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変わり者の物語  作者: あなぐま
第1章 岩のドラゴン
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第4話 岩のドラゴン

 利益がものを言う街、トレント。


 元は南にある巨大な牧草地と北の諸王国都市の交易拠点であったらしい。その潜在性に目を付けた商人達がここを占拠してからと言うもの、急速に発展し勢力圏を拡大させた。


 利益の為なら良くも悪くも手段を選ばない方針が、この街に独特の雰囲気を与えている。いわゆる亜人が多いんだ。人間が支配する北の国々と違って、この街には様々な種族が人間と変わらず生活している。体が一回り小さい者、褐色の肌を持つ者、獣のように牙が生えた者、ここでは皆平等だ。


 真の世界平和が仮に実現するとすれば、それは利害関係の均衡の上に成り立つでしょうね。マキノは昔そう言っていた。


「ごめんクライム、疲れたからちょっと休憩」


 ここにもそんな亜人が一人いる。リュカル。闇小人やドワーフと並ぶ、地中の賢者とも呼ばれる種族だ。鼠のように細長い尻尾はズボンの中だし、尖った耳は髪に隠れているし、見た目は人間そのものだけど。メイルは大きく息をついた。


「いいよ。でも街中見て回るなら、いつもみたいに僕が……」

「だめ。一緒に歩く」


 ぷっと膨れる。地面の下で座りながら本を読んで暮らす彼女達は、元来歩く事に慣れない。堅い地面を掘り進む前足の力は異常に強い一方、後ろ足は人の子供より力がない。


 意地を張って一生懸命歩いているけれど、旅の途中で僕やアレクが背負うのもいつもの事だ。それでも僕と二人になるとたまにこうしてずっと一人で歩きたがる。手を繋いで歩くため、なのかな。いや意識し過ぎか。誤魔化すように、隣に腰を下した。


「じゃあ中まで入るのはよそう。一度入ったんでしょ?」

「そりゃ中はそこまで見るものじゃないけど、せっかく案内してるのに」


 そんなメイルの口にさっき店で買ったお菓子を放り込んだ。疲れも何も一瞬で吹き飛んだらしく、溶けたような顔でおいしそうに食べ始める。


 こうして甘いものですぐに幸せになれる様子を見ていると、歩く百科事典さながらの普段とは別人みたいだ。鉱山でも見せた異常な記憶力に、地中の里で溜め込んだ膨大な知識。この子は多分、マキノとは別種の天才だろう。一生懸命に口を動かしているメイルの顔を眺めながらそんな事を考えていた。


 ごくんと全部飲みこんだ。顔が元に戻る。真っ赤になった。


「いや、だから違うんだってば!!」


 僕等は商業会館の前で並んで座っていた。先にマキノと街中廻ったメイルが是非一度は見た方が、と推した場所。大量の物資が行き交う大通りとは違い、ここでは金銭と証書による取引が主で、この街にしては人が少ない。でも逆にここを通じて行われる商売は街のどんなものより大規模だ。


 大きな建物だ。レンガ造りの壁は巨大な柱で支えられ、数えきれない窓には全て細かい装飾がされている。僕等の隣に見える正門は、多くのレリーフで飾られている。メイルの目もそれを見ていた。


「ああ、初めて気付いたよ。あの天使が持ってるのは天秤だね」

「あれ天秤か、って天使が?」

「繁栄と公正の天使ヌメノス。この辺りじゃ有名な天使だよ」


 遮光用の眼鏡を取ったメイルに見えない物は無い。でも、


「まっぶしー!」


 という事だ。昔は暗闇が常だったせいか五感が鋭い代わりに敏感すぎる。眼鏡を外すのは、遠くを見る時か本に集中する時くらい。でもそうなると味覚もいいんだろうか。そう思って僕はもう一つお菓子を放り込んだ。うん。おいしそうだ。


「いや、だから!」


 柱はリドア式。装飾はクロンバック式。後付けした正門は最近流行ってきたフェルディア式。ようはごてごての寄せ集めだそうだ。商人達が来る以前、ここにいたのは今は没落した名門貴族。借金を形に組合が手に入れた今も、その寄せ集めが謎の調和を見せているためか美術的価値は高い。


