第46話 決戦(後編)
「打ち砕け! アルカシア!」
「切り裂け! アルギュロス!」
金と銀の光が戦場に迸り、巨大なドラゴンの前脚が吹き飛んだ。
体勢を崩した城のドラゴンは、灼熱の煙を口から吹きながら徐々に前のめりになっていき、地響きと共に倒れた。切り落とされた右脚も地面を転がり、砕かれた城の欠片が周囲に飛び散る。
「ざまあ見やがれ。いつまでも高い所から見下してるからだ」
「だがここからが勝負だ! アレク、行こう!」
アレクとウィルはすぐに倒れたドラゴンに向けて走り出した。
倒れたと言ってもドラゴンの力はここからだ。山猫達は城の怪物達を相手にしつつ、たった今生まれた欠片を怪物化する前に叩いていく。だが前脚だけはどうにもならない。脚と言っても屋敷より大きいのだ。粉々に砕く暇などなく、それはすぐに動き始めた。
幾つもの長い突起が勢いよく生えてくる。それが地を踏みしめ、拳を握り、飛んでくる槍を払った。そして体の形が落ち着くより先に、低い唸り声を上げて騎士達に襲いかかる。ヴィッツは思わず叫んだ。
「あんの馬鹿共! なんて置き土産を残してくのよ!」
暴れ始めた城の怪物は、双頭の巨人だった。
四本の脚で体を支え、四本の腕に四つの武器を持って暴れる全身鎧だ。
武器を扱う怪物など初めてだ。山猫達は頭上から矢継ぎ早に振り下ろされる大剣大槍を必死に捌き、僅かな隙をついて仕掛けていく。だが異常に手強かった。加えて怪物は他にも山程いる。獅子、山羊、蜥蜴、大百足と様々な姿をした城の怪物達が、ドラゴンの傷口から嫌というほど押し寄せてきた。
アレクとウィルはそれを倒しながら走り続ける。目指すはヴォルフのいるドラゴンの頭上。倒れているとはいえ、この巨大なドラゴンを素手でよじ登るしかない。どこか登りやすい所を、と見回した所で妙な物に目が留まった。
「おい何だあれ、階段があるぞ」
「横倒しで登れそうにないけどね。でもそうか。城の破片が合わさって出来たドラゴンだ。階段や通路があちこちで丸ごと残っているのかも知れない。途中で行き止まりにはなるだろうけど……」
「ブチ抜いて突っ切る!」
「よし、中を通ろう! 壊しながら進めば、ドラゴンが動き出すまでの時間も稼げる!」
言うが早いか、二人の剣が強く光る。
すぐさま横腹を粉砕して突入した。
薄暗い、城のドラゴンの体内。そこでは上下逆さの大回廊が捩じれながら伸びていた。天井では大扉が下向きに開け放たれ、足元では無数の巨像がひしめき、全てが無秩序に組み合わさっている。まるで悪夢の中だった。二人はその中を走り、壁を壊して階段を駆け上がり、続く障害を全て破壊しながら唯ひたすら上を目指した。
だがそれで稼げる時間は僅かだった。砕かれた右脚もすぐに修復され始め、そして倒れたドラゴンはゆっくりと地面から頭を上げる。その口からは、再び火の粉が散り始めていた。
***
戦場で戦う兵に、この場で戦う全ての者達に、城のドラゴンは見えていた。
だがそれどころではない。黒の軍は完全に勢いに乗っている。同盟軍本陣から飛んでくる戦術により辛うじて戦線は維持されているが、一度でも崩れればそこまで。あとは地滑りのように全てが崩壊する。ここが分岐点だ。
そんな戦いの最中、兵の一人が不思議なものを目にした。
場所はドラゴンに近い、黒の城の麓近く。
そこで一人の男がふらふらと歩いているのが見えた。
余りに無防備な男だった。麻のシャツを着た若い男。鎧どころか武器の一つも持っておらず、そして服は不自然にも汚れ一つない。この戦場のド真ん中に、無関係な村人が放り込まれたような異質さだった。夢でも見ているのかと兵は己の目を擦る。だが確かに男はそこにいた。実際、多くの兵達がその男を目撃していた。
そんな彼らの疑惑も他所に、男はひたすら歩いていく。
遠くに見える、城のドラゴン。
その頭上の人影を、しっかりと見据えて。
***
ドラゴンの背中を白銀の光が中から吹き飛ばす。
こじ開けられた穴から煤だらけのアレクが姿を現した。
一面に広がっているのは廃墟になった都市だった。建物という建物が崩れて酷く見晴らしがいい。巨大なドラゴンの背中だとは思えなかった。滅びた世界に迷い込んだかのようだ。その世界の遥か先に、彼はいた。
「そこか!」
