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変わり者の物語  作者: あなぐま
第4章 道の先
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第45話 決戦(前編)

 戦場に降りたヴォルフに、同盟軍はすぐさま挑み掛かった。


 あれを斃さなければ世界が終わると誰もが直感したのだ。魔族軍はそれを防がない。左右に分かれて道を開け、その間をヴォルフは黒鉄の剣を携えながらゆっくりと歩いていく。そしてまだ槍どころか弓が当たるかも怪しい距離で、無造作に剣を振るった。


 剣から放たれた炎が、同盟軍の兵達をまとめて薙ぎ払った。

 続く一振りで更に多くの兵が黒い炎に呑まれる。

 勝負になっていない。余りにも一方的だった。


「最初から、これが狙いだった訳かい?」


 落盤した黒の城の最下層から、フィンは戦場に響く悲鳴を聞いていた。城塞も街並みも製鉄所も砕け散り、辺りは瓦礫の山になっている。その底で銀色の髪をなびかせた細身の青年が、地面に倒れる乞食を見下ろしていた。


「くく。気付いて、おったのだろう……?」

「まあ、おじいさんが本気を出していない事にはね」


 倒れる乞食は上半身しか残らない無惨な姿だったが、歪んだ笑みを湛えたままだった。


 大蜘蛛の姿を形作っていた蟲達は完全に焼き剥がされていた。そしてフィンの炎は本体にまで及び、蜘蛛自身も先が永いようにも見えない。対してフィンの体には剣のような蟲の肢が何本も刺さっていたが、気にも留めない様子だった。


「おかしいとは思っていたよ。でも結局この黒の平原にいた蜘蛛は、おじいさんの半分にも満たなかった訳だ。残り半分は戦場を捨てて、真っ直ぐ最後の封印を壊しに行ったんだね」

「それに関しては、儂も意表を突かれた。まさか、決戦に臨むと決めておきながら、あれだけの兵力を封印防衛に裂いておったとは。しかも、あれほど勇敢で、士気の、高い……。くくく」


 フィンはつられて鼻で笑う。

 留守番組のルベリア軍五万の事を言っているなら、悪い冗談だ。


 彼等が残っていたのは使命感からではない。単純に決戦に兵を投入したくなかったからだ。隣国に全てを押し付けて、安全な場所から高みの見物を決め込みたかったからなのだ。


 だが、そこを蜘蛛が奇襲した。恐らくは蜘蛛全体の半分以上に相当する、それこそ驚天動地の化物が現れたのだろう。油断し切っていたルベリア軍は半日と持たず、まんまと封印を破壊されて黒の王が復活した。フィンは同盟軍の作戦になど興味もない。留守番しようとさせようと、口も挟まなかった。だが。


「流石にそろそろ、頭が痛くなってくるな」

「そう馬鹿に、したものではない。あの者等も、主君への忠義を、貫いてのものだ」

「とんだ忠義者もあったものだね。おじいさんもさ」

「仕方あるまい。我等が主の為ならば、本望というものよ」


 格式ばった口調は本気か冗談か分からない。だが倒れる乞食は間違いなく本物だ。彼が正真正銘、蜘蛛の本体。奇襲に向かった半身の存在を悟られないよう、弱体化したままの本体が囮としてここにいる。


「ご苦労様。何か、言い残す事はあるかい?」

「そうさな……。不死の体を得てから幾年月。もはや特段残す言葉も、思い浮かばんな」

「つくづく舐め腐った人だね。生きている実感とか、少しでもあったのかい?」

「下らん事を訊く。貴様はこの儂の事を、まだ生きているなどと言うつもりか?」


 蜘蛛とは、魔族モーリスの成れの果て。使い魔に体を喰い潰された自己さえ曖昧な魔物の総称だ。終始おぞましい笑みを浮かべていたその男を、フィンは冷たく見下ろした。


「馬鹿馬鹿しい。生きているさ。あなたは」


 眼差しは、冷たいままだ。

 この男に同情する余地など一欠片もない。


「だからここで、死ぬ」


 その言葉に、蜘蛛は一瞬呆気に取られたような顔をした。

 だがすぐにふっと短く笑った。その体がガサリと崩れ始める。


「ふ。生きているから死ぬ。成程、これ以上確かな事は無いな」


 ガサガサと体は壊れていく。

 胸が崩れ、首が崩れ、そして歪に嗤う口が無くなり、禍々しい赤い目が閉じられた。


「嗚呼……。実に、愉しかった」


 城の残骸の中を這っていた生き残りの蟲達が、フィンの体に刺さっていた蟲の肢が、灰とも錆とも分からない物になり、風に流れて一斉に散った。世界各地に散らばっていた蜘蛛は、今この瞬間一斉に滅びたのだろう。レイならそれなりの感慨もあったのかも知れない。だがフィンにはない。ただ、しつこかった。ようやく終わった。