 商業会館を後にしてからも、僕はメイルの案内でこの街をひたすら見て回った。


「あれが世界に一つしかない聖人トトルの墓だね。もう五つ目だけど」

「この調味料はここでしか手に入らないらしいよ。ちょっと味見していい?」

「見てよクライム! 北国に伝わる黄金の剣の複製品だ! 凄い出来だね!」


 もともと本だけの生活に我慢できず里から飛び出した子だ。珍しい物と新しい物で溢れかえったこの街では、メイルが飽きる日は来なさそうだ。でもこの揚げ物は本当においしいな。安いし。


「っ……」


 ふと、メイルが僕の後ろに隠れた。


 服をぎゅっと掴んで顔をうずめる。なんだろう。前から歩いてきたのは旅人、というより猟師のような人達だった。頭からフードをかぶって顔は見えず、大きなボロボロのマントを羽織っている。すれ違った時、背負った箱がガタガタ揺れて、中から何かの鳴き声が聞こえた。


 彼等との距離が空くと、メイルの手は少しだけゆるむ。何だったんだろう。


「今の、賞金稼ぎ?」

「……よりもタチは悪いかな。なんて呼ぶかは知らないけど」


 あの中に何が入っていて、これから金に変わった後はどうなるんだろうか。

 考えないようにしよう。関わればただでは済まない。僕はまだしも。


 昨日は空から半分迷子の僕を探してくれてたフィン。今から思えば本当に危ない事をさせてしまった。


 図体がデカくても不便なだけと、普段は本当に小さな姿で旅をしているけど、それでも白い翼は目立ち過ぎる。だから街ではその翼までも隠していて、言ったら怒られるだろうけど本当に白いイタチか何かにしか見えない。でも、もし翼を見られたら。もし、フィンの事を知っている人がいたら。


 一度だけ、ばれた事がある。そしてその時、僕等はフィンが何者なのかを改めて思い知った。あの時は取り囲まれて動けない程度で済んだけど、こんな危ない所でばれたら、捕まって即売られるか、いや、きっと価値としては生死問わずだろうな。


 フィンはあの後一週間も口を利かなかった。その雰囲気から誰も理由を聞けず、僕だけが夜な夜なフィンの怒りを聞き続けた。


 嫌な思い出だ。



***



 腹立たしい。


 雪の竜を見た者は幸せになれる。そんな馬鹿な話を一番最初に言い始めたのはどこの馬鹿だろう。フィンとしてはその馬鹿に恨み言の一つも言ってやりたい。本音を言うならばブチ殺してしまいたいくらいだ。


「当たりだ!」


 酒場を響かせる男達の大歓声。

 不本意だ。まったくもって不本意だ。


 その幸せを幸運と解釈して、賭け事に使おうなんて馬鹿な事を考えるのは、きっとこの世でアレクの馬鹿だけだろう。馬鹿なのか。そんな訳あるかこの馬鹿。


「お前さん強いな! 連勝だ!」

「ははははは! 少し本気を出し過ぎたかな!」

「いいぞ、このままこの店潰しちまえ!」


 昼前。クライムとメイルが出掛けた後の事だ。


 良い所に連れて行ってやる、とアレクに首根っこ掴まれて連れて来られた先が街一番の、曰く「大人の遊び場」。薄暗くもだだっ広い店の中で、皆が酔いに任せて大金を賭けている。フィンはマキノと二人で少し離れたテーブルから見ているだけなのだが、それだけでさっきからアレクはカードで勝ちっ放しだ。思い込み効果で人は病も治すそうだが、なまじ馬鹿だと効き目も大きいらしい。


 しかし雪の竜を見た者は幸せになれても、幸せを届ける瞬間を目にした者はそれ以上の不幸になるらしい。なら。


「こいつら全員不幸にならないかな」

「物騒な事言わないでくださいよ、フィンさん」


 隣に座るマキノが笑った。長い付き合いだろうに、アレクが何考えているか分かっていたなら何故止めない、いや、ここで止めないのもまたマキノらしい。この男がこの場にいるのも、面白そうですねついて行きますー、とかぬかしての事だ。断じてフィンを助けに来ている訳ではない。