アレクが切り込んだ。黒い剣を携えた赤い目の男。実際に目にするのは初めてだが、それでもその瞳は、確かに岩のドラゴンと同じ色をしていた。白銀の光を全開にする。狼といい魔王といい、不死身の相手にはうんざりだ。すぐに叩き斬ってくれる。
ヴォルフが黒鉄を振り上げる。
だが次の瞬間、ヴォルフは足元から噴き出した黄金の光に呑まれた。途中からアレクとは別の道を辿り、真下から仕掛けたウィル。その延々と放たれるアルカシアの一撃がヴォルフを焼き続け、その間にアレクは距離を詰める。
そしてようやくウィルの光が途切れた所で、今度はアレクの剣が追いついた。全力の銀の光。それは斜め上から一気にヴォルフを両断した。
「ちっ」
アレクが舌打ちした。効いていない。切り離された体が繋がり、焼け爛れた傷の向こうからヴォルフの眼球がぎょろりとアレクを捉えた。そしておよそ人間の形を留めない修復途中の頭のまま、顎が大きく抉じ開けられる。その奥に紅蓮の炎が見て取れた。また炎を吐くつもりだ。近過ぎる。躱せない。
「アレク!!」
対応できたのはウィルだった。逃げるどころか肉薄し、下から全力で斬り上げる。口が上を向き、そのまま炎は一気に噴き出る。衝撃で二人は揃って吹き飛ばされ、炎は見当違いの方向へ放たれた。城のドラゴンの背中から撃たれたその炎を見て、山猫達も気付いた。二人の戦いが始まったのだ。
***
マキノは黒の城跡を走っていた。
山猫達と怪物達が正面からぶつかったのを確かめてから、マキノはすぐにここへ向かった。戦いは本場の騎士達に任せる。魔術師には魔術師のすべき事があるのだ。
見るも無残な廃墟が延々と広がっていた。全てがぐちゃぐちゃで、もう何が何だか分からない。それでも血眼になって走り回り、探し続ける。そして見つけた。うつ伏せに倒れている黒髪の女。レイだ。
「レイさん! ご無事ですか!」
レイはその声に答える力もなく、ただ顔だけをそちらに向けた。マキノも返事を待たずに駆け寄り、すぐに治癒の魔法を使い始める。酷い状態だった。生きているのが不思議なくらいだ。マキノは魔法を使いながら周囲を確認する。
「一人ですか? クライムさんはどこへ?」
その問いは深くレイの胸に突き刺さった。
炎に呑まれる直前、クライムが見せた安堵の表情が脳裏によぎる。
「私は……、彼に、助けられて……」
それだけ絞り出すのがやっとだった。そんなレイの様子を見て、マキノは目を見開いた。レイは胸が張り裂けそうだった。大切な仲間を奪ってしまった。何と詫びれば取り返しがつく。メイルになんと説明すればいい。だがマキノは何も言わない。冷静に状況を見定める。
クライムはいない。レイは重傷だ。それでも何を求めて這っていたのかとその先に目を遣ると、そこには不死殺しの槍が転がっていた。真っ二つに砕け、破片がそこら中に散乱している。
「先ほどの一撃を、食らったんですね」
レイはそれでも槍を手に戦おうとしていた。
微かな希望に賭けるというよりも、無謀そのものだ。
「まだよ。たとえ折れても、これを奴の心臓に突き刺せば……」
何を馬鹿な事を言っているのだとレイは思った。だが泣き言を口にする資格など自分にはない。もう後には退けないのだ。
マキノは応急処置だけ済ませると、すぐに槍を搔き集めてきた。折れた状態を確かめる。ただ壊れただけではない、完全に力を失い鉄の塊になっている。すぐに一つの結論に達した。
「直すしかありません」
「それは、無理よ。これは元々、闇小人が創った武器よ。それにメルキオンが魔法を施して打ち直した。私達にはどちらの理屈も分からない。それを今直すなんて……」
「でも私達でやるしかないんです。力を貸して下さい」
そう言うが早いかマキノは槍を地面においた。
「……こんな事なら。あの男を無理にでも引っ張ってくるべきでしたね」
そんな事を呟きながら槍に両手をかざし、ゆっくりと魔法を行使する。
静かに風が吹き、槍がふわりと宙に浮いた。風に乗った粉塵が徐々に槍へと集まる。そして集まりながら宙に呪文を綴り、絡み合いながら魔法陣を形作り、飛び散った砂粒のような破片までもが集まり始めた。レイはその様子を見ながら目を丸くする。
「これは、いったい何をして……」
「分かりません。先程見たばかりの魔法を、見様見真似で再現しています」