 フィンは気を緩めた。

 そして感慨も沸かない無表情のまま、盛大に血を吐いた。

 戦いの間は嫌というほど傷を貰った。その全てに毒があったのだ。


 フィンは口に残る血をぷっと吹き出す。

 そしてそのまま、倒れた。


「疲れた……」


 遠くから、音が聞こえる。

 黒の王が、兵士達を蹂躙していく音が。


 フィンはもう動きたくない。らしくもなく働いたのだ。この後で黒の王をどうするかは仲間達に任せる。頭に血の上りやすい選ばれし馬鹿共が、今頃揃ってヴォルフに挑んでいる筈だ。後は彼らに任せれば大丈夫。そう思ったのだ。


 だが、そうはなっていなかった。



***



 真っ二つになったアストリアスでは、今なお不毛な戦いが続いていた。

 フェンリルにとっては、ヴォルフが復活しようと国が滅びようと関係のない事なのだ。


 だがアレク達には喫緊の問題だった。


「お前ら無事か! どれくらいやられた!」


 狼の相手をリューロンと最低限の兵に任せ、残る兵達は体勢を立て直していた。主だった軍事拠点は先ほどの炎で軒並み消滅し、皆が集まっているのは路上の一角だ。それでもかなりの数が集まっていた。


「ナルウィ! てめぇ動くなって言っただろ!」

「そうもいかないよ。それよりジーギル、右腕を診せて。また傷が開いてる」

「世話になるな。いや、魔法は使うな。お前も限界だろう」


 ジーギルの包帯を取ると、右腕の生々しい切断面が露になった。ナルウィが治癒の魔法で止血させたものの、現状では完治などさせられない。負傷兵は彼だけではない。ヴォルフの炎を遠くで見ていた者達ですら、熱気を浴びて大火傷を負っていたのだ。


「クソが! どういう事だ!」


 誰よりも負傷しておきながら、誰よりも元気だったアレクが喚いた。


「さっきのは岩のドラゴンの炎だった! なんで今更ヴォルフが出て来るんだ!」

「落ち着け。状況が変わったのだ。見極めなければ、取り返しがつかない」


 猛るアレクをジーギルが諫める。グラム王国では騎士団長だった男だ。混乱した様子も焦った様子も見せない。ただ輪をかけてくたびれて見えていた。ナルウィに右腕の治療を受けながら、ジーギルは口に出して現状を整理する。


「ヴォルフが復活した。恐らくは最後の封印が破壊されたのだ。敵の別動隊が動いていたと見るべきだ」

「どっかの国が守ってたんだろ!? 何をやってやがんだ!」

「無意味だったのだ。開戦以降、攻めの一手だった敵が急に撤退した理由がこれだ。決戦という餌で我々をおびき出し、封印の防衛を手薄にさせる事が目的だったのだ」

「誘導作戦だってのか……。これまでの戦いの、何もかもが……」

「そしてこれからが第二段階だ。これで人間側で対抗し得る全ての戦力が、見事なまでに死地に集まる形になった。復活したヴォルフと本気を出した黒の軍による殲滅戦。さしずめあの決戦の平原は、人間という種族の処刑場だな」


 淡々と分析するジーギルに対し、アレクはもう我慢できなかった。白銀の剣を手に踵を返す。周りの兵がすぐさま止めに入った。


「どけこの野郎! 斬り捨てるぞ!」

「斬られてもどきません! ここには貴方が必要なんです!」


 止める手は早かった。出会って一日にも満たない兵達にも、もうアレクがどういう男なのか分かっていた。アレクは立ち塞がる大勢の兵にがなり続ける。


「あんな獣畜生、リューロンがいれば大丈夫だろうが! 俺は戻る! 馬を貸せ!」

「間に合う訳がないだろう! それに馬など、どこにいる!」

「戻るというなら、それこそあの竜と協力して先に狼を倒してくれ! 竜の背に乗って、お前達はここまで来たんだろう!?」

「それこそ時間がかかり過ぎんだろうが! 一日二日で倒せるなら、もうとっくに倒せてんだよ!」


 アレクと兵達は延々と喚き続けていた。ジーギルもナルウィも口を挟まない。どちらも正論で、そして打開策が思いつかないからだ。あの時、戦場を離れる狼を追ったのは正しかったろう。この状況は当然予想されていたが、敢えて問題を先送りにした。そして今がその時だ。何とかしなければ。


「……ちょっと、嘘でしょ?」


 若い男の声が突然聞こえてきたのは、そんな時だった。

 アレクも、ジーギルも、ナルウィも、その場にいた全員が振り返る。


「正気かいお兄さん達。一体何をやっているんだ、こんな時に、こんな所で。いや、他の連中もか。マキノもヴィッツも、どいつもこいつも何でこうバラバラに戦ってるんだ。山猫でまともなのはウィルだけか」


