第48話 道の先
第三回世界会談。
それは終戦祭の傍ら、フェルディア首都の謁見の間にて行われた。同盟軍は徐々に母国へ引き上げ、その代表達が残って円卓を囲み、戦後の処理について議論している。
フェルディア王は全体の調停役に徹している。ルベリア王国大使は封印防衛を果たせなかった責任を問われて袋叩きだ。グラム王は連れてきた猫の蚤取りをするばかりで議論に加わる様子もない。だが考えている事は、どこの国も同じだった。
人間以外との戦いが終わった以上、次の予定は人間同士の戦いだ。統一国家ヴェリア実現の為に本格的な戦争を起こす必要がある。この平和会議はその戦争への下準備。良く知りもしない決戦での功績を奪い合い、旧魔族領をケーキを切り分けるように皆で分け合い、それを元に新たな秩序をこの世に齎す。これからは、彼等の時代が始まるのだ。
そんな会議の他に、今の状況を正しく理解している者がいた。
捕らえられたアルダノーム軍総司令、ベルマイアだった。
彼がいたのはフェルディア城地下深くの牢獄。長い階段を下りた先の、長い廊下の更に先。魔法で封じられた五重の扉の向こうに彼はいた。
陽の光が差さず、ベッド一つない無機質な部屋だ。四方の壁全てに冬の魔法が施され、更には手枷にも足枷にも冬の封印が刻まれている。万全の状態であっても脱出には手間取るだろう堅牢さだった。そこでベルマイアは、静かに瞑想に耽っていた。
その目が、静かに開いた。
「来客か?」
その言葉に答えるように扉が開いた。正規の方法で封印が解かれ、鍵を使って開けられている。面会など許されない筈。そう考えていた所で、ベルマイアより先に客が口を開いた。
「驚きましたね。あなたともあろう男が、本当に負けたのですか」
懐かしい声だった。意外な再会だが、どこかで予感していたようにも思う。来客は小柄なエルフと、その護衛のような金髪の騎士だった。エルフは彼が最も苦手とした女、騎士は決戦で彼を打ち倒した男だ。
「なるほどな。そう言う事だったか」
瞑想の姿勢を崩さないまま、ベルマイアは静かに微笑んだ。
「何か思う所でもありましたか?」
「惚けるな。その男に剣を仕込んだのがお前だったのだろう? 癇に障るが真っ直ぐな太刀筋、それにあの無手の技だ。俺とした事が、もっと早く気付くべきだったな」
「……無手の? ウィル、あれは使うなと言いましたよね。いえ、そもそも教えた覚えもありません」
「ご、ごめん。でもおかげで助かったよ、先生」
「後で話があります。それよりベルマイア、ここから出なさい。事情は道々話しましょう」
「断る」
即答だった。
「お前の事だ。処刑を待たず俺を秘密裏に逃がそうと言うのだろう。だが俺にここを抜ける気はない」
その答えにブリュンは顔をしかめた。分かってはいた。ベルマイアは剣士だが、魔術師としても破格の力を持っている。力技に訴えれば冬の魔法を破って脱出する事も出来た筈。それがこの様子だ。仮に全ての鍵が開いていたとしても、彼はここに留まっていただろう。
「俺は決戦という最高の場を得て、全力を出した上で敗北した。逃亡など道理に悖る」
「知っているのですか。あなたは近日中に処刑されるのですよ」
「俺の選択、俺の戦いに然るべき結末が用意されたというだけだ。当然の事だろう」
「当然、か」
ウィルは数歩距離を詰る。そしてそのまま、ベルマイアの正面に座った。
「当然とはどういう意味か、俺にも教えてくれないかな。貴方のいう選択と戦いで多くの仲間を失った。それを当然の一言で切り捨てられるのは、少し気に入らない」
「敗軍の将である俺に語るべき事などない。俺には俺の信念があった。そしてお前の仲間達にも」
「だから戦いになった。そうだね。じゃあその信念というのはなんだい?」
「剣を取る理由に説明を求めるな。名を聞く事もなかったが、私が斬った者達も……」
「シン・カドラだ。彼の名前は」
ウィルは真っ直ぐベルマイアを見つめた。ベルマイアも、それを見つめ返す。
「出身はローホーク、三人の仲間と共に山猫騎士団に所属していた。彼は妻を若くして亡くし、後は追いつくだけだといつも言っていたよ。ゲルブランド・エナンデル。ラビア王国で国落としと呼ばれていた騎士だ。随分と寡黙で丁寧で、真面目な人だった。ギブス・ヤンソン。グラム王国の騎士で山猫の一人だった。皮肉屋で現実主義者で、俺は苦手だったよ。でもグラム王の命令を待たずに彼が先行していなかったら、俺達は負けていたかも知れない」
「そうか。こうしてお前と言葉を交わすのは、初めてになるかな」
「ああ。俺も、ずっと貴方と話したかった」
「俺に残された時間もあと僅かだ。こうして会えたのは僥倖だろうな。それともお前が、その剣で俺の時間を終わらせるか?」
「そんな馬鹿な事はしないさ。彼等は騎士としてあの場に赴き、貴方は敵として彼等に応じた。そこに俺が口を挟む訳にはいかない。それでも、それとこれとは、別問題なんだ」
穏やかに言葉を交わしながら、ウィルの拳は握られたままだ。
ベルマイアは静かな眼差しで、それを見つめる。
「……青いな。だがその青さが、お前の強さの一端なのかも知れない。面白い事だ」
そう言って、ベルマイアは静かに笑った。
「さてブリュン。我が宿敵はこんな事を言っているが、お前の腹は違うのだろうな」
「勿論です。剣士の抱く幻想など私には欠片も興味がない。あなたが行ったのは紛れもない殺戮、責任を取って然るべきだと思っています」
「同意見だ。では帰るがいい。出口は後ろだ」