そういうマキノの額には汗が浮かんでいる。己の杖を一瞬で修復してみせた冬の魔法、その全ては確かにこの目に焼き付いている。だが自分が知りもしない魔法を手探りで行使している状態だ。呪文の構成が理解できない。魔法が安定しない。
レイが何とか補佐しようとマキノに手を添えた。マキノが作る魔法陣の構文から、必死に冬の意図を読み取ろうとする。見た事もない魔法だ。系統も組成も分からない。全くの未知に挑むなど何年振りになるだろう。だが出来る筈だ。まだ鈍っていない。あの頃もこうして悩み続け、試行錯誤し、そして一つ一つ乗り越えていったのだから。
「懐かしい、わね……」
不意に、記憶の糸がふわりとレイの頭を掠めた。
それは遥か、遠い昔。
戦いも争いもなく、穏やかだった頃の記憶。
薄く木漏れ日の差す、仄暗い森の中での思い出。
幼いレイには全てが新しかった。学術、剣術、魔術、実に様々な分野を教わった。それも非常識なほどの厳しさでだ。
知恵熱で湯気が出そうな難問を山積みにされた。一本も取れないまま容赦なく叩き伏せられた。そう、今にして思えば相手も教師としては優秀でなかったのだろう。うまく出来なかった時は、毎晩のようにその胸で泣きじゃくったものだ。だが結局はやるしかないのだと知った。未知とは、自分の手で切り拓くものなのだ。
遥か遠い、昔の話だ。
なぜ、今になって思い出すのだろう。
未だにあの男から一本も取れないままだからだろうか。
初心を思い出すようにレイは無心で魔法を行使していく。それを横目にマキノは驚きを飲み込んでいた。レイの精度が加速度的に上がっている。マキノも負けてはいられない。そして互いが互いを補正し、改良し、いつしか魔法は完成していた。
まるで時間が巻き戻っているかのようだった。塵のようになった欠片が次々と槍の断面に集まり、引き寄せられた槍の片割がそこに吸い付く。ヒビが埋まり、傷口が閉じ、槍の穂先が怪しい光を放ち始めた。
そして遂に、槍は元の姿を取り戻す。
宙に浮いていた槍が、差し出したレイの手に収まった。
***
ウィルとアレクは休む事なくヴォルフに撃ちかかっていた。
間断なく放たれる大技が、ヴォルフもろともドラゴンの背中を破壊し続ける。破片から生まれた怪物達は三人に近づく事すらできず、その破壊に巻き込まれて粉砕されていった。
だが二人は完全に力負けしていた。世界最強の、黒鉄の剣。まともに受け止める事すら難しい。隙をついて幾度となくヴォルフを斬るが、もはや気にする素振りも見せない。実感と共に理解した。黒の王に、弱点はない。
三人の戦いは下の山猫達からも見えていた。城のドラゴンの背中で、金と銀と黒が激しく入り乱れている。だがそれよりも切迫した問題が起こった。ドラゴンの口が、開き始めたのだ。
「おい、まずいぞ!」
山猫の一人が叫ぶ。ドラゴンの口腔内には既に尋常ではない炎が宿っている。先程戦場を薙ぎ払った炎より更に大きい。あんなものが放たれれば、途上の森も山も消し去り、国土を丸ごと横断して首都ティグールにまで届きかねない。口元から絶え間なく火花が散り、体内を流れる溶けた鉄が煌々と光り始めた。
二人が戦うドラゴンの背部も露骨に熱が籠り始めた。
白い煙が立ち込め、立っているだけで暑さが体力を奪う。
もう時間がない。
「おいウィル! 先にドラゴンを止められるか!」
「分かってるよ! 今から……!」
何とか対応しようとする二人。
だがそんな余裕はなかった。
ヴォルフが急に距離を詰めた。黒い炎を振りかざしてウィルに迫る。咄嗟にウィルは迎え撃つが、ヴォルフはそれを無視して肉薄する。ウィルは黒炎の直撃を食らった。援護に入ろうとアレクが斬りつけるが、それも手刀で受け止められる。
ヴォルフの左腕が切り落とされるが、アレクの剣も弾かれる。
気付いた時には横薙ぎに払われた劫火に呑まれていた。
燻りながらもアレクは何とか上体を起こし、ウィルも体を覆う炎を剣の光で振り払う。だが、中心がなく無敵のドラゴンと、急所がなく不死身の魔王。どうすれば止められる。
立ち込める煙が強くなり、地震のように地面が揺れている。
噴火前の予兆なのか、低い地鳴りが空気を震わせていた。
ドラゴンは、もういつ炎を吐いてもおかしくない。
アレクは立ち上がろうとして、しかし足に力が入らず片膝を着く。
「……読めんな」