 そんな事をイライラ考えている内にアレクはまた勝った。

 フィンは呆れ顔で、マキノは笑顔でそれを遠くから眺めている。


「しかし凄いですね。勢いとは言え、相手の手札も周りの戦況もあそこまで把握できるなんて。ああ、今のは上手いハッタリだ」

「で。こんな遠くから見てるのに、どうしてマキノにそれが分かるんだい?」


 ただの勘ですよ、とお得意の笑顔を見せる。こういう頭脳戦でこの魔術師が負けた所をフィンは見た事が無い。完璧に相手の手を読み、他人の一番嫌がる事をやたらとやってくる。破産させた相手に冗談ですよと金は全部返していたが、その相手は返された時に一番打ちのめされた顔をしていた。本当に魔術師か、この男。


「アレーク! 何やってんだー!」


 また面倒なのが来た。


 店にやってきたのはメイルと街を見ていたクライムだ。アレクの暴走を止めるのは、今も昔も専ら彼の役目だ。店に入るなりそのまま二人で言い合い始めた。クライムは彼らしいもっともな意見を畳みかけているが、逆にアレクは賭け事の崇高さを説いている。


 思うに、変身で顔が似ているだけではない。

 あの二人、絶対に似た者同士だ。


 そんなクライムに、何を考えてか色気の塊のような女が言い寄ってきた。すかさずメイルが止めに入る。


「だめ! クライム、もう出ようよ!」

「あらぁお嬢ちゃん可愛いわね。あたしどっちでもイケるのよ?」


 何故か女の矛先が変わる。


「ボク、ボク、そういうのは……」

「ボク? それもイいけど、私って言ってごらんなさい。わ・た・し」


 フィンは変わらず、誰を助ける訳でもなく傍観する。幸せを届ける竜などと言われてはいても、彼自身は赤の他人の幸、不幸に興味はない。髪をもう少し短くして化粧はしない方が好みかな、そんな事を考えていた。


 一方メイルは真っ赤になって口をバクバクさせるばかりだ。こういう事にはめっきり弱い。クライムは一応彼女を庇いつつやんわり断っているが、はっきり言って役に立っていない。


 鈍くはない。しかし彼がメイルの好意に気付いているかと言われればどうだろう。メイルもメイルで子供なだけに、彼への愛着や親しみが恋愛感情になっているかと言えば難しい。初々しい限りである。


「しかしフィンさん。いいんですか? こんな所で眺めていて」

「マキノこそ。止める気が無いなら何で付いてきたのさ」

「一応見ておかないと危ないですから。矛盾しているかもしれませんが、私は旅には必要最低限の金しか持ち歩かない質なんです。なので余った分は、どこかで消費してしまいたいんですよ」

「言ってる意味が分からないんだけど、……ああ、そう言う事か」


 それからすぐに、店には新たな歓声とアレクの悲鳴が響き渡った。クライムが説教し、アレクが打ちひしがれ、メイルが宥め、マキノが面白そうに眺め、フィンは我関せずと狸寝入りを決め込む。いつもの光景だった。


「……」


 賑やかな空気からは、少し距離を置いたままだ。


 フィンは特段、仲間意識が低い訳ではない。だが彼は何かと穿った見方になりがちで、口を開けばついそこから毒が滑り出す。間違っているとは思っていない。常に最悪の事態を想定していれば、その事態に出くわしても動じない。それも一つの考え方だろう。


 だから、フィンは自分の性格が嫌いではあっても、やはり日常という物が好きにはなれない。


 それは普段当たり前のように受け入れられ、誰にも認識されない。だから無くなるまでそれがある事も分からないし、無くなって初めてその大切さが分かる類のものだ。


 そういうものに限って、終わりは突然やってくるのだから。



***



「何でだ、あの時もう一枚、いや、それより……」


 翌日、出発の朝である。


 街のすぐ外で腰を下ろす中、アレクはまだぶつぶつ言っていた。思いこみ効果は所詮思いこみ。持続時間には限りがあり、効果はいつか必ず切れる。それを感じて引き下がれるか、そのまま突っ込んで自滅するかという点では所詮いつもと同じ事。結局アレクはいつも通り手持ちの全財産をすった。