「ですがあなたは、頭を失った旧魔族軍が今どんな状況にあるか、知っていますか?」
その問いにベルマイアは顔をしかめた。穏やかだった空気が微かに張り詰めるが、ブリュンは構わず続ける。
「終戦後も魔族軍はその大半が生き残りました。彼らは五百年ですっかり変貌したこの世界を当ても無く彷徨っています。大義も野望もヴォルフと共に潰えて、ただ生きる為に殺して奪う。それを獣といいます。同盟軍が追撃し、いずれは害獣のように駆逐されるでしょう。しかし彼等はあなたが鍛え上げた精鋭、追撃部隊もただでは済みません。悲惨な事になる」
「それが敗北だ。勝敗が逆なら、彼等の未来はお前達の未来だった」
「ですがその未来は変えられます。カドム達は勿論、今もあなたを慕う者は大勢います。あなたが一声掛ければ誰もが集まるでしょう。魔族軍も人間達も、それで多くが救われ……」
「それはあの戦いに散った全ての者に対する侮辱だ」
底冷えする低い声がブリュンの言葉を遮った。
ベルマイアが、ゆっくりと立ち上がる。
「俺は、そこの騎士と違って討たれた者を哀れまない、討った者も憎まない。それが戦の倣いだからだ。だがだからこそ、俺一人がその道を外れる事など決して許されない。決してだ。お前がその考えに欠片も興味がないのは結構だが、俺の前でそんな口を利く事は許さん」
ベルマイアからは怒気が溢れているようだった。石壁にヒビが入り、地鳴りさえ聞こえる。いつ枷が弾け飛ぶかと、ウィルが思わずブリュンを庇った。だがブリュンは静かに言葉を紡いだ。
「……変わりませんね、ベルマイア。エルフの頃からあなたは根っからの騎士であり戦士だった。ヴォルフに忠誠を誓う前から、ずっと」
「エルフの白竜騎士団をこの手で全滅させた時、覚悟を決めた。あの男を世界の王にすると。その行く道をこの手で切り拓き、そして最後を共に迎えると」
「それがあなたの生き様ですか。しかし酷な事を言うようですが、あなたの命は、もうあなた一人の物ではないんです」
烈火のような表情のベルマイアに、ブリュンはそのまま語り掛ける。
「あなた個人の意思で散らすには、多くの物を背負い過ぎた。魔族軍はヴォルフの手で纏まりましたが、彼等が主と仰ぐのはあなた達、魔族全員なのです。あなたが自分をどう定義しようと、彼等の想いは覆らない」
「それをお前が決めつける資格はない」
「ならば否定しますか? 本当に、私は間違っていると思いますか?」
ブリュンの問いに、ベルマイアは答えなかった。
「戦いに挑んだ皆が知っていました。あなたがどれほど慕われ、敬われているか。それはこれからも変わる事はない。誇るべき事だと思います。同時に、重い事だとも」
「……彼等が、俺をどう見ているかは知っている。だが俺がそれを望んだ事はない」
「残念ながら、これは本人が望む望まざるに関係ありません」
「本意に反して訪れると? 覚悟も犠牲も溝に捨て、生き恥を晒してでも彼等に尽くし、導けと?」
「ええ。しかし向いていると思いますよ。主は従者を重んじ、従者は主を貴ぶ。それはあなたにとって、そんなに難しい事ですか?」
ブリュンは瞬き一つせずベルマイアを見つめていた。
ベルマイアは、そんな彼女を見て、とても嫌そうに笑った。
「お前は、本当に腹の立つ女だな」
***
「あら、遅れてしまったでしょうか」
その声は突然、謁見の間に響いた。
大扉を開け放って現れたのは、一人の年若い女だった。身に纏うのは式典用の質素なドレスだが、ほとんど肌が見えない漆黒の意匠は喪服のようでもあった。その姿は見間違えようもない。その黒い髪を、赤い瞳を、見紛う者などここにはいない。
「大変失礼致しました。どうぞお話を続けて下さい。すぐに私も加わらせて頂きますので」
「衛兵! この女を捕らえろ! いや、殺せ!」
恥も外聞もなく叫んだのはヴェランダールの大使だった。以前の会談の焼き回しのようだったが、この魔族は五百年も昔に犯した罪の象徴などではない。弁解しようもなく、今ここにいる彼等自身の恥部なのだ。だが闇に葬った筈のその歴史は、微笑みを称えたまま二本の足で優雅にこちらに歩み寄ってくる。見れば、大扉の向こうを固めていた衛兵は悉く倒れていた。円卓の一人が生唾を呑み込んで話しかける。
「……何をしに来た。どうやって、ここへ」
「どう、と言われましても。何やら手違いがあったようで会談開催の旨を知らずにいたのですが、城の方々に聞いたところ皆が親切に教えてくれたのです。平和が訪れて人の心に暖かさが戻ったのだと、大変嬉しく思っておりました」
そう言って魔族はコロコロと笑った。だが処刑される筈の女が刺客を躱して、しらばっくれて表に出てきたのだ。この場にいる全員が皆殺しにされてもおかしくない。ヴェランダールが喚き続ける一方で、なんとか話を長引かせる。衛兵が駆けつけるまでの時間を稼がなくては。
「連絡が遅れた件は、謝罪しよう。すぐに席を用意するとも」
「恐れ入ります。戦争が終わった今後の事を議論しようと言うのに、やはり私達アルダノーム王国が知らぬままでは済まされませんからね」
魔族は優雅な調子を崩さない。だがその言葉に円卓がざわついた。
「失礼、今、なんと?」
「ですから、戦争を引き起こしたアルダノームが参加しなくては、戦後の事をまとめるのも大変でしょうと申し上げたのですが?」
「ま、待て。お前達が、王国を?」
「いやですね、惚けないで下さい。あなた方同盟は私に力を貸して下さり、戦争を企てた前王ヴォルフを打ち倒してくれたではありませんか。おかげで我々魔族は旧大戦から続く呪縛から解き放たれ、こうして皆様と轡を並べ、共に生きていく事が出来るのです」