 そこにいたのは、ついさっきまで居なかった筈の人間だった。得体が知れない。これだけ近くにいながら、何故か顔も判別できないのだ。しかし不思議と警戒する気にはなれなかった。どこかで会ったかとアレクも目を細めていた。


「おくつろぎの所悪いけれど、こっちも状況が大分変わってね。休憩はもう終わりだアレク。行けるね」


 銀色の髪をなびかせた細身の青年。

 その背中から、大きな白い翼が広がった。



***



 ウィルは戦場を走っていた。


 至る所で同盟軍が苦戦を強いられている。黒の兵、その一人一人が急に手強くなったのだ。王が帰還した事が彼等に勢いを与えていた。この力、士気が上がったからだとしか言いようがない。


「クライム……! まさか……!」


 こうならないようにクライムとレイは動いていた。作戦通りなら二人はヴォルフを倒しに城にいた筈なのだ。この瓦礫のどこかに彼らはいるのか。それとも、あの炎の直撃を食らったのか。


 湧き上がる不安を押し殺してウィルは走った。

 全てを置いてヴォルフの下へと、ただ走る。


 テルルに最低限の治癒を施されただけで体は重い。カドムの多くが今も戦っているし、打倒したベルマイアの見張りもヴィッツに任せたままだ。それでも誰かが、自分があの魔王を止めなければならない。


 敵陣地の奥深く。

 城の破片が散乱するその戦場では、絶え間なく黒い炎が噴き上がっていた。


 ヴォルフは淡々と歩を進め、ただ無造作に剣を振っていた。押し寄せた大勢の同盟軍兵士が、その一撃一撃で消し飛ばされていく。盾ごと炎に呑まれ、周囲の瓦礫と一緒くたに宙に飛ぶ。戦うどころか剣が届く距離に近づく事さえ出来ない。


 あんまりな状況だった。今までの戦いの全てが馬鹿馬鹿しくなる。人間達の団結も、魔族の実力も、魔物達の猛威も、あの黒の王の前では全てが等しく無意味だ。


「やめろ!」


 兵達を押しのけて前に躍り出たウィルは、力の限り黄金の剣を振るった。

 ヴォルフが無造作に放った剣撃が相殺されてその場で弾ける。


 ウィルはそのまま突進した。ヴォルフの周囲には誰もいない。敵も味方も近づけない。一対一だ。そのまま剣を握り、黄金の光を爆発させてヴォルフに迫る。


 黒い鎧に黒いローブ、そして右手には黒鉄の剣。

 その赤い目は悪鬼よりも禍々しく、尋常でない殺気が放たれている。

 あんな存在が、なぜまだ人の形を保っているのだろうか。


 ウィルは距離を詰めて一気に切り込んだ。ヴォルフはゆらりと剣を構えてそれを受け、そしてそのまま、ただ剣を、横に払いのけた。


「う、わっ!?」


 その無造作な横薙ぎでウィルが吹き飛ばされ、城の破片にしたたかに体を打ち付けた。一瞬意識が飛びかけるが、間髪入れずに飛んできた炎を躱して再び挑みかかる。黒鉄を受けた手が痺れている。今の一回で分かった。力で挑んでも勝ち目はない。旧大戦では黄金と白銀、二つの剣でようやく押し止めていたのだ。一人で敵う訳がない。


「っ……!」


 ヴォルフの赤い目に射貫かれてウィルが怯む。その目には決意も信念もない。吐き気がするほど激しい殺意だけだ。そしてその剣にはベルマイアのような技もなく、余りに単調だ。


 だがその単調な一撃が大地を粉砕し、黄金の剣を圧倒し、空気を焼き続ける。

 あの剣がただ鞘から抜き放たれているだけで、世界が徐々に壊されていく。


 次々と襲い掛かる暴威を必死に受け止める。体力も気力も底を尽きかけていた。意識すら薄れかかる中、それでもウィルは相手の剣を見切った。紙一重で躱し、素早く踏み込み、黄金の光を全開にする。これが最後の機会かも知れない。ウィルは叫びながら、あらん限りの力を叩き込んだ。


「……」


 だがヴォルフはそれを防ぎもせず、詰まらない物を見るような目で黄金の軌跡を追っていた。

 剣は真っ直ぐ肩口に入った。鎧を粉砕し、心臓を捉え、その体を両断する勢いで肉を断っていく。

 そして腹の辺りまできてようやく止まった。


 おかしい。

 魔王を倒した。

 これほど簡単に。


「黄金の騎士、か」


 空気が震える低い呟き。

 触れられるほどの至近距離で、ヴォルフが自分を見下ろしている。


 そして体を真っ二つに斬られたまま、己の腹にまで食い込むアルカシアをヴォルフは素手で掴んだ。ウィルは咄嗟に振り払おうとするが、動かない。そしてヴォルフはゆっくりと剣を上げ、その切っ先が天を捉えた瞬間に、漆黒の炎が燃え盛った。