急に、ヴォルフが視線を逸らした。
隙だらけに見えたが、今の二人は動けない。
つられてヴォルフの視線を追った。
そこに、今まさに瓦礫を押しのけて登ってきた一人の男がいた。物珍しそうに辺りを見回し、慌てる様子もなく這い出して来る。ぼさぼさの黒い髪に、麻のシャツを着た若い男。それを見てウィルが喜び、アレクが怒鳴った。
「クライム! 無事だったのか!」
「馬鹿野郎! 何やってんだてめぇ!」
生きていたのは良い。
だが何故こんな不注意に姿を見せた。
しかもどうして一人なのか。何を考えている。
「お前は、もう少し賢い男だと思っていた」
「……あなたは、初めて会った時から何も変わりませんね」
空気を震わせる低い声に、クライムは何ともなしに答えた。二人はそれがヴォルフの声だと今更気付く。言葉を発した事が意外でならなかった。しかし思えば、黒の王とまともに言葉を交わしたのは、多少の例外を除けば彼くらいだ。
「僕も、色々と考えていたんですけど」
クライムはヴォルフから目を逸らさず、ゆっくりと歩み寄る。
その体には擦り傷一つなく、服には汚れ一つ付いていない。
「でも僕が何に変身してどう攻めようと、今更あなたの裏をかくなんて、出来る訳が無いんですよね。だから、もう考えない事にしました」
黒鉄の剣が構えられる。噴き出た炎に当てられてヴォルフの周囲の瓦礫がボロボロと崩れていく。だがクライムは構わず歩き続けた。余りに無防備だった。剣もなく、防具もなく、靴すら履いていなかった。耐え切れなくなってウィルが叫んだ。
「よせ! 一体何をするつもりなんだ!」
「何をって……」
動けずにいるウィルを一瞥して、再びヴォルフに向き合う。その顔をまじまじと見ながら今までの事を思い返した。コークスの街で出遭ってから、謁見の間で丸焼きにされるまでの全てを。何をするつもりか。決まっている。自然と笑みがこぼれて、拳を握った。
「ぶん殴る」
強く地面を蹴った。
裸足のまま全力で走り続ける。雄叫びを上げて正面から走り続ける。クライムはお世辞にも速いとは言えなかった。何か策を仕込んでいる様子もない。それに、ヴォルフは無言で、黒鉄の剣を振り下ろした。ウィルの叫びも届かない。アレクの怒声も聞こえない。放たれた爆炎は、余りにもあっけなくクライムを呑み込んだ。
「邪魔だ!」
だが黒い炎を脱ぎ去るようにして、クライムが粉塵を裂いて走り込んできた。
「なんだ……?」
黒い髪に、汚れ一つない麻のシャツ。それは黒鉄の一撃など掠りもしなかったかのような姿だった。ヴォルフは何度も剣を振るう。だがいくら体を焼かれようと、クライムは止まらなかった。
「っ……!」
激しい痛みが、頭と体を蝕んでいる。それでも自分を奮い立たせるように声を張り上げた。変わり者の体など所詮全てが偽物。他者の姿を映し取った仮の体。そんな自分にいくら嘘を上書きした所で、今更何とも思わない。火傷も、傷も、そんなものは最初から「なかった」のだ。
体が何度も焼け落ちる。
そのたびに無傷の姿を映し直す。
こんな虚勢がどこまで続くのかは自分でも分からない。
だが、もう十分立ち止まった。そして二度と立ち止まらない。そう決めてここにいるのだ。胸には穴が開いたままで、夢で何を話したかも思い出せない。ただ分かるのは、ここで絶望に挑む事が自分の全てだという事。
ここで走り続ける為に、戻ってきたのだ。
「おおおおおああああああああ!!」
そして何度炎を食らったかも分からない所で。
遂にその拳がヴォルフに届く。
渾身の力を込めて、殴った。
「…………それが、お前の最期か」
ヴォルフは己の胸に当たった拳を見て、無感情にそう言った。
渾身の一撃は、びくともしなかった。
かつてここまで黒の王に肉薄した者はいない。ただそれには何の意味もなかった。ヴォルフは止めの剣を振り上げる。クライムは拳を心臓の上に押し込み、逃がすまいと左手で胸倉を掴んだ。だが何をしようと同じ事だ。ただこの黒鉄の剣にて一撃。今度は塵一つ残さず、その体をこの世から抹消する。
「怒りをもって、この身をくべる」
クライムが呟く。覆せない力の差など百も承知だ。それでも、そんな苦境を仲間達は覆した。フレイネストの街でマキノがやったように、黒の牢獄でレイがやったように。出来るか出来ないかではない。ただ、やる。それが不可能を可能にする第一歩だ。