「まったく、お金が入ったからってすぐに全部使うなんて」

「本にあったよ。なんだっけ、悪銭身につかず?」

「まあまあ良いじゃないですか、たまにしか出来ない事ですし」


 いけしゃあしゃあとマキノがそんな事を言う。先日の収穫から、一行は借金を返済し、装備を買い替え、食料も揃えた。元々アレクの手元にはその上で不要とマキノが判断した分しか入っていなかったのだ。文字通り身を軽くして出発できるという訳である。


「でももういいじゃない。どの道ボクらは……」


 赤くなるメイル。昨日の事でも思い出したのか。


「『ボク』らは、今日でトレントを離れる予定だったわけだし!」


 結局、一人称は変えないらしい。本ばかり読んで少女として全うに育たなかったせいなのか、この癖はクライムとフィンが初めて彼女と出会った頃から変わらない。クライムは苦笑しつつ、当時を知るフィンに目配せした。


 だが目は合わない。フィンは荷物の上で蜷局を撒いたまま、少し不機嫌そうにしていた。


 トレント西門。見上げるほどの城壁で囲まれたこの街を出入りするには東西南北のどれかの門を通る他ない。クライム達は南西にある街に向かう予定で、今朝方宿を出て門番との手続きを済ませ、今は街のすぐ外で軽食を取っていた。


「この道を通るとすると山越えが必要ですからね。今晩は野宿でしょう」

「いつものことだろ。布団でばかり寝てたら体が硬くなっちまう」

「ここ。この辺りに確か小さな村があったと思うけど」


 そうメイルが指さして見せたのは、山の反対側中腹だ。


「村というより山人の溜まり場だよ。妙な伝統が無い分旅人にも寛容だって」

「寝ている間に身ぐるみ剥がされる位はあるかもな」

「しかし一息つくには良い場所ですね」

「山に魔物はどれくらい出るだろう。それによっては野宿の方がむしろ」


 四人は手慣れた調子で話を擦り合わせる。メイルの知識を元に皆で方針を決め、マキノが詳細を煮詰め、アレクが直感で修正を加え、クライムが迷走させる。それが彼等の旅だった。そして大体フィンは否定も肯定もせず、それを傍観する。今回も荷物の上から動くつもりはないらしい。


 だがクライムは、そのフィンの様子がいつもと僅かに違う気がした。


「フィン、どうしたの?」


 フィンは面倒くさそうに片目を開ける。


「だるくてね。それだけさ」


 クライムは少し顔をしかめる。二人の付き合いは大分長い。その旅を通してフィンはクライムの嘘をほとんど見分けられるようになったが、当然その逆も増えている。フィンはため息をついた。


「なんでもないよ。本当さ」

「かもね。でもフィンの勘ってたまにとんでもない事を言い当てたりするから。ちょっと気になってさ。何か、嫌な予感がするし」

「嫌な予感ならしょっちゅうさ」

「よし! 決まりだ!」


 アレクはガンと剣を地面に突き立てた。今日明日の予定が決まり、広げた荷物をまとめ始める。そしてクライムが一瞬目を離した隙に、フィンは話を打ち切ってそのままクライムの荷物に潜り込んでいた。これが、彼の今日明日の予定という事らしい。


「まあ、良いんだけどね」


 そう言ってフィンが入ったままの荷物をそのまま背負った。

 アレクが先頭を切り、メイルがクライムの横に収まり、マキノがその後ろにつく。体力が有り余っているのはアレクだが、一行の中で一番旅の経験が長いのはクライムだ。いつも自然と、この形に落ち着く。


 フィンにしても、長旅の定位置はクライムの荷物の中だった。旅慣れした彼の歩調は乱れる事も少なく、その規則的な振動がまた眠気を誘う。一度アレクの荷物に失敬した事もあったが、突然走り出すは魔物と戦うはで落ち着けもしなかった。足並みにまで性格は出る。