いくら感謝の言葉を並べても足りません、などと魔族は頭を下げた。だが円卓の大使達は真っ青だった。力を貸した覚えなどない。共に生きていくなどとんでもない。それに我々、と言ったのかこの女は。ヴェランダールの喚き声は今や城全体に響くほどだった。
「誰でもいい! 一刻も早く、この女を……!」
「会談中失礼を! 火急の報告がございます!」
とうとう大扉の向こうから現れた兵が、到着するなり叫んだ。だが彼が待ち望んだ衛兵でもなければ、その報告が朗報でもない事は明らかだった。
「地下牢に監禁中であった魔族、ベルマイアが脱獄しました! 目下城の全兵力をもって捜索中ですが、未だ発見には至っておりません! 皆様方も、急ぎ避難を!」
これ以上ない程混乱していた円卓が更に混乱を極めた。報告の兵はそこでようやく隣に立っていた女魔族に気付き、悲鳴を上げて逃げ出した。魔族はそれを他人事のように見送ってから、再度円卓に向き直った。
「やはりどこか誤解があるようですね。皆様、慌てずそのまま。彼はアルダノーム王国の次期国王となる男です。すぐにこちらまでご挨拶に参りますので、それまではこの私が代理という事で、どうかご容赦願います」
「く、来るというのか!? ここに!?」
「……? はい。勿論です」
その時、逃げた兵が呼んできたのか、今度こそ完全武装した衛兵達が大挙してきた。円卓を護るように壁を作り、同時に魔族を囲んでぐるりと円陣を組む。自分に向けられる無数の武器を見回して、魔族は少し残念そうな顔をした。
「どうやら、ご挨拶の機会は頂けないようですね。大変残念に思いますが、私はこれで失礼させて頂こうかと思います」
そう言って再度頭を下げる。その顔には焦りなど微塵もない。
「これより我等アルダノームは各所に散った旧魔族軍を迎えに回ります。大手を振ってこの場に戻れるだけの格と力をつけていく所存ですが、既に多くのカドム達が集まりました。そう遠くない内に再びお目にかかれる事と思います。その際は是非、心行くまで議論を交わしましょう。この世界の、真の支配者は、誰なのか」
ぎらりと光る赤い目を見て、合図を待たずに衛兵達は魔族に襲い掛かった。
だが突然、轟音と共に謁見の間の天井が崩れた。それは丁度、魔族の頭上。衛兵達が降り注ぐ破片から逃げ惑う一方、天井を破壊した張本人はその高さから女の隣に重々しく着地した。
「出迎えご苦労様です、ボルフォドール。時間通りですね」
その男は普通の人間の倍ほどもあろうかという巨人だった。長い黒髪を後ろで複雑に編み込み、手足が異常に長く、何よりも服の上からでも分かる鋼のような筋肉を纏っていた。まるで闘う為だけに作り替えられたような体だった。そしてその細長い耳は大きく横に突き出し、その目は悪鬼のように禍々しい赤色だった。見た事もない魔族だ。
手に持っていたのは、その巨体相応の大槍だ。それでドンと一突きすると、床にヒビが入り広間が揺れた。それだけで衛兵の誰もが、魔族に手を出せなくなってしまう。
「それでは皆様、ご機嫌よう」
最後に女は、優雅にその場で一礼した。
巨人が女を肩に乗せて走り去り、止まっていた時が動き出した。衛兵達は円卓の大使達の安否を確認し、逃げた二人を全力で追い、そして大使達は何がどうなっているのかと喚き続けていた。しかしグラム王は素知らぬ顔で黙々と猫の頭を撫で続け、フェルディア王は微笑みを崩さぬまま椅子から腰も上げなかった。
混乱する円卓をよそにフェルディア王、アルバトスは大扉の向こうに走り去った二人をいつまでも見送っていた。その姿が見えなくなっても、いつまでも見送り続けていた。
そして最後に、誰にも聞こえないほど小さな声で、呟いた。
「さらばだ、我が友よ。この私に人の可能性を思い出させてくれたお前に、心からの感謝を」
***
「おかしい……」
僕は全力で走りながら、今の状況を振り返る。
以前も似たような事があったような気がする。
何故だろう。何故いつもこういう事になるんだろう。
「別におかしくはないわよ。あ、次の横道を左に入って、すぐに右ね」
迷路のような宮殿の中、僕は肩にレイを乗せたまま無様に逃げている。
頼りはレイの指示だけだ。足を止めれば後ろから追いかけてくる人達にすぐにでも捕まってしまう。もし捕まりでもしたら、考えたくない。まっぴらだ。殺される。それならまだしも、やる気を出したレイが返り討ちにして取り返しのつかない事になりかねない。
絶対おかしい。
こんな予定だったっけか。
「あのさレイ! やっぱり違うよね! 書置きだけ残して僕らはこっそり逃げるとか、そんな計画じゃなかったっけ!?」
「馬っ鹿ねぇ。そんなつまんない方法取って何が面白いのよ。我等がアルダノーム王国復興を派手に印象付けるのが目的なんだから、派手に登場して派手に退場するのが良いに決まってるじゃない」
「最初からそのつもりだったのか!」
このお姫様が無難な手段に出ると思っていた僕が馬鹿だった。
どうも城中の衛兵が押し寄せているらしく、とにかく凄い数だった。共犯の筈のアルバは僕らに手心を加えてくれるつもりは毛頭ないらしい。むしろ割増しで兵を出してる感すらある。絶対に許さない。それにしても、この宮殿でまた走り回る事になるとは、思ってもいなかったな。
そうこうしている内に道を塞がれ、目に見える全方向から兵が走ってくる。
「ああ、くそ!」
他に手段はない。僕はやむなく槍を振るって正面の兵を薙ぎ払った。この巨体と大槍から繰り出される一撃は信じられないくらい重くて、完全武装の重歩兵がまとめて吹き飛んだ。