「消え失せろ」


 ウィルは咄嗟に剣を捻ってヴォルフの指を切り落とし、引き抜いてすぐさま横に飛んだ。直後振り下ろされた剣がさっきまでウィルが居た大地を吹き飛ばす。距離を取った所で再び顔を上げる。ヴォルフが剣を地面から引き抜いていた。


 そしてウィルは決定的な物を見た。

 ヴォルフの傷が、どんどん埋まってる。

 それどころか砕いた鎧までもが形を取り戻し、ローブが端から修繕されていく。


「本当に、不死身なのか」


 黄金の剣など避けるまでもない。首をとっても心臓を突いても、黒の王は気にも留めないだろう。そして全てを無意味にする黒い炎を延々と撃ってくるのだ。勝ち筋が全く見えなかった。


「そこの騎士! 避けろ!」


 飛んできた声に反応して、ウィルは地面を蹴って後ろに飛んだ。


 直後、二人の戦いを遠巻きにしていた陣形から同盟軍の一斉攻撃が放たれた。

 矢が、槍が、魔法使い達の火球が、ウィルの頭上を通り越してヴォルフに降り注いだ。


 一本の矢がヴォルフの額を撃ち抜いたのを皮切りに、圧倒的な物量が豪雨のようにヴォルフに叩き付けられ、爆炎と土煙であっという間に何も見えなくなった。そしてウィルも追い打ちをかけるように黄金の剣を叩き込む。やり過ぎなどという言葉はない。影すら残さず粉々にしてでも、あれを倒すのだ。


 すぐに異変に気付いた。

 ウィルの傍に転がっていた城の破片が、ふわりと宙に浮いたのだ。


 それはこの平原のあらゆる場所で起こっていた。各地に散らばる大小無数の破片が浮かび上がり、そしてヴォルフの頭上に集まっていく。天高く掲げられた、その左手に集まっている。


 木っ端微塵に破壊された黒の城が逆回しに復元されているかのようだった。集まった破片は何の規則性もなく繋ぎ合わされ、みるみる内に大きくなっていく。それが同盟軍の攻撃を防ぎ、その下で散々に撃ち抜かれていたヴォルフの姿が見えてきた。魔法を使っている。だが何をしているのか。


「ああ、くそ……!」


 それが形を成し始めてウィルは気付いた。宙に集まった巨大な塊は、生き物のように四肢を下ろし、地響きと共に自重を支え始めた。そして剣を構えるウィルを一瞥すると、出来損ないの巨大な前脚を一気に振り下ろす。空から城が降ってくるような攻撃だった。ウィルはそれを撃ち返そうと死に物狂いで剣を振り上げた。


 城の塊は破片を吸収してどんどん肥大化していく。近くで戦っていた者達には、視界を埋め尽くす巨大なそれが何なのか分からなかった。分かったのは遠目にそれを見ていた者達だ。


 ヴォルフによって生み出された塊は、確かに四つの足で体を支え、長い尾で地面を打ち、そして首を擡げて亀裂のような口をこじ開けていた。出来損ないの醜い顔の奥で、魔王と同じ禍々しい赤い光が閃いた。


 山猫騎士団が苦戦の末に撃破した怪物。

 岩のドラゴンが、再びこの世に顕現した。



***



 粉々になった瓦礫の海の中で、レイは地面を這っていた。


 黒鉄の剣をまともに食らい、腹が大きく抉れていた。ただの人間であればとうの昔に死んでいる。だが魔族の力が災いし、死ぬほどの激痛で気が狂いそうになりながらレイは意識を保っていた。


 目が霞む。脚が動かない。血が流れ過ぎている。

 それでもレイは地面に爪を食い込ませ、芋虫のように前へ進んでいる。


 ここで倒れる訳にはいかない。

 倒れる事など許されない。

 全ては、自分のせいなのだ。


 かつて、アルダノームがエルフから分裂した時、レイは真っ先にそれに賛同した。彼女はヴォルフを信頼し切っていた。導かれる新たな世界に何の疑問も持っていなかった。


 だが、レイには何も見えていなかった。新たな世界でアルダノームの王が自分達以外をどう扱うかなど、全く見えていなかったのだ。振り返れば、レイが選んだ理想の道には夥しい屍が転がっていた。死体の上で広がり続ける自分の国。これがお前の理想なのだと突き付けられて、レイは一気に頭が冷える。


 そしてレイはアルダノームを離反する。過ちに気付いた同志を引き連れファルディアへと亡命した。それは恐らく、今度こそは正しい選択だったのだろう。


 だがそうする前に、レイはヴォルフを止めるべきだった。ヴォルフが戦争を始める前に、仲間達が犠牲になる前に、街も人も焼き尽くされる前に。


 誰よりもあの男の側にいたレイが。

 子供の頃からあの男を知るレイが。

 真っ先に止めなければならなかったのだ。


 それが出来なかったばかりに今がある。戦争は始まり、仲間達が犠牲になり、街も人も焼き尽くされた。タリアが殺され、メルキオンが殺され、クライムが殺された。そしてまさに今、果敢に挑む仲間達が次々と散っている。


