扉を開けるため、カウンターの中から出て来た時だった。

 店の扉が開き、アッシュブロンドの髪を肩ら辺で切り揃え、白いシャツと青いスカート姿という質素な出で立ちながら、気品のある美しさを持つ女性――、シャロンの妻グレッチェンが市場の買い出しから戻ってきたのだ。

 グレッチェンはシャロンと目が合うと、『ただいま帰りました』と言おうとしたが、彼女が口を開く前に、「ただいま帰りましたぁ!!」と、幼い子供の声が店の中に響き渡る。

 声の主は、グレッチェンが買い出しの荷物を抱えていない方の手を固く握りしめていたが、声を発したと同時に彼女の手を放すと、「父さまー!!」とシャロンの元へ、タタタッ、と駆け寄り、勢いよく飛びついてきたのだった。

「おっと!そんなに走ったら危ないじゃないか」

 口では窘めつつ、シャロンの表情はすっかり緩み切っている。そんなシャロンを見て幼い少女――、シャロンとグレッチェンの一人娘エリザベスは、父につられてニッコリと微笑む。

「父さま、おかえりなさいの抱っこして!」

「よしよし、分かったよ。エリザベスの頼みなら何でも聞いてあげよう」

 抱っこをせがまれたシャロンは、相好を崩したままエリザベスをひょいっと抱き上げる。シャロンに抱き上げられたエリザベスは、キャッキャッと声を上げて喜んでみせる。

「あらあら、噂には聞いていたけど、本当に可愛らしいお嬢さんだこと。まるで本物の天使みたい。歳は幾つなんですか??」

 父と娘の微笑ましい光景に、客の女も笑顔を浮かべてグレッチェンに話し掛けた。

「歳はちょうど四歳になったばかりです。天使、ですか……。……少なくとも、あの子は私達にとっては天使のような存在です」

 控えめに薄く微笑みつつも、グレッチェンははっきりとそう言い切ってみせる。

「綺麗な奥様にそっくりだから、将来は間違いなく美人になるでしょうね」

 艶々としたアッシュブロンドの髪といい、幼いながら理知的な整った顔立ちといい、確かにエリザベスの容姿はグレッチェンとよく似ていた。唯一違う点は、瞳の色がシャロンと同じダークブラウンということだけである。

 しかし、物静かで大人しいグレッチェンと違い、エリザベスはとても元気で活発な女の子だった。その証拠に、部屋の中で人形遊びをするよりも、外で男の子達の中に混じってコンカーゲームを興じる方が好きであった。お転婆娘のこの行動には、「元気なことはいいのだが、怪我をしないかといつも心配になる」と、シャロンがしょっちゅう肝を冷やしているくらいだ。

 程なくして、客の女が店から出て行く。

「シャロンさん。エリザベスが可愛くて仕方がないのはよく分かりますが……、お客の前で締まりのない顔は余り見せないで下さい」

 エリザベスを抱きかかえ、かれこれ十分は相好を崩しっ放しのシャロンを見兼ね、遂にグレッチェンは注意を促した。

「ん??別に良いではないか」

「良くはないから、言っているのです。人目も憚らず、エリザベスを猫可愛がりするものだから、『薬屋のマクレガーは、この辺りでは親馬鹿で有名』などと揶揄されてしまうのですよ??」

「実際に親馬鹿なのだから、仕方ないだろう」

 悪びれもせずあっさりと認めるシャロンに、グレッチェンはほとほと呆れ果てて言葉を失う。そんな彼女の様子を面白がるように、シャロンはエリザベスにこう話しかける。

「エリザベス、母さまは私を君に取られてしまってやきもちを焼いているみたいだ。だから、意地の悪いことを言って私を困らせようとしている。ひどいと思わないかい??」

 だが、シャロンの言葉の意味が四歳児のエリザベスにはいま一つ理解できなかったようで、「えー??」と、不思議そうに首を傾げられたのみだった。

「シャロンさん……、エリザベスに余計なことを吹き込もうとしないでください……」

 グレッチェンは呆れを通り越し、最早蔑みに近い眼差しをシャロンに向けると、「それと、奥でエリザベスに手を洗わせたいので、冗談抜きでいい加減降ろしてあげてください」と、溜め息交じりに彼にそう告げる。