「やるじゃないクライム。その調子で頼むわ」
「この体が強過ぎるんだよ。ボルフォドールって、この槍の元の持ち主だった魔族だよね。言われるがままに再現したけど、本当にこんな姿だったの?」
生き残りがまだまだいると見せる為に、僕が魔族の姿をとる事は最初から予定していた。ボルフォドールは旧大戦では同盟側、レイの味方だった人らしい。顔はこんな感じで腕はもう少し長くて、とレイの注文を受けながら苦労して出来た姿がこれだ。
見た事もない姿を完全に再現する事は出来なかったから、どうしても僕の記憶にあった姿が元になってしまった。中でもレイの印象と一番近かったのは、嫌な思い出だけどフレイネストで戦った不死身の巨人だった。アレクの剣もマキノの禁術も通用しなかった最悪の怪物。その姿は僕の目に焼き付いている。
でも実際そう思いついてから完成までは早かった。むしろレイは、自分の記憶にあった姿よりも彼らしいと太鼓判を押してくれた。
「ふふ。自信を持って。誰がどう見たってドールそのものよ」
「そっか。でもなんでだろう、不思議だね」
「ええ、本当に不思議よね……。そうだクライム。私、首都を脱出したらロナンの森まで出かけるから。槍も持っていくわね」
「それ今言う事? まずは無事に城を出てからにしてよ。ほら、出口だ」
そのまま兵を蹴散らして城を飛び出した。
案の定、城の外も衛兵で埋まっていた。しかも遠くには城を取り囲む一つ目の城壁と、その向こうに二つ目の城壁も微かに見えた。以前外から忍び込む時も苦労したけど、中から逃げ出す今も厄介な障害だ。まずはこの兵達からだ。
「突破する! レイ、掴まれ!」
「その必要はないわ。先に片付けてしまいましょう」
空にかざしたレイの右手から火の玉が打ち上げられた。それを合図に、大勢の黒マントがそこら中から湧いて衛兵達に襲い掛かった。黒いフードに黒い覆面で、どんな顔かは全く見えない。でも悪そうな恰好で魔族面している彼等が誰なのか、すぐに分かった。
「ちょっと、何やってるの!?」
黒マント達は一瞬顔を見合わせるけど、肩をすくめて戦いを再開した。
間違いない。山猫騎士団だ。
「何じゃないでしょう? 私を助け出す作戦を彼等と一緒に立てたのは君よ」
「でもそんな必要なかったじゃないか! 作戦は中止だってみんなには言ったんだ!」
「その後で、やっぱりやるからって言っておいたわ」
「何だって!?」
見ればフードの下に見える彼等の目は血のように赤かった。そして全員の髪が黒くなっている。変装、というより魔法の域だ。魔法使いの協力者がいる。そんな人間を引っ張って来れるのは。
「くそ、アルバか。あいつ本当に碌な事しないな」
「まあまあ、みんな伊達にあの戦いを経験してないわ。それより私達も急ぎましょう。今頃城の反対側で、私達とは別の女と大男の二人組が暴れてるから、その隙にあの城壁だけでも抜けておかないと」
怪我人だったリューロンとナルウィまで引っ張ってきたのか。でも文句を言っても始まらない。僕はみんな無事を祈りつつ、真っ直ぐ走って槍を振るい、閉じかけの城門を破壊して外に出た。次は第二の城壁だ。でも後ろからは数人の衛兵が山猫達を振り切って追ってくる。まずは彼等を倒してから。
「おらぁ!!」
そう思っていた時、城壁の上から誰かが飛び降りてきた。踏み台にされた兵が潰され、残りも瞬く間に蹴散らされる。出鱈目な戦い方だと思えば、やっぱりアレクだった。遅れてフィンを抱えたマキノが馬を走らせてきた。メイルも叫びながら一人で馬に乗っていたけど、アレクがそれに飛び乗って手綱を代わった。
「あ、ありがとうアレク! もうだめかと思った!」
「はいはいお疲れ様。ところでメイル、首尾はどう?」
「えっと、舗装作業とか訓練中とか理由をつけて、道はあちこち封鎖するようお願い出来たよ。ここから先は、あまり兵隊の人とは出くわさないと思う」
「上出来ね。マキノは?」
「いえ、それが上手くいかなくてですね。あ、来ましたね」
直後、背後で氷山が地面を破って突き出した。
僕らは揃って馬を急がせた。時折空から氷塊が降って来るのを何とか避けるけど、僕らを狙って撃っている訳でもないようだった。なら本人はどこにいるのかと見回すと、少し離れた家屋の上にいた一組の男女が目についた。
「待て! 話は終わっていないぞ!」
前の女性を追っているのは冬の魔法使いだった。
牽制するように氷を放ちながら、空を飛んで追いかけている。
対して前の女性は屋根の上を飛び跳ねて逃げていた。その体は羽のように軽くて、飛石で川を渡るような軽快な足取りで街を駆けている。
彼女は冬とよく似ていた。透明に見えるほどの純白の長髪に、薄手の布を重ねて流したような白い服。よく見れば、その手には針のように細く身の丈よりも長い氷の杖を持っていた。舞踏会で見た。氷雨の魔法使いだ。
「おかしいですね。彼女にはただ、あの男を足止めするよう頼んだだけなのですが」
「それがどうしてこうなるの!? 何か変な事でも吹き込んだんじゃない!?」
「クライム、あんまり深く聞いたらだめだよ。ほら、マキノにも色々あるんだし」
「何言ってるのメイル。というより何で少し顔が赤いの?」
「無駄口叩くなお前等。もう二番目の城壁も抜けるぞ」
城壁の先は、もう住宅街だった。
そこに、一人の山猫が立っていた。
「……あれ?」