 全ては、自分のせいなのだ。


 そんな中、レイ一人がこんな所で倒れて良い訳がない。そんな事が許される筈がない。レイはここで何としても、どんな手を使ってでも、今度こそあの男を倒さなければならないのだから。



***



 巨大なドラゴンが、ゆっくりと前脚を振り上げた。


 兵士達が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。ドラゴンの動きは遅い。だがその規模は余りにも大き過ぎた。腕が叩きつけられ、地響きと共に地面を削っていき、そして払った。その緩慢な動きで同盟軍は陣形ごとごっそりと数を減らした。


 その間もドラゴンは城の破片を吸収し続け、際限なく大きくなっていく。もうウィルの記憶にある岩のドラゴンの大きさを超えている。


 酷く歪な姿だった。全体的に見れば竜の姿を象っているものの、城の破片を丸ごと取り込んでいるその体からは、城門や階段、柱や彫刻がそのまま見えていた。そして武器工房と製鉄所を吸収した為か、体中から絶えず煙を噴き出し、溶けた鉄が血のように滴っていた。


 敵味方が入り乱れたこの混戦、そのただ中をドラゴンが少しでも動けば、それだけで甚大な損害が出た。魔族軍も当然巻き添えを食っているが、それ以上に同盟軍が混乱し切っている。


「止まれぇ!」


 ウィルは黄金の剣で幾度となくドラゴンを斬りつけた。だがそれは、獅子の足元で虫けらが足掻いているような状況だった。


 剣の効果は薄く、しかもすぐに修復される。堅固な城塞から生み出されたこのドラゴンは、雑多な岩石から作られた以前より遥かに硬く、強かった。ウィルが歯噛みして見上げれば、遥かドラゴンの頭上に人影が見えた。


「くそ、ヴォルフめ! 指輪も無しに……!」


 ヴォルフは此方を見もしない。もう黒鉄を振るう必要すらない。この巨体でまっすぐ戦場を縦断すれば、それで同盟軍は壊滅する。


 城のドラゴンは成長し続ける。城壁が基礎ごと地面から引っこ抜かれ、城の下に広がっていた地下空間までも抉り取られ、どんどんその姿を確かにしていく。そして両手両足が完全に揃った所で、更に別の部位が作られ始めた。背中から生えた、二つの突起だ。


「まずい」


 あっという間に大きくなるそれを見て、ウィルが呟いた。

 翼だ。飛ぶつもりなのだ。このドラゴンは。


 ウィルは走った。フィンもレイもいないこの状況で、もしドラゴンに飛ばれたら手の施しようが無い。翼の真下まで辿り着いたところで、一気に剣を振り上げた。放たれた黄金の奔流はその巨体を舐めていき、右の翼に到達。轟音と共に粉砕した。急に体の一部を失い、城のドラゴンが傾く。


 破壊された翼から朦々と煙を上げるドラゴンを見て、ウィルはすぐに左の翼も破壊しようと力を籠める。狙いを定め、剣を握り、そして気付いた。


「しまった!」


 次の瞬間、煙の中から何かが宙へ飛び出した。


 並みの魔物より二回りも大きい怪物。それは三つ首の獅子だった。右の首は山羊で、左の首は蛇、背中から生やした翼で空を飛んでいる。城で出来た体が黒光りしている事を除けば、モラルタで見た岩の怪物と酷似している。つまり、たった今ウィルが切り離したドラゴンの翼が姿を変えた怪物なのだ。


 獅子の咆哮で、ウィルの周囲に散らばる大小無数の破片が目を覚ました。


 小さな破片は虫の姿をした城の怪物に、大きな破片は熊の姿をした城の怪物になる。ウィルは剣を振るって怪物達を駆逐していく。その傍らでドラゴンが一歩足を進め、地響きが戦場を揺らす。上空では城の獅子が我が物顔で飛んでいる。城の怪物はますます増えていく。余りに数が多すぎた。


「くそ!」


 戦場上空を飛ぶ獅子が、口に炎を溜めたのが見えた。

 以前に見た時と同じ。三つの口全てに炎を宿している。


 ウィルは焦って剣を振り続けた。どうすれば倒せる。あの時はフィンの力を借りて近づき、アレクとリューロンが食らいついて何とか退けた。だが今は自分だけだ。そうして上に気を取られている間に、目の前の怪物から手痛い一撃を貰った。


「ぐっ……!」


 気付けばウィルは完全に囲まれていた。もう手段は選んでいられない。残る力の全てを振り絞ってでも、まずは獅子を倒す。ドラゴンもヴォルフも健在。それでも力を温存してあれを野放しにする道理はない。決めた以上は戦うだけだ。これまでそう生きて来た。これからもそう生きていく。