 シャロンは渋々といった体でグレッチェンの言葉に従い、名残惜しそうにしながらエリザベスを床へ降ろし、ようやく解放したのだった。


 夜もすっかり更けた頃、グレッチェンはエリザベスと共にベッドへ入り、絵本の読み聞かせを行っていた。

「……ガラスの靴はぴったりと灰かぶりの足に入りました。すると、灰かぶりはもう片方の靴を取り出し、『私が王子様の探し人です』」と名乗りあげたのです。その後、お城へ招かれた灰かぶりは王子様と結婚し、末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」

 読み終えた本を閉じようとしたグレッチェンの手を、エリザベスがふいに掴んでくる。

「ねぇ、母さまー。母さまの王子様は父さまなのー??」

「うーん……、そうねぇ……」

 唐突な質問にグレッチェンは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに「まぁ……、そんなところかしら??」と答える。

(……王子様と言うには年を取っているし、ちょっと情けないところもあるけれどね……)

「じゃあ、母さまは幸せだねー」

「何故そう思うの??」

「お姫様は王子様と結婚して幸せになるんでしょー??父さまが王子様なら、父さまと結婚した母さまは幸せ!」

 何が楽しいのか、エリザベスはニコニコと満面の笑顔をグレッチェンに向けながら、呪文のように「母さまは幸せ」と繰り返す。その無邪気な笑顔に、グレッチェンもつられて微笑む。

「えぇ、そうよ!母さまはとっても幸せ者なの。父さまがいるだけじゃなく、可愛いエリザベスも傍にいるんだもの」

 そう言うと、グレッチェンはエリザベスをぎゅっと抱きしめる。

「えへへ、母さま良い匂いー」

 抱きしめられたエリザベスは、グレッチェンの胸元に鼻先を摺り寄せ、甘えるようにくっついてくる。

「さ、良い子はもう寝る時間よ。ベッドの中に入って」

「えぇ、やだぁ!もうちょっと起きてる!」

「駄目よ。もう九時近いのだから、早く寝なさい」

「だって……、父さまにおやすみなさいのご挨拶がしたいんだもの……」

 どうやら、エリザベスは寝る前にシャロンにどうしても会いたいようだ。

 とはいえ、店が閉店して三十分も経っていないこの時間だと、まだ売り上げの計算や帳簿付けは終っていないだろう。

「父さまはまだお仕事中なの。だから、今夜はご挨拶するのは諦めて寝なさい」

「いやっ!!」

「エリザベス、言う事を聞きなさい」

 グレッチェンの口調は徐々に厳しいものに変わっていくが、エリザベスも譲ろうとしない。この意固地さは一体誰に似たのだ。

「……分かったわ。父さまに、お仕事を一旦中断して部屋に来てくれるようにお願いしてみるわ」

 遂に、グレッチェンはエリザベスに根負けし、シャロンを部屋に呼び寄せることにした。

 シャロンに常々、エリザベスを甘やかすなと口をすっぱくして注意する割に、自分も大概甘いわね、と自嘲する。

 グレッチェンはベッドから抜け出し、ショールを羽織ると「良い子にして、大人しくベッドで待っていなさいね」と、エリザベスに告げると、シャロンがいるであろう階下へと降りて行ったのだった。


 薄暗い部屋の中、カンテラのおぼろげな光を頼りに、シャロンは机に向かって帳簿を書き綴っていた。その後ろ姿にグレッチェンは声を掛ける。

「すみません、まだ仕事終わってませんよね??」

「うーん、帳簿はたった今書き終わったところだが……。これから、エリザベスの件で調べ物をしようかと思っていてね。一体どうしたんだ??」

 『エリザベスの件』と聞いた途端、口を噤んだグレッチェンを、眼鏡越しにシャロンは怪訝そうに見つめる。相変わらず実年齢より若く見えるものの、近年は加齢により視力が低下し、書き物をする際は眼鏡を掛けることが多いのだ。