使うのは、魔法が使えなくとも使える魔法。
レイに言わせれば、ちょっとした手品という奴だ。
「契約をもって焼き滅ぼす。捧げるのは……」
その両腕、麻のシャツにインクの染みのような赤黒い紋様が浮かび上がった。変身能力を応用して再現するのは、何度も目にした禁忌の紋。腕に浮かんだ呪文は蛇のように体にまで這い、遂にはその全身を埋め尽くす。
「捧げるのは、僕の、全て!」
「貴様……!」
ヴォルフが剣を振り下ろすのも間に合わない。
必要なのは、たったの一言。
『エン・テングラ!』
光が全てを掻き消す。
炎が全てを埋め尽くした。
クライムの右手から溢れる炎はヴォルフの体を一瞬で呑み込み、至近距離から尚も焼き続けた。それでもクライムは胸倉を掴む左手を離さず、延々と炎を放ち続ける。己を巻き添えにする事も厭わない自殺同然の攻撃に、そして炎の余りの威力に、ヴォルフは剣を振る事すらままならない。
炎の禁術エン・テングラは自爆魔法だ。術者の肉体を犠牲にして魔法は行使され、それは術者本人には止められない。いずれは意識を失い、命が尽きて、炎もそこで止まるだろう。
だがこの炎は止まらなかった。
「ああああああああああ!!!」
放つ炎で自らが焼かれるのが分かる。だが焼かれた端から無傷の体に変身し直し、左手は決して離さない。どうも契約相手である怒りの精霊とやらは、嘘の体すら供物と扱ってくれるらしい。クライムはお構い無しに全身を捧げ続け、その分炎は勢いを増した。
ヴォルフは尚も炭化した腕でクライムの体を引き裂く。
クライムは抉れた体を即座に直して更に炎を撃ち続ける。
不死対禁術。血で血を洗うような消耗戦だった。
だが、妙な事が起こっている。いつしかクライムは焦げ落ちた部分を変身できなくなっていた。意識も徐々に薄れていく。禁術の炎は嘘の体だけではない、クライムの中にある本物をも、容赦なく薪としてくべているのだ。
「ははっ……」
本物。そんなものが自分にあったとは思わなかった。体が端から崩れていく。体がゆっくり焼け落ちていく。悪趣味な話だ。こうして消えていくからこそ、そこにまだ残っている物があったと気付かされるとは。
「離れろ!!」
ヴォルフの怒りの一撃が黒焦げになったクライムを体を貫いた。
腕も、脚も、胸も頭も、バラバラに崩れる。
炎に呑まれ、見えなくなった。
クライムがヴォルフから離された、その直後、轟音と共にヴォルフの足元から黄金の光が溢れ出した。ウィルの今までにない強烈な一撃で、城のドラゴンの背中は丸ごと吹き飛んだ。翼で飛ぶ間もなく、ヴォルフの体が宙に浮く。そこを白銀の光が正確に撃ち抜いた。アレクの狙いはヴォルフの右腕。その腕が黒鉄の剣もろとも切り落とされる。
黒の王が完全に無防備になったのは、その一瞬だった。
そして、初めて決定的な隙ができた、その一瞬に。
トンと軽く、何かがヴォルフにぶつかった。
レイだった。殺された筈が生きている。重症の筈が治っている。その彼女がヴォルフの胸の中に飛び込んだのだ。見下ろすヴォルフには彼女の頭しか見えない。何をしているのか見えなかった。
だがレイが持っていた長い槍は。
狙い違わず、ヴォルフの心臓を貫いていた。
「ぐっ……!」
すぐに異変を感じた。禁術に焼かれた体が再生しない。黒く濁り、ヒビが入り、ボロボロと崩れていく。槍には、本当に不死を打破するだけの力が備わっていた。
それでも黒の王の命を削り切るには足りない。体の半分以上がまだ形を残している。ヴォルフは爪を振りかぶった。その手に宿るのは膨れ上がる力の奔流。叩きつければレイの体は欠片も残さず消え去り、槍も今度こそ消滅する。生き残るのはヴォルフ一人。これで終わりだ。
だが、レイはそれを避けない。
槍を押し込む訳でもない。
顔すら上げなかった。
己に胸に収まる女の姿。
何故か、ヴォルフはその姿に既視感を覚えていた。
それは遥か、遠い昔。
戦いも争いもなく、穏やかだった頃の記憶。
薄く木漏れ日の差す、仄暗い森の中での思い出。
「……さようなら」
そのままレイは震える声で、ぽつりと呟いた。
その言葉に、ヴォルフの動きが止まる。
「さようなら。お父様」
その手に集まっていた破壊の奔流が、弱まり、霧散した。