 それがたとえ。

 独りでも。



「落ちろ!!」



 野蛮な掛け声と共に一筋の銀光が天に伸び、一瞬で獅子を貫いた。


 この高度で体を串刺しにされている状況に訳が分からないのか、獅子は苦悶の叫びを上げながら身を捩る。だが銀の光は滅茶苦茶に分散し、あっという間にその体をバラバラに斬り刻んだ。両断された獅子の体が次々と地面に落ちる。ウィルは開いた口が塞がらない。


「あーすっきりした。これでモラルタの借りは返したからな」


 その声はウィルのすぐ後ろからしていた。

 驚いて振り返ると、そこに一人の剣士が立っていた。

 傭兵のように雑多な服を着こみ、煌びやかな銀の剣を携えた剣士が。


「アレク! どうしてここに!」

「呆けんな! こいつらブチ殺すぞ!」


 言うが早いかアレクはアルギュロスを振り抜いた。訳も分からずウィルもアルカシアを構える。完全に城の怪物達に包囲されたような状況だが、急に背中を預けられる仲間ができた。


「おおらぁああああああ!」


 そうかと思えば、赤髪と青髪の剣士が包囲を外側から食い破った。ヴィッツとテルルだった。


 そして反対側からもコールとティオが現れ、怪物達に襲い掛かる。


 遅れて虫の怪物達が飛んできたが、空を覆い尽くす炎に一網打尽にされた。マキノは周囲から集めた炎でそのまま露払いを続けていく。


 飛んできた蠍の尾がウィルの足元に突き刺さった。見れば巨大な城の蠍が己の尾を失って悲鳴を上げている。その背に乗っているのは隻腕の騎士。くたびれた表情のまま片手で鞘から剣を抜き、収める。その途端、固い甲皮に覆われた蠍が縦に両断されて崩れ落ちた。


「ウィリアム、遅れてすまなかった。大丈夫か」


 ジーギルは歩み寄りながらいつもと変わらぬ調子でウィルに話しかけた。一方でウィルは全く状況が掴めない。


「だ、大丈夫だ。いやジーギルこそ、その腕はどうしたんだ? 白銀をなぜアレクが、いや、狼を追っていた筈じゃ、あれ?」


 ウィルは目を白黒させたままだ。何から訊いたものか分からない。アレクはアルギュロスで怪物を倒しながら答える。


「フィンの野郎だ! あの野郎、俺とジーギルを猫みたいに咥えやがって、それでアストリアスからここまで一っ飛びだ!」

「アストリアスだって? そんな所まで。いや、それじゃあフェンリルは倒したのか?」

「倒してねぇよ! でもリューロンとナルウィを置いてきた、何とかなんだろ!」

「ちょっと待っておかしいわ。私もよ」


 アレクの話に、急にヴィッツが口を挟んだ。


「私とテルルをここまで運んでくれたのもフィンよ。フィン、だったと思う。よく見えなかったし、顔もぼやけてたし、何を話したかもよく覚えてない。でもその銀髪に突然話し掛けられたのよ。ちょっと今時間あるかいって、凄い軽い感じで連れて来られたわ」

「おや、そうなんですか? 実は私を本陣からここまで運んでくれたのも、フィンさんなのですが」


 話がどんどん拗れていく。皆の顔を見るに、全員がフィンにここまで連れて来られて、そのフィン本人は全て消えてしまった事になる。


 誰も彼が見えない。

 誰も彼と顔を合わせない。

 誰も彼に口を利かない。


 目の当たりにしていないウィルには何が何だか分からなかった。


「知るかそんな事は! それよりウィル! 俺は来たばかりなんだ、今どうなってる!」


 アレクは城の怪物と一緒に、ウィルの疑問を一刀両断する。

 ウィルは混乱しながらも掻い摘んで説明し、マキノがそれを補足した。


「本陣でメイルさんが泡を食っていましたよ。粘ってはいますが、いつ戦線が崩壊してもおかしくないでしょうね」

「敵は完全に勢いに乗ってるんだ。もし俺達がここで負けたら、この黒の軍隊はそのまま進撃を続けるだろう。全て、滅ぼすまで」


 城の怪物達を倒しながら説明を続ける。再確認すればするほど事態が悪化しているようだった。アレクは彼等の断片的な情報を頭でまとめ、自分なりに解釈し、結論づけた。


「好機だな」

「何だって?」


 思わずウィルが聞き返す。だが白銀を手に暴れ続けるこの男は至って正気だった。その目には、確かに希望の光が宿っている。


「あいつら最初からこの状況を狙ってたんだろ? それでとうとう念願叶って調子づいてる訳だ。部隊長共に複雑に統制された連中が、王を旗頭にした一枚岩になった。だがもし、今この瞬間に、俺達がその旗頭を派手に叩き折ればどうなる。全てが瓦解する」