「エリザベスが、どうしてもシャロンさんにおやすみなさいの挨拶がしたい、と言って聞かなくて……。ほんの少しでいいですから、二階まで来てやってもらえないでしょうか??」

 申し訳なさそうに説明するグレッチェンとは反対に、シャロンの顔は見る見る内に綻び、「そんなもの良いに決まっているだろう??むしろ喜んで二階に行くさ」と、すぐさま椅子から立ち上がり、外した眼鏡を机の上に置く。

「ありがとうございます。シャロンさんに会えば、エリザベスも大人しく寝てくれますから」

「ふむ。私もエリザベスの顔が見たいからなぁ」

 三十も後半になって初めて出来た娘を、シャロンは心から慈しんでくれている。それはグレッチェンにとっても本当に嬉しいことだった。


 結婚はしたものの、グレッチェンの特異体質では生まれてくる子供に悪い影響を及ぼし、何らかの異常をきたすかもしれない。分かっていながら、子供を作るのは余りに自分本位すぎる。

 二人はその考えの元、あえて子供を望まなかった。

 しかし、いくら避妊をしていたとしても七割程度の予防率だ。おまけに、グレッチェンは月経不順気味だったので、排卵日の予測もつけにくかった。

 それでも、結婚して三年を過ぎてもグレッチェンが妊娠する気配は一向に見受けられなかったので、ひょっとしたら元から子が出来ない身体なのかもしれない、と二人は思い始めていた。

 『普通』の夫婦であれば、大問題となるだろう。下手をすれば離縁をされる可能性だって充分あり得る。だが、二人に限っては逆にホッと胸を撫で下ろしていたくらいだった。

 ところが、四年目を迎えようとした頃、グレッチェンの身体に異変が起き始め、妊娠していることが発覚したのだ。

 予想外のことにグレッチェンは激しく動揺して混乱に陥り、ひたすら「ごめんなさい」とシャロンに謝り続けた。

 シャロン自身も、どうしたものかとひどく戸惑い、思い悩んだものの、「子が授かったのは何か意味があってのことかもしれない。それが良い意味か悪い意味かは分からないが……。だから、どんな結果に、例え異常を持って生まれてきたとしても、私はこの子を受け入れたいと思っている」とグレッチェンを説得し、その結果、元気な女の子エリザベスが生まれたのだった。

 グレッチェンの血液に強度の毒性が含まれていることで、胎内で順調に育つのか、はたまた出産時に母親の血液を浴びて死にはしないか、生まれてくるその瞬間まで、二人はずっと大きな不安を抱え続けていた分、何とか無事に生まれてきてくれたことが最早奇跡だとすら思ったものだ。


 だが、悲しいかな、エリザベスの血液にも微量ながら、毒性反応が表れている。


 そのことを知ったグレッチェンの嘆きは計り知れなかったが、「エリザベスの毒性反応がずっと現状のままであれば問題はないんだ。だから、頼むから自分を責めないでくれ」とシャロンが諭し、グレッチェンだけでなくエリザベスの特異体質の研究を始めたことで、自分はともかく娘の身体を治す手掛かりが掴めれば……、と願っていた。

 妊娠・出産を経験したことが関係したのかどうかは分からないが、グレッチェンの血液の毒性は現在かなり弱まっている。(もしかしたら、弱まった分はエリザベスの方に回ってしまったのかもしれないが)

 レズモンド博士が残した悍ましい『実験』の爪痕が、自分だけでなく、娘にまで影響を及ぼすなんて……、と、グレッチェンは初めて父を心底憎んだ。それはシャロンも同様だった。


 エリザベスには、自分のような辛い思いをさせたくない。


 だからこそ、二人が娘を目に入れても痛くない程可愛がるのは、当然と言えば当然のことであった。


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