「あれ?」


 ふとクライムが振り返った。


 後ろからついて来ている筈のマキノの足音がしなかったのだ。見れば、先ほどの場所から歩き始めて数歩の地点で止まっている。


「どうしたの?」


 マキノは茫然と立ち尽くしていた。周囲に何がある訳でもない。だがクライムが声をかけてもアレクが急かしても、ピクリとも動かなかった。

 

 風の音。

 木々の音。

 奇妙な静寂が続く。


 だが、次第に別の何かが聞こえ始めた。人のざわめき。城壁の向こう、たった今出たばかりの街の方角からだ。次第に大きくなる声に皆が嫌な予感を抱き始める。いつしかざわめきは、クライム達の元まではっきり聞こえるほど大きくなった。


 マキノはバッと振り返って空を見上げた。彼自身も自分が何に反応したのか分からなかった。だが直感が、彼の視線を空に釘付けにした。


 急にクライムが出たばかりの門に向って走り出した。

 彼の荷物に入っていたフィンも道連れだ。


「クライムさん!」

「おい! 勝手に入るな!」


 門番が止めるのも気にしなかった。こういう時の行動力は不思議と高い。追いかけてきた門番はアレクが後ろから殴って気絶させた。荷物から顔を出して、フィンが呻く。


「クライム、どうしたのさ」


 クライムは答えない。未だ戸惑う人が多いトレントの通りを、人ごみを掻い潜りながら、険しい顔で走っている。


 そしてざわめきとは別の、地鳴りのような振動が徐々に強くなってくる。クライムはその中心に向かって走っている。しかし、その中心もまた、こちらに向かって動いているかのようだった。


 急にクライムが足を止める。

 もう振動は壁にヒビが入るほどの轟音となって街を襲っていた。


 クライムが上を見上げて、フィンもそれにつられる。高い建物や雑多な増築で、この街から見える空は狭い。ここからは何も見えなかった。轟音だけが緊張となって辺りを支配している。


 そして、街に、大きな影が落ちた。


「何だ……」


 ゆっくりと現れたのは、巨大な、岩の塊。

 トレントの狭い空が、黒く埋まっていく。


 とてつもなく大きかった。そしてとてもゆっくり飛んでいる。クライムも、フィンも、街の人々も、それに圧倒されて声も出なかった。


 下から見る限りではそれが何なのかは分からない。何かの形を成してはいるようだが、それがとても大きい上に、とても低く近く飛んでいて全体像が見えないのだ。しかし、クライムにはそれが何なのか分かった。冗談のような噂話は本当だったのだ。呆然と、その言葉が口から零れる。


「岩の、ドラゴン……」


 フィンは露骨に顔をしかめた。ようやく分かった。彼が今朝から感じていた気持ちの悪い感覚の正体はこれだ。そしてマキノが同じく気付いたという事は魔法の類が関わっている。ただのドラゴンではない。まるで、底の知れない闇を覗き込んでいるような恐怖が、町中に広がっていく。


 ここまでだ。

 フィンはその瞬間、そう見切りをつけた。

 これは、絶対に関わってはいけない何かだと。


 その時、どこからか悲鳴が聞こえた。見ると街で一番高い見張りの塔にドラゴンが迫っている。まだ誰もが動けずにいる中、クライムは街中に響くほどの声で叫んだ。


「何してるんだ! 逃げろ!」


 ぶつかった。塔はゆっくりとひしゃげていき、瓦礫が道に落ち、激しい音を立てて砕ける。それで緊張が解けた。恐怖が一気に爆発し、人々は悲鳴を上げて我先へと塔から離れる。しかしクライムは何人もの人にぶつかられながら、逆に塔に向かって走り出した。


 見張りの塔は一部で裂け始め、遂に上半分が切り離されてゆっくりと倒れ、下に落ちる。その先に腰を抜かした一人の男が見えた。


「だめだ!」


 クライムは止まるどころか加速した。男は迫りくる死から目が離せずもう指一本動かせない。間に合わない、そう判断したフィンがクライムを止めに荷物から飛び出す。


『止まれ!』


 鋭い命令が、轟音も悲鳴も切り裂いた。落ちる塔が、舞い散る瓦礫が、空中でぴたりと止まる。時間が止まったかのようだった。クライムはそのまま突っ込んで男を抱え、一気にその下を走り抜ける。