 悪い顔で笑ったまま、トントンと剣で肩を叩く。


「ヴォルフ一人倒した所で、何万って魔物共が本当に止まるのか、最初から疑問だったんだがな。最高の状況が整ってるじゃねぇか。馬鹿め。奴ら墓穴掘りやがった」

「でも……」


 ウィルは沈痛な面持ちで黒の城の跡を見る。


「それは、彼を倒せればの話だ。クライムとレイの姿が見えないんだ。もし彼らが、負けてしまっていたら。俺達だけの力で不死身の王を倒さないと……」

「いや、止めを刺すのは奴等に任せていい。俺達はそれまで時間を稼ぐ」

「だがアレク! この戦いには全てがかかっているんだ! 賭けに出る前に、万全の作戦を……!」

「いいか、ウィル」


 アレクはまっすぐウィルの目を見た。


「言いたい事は分かる。俺もそう思った。だから戦いの前にあいつに確認したんだ。それに対して、あいつは必ずやり遂げると答えた。そして俺はそれに賭けると約束した」


 周辺にいた怪物達は粗方駆逐され、山猫達が集まってきた。


「二言はない。あいつは必ずヴォルフを倒す。そして俺は決してそれを疑わない。悪いがお前等にも付き合って貰うぞ。その場の流れと形式だけだがな、俺達の団長が誰なのか忘れた訳じゃねぇだろう」


 城のドラゴンが更に一歩、距離を詰めた。黒の城の半分程度を吸収したその巨体の上に、紅い眼差しで世界を見下ろす魔王の姿が見える。騎士達は自然と突撃隊形を組み、アレクが一歩前に出て、ウィルがその隣に並んだ。


「すまない、その通りだ。仲間を疑うなんて弱気になっていたよ」

「団長不在で締まらねぇが、まぁやる事は同じだろ」

「ここが正念場って訳だな。よし、一緒に行こう!」

「ああ。最初は俺とお前でだ。遅れるなよ」


 アレクが強く柄を握ると、剣から白銀の光が迸る。ウィルの持つ剣からも、黄金の光が吹き荒れた。ジーギルが、ドミニクが、コールが、その場で隊列を組んだ騎士達が次々と剣を構える。ドラゴンの足元からは新たに生み出された怪物達がこちらに狙いを定めていた。アレクはそれを睨みながら、力の限り吠えた。


「山猫騎士団!!」


 ドラゴンの咆哮と共に、怪物達が一斉に押し寄せる。


「突撃!!!」



***



 花びらが、舞っていた。


 青い空も、白い布も、左右に並ぶ皆が撒いている花びらで鮮やかに彩られている。


 薄暗い壊れかけの教会から出てきた僕の前には、村中の人達が揃っていた。おめでとうと笑いかけてくれたり、なんでお前なんだと泣いていたり、本当に沢山の人達が集まっていた。陽の光が眩しい。


 右の列にいた父さんが真っ先に目についた。すごく意地悪な顔で笑いながら、バサバサと花弁を投げつけてくる。左の列にいたのはキアランと、侯爵の妹。花嫁をウルム侯爵から攫ってきた手前、彼女が来てくれたのもお忍びでだ。その隣には鍛冶屋と肉屋が、反対側には村長と娘達が並んでいる。


 なんだか気圧された気分だったけど、僕はそのまま彼女の手を引いた。

 花嫁が姿を現すと、みんなが一斉に盛り上がる。

 僕の時とえらい違いだ。


 現れた花嫁、サラは真っ白なドレスに身を包んでいた。長い栗色の髪を綺麗な花飾りでまとめて、長いレースのスカートが地面に届いて後ろにまで続いている。その胸には色とりどりの大きな花束を抱えていた。サラも迎えの人達に驚いていたけど、静かにして、その一言だった。でも静かにはならなかった。


 改めて見ると、本当にサラは綺麗だった。鋭い眼差しはそのままだけど、赤い口紅を差して、小さな耳飾りをして、別人のように見えるくらいだ。普段は全く化粧っけがない彼女が僕の為に、そう考えると僕がその花婿の筈なのに顔が火照ってくる。ふと、サラが僕の視線に気づいた。


「見過ぎ」


 ふっと薄く笑う。いつもの彼女だ。


 彼女の後ろでオデオンまでが僕をニヤニヤ見ている。二人の父親は前日祭で酔い潰れたから、今日の付き添いは弟のオデオンだ。自分の姉と僕が結婚する事に思う所でもあるんだろうか。でも何も言わない。でも笑ってる。