誰だろう。簡素な服に、皆と同じ黒いマントを羽織った男。鞘に収まったままの剣をだらりと下げて僕らを待っている。フードに隠れて、顔はやっぱり見えない。妙な雰囲気の男だった。違和感というか、威圧感が。
「危ない!」
レイの注意も間に合わず、僕らは足元から突き出した氷山の直撃を食らった。僕の足が地面を離れ、みんなが馬から投げ出される。冬の攻撃は止まらなかった。辺り一帯、全ての地面から矢継ぎ早に氷山が生み出されいく。冬が僕らを完全に捉えていた。
僕はレイを抱えて空中で体勢を立て直す。マキノも居眠りしていたフィンを宙で捕まえた。でもメイルがかなり高くに弾き飛ばされた。アレクは突き出る氷を踏み台にして、必死にそれに手を伸ばす。
その時。街にいた山猫がたった一歩で距離を詰め、僕らを掠めて信じられないくらい高く跳躍した。そのまま片手でメイルを捕まえ、片手で剣を抜く。そして、振るった。その一撃で真下の氷山が地面ごと両断された。遅れて吹き付けた突風で、僕らは揃って飛ばされる。
「誰!?」
山猫にこんな規格外の剣士はいない。一瞬ジーギルを疑ったけど、彼は隻腕だ。でも答えるより先に、着地した拍子に彼のフードが取れて顔が見えた。
中性的で、整った顔立ちの男だった。
波打つ黒い髪に、鋭い耳、そして赤い目。
その腕に抱えられていたメイルが、彼を見上げて絶句した。
「ベルマイア!?」
「我が身は、一振りの……」
僕らを無視してベルマイアは片手で剣を構える。目の前には次々と生み出される冬の氷山が迫っていた。メイルが思わずベルマイアにしがみ付き、僕も咄嗟にレイを庇った。
「剣」
凄まじい衝撃が走り、見渡す限りの氷山が粉微塵に砕けた。
顔を上げると、冬の魔法は完全に消し飛んでいた。切り刻まれて、小石程度にまで分解されている。剣をどう振ったら、鉄より硬い氷がこんな壊れ方をするんだろう。
ベルマイアは剣を鞘に収め、メイルを抱えたまま僕らに向き直った。
少し僕を見つめて、レイに、彼女の持つ槍に目を留める。
「その槍、ドールの物か」
「そういう事よ。御感想は?」
「因果なものだ……。お前は変わらないな、レイ」
「そう言うあなたもね、ベル」
二人が交わした言葉は短かった。
でも合図される訳でもなく、僕らはまた街の外へと走り出した。振り返れば、城壁内で兵を足止めしていた山猫達が遅れて走ってきて、ばらばらに町中へ散っていた。目立つマントを脱ぎ棄てれば、彼等は街に溶け込んでしまう。追うのは無理だろう。
もう誰に邪魔される事もなかった。
後ろから衛兵が追いかけてくるけど、僕らには手が届かない。
そして僕らは、魔族の脅威を散々に円卓に植え付けた上で、そのまま無事に首都を脱出した。
***
「それで、まんまとフェルディア軍の追撃を振り切った訳か。しかしそれほど多くの恐るべき馬鹿共の力を借りたとは、お前も随分と大物になったものだな」
「ええまあ、そんな皮肉が来るんじゃないかと思っていましたけどね」
「そう不貞腐れるな。これでも褒めているつもりだぞ?」
そう言われても信じられない。僕の知り限り、この世界で一番胡散臭いのはマキノだけど、二番手は間違いなくこの情報屋だ。今まで何度手玉に取られたか。いや、違うか。今までずっと、手玉に取られ続けていたのか。
「あれから、もう二十日も経ちますか」
そんな言葉が零れて、林檎酒の入ったコップを少し傾ける。
ここ、商業都市ケネスは比較的新しい街だ。昔からの伝統や習慣がない分、どんどん新しい物を取り入れて今も大きくなり続けている。首都からの目も少なくて、一時的に身を寄せるには丁度いい。それもレイが用事を済ませるまでの、ほんの少しの間だけだ。
「しかし、王都にいるとは聞いていたが、まさかここまで掻き回していたとは。ふふ、実に面白い」
「人聞きの悪い。僕だって好きで掻き回した訳じゃないですよ」
「本当か? 私に隠しているだけで、まだまだやらかしているのだろう?」
「物好きですよね、エリックさんも。その気になれば自分で何でも調べられるくせに、わざわざ当事者の口から聞きたがるんだから」
「物語には鮮度がある。人伝手に聞いた二次情報など腐った果実と同じだ。本人から聞いてこそ瑞々しい話が得られるというものさ。ましてお前の、話ときたら」
そう言って彼は無精髭を撫でながら笑った。
非常に不本意だ。僕は空になったコップを突き出した。
「もう一杯ください」
「いくらでも」
そう言って店主に呼びかける。
でも最初から狙っていたんだろう。魔族との決戦なんて、この情報屋が見逃す筈がない。実際、この街に落ち着いた僕が馴染みの連絡手段を使ったら、彼は待ってましたとばかりに飛んできた。指定した飲み屋で情報料として僕に色々と奢り、周囲には内緒話用の魔法。なんも変わらないなこの人。
エリックさんは暫く今までの情報を速記でまとめていた。そして赤っぽい髪を乱暴にかき上げて、おもむろに紙を新しく取り替えた。
「さて、それでは具体的に何をどうしたのか、詳しく話してもらえるか」
「詳しくは話せませんよ。あと飲み物は返しません」
エリックさんは一瞬で新しく来たコップに手を伸ばしたけど、僕はそれよりも早くコップを取って遠ざけた。もう長い付き合いになる筈だけれど、なんかこの小芝居は毎回やってる気がする。簡単にだけなら、と前置きして僕は事の経緯を説明した。
「アルバめ。本当に、何考えているのか分からないですよ」
「何を言うか。フェルディア王本人から説明を受けたのだろう?」
「難しすぎて半分も分かりませんでした。噛み砕いて言うと、同盟を存続させる為だったらしいですけど」