周囲では変わり者が生み出した劫火が荒れ狂っている。
だが何故か、今は何の音もしない。
レイはヴォルフの胸に顔をうずめたままだ。そしてヴォルフは、何もせずにそれを受け入れている。振り上げた腕が下がった。そしてその手が、ゆっくりとレイの頭へ向かう。
遥か遠い昔、こんな事があったようにも思う。
なぜ、今になって思い出すのだろう。
「レイ……」
そしてレイの頬に添えられる直前。
その腕が炭化して、砕けた。
***
衝撃が炎を吹き飛ばした。
それは突風のように山猫達を押し倒し、平原を埋め尽くす黒の兵を呑み込み、同盟軍本陣にまで届いた。
城のドラゴンが、鈍い声を上げながら崩れた。
辺りを埋め尽くす城の怪物達も、次々と力を失って倒れる。
山猫相手に猛威を振るっていた双頭の巨人も片膝をつき、そのまま崩れていった。
炎の消えた黒い煙を吐きながら、徐々に形を失うドラゴン。崩れた城の一部が地面に落ち、地響きと共に重い音を立てている。黒の平原での全ての戦いが止まっていた。その場にいた全ての者が、剣を振るのをやめ、その光景に目を奪われている。
城のドラゴンが倒れた事が、何を意味するのかは分からない。
分かるのは、さっきまで世界を包んでいた重圧が、今はもうない事。
吐き気がするほど激しい殺気が、消えてしまっている事。
全てが、終わった事だ。
「あ……」
兵の誰かが、そんな言葉にならない声を漏らした。それは周囲に伝染し、表現しがたい感情が沸き上がり、そして遂に、同盟軍の全員が高く剣を突き上げて、世界を震わす大歓声を上げた。
グラム王が開戦前に言った事が、現実になった。
皆を鼓舞する為に吐いた理想が、夢物語が、自分達の手で成し遂げられた。
何百年にも及ぶ魔族との戦いが終わり、建国以来の悪夢に遂に終止符が打たれたのだ。
黒の軍はその歓声に気圧されたかのように一気に逃げ始めた。王が討たれた。その事実に、数の上では未だ圧倒的に優位だった黒の軍は完全に瓦解した。多くの同盟軍はそれを追撃する事もなく、互いに抱き合って戦争終結を喜び合っていた。時代が変わる。新たな時代の幕開けなのだ。
そんな中、一頭の馬が平原を駆けていた。
走らせているのは一人の兵。後ろに座る赤毛の少女は、周りには目もくれず手綱を握る兵をせかし続けている。目指すは城のドラゴンの元。そこに、仲間達がいる筈なのだ。
***
「みんな、無事なの!?」
馬から飛び降りたメイルはすぐに仲間達の下に駆け寄る。
山猫達は笑顔でそれを迎えた。
「当たり前だろ! お前こそ良く無事だったな!」
「こっちは全員揃ってる! 悪運の強い奴らばっかりだ!」
「本当よね! あんたらの汚い顔ともおさらばだと思ったのにね!」
疲れ切っている筈の騎士達が、メイルの頭をぐしゃぐしゃと撫で、何度も背中を叩いてくる。いつもと変わらない様子だ。皆が満身創痍だが、その笑顔だけで救われるようだった。そして崩れ続けるドラゴンを見ていたウィルと、大の字になって倒れているアレクを手当てするマキノを見つけた。ウィルはすぐにメイルに気付いて顔を綻ばせた。
「やあメイル。無事で何よりだよ」
「ウィルは大丈夫なんだね。アレク、は?」
「駄目、でした……。彼は……」
「勝手に殺すな! 何が駄目だこの野郎!」
縁起でもない事を言わないで欲しい。だがそれもまた、いつも通りだ。皆が喜んでいるのを見て、メイルはようやく勝ったという自覚が湧いてくる。だが、城に突入した三人の姿がない。
「メイル、向こうだ」
その不安そうな顔を察してか、ウィルがドラゴンの方を指さす。彼がさっきから見ていたもの。未だ崩れ続けるドラゴンの残骸から、こちらに向けて歩いてくる人影が見えた。ボロボロの黒いローブに、黒い槍を携え、長い黒髪をなびかせた、女の姿。
「レイ!」
メイルはすぐにそれに駆け寄った。もう脚に力が入らない。散乱する瓦礫に脚を取られながら、なんとか駆け寄り、レイの脚に抱き着いた。
「メイル。ただいま」
レイはよしよしとメイルの頭を優しく撫でる。見上げれば彼女の頭の上ではフィンがとぐろを巻いてぐったりとしており、そして彼女は、一抱え程の何かを胸に抱えていた。メイルが涙を拭きながら二三歩下がると、レイはしゃがんで、胸のそれをメイルに向かせる。
それは、クライムの首だった。
「クライム……」