「……なんだよ」

「いーや別に? おら、さっさと行けよ」


 言われるがまま、二人で白い布の道を進んでいった。いつも僕の前に立っていたサラが、僕に手を引かれて少し後ろを歩いている。なんだか新鮮で、なぜか気恥ずかしかった。


 左右から沢山の言葉がかけられて、どんどん花弁が降ってくる。父さんは特にバサバサと容赦ない。サラには村の女達が涙ぐましく言葉をかけているけど、僕には基本、恨み事の類だ。やりやがったなとか、絶対に許さねぇとか、頭や背中をひたすら叩かれる。かなり痛い。それにしても。


「サラ、そのドレス歩きにくい?」

「いいえ。教会に入る時は花嫁が一歩前を、出る時は花婿が二歩前を。村のしきたりよ。知らない?」


 全然知らない。そうか、ケプセネイアではそういう伝統があるんだ。でもなぜだろう。今は彼女と並んで歩きたい。そう思って強めに手を引いた。でも頑として隣に来ない。恨めし気に見ても、澄まし顔で返された。分かった。もういい。


「わっ」


 僕は少し無理矢理サラの手を引いた。サラが転びそうになるのを掴まえて、そのまま横向きに抱きかかえる。女達は黄色い声を上げて、男共はヤジを飛ばしてきた。サラは持っていた花束をポイと投げて首に手を回してくれる。彼女の体が温かい。息がかかるほど近くでサラが笑った。


「こういう事、するんだ」

「サラが悪い」


 そのまま歩いて白い壇上まで彼女を運ぶ。注意して降ろそうとすると、彼女はするりと逃げるように自分で降りた。壇上ではキアランの父親が待っていた。本来なら神父なんだけど、この村は無宗教だし神父もいない。形だけだ。


「二人ともそこへ並んで。ああ、ニルスはもう少し左だ」


 宮廷詩人のキアランのお父さんは、こういう所作に少しだけ詳しい。僕らが言われた通りの場所に立ち、みんなが式壇の下に集まる。暫定神父はパラパラと持っていた本をめくり、何だかよく分からない事を朗々と謳った後、この二人を夫婦として認めると高らかに宣言した。そういう事らしい。みんなは一際大きな拍手をしてくれた。


「よろしく」

「ああ、うん。こちらこそ」


 間の抜けた挙式に二人で笑った。


 そこでキアランのお父さんは、小さな箱を僕に手渡した。その場で中を開けると、そこにあったのは首飾りだった。装飾は、美しい天使の羽。改めて彼女を見た。緊張していて気付かなかったな。今日に限って身につけていない。


「かけて」


 サラはそう言って、一歩近付いた。


 手が震えた。緊張したまま、ぎこちなく首飾りを広げ、それでもなんとか彼女の首にかける。サラは胸元の天使の羽に少し触れて、嬉しそうに微笑んでくれる。それを見て、僕はようやく彼女から全ての答えを聞いた気がした。幸せだった。


 でも華やかだったのはそこまでだ。

 その後、宴が設けられる事もなく迅速に結婚式場は撤収された。


 サラのお母さんの指揮の下、村人たちの動きは早かった。そして僕らは動きやすい服に着替えてそのまま馬車で出発。この見送りも込みでの式だったから準備は万端だった。


 馬車の上から後ろを振り返る。案の定、侯爵の私兵が村に押し寄せてきていて、攫われた花嫁は、攫った不届き物はどこへ行ったと揉めていた。でも有り合わせで整えた式場は跡形もなく、当の僕らも既にいない。予定通り。問題ない筈だ。


 これから僕らは、旅に出る。

 領主の怒りを村から逸らすにはそれしかなかった。


 サラ本人の計画だ。花嫁を掻っ攫った僕に注意を向けさせ、僕らはわざと掴まりやすいように動く。夜逃げみたいな旅になるから暫く落ち着かないだろう。それでも最初に僕が誘った通りの形になったんだ。やりたい事がたくさんある。見せたいものがたくさんある。


 サラはただの村娘だ。彼女の世界はケプセネイアとその周辺だけ。対して変わり者の僕はかなりの場所に足を運んだ事がある。まずはそこから案内しよう。


 基本は馬車での移動になる。国の正規軍にでも変わればどんな街でも入れるし、最悪ドラゴンにでも変われば馬車ごとサラを運べる。どんな遠い所にでも行けるんだ。そしていつかは、どこかに落ち着きたい。僕達だけの家を持って、温かい家庭を作って、幸せな家族になりたい。


 僕らは新しい道筋を決めるのに、丘の陰で休憩していた。

 馬車は道に待たせて、僕とサラは適当な所で座る。

 風が草原を吹いている。どこまでも駆けていく。

 空はとても青くて、その中を雁の群れが飛んでいた。


「気持ちいいね」

「ええ」


 僕は思わず、そこで横になる。

 草が頬をくすぐり、土の良い香りがした。


 サラは隣に座って何かの本を読んでいた。興味深そうにしているけど、誰かの旅行記だろうか。普段の彼女は無表情で何を考えているのか分かり辛