魔族という外敵の存在から、再び団結した北方諸国。その団結を維持するには外敵はむしろ必要だったらしい。アルバの野望、武力を使わない国土掌握の為には、まずは盟主としての立場を最大限利用し、同盟国を片っ端から食っていくのが最適解なんだとか。
「乗り越えるとか団結とか、人の可能性なんて欠片も信じてないあいつが、よくもぬけぬけと……」
「私はアルバトスと直接面識がないから何とも言えんが、事実同盟は成立していたのだ。利用しない手はないだろうさ」
「盟主の席なんて蹴落とされるかも知れないじゃないですか。そんなに上手く利用できる物なんですか?」
「フェルディアの席は当面安泰だ。王の騎士の手に、アルカシアの剣がある限りな」
ウィルの剣? 何の関係があるんだろう。
そう考えるとエリックさんは露骨にため息をついた。
「始まりの王ヴェリアには二人の息子がいた。兄王フリアルが黄金の剣を持ち、弟王ヴェルアルが白銀の剣を持っていた。つまり黄金の剣とはフリアルの継承権に他ならない。王の騎士がそれを使い決戦で功績を上げた以上、もう取り上げるのは不可能になった」
「そんな昔の事を……。しかもそれ、人間がでっち上げた作り話じゃないですか」
「だが人間達の間では正史だ。そういう話をしているのさ、彼等は」
「ええ、まあ、うん、そうでしたね」
「グラム王国に白銀が渡ったのも頷ける。あれを覇権争いの鍵と捉えるか、自らを弟分とする枷と捉えるか、それは判断に迷う所だ。その分あの国は統一戦争に無関心だし、妥当な落とし所だろうな」
まったく、本当にそんな事しか考えていないんだから。
「まあ、王や盟主が誰になろうと、市井の人々には関係のない事だ。同盟のおかげで統一戦争は沈静化し、この街のように平和になった場所も多い。私のような流れ者にとっても、喜ばしい事だ」
「喜ばしい、ですか」
つられて僕も、店の外を眺める。
街の人達は魔族が倒された事には今も半信半疑で、少し怯えながら暮らしている感もある。でもすぐに慣れるだろう。通りでは多くの人達が話し合い、仲睦まじく腕を組んでいる人や、酒を飲んで喧嘩している人もいた。ここは人の温もりで溢れている。複雑な気分だった。
「そういう事、あなた達も考えるんですね」
街の活気は、まるで別世界の出来事のようだった。
道行く人達が、まるで小さな舞台の人形のように見えた。
「ここへ私を連れてきたのは、過去の恨みを忘れないようにする為か?」
エリックさんは変わらず紙に何か書きながら、普段通りの声色でそう言った。
僕も変わらない調子で、林檎酒を一口飲む。
「そんなつもりは、ありませんよ。ただ、こう。すっきりしたいんですよ。自分の中にあるとっかかりを外に吐き出して。それにエリックさんとこの話をするなら、ここ以外にあり得ないと思ったんです。僕自身の心を、整理するためにも」
僕の言葉を、彼は静かに聞いていた。
街のざわめきが、遠く聞こえる。
「僕に今更、あなた達をどうこうするつもりはないんです。バルサザール、僕はあなたを許しません。でも責めもしない。そう決めたんです。自分なりにけじめを付けたら、それ以上は引き摺らないって」
かつて、ここにはケプセネイアの村があった。
四体の炎竜によって焼き滅ぼされた僕の故郷。あの夜、僕は全てを失くした。ここは草木の一本育たない不毛の土地になった。そして長い年月が経ち、命が芽生え、そして新たな街が出来て人々が暮らしている。でもここには、この土地のどこかには、サラの遺灰が埋まっている。僕の父さんも。
「あの時」
記憶は朧気だ。でも思い出して、言葉を続ける。
「父さんと戦っていましたよね。僕の父さん、最期何て言ってました?」
「モルテンの、言葉か」
ごく自然に、彼は父さんの名前を口にする。
これだけは聞こうと決めていた。ナクラヴィーや他の炎竜の思惑は知りたくもない。でも彼の、エリックさんの事だけは、知っておかなければならない気がした。心が壊れたまま世界を彷徨っていた僕をずっと見守り続けていたのが、彼だったから。
彼は暫く黙っていた。
そして僕に向き直って、言った。
「『忘れた』」
ただ、一言。
惚けたような調子で、彼はそれだけ言った。
「……はは。そうですか」
僕には何も語らない、そういう話になっているらしい。あの時、夜空で戦う父さんにはサラを失った僕の姿が見えていたんだろうか。その僕を見て彼と何を話したんだろうか。自分を取り戻した僕がこうして彼と話すのも、見越していたんだろうか。
昔からそうだ、あの人は。適当でいい加減で、何でもかんでも僕に丸投げする。本当に真面目になった姿なんて、僕に見せた事があっただろうか。結局最後までその調子だ。でも僕は話したい。あの夜、どんな気持ちで僕を送り出して、どんな想いで炎竜に挑んだのか、父さんに直接訊いてみたい。全ての、答えが知りたい。
「その答えも、自分で見つけろって事か……」
「すまんな、近頃は物忘れが激しい。私も歳かな?」
「歳でしょうとも何百歳か知りませんけど。もういいですよ。好きにすれば」
「行くのか?」
「ええ。もうすぐ遠出していた仲間が帰ってくるので」
「つれない奴だ。たまには酒の相手をしてくれてもいいだろう」
「飲ませた所で出て来るものはありませんよ。これも誰かの入れ知恵ですけど、情報屋と話す時は」
「盗賊よりも用心しろ。ふふ、仲間に恵まれたな」
リブロの村に行ってオデオンの墓に参り、彼の店にも顔を出した。キアランと侯爵の妹、二人の子供達の姿も見た。そしてここにも帰ってきた。思い描いていた物とは違ったけれど、僕の旅の目的は果たされ、何か、区切りも付いたのだろう。