目は静かに閉じられ、口元は動かない。肌も髪も焦げていて、そして首の断面は完全に炭化して、触っただけでボロボロと崩れてしまいそうだった。クライムの禁術は、供物として捧げられた彼の全てを燃やした。そしてヴォルフによって粉砕された体の内、辛うじて彼だと分かるのがこれだったのだ。
メイルはそんな有様を見てくしゃっと顔を歪める。
「……ばか。大丈夫だって、言ったのに」
泣き止んだ所で、また涙がぽろぽろと零れた。
「またこんな事に、なってまで」
そう言って、レイから首を受け取る。
その反応にレイは少し眉をひそめた。
「また? ちょっと待って。またって何? ひょっとしてクライム、前にもこんな事があったの?」
「……あったっけ。いや。あった、ような」
生首が、目を閉じたまま平然とそんな事を呟いた。
メイルは更に恨み言を重ねる。
「あったよ! あの時だって、クライムは何の心配もないとか言ったくせに、結局ぼろぼろになって帰ってきたじゃないか! ただ帰りを待つしか出来なかったボクが、どれだけ心配したか知りもしないくせに! ようやく戻ったかと思えば、腰から下が、なくなってて……! 死んじゃったのかと思ったら平気な顔で心配ないとか笑って! もうあんな事にはならないって言ったよね! もう二度としないって、言ったよね!」
動けないクライムにメイルは延々とまくしたてた。
それを聞いて、閉じていたクライムの目がうっすらと開く。
「メイル」
「なに」
ぼろぼろと泣き続けるメイルの顔をしばらく見て、クライムは微笑んだ。
「無事で、よかった」
「……ばか」
そのままメイルはぎゅっとクライムを抱きしめた。レイはそんな二人を微笑ましく眺めていた。瓦礫の中から彼の生首を見つけた時は、レイこそ心臓が止まるような想いだったというのに。これでは今更何も言えなくなってしまった。
ちょうどそこで城のドラゴンが完全に崩れ落ちた。
向こうからアレクやマキノ、山猫の面々も集まってくる。
「終わったんだね」
クライムがぽつりと言った。平原では途切れる事なく同盟軍の歓声が聞こえ続けている。あれだけいた敵が全員逃げ出し、もう何に怯える事もない。永遠に終わらないのではないかと思っていた戦いが終わっても、まるで夢でも見ているような感覚だった。何もかもが、まるで一瞬の出来事だったようにも思える。
「ええ、終わったわ。ようやく、終わった」
レイが黒の城の残骸を見ながら、つぶやくように答えた。
彼女にとっては数百年にも及ぶ戦いだ。旧大戦の後に同盟軍に裏切られ、城での投獄生活を送っていた頃には思いもしなかっただろう。この戦争の本当の最後を、その目で見る事になるとは。
しかしこれで、レイは永い呪いから解放され、自由になる。クライム達にしても、岩のドラゴン討伐から始まった戦いが遂に終わり、ようやくの一息つける所だ。
フェルディアはこれから復興の準備に入り、山猫達もそれぞれの国に戻ってそれを手伝う。多くの英雄が生まれ、多くの伝説が終わった。一つの目的の下で、人間達が手を取り合い未来を掴んだ、その先がこれから始まるのだ。誰も見た事のない世界。
新たな時代の幕が上がる。
人間が主役となる、人間による、人間の為の、新しい時代が。
***
「捕らえろ。あの女だ」
その声は、余りに冷たかった。
「え?」
浮かれる兵達も疲労困憊の山猫達も押しのけて、黒覆面と黒ローブで身を包んだ男達がどこからともなく沸いてきて一行に迫った。不穏な空気を感じてウィルが、ジーギルが彼等を問い正そうとする。しかし問答無用で押しのけられた。
そして黒い男達はアレクとマキノも振り払い、戸惑うレイの手を太い鎖で縛り上げた。
「え? ちょっと、何?」
その様子に、目の前で起こっている状況に、文字通り手も足も出ないクライムはそんな言葉しか出てこない。メイルは彼等からクライムを守ろうと身構えるが、男達は他には目もくれず、レイだけを執拗に拘束した。
そしてクライムは違和感に気付いた。男達が余りに身綺麗なのだ。この戦いで一度も使っていなかったような。この決戦の間も一切戦う事なく息を潜めて、ただこの瞬間だけを狙っていたような。
「おいお前ら答えろ。何のつもりだ。斬るぞ」