 マキノだ。


 クライムが駆け込んだ先に居たのは、異様な雰囲気をまとった灰色の髪の魔術師。宙の瓦礫を右手で鋭く指さし、瞳孔ごと見開かれた目は瞬きすらしない。


「あ、ああぁ……」


 ようやく男が口を利いた。離れた所から見直して、自分が押し潰される筈だった事を改めて理解したようだった。マキノの目がふっと緩む。その瞬間、轟音と共に塔は地面に激突し、爆発したような砂埃が一瞬で全てを埋め尽くした。


 煙が晴れた時、塔の残骸と岩の破片で辺りは見る影もなく潰れていた。幸い男の他に人の影は無く、怪我人も少ないようだ。マキノは深く息をつき、崩れるようにその場に膝をついた。クライムは茫然とした男の頬を叩いている。


 そのクライムまでもが、急に身をかがめた。


「っつ!」


 遅れてメイルが走ってきた。荷物から血止めや包帯を出しつつ、動けずにいるマキノとクライムを同時に診る。次第に周りには恐る恐る街の人々が戻ってきた。潰れた一角とクライム達を遠巻きにあれこれと騒ぎだす。気付けば、街を支配していた重い空気は消えていた。


 岩のドラゴンは、どうやら何をするでもなく、この街を通過したようだった。


「マキノ、大丈夫? あんな大きな物を止めるなんて」

「そんな顔しないでくださいメイルさん。大丈夫ですから」

「クライムは? どこか怪我でもしたかい?」

「ごめん、なんか、指輪が熱くて」


 思わぬ返事に、皆の視線が集まる。見れば指輪は赤熱した鉄の様に赤く光っていた。急いで引き抜こうとするメイルをマキノが止める。険しい顔で指輪を観察していた。


 一人の男が無言で彼等を横切り、背中に庇うように立った。アレクだ。マキノもクライムも無視して、腰から剣を抜き、肩に担ぐ。


 その視線の先には、塔の残骸に紛れて地面に転がった大きな岩。この街の建物とは異質な黒っぽい硬質な岩だった。ドラゴンの欠片だ。塔にぶつかった際に削り落ちたのだろう。


 ごと、と岩が身震いした。


 アレクに遅れて四人も身構える。メイルはクライムと男を連れて後ろに下がった。仔牛ほどもある大岩がしきりに震える。そして動かなくなったかと思うと、その一部が細長く突き出て地面に脚をついた。そう、それは確かに脚だった。それを最初に岩は鈍い音を立ててどんどん形を変えていく。


 岩は四つの脚で体を支え、口から深く熱い息を吐いた。人間のような五本の指に細長い手足、ずんぐりとした体。その姿はまるで醜く大きな猿のようだった。岩の猿がゆっくりとこちらを向く。顔に当たる部位には赤く光る眼があり、それがアレクを捉えていた。


 歯をむき出して低く唸り、身を深くかがめる。


「下がってろ」


 猿よりも早くアレクが大きく踏み込んで間合いを詰めた。


 猿は甲高い声で叫ぶと右腕を振り上げ、同時に懐に飛び込んだアレクが下から剣を斬り上げる。金属音がして剣が右手に食い込み、猿はそのまま剣を掴む。岩の体に剣が通用していない。


 ふっと短く息を吐くと、アレクは身をねじって更に一歩踏み込んだ。素早い動き。猿の悲鳴。気付くと猿の右腕はねじ切られ、根元から砕けていた。


 逆上した猿は突進して掴みかかる、アレクはその場で一瞬身を固めて剣を後ろまで構え、大きく横に薙ぎ払った。


 猿が吹き飛ぶ。

 少し遅れて。

 巨大な頭が地面に落ちた。


 ごとりと重いその音が、生温い日常の終わりを告げる。



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