でもそれで終わる訳じゃない。
新しい関係は、とっくに始まっているんだから。
「それでは失礼します。また、どこかで」
「ああ、またな」
今までと変わらず、怪しく魅力的な顔で、彼はそう笑った。
***
合流場所は街のすぐ外と決めていた。
僕が着いた頃には、もうみんなが揃っていた。フィン、メイル、アレク、マキノ。それとウィル、ブリュン、最後にベルマイア。そして遠くから、こちらに歩いてくる人影が見える。身の丈程もある長い槍を抱えた女の影。レイだ。
「レイ! おかえりなさい!」
良く通る声で、メイルが手を振った。つられてレイが嬉しそうに駆け寄ってきた。どんな用事だったかは知らないけど、随分早く済んだみたいだ。魔族の翼を使えばどこへでも一っ飛びだろうけど。
「ただいまメイル。それにクライムとその他も」
不死殺しの槍を抱えて、レイはいつも通り茶化した様子で笑った。でも目に見えて違っていた。髪を切っていた。腰の辺りまであった長い黒髪が、首が見えるほどの長さにまでばっさりと。まじまじと僕が見ていると、それに気付いたレイが微笑んだ。僕もつられて笑う。
「似合うよ」
「ふふ、でしょ?」
そんな軽口で流した。
僕だけじゃない。彼女も、何かに区切りをつけて来たんだ。
「終わったのですか、レイ」
「ええ、ブリュン。ようやく全部ね」
「ボルフォドールの様子はどうでした? 死体を蜘蛛に弄ばれて、怪物に成り果てていたと聞きましたが」
「その蜘蛛が死んで、彼の呪いも解けていたわ。面目ねぇって謝られちゃった。彼の不死にもこの槍が効いたから、事の顛末を話して、そのままロナンで眠らせたわ。そうだアレク、彼から君に伝言よ。「見事」ですって」
「あ? 誰だよ、そのボル何とかって」
「彼の男、死して尚衰えず、ですか。彼らしい最期ですね……。いえ、分かりました。それでは私達はここでお別れです。慌ただしい旅にもなりますし」
ブリュンの後ろには、軍用の鋳造剣を携えたベルマイアと、二本の剣を持ったウィルが護衛のように立っていた。二本の剣、黄金の剣アルカシアと、黒鉄の剣アルノダイトだ。背筋が寒くなるような最強装備だけど、そのまま二本とも使うつもりではないらしい。
「あのさウィル。結局、黒鉄はどこかに預けるって言っていたけど、場所は決まったの?」
「ああ。こんな物を持って歩くなんて怖くてね。まずはそこからかな、先生」
「当然です。私達はまず南に向かい、コークスという街を訪れようかと思っています」
うわあ懐かしい。
闇小人の鉱山でレイの指輪を拾った街。
僕等にとっては、全ての始まりとなった思い出深い街だ。
「でも、なんでそんな所に? 剣はエルフが管理すればいいんじゃないの?」
「エルフとはいえ強大な力を持てば驕りも芽生えます。この剣は、闇小人に託すつもりです」
「闇小人!? それはやめた方がいいよ!」
メイルが思わず抗議した。
そうだった。地中の賢者は、闇小人が嫌いだもんな。
「あいつらになんか渡したら、宝物庫の奥の奥にしまわれて永遠に陽の目は見ないよ? 実際、ボクらがあの鉱山から首飾りを盗ってくるのに、どれだけ苦労したか……!」
「はいメイルさんそこまでですよ余計な事は言わないで下さいねー」
「盗ってきた? アレク、彼女は一体何の事を言ってるんだい?」
「知るか。そんな昔の事は忘れた」
ウィルが首を捻っているけど、ここは置いておこう。
ブリュンも構わず話を続ける。
「あなたの懸念も尤もですが、だからですよ。この剣は、歴史の表舞台に早々姿を見せていい代物ではないのです。眠りにつくのが、相応というものです」
「まあ良いんじゃない? 元はヴォルフが闇小人に無理矢理作らせたものだしね。それに、あいつらに貸しを作っておくのも悪くないわ。ついでに何か作ってくれるかも」
「そんな邪な事を考えているから、あなた方魔族は彼等に嫌われるのです。しかし、本当にいいのですね? 御父上の、ただ一つの遺品ですが」
「いいのよ、そんな物。これもあるしね」
そう言ってレイはポンポンと槍を叩いた。ブリュンは珍しくレイを気遣うような顔をしていたけど、分かりました、と頷いて踵を返した。
「ではそろそろ出発しましょう。夜になる前に山を越えておきたい所です」
「分かった。それじゃあみんな。元気で」
最後のウィルが駆け寄ってきた。手を差し伸べられる。僕はそれを取った。
「色々ありがとう、ウィル」
「こちらこそ。また会おう、クライム」
三人は馬で南へ駆けていった。ブリュンは一族の過去にけじめをつける為に。ウィルは王の剣をあるべき場所に返す為に。ベルマイアは滅びた王国を再興する為に。三人で厳しい旅に臨んでいく。目の前に広がるのは彼方まで続く草原。まるで新しい伝説の始まりを見ているようだった。
「では、私達も次の目的地を決めないといけませんね。少しお時間を頂けますか?」
そう言ってマキノは地図を取り出した。宿に戻って話してもいいんだけど、周囲に誰もいない城門前は相談事には丁度いい。風で飛ばないようにマキノは地図を地面に置いて、つられて僕らもその周りに腰を下ろした。フィンも傍で蜷局を巻いて、メイルは鞄から大きな本を取り出す。誰かの旅行記とかかな。
これからの新しい道筋を決めるための、いつものやりとりだ。
風が草原を吹いている。どこまでも駆けていく。
空はとても青くて、その中を雁の群れが飛んでいた。
「気持ちいいね」
「そうね」
僕は思わず、そこで横になる。