アレクはふらつく体で、なおも黒覆面に食ってかかった。手にしているのは白銀の剣、アルギュロス。鞘から少しでも抜けばこの程度の人数は一瞬だ。だが黒覆面は、そんなアレクを冷たい目で見るばかりだった。
「お前は何も見ていない」
冷たい目のまま、くぐもった声でそう言った。
「何も聞いていない。何も知らない。その剣に見合った相応の対応を取る事だ。こちらも白銀を始末する訳にはいかない。ここで戦えばどうなるか、分かるだろう」
そう言いながら黒覆面はちらりと横を向いた。そこに、クライムを抱えるメイルの背後に、いつの間にか別の覆面が幽鬼のように立っていた。アレクは白銀の柄を握ったまま奥歯を噛み絞める。山猫達も手を出せなかった。クライムだけが、納得できずにいる。
「何を、言っているの? レイをどうするつもり? ねえ、聞いてよ、何か答えてよ。こっちを向け!!!!」
人間の声ではなかった。溺死寸前の喉から絞り出したような低い音、泉の魔物の唸り声だ。覆面達は警戒してクライムに注意を払うが、それでもレイを連れて行こうとする手は止まらない。回り続ける歯車のように、巻き取り続ける糸車のように、粛々と任務をこなす。
「クライム。大丈夫よ」
レイだけが、縛れたままそんな事を言った。
「大丈夫。心配しないで。分かっていた事なんだから」
「……分かっていた? レイ、何を分かっていたって?」
クライムには分かっていない。ただ火刑台を前にした聖女のようなその微笑みが、クライムの心を激しく搔き乱す。もう戦いは終わったのだ。苦しい思いも悲しい思いもしなくていい。だからこそこの状況が理解できない。だがクライムには、この場にいる全員にも、本当は何が起こっているのか分かっていた。
「また、繰り返すつもりなのか……」
茫然とクライムが呟く。
遠く空に伸びる、誰かの悲痛な嘆きが聞こえた。そんな声はしていない。本当は聞いた事もない。だがクライムには確かに、国を勝利に導いた直後に妻を奪われた男、メルキオンの怒りの声が聞こえていた。
魔族の王が打倒された今、魔族の英雄など不要なのだ。レイはこの戦争に参加しなかった。世界会談にも顔を出していない。そんな人物は最初から存在しなかったのだ。覆面達はその為だけにここにいる。
「ふざけるな! 五百年前にそんな事をしたから、こんな戦争が起こったんじゃないか! 何も学んでいないのか!? そんな事しか考えられないの!? こんな事の為に僕達は……!」
「やめろ、クライム」
喚き続けるクライムを、山猫のドミニクが止めた。
「君では、今の俺達じゃあ彼等の相手は危険すぎる。俺も初めて見るが、あれが王の毒剣。フェルディア王が従えている秘密の部隊なんだろう」
「王の、毒剣!? そんな訳ないだろ! だってあれは……!!」
「暗殺専門の部隊なんだ! 俺はこんな形で君まで失いたくない! お願いだよ……!」
必死なドミニクに、クライムは口を噤んだ。彼は本当に自分を心配して止めてくれているのだ。それにこれ以上何か口にすれば、目撃者である山猫達にも危害が及ぶ。今のクライムには駄々を捏ねる子供のように喚く以外何も出来ないのだ。覆面達を蹴散らす事も、レイを取り戻す事も、仲間達を守る事も、何一つ。
「レイ!!」
それでも耐えられなくて叫んだ。
レイは連れて行かれながら振り返り、微笑んだ。
それが最後だった。
何も知らない同盟軍が歓声を上げ続けているのが、ひどく場違いだった。
勝利などどこか遠く、知らない土地での出来事だった。
「……」
山猫の騎士達は、人目を避けてレイを連れ出す覆面に何もしなかった。仲間を奪われた怒りは確かにある。だが、こういった事を誰よりも嫌っている男が、自分達の他にいるのだ。まずは彼の腹を確かめたい。
「そうか」
その男はメイルの胸に抱えられながら低く呟いた。予想通りの反応、ならばやる事も決まってくる。自然と山猫達が彼の周りに集まり、そして全員揃って、悪い顔で笑った。
山猫達は出自も考えもバラバラで、それぞれの想いを持ってここにいる。ただ、言葉にするのも億劫な、それでも大切な「何か」が同じだったから集まった。確かめなくとも知っている。信じるまでもなく背中は預ける。そしてここまで辿り着いた。
「分かったよ」
その何かを踏み躙って用意された大団円など、この手で台無しにしてくれる。
「どうしても、最後に全部、片づけないといけないんだね」




