第一話
(1)
「アッシュ、私を信じてくれ。君を救うためにはこれが最善の方法なんだ」
黒髪の青年が少女の痩せ細った肩を抱き、耳元でそっと囁く。
口調こそ優しげだが、彼の声色にはどことなく切迫した様子が窺えた。
今から行おうとしていることがどれだけ恐ろしいことか、世の中の道理に疎い少女でも充分に理解できる。
だからこそ、行動を起こすべくカンテラを手に握っているものの、中々実行に移すことが出来ずにいる。
青年も同じ気持ちでいるのか、躊躇う彼女を決して嗜めたりしようとはしない。
だが、迷っている間にも時間は刻一刻と過ぎて行く。
このままでは、青年は夜が明ける前には屋敷を出て行かなければならないだけでなく、二人の行動を誰かに気付かれてしまうかもしれない。
「私も君と同じくらい怖いんだ……。だけど私は、君がこれ以上博士の実験道具として扱われることがどうしても許せない。ましてや、彼は君を解剖するとまで言っている……。アッシュ、君は言っていたじゃないか。『健康な身体が欲しいし、季節が移りゆく様を窓から眺めるだけではなく、実際に外へ出て肌で直に感じたい。もっと沢山の本を読んで知識を得たいし、甘い物をお腹一杯食べてみたい』と。今のままでは何一つ叶う事はないぞ??それで君は良いのか??」
少女は目を伏せて、ゆっくりと二、三度首を横に振る。
「……シャロンさん、一つだけ忘れていますよ??」
「む、そうか、それは失敬。ただ、申し訳ないけれど、最後の一つは今すぐには思い出せそうにない」
少女は再び首を横に振る。
「……いえ、取るに足らないことですから……」
少女はぎこちなく青年に笑い掛ける。
直後、意を決したのか、淡い灰色の瞳を険しくさせると――、手にしていたカンテラを床に目掛けて思い切り叩きつけた――
ガシャンと音を立ててカンテラはひしゃげ、ガラスの破片や金属が床に飛び散る。
割れた卵の殻から雛が飛び出すように、一気に炎が燃え上がる。
「アッシュ!」
炎の勢いに目を奪われていた少女の腕を掴み、青年が慌てて後ろへと引っ張る。
弾みで後ろ向きに倒れかけたものの、青年が抱き留めてくれたお蔭で彼の腕の中に身体が納まった。
「いいか、アッシュ。火事の原因は……」
「手洗いに行こうとした際に貧血を起こしたせいで、カンテラを手から取り落として割ってしまった、ですよね??」
「あぁ、そうだ……」
「火に恐れをなして逃げていたところを、偶然シャロンさんに助けてもらった。貴方とは今日初めて会った、と……」
「あぁ、それでいい」
話している間にも、火の手は部屋の中でどんどん範囲を拡げていく。
始めは床を燃やしていただけだった筈なのに、気付けば天蓋付の大きなベッドや窓を覆う豪奢なカーテンにまで及び、嫌な臭いを発する黒い煙が発生し始めている。
「アッシュ、煙に巻かれてしまう前に部屋を出よう」
青年は少女の背中に手を添えながらもう片方を膝の裏に差し入れ、ひょいと抱き上げる。
青年の端正で涼しげな顔が間近になり、少女は気恥ずかしくなったものの、この緊迫した状況下でそんな気持ちになっている場合ではない、とすぐに打ち消した。
「君の場合、歩かせるよりも抱きかかえた方が逃げやすいと思ってね」
恥ずかしがる少女の気持ちを察したのか、青年はややバツが悪そうにして弁解する。
「では、行こうか」
いよいよ炎が勢いづき、これ以上ここにいては危険だと判断した青年は扉を開け放したまま、少女と共に急いで部屋から逃げ出したのだった――
(2)
「……夢か……。これまた随分と懐かしいものを……」
シャロンは目を覚ますなり、誰に言うでもなく一人静かに呟く。
熱に浮かされている時はロクな夢を見ないものだ。
割れそうにひどく痛む頭、全身を襲う倦怠感により身体が鉛のように重い。
徹夜続きの不摂生していたところへ深酒したせいで、一気に体調を崩してしまったのだ。
これはグレッチェンの説教をたっぷり聞かされるだろうな、覚悟しなければ。
(……そう言えば、あの時、彼女が『取るに足らないことだ』と言っていた願いは、何だったのだろうか……)
一度は聞いたはずだと言うのに、結局思い出せないままでいる。
しかし、熱による頭痛と朦朧とした意識の中では、必要以上に頭を働かせることはひどく億劫な作業である。
そうこうしている内に、シャロンは再び深い眠りの世界へと誘われていったのであった。