草が頬をくすぐり、土の良い香りがした。
隣ではレイがのんびりと腰を下ろしていた。どこか、懐かしい感じがした。どうしてだろう。つい最近こんな夢を見たような気もする。どんな夢だったかな。
「さて、よろしいですか」
マキノはここ、ケネスを中心にして見やすいように地図を広げていた。
「とりあえず首都から離れる方向になりますが、ただ逃げるのも芸がない。どこか希望はありませんか?」
「逆なら私あるわ。東はやめましょう、絶対に」
「東? ヴォルフの城があった方?」
「ええ。城の更に東に大きな山があるんだけど、どうやらそこにフェンリルが住み着いているらしくてね。山の主を喰って、完全に居座ってるみたい」
「あの獣畜生いい身分だな。今度会ったらギタギタのバラバラにしてやる」
「されるの間違いだろ。ところでマキノ。冬と話はつけてきたんだろ。そろそろどうだい?」
「つけてきた、というと語弊がありますよフィンさん。しかし、そうですね」
「以前ボクにも聞かせてくれた話? 魔法使いだけが住む、魔法使いの街。区切りがついたらもう一度行ってみたいって言ってたよね。えーっと」
メイルはそこで旅行記を開いた。
「そうそう、確かラビアとの国境付近だね。フィン、ちょっと地図に印付けてくれる?」
「はいはい、分かったよ」
メイルは本をバサバサとめくりながらフィンに色々話していた。メイルの参照していた本。何故か表紙にも背表紙にも何も書かれていなくて、中にもびっしり文字が書き込まれていて僕には読めない。何故か、少し読むのが怖かった。でも、訊かずにはいられなかった。
「……メイル、さっきから何を読んでいるの?」
僕がそう訊くと、メイルは少し恥ずかしそうにして、答えた。
「ボク達の物語」
道の先から吹きつけた風に煽られて、本の頁がパラパラと先へめくれていく。メイルが書き込んでいたのは序盤だけで、途中からはまだ白紙だった。
「少し考えてたんだけど、ボクもいつか故郷に旅の話をしたくてさ。色々と書き留めておいた方が分かりやすいかなって」
「故郷か。メイル、リュカルの里に戻るの?」
「いつかは寄るよ。それで里のみんなにボクの旅を、外の世界を自慢するんだ。聞いているだけで胸が踊るような話をね」
「物語には鮮度がある、か」
「エリックさんだね。ボクもいつか会ってみたいよ。でもその通りだと思う。ボクは本が好きだよ。でも本はどうしたって過去の話だ。埃と黄昏に覆われて、いつかは人知れず朽ちてしまう。壮大な物語も、凄惨な物語も、いつかは誰に知られるともなくゆっくり土へと還っていく。それでもボクは、ただ頁をめくるだけで悲しみや喜びが溢れてくる、そんな本を書きたいんだ」
「それが、メイルの夢なんだね」
「そんな大層な物じゃないよ。でも大事な事は書いておいた方が何かと便利でしょ? マキノの弱みとか」
「おや、何の話ですか?」
メイルは煽られた頁を戻していき、戻していき、さっき見ていた頁まで辿り着いた。そこにはまさに今の相談内容が記されていて、見開きの途中まで文字は続いている。
そこにメイルは、
新しい文字を書き足した。
「……そっか」
自然と顔がほころんだ。メイルの綴る物語。これから、どんどん続いていくんだな。一冊で足りればいいんだけど。
「メイル、印はつけ終わったよ。次はどうするんだい?」
「ちょっと待ってね。今進みやすい経路を考えてるから」
「楽しそうですね。ところで本当に目的地はそこで良いんですか。クライムさんはどう思います?」
「僕は良いと思う。マキノや冬以外の魔法使いがどんな人なのか、会ってみたいし」
「じゃあ決まりね。覚悟なさいよマキノ。これから根掘り葉掘り、君の事を掘り返してやるんだから」
「その時は等価交換といきましょうレイさん。私を敵に回して唯で済むとお思いで?」
「毒蛇同士の共食いみてぇだなおい。ちっ、面倒な連れが増えやがった」
言い得て妙だな。でもこういう他愛のない話をしているのは、それだけで楽しいな。それに、仲間達と一緒にこうして旅が続けられる、そんな当たり前の事がなんだか無性に嬉しかった。足を止めている暇なんてない。まだまだ、道は長いんだから。
「さて、と」
まずは下宿に戻って下準備だ。フェルディアに住み着いていた今までとは違う。またしばらくは、一つの場所に留まらない長い旅になる。しっかり準備を整えておかないと。
***
麻のシャツに袖を通した。いつも着ている白い服だ。上から手早くボタンを留めて、ベルトも少しきつめに締める。
腰にナイフを仕込む。右に一本、左にもう一本。そして上に一枚外套を羽織った。腕の辺りについているベルトを締めて体に合わせる。パンと叩いてシワを伸ばした。
皮手袋を取って左右につける。きっちりはめて穴から指を通し、何度か握って確かめた。
使い古した皮のブーツ。つま先で床を突いて足を合わせる。順番に靴紐を締めていって、最後にぎゅっと縛り直す。
立て掛けていた剣を取る。鞘から抜いて、一度振る。歯こぼれが無い事を確認すると、鞘に戻して腰にさした。
準備は終わりだ。
擦り切れた荷物はみんな捨てて、大分背中が軽くなった。
旅を始めて、もうどれ位になるか分からない。
それでも、この瞬間の緊張と不安は慣れる事はなかった。
目指すのは遥か西。山猫達とは違う方向へ進む事になる。
みんなと挨拶は済ませた。きっとまた、どこかで会えるだろう。
「……」
もう僕は、後ろを振り返らない。
そして一歩、前に足を進める。
目の前の道はどこまでも、どこまでも、遠くへと続いていた。
変わり者の物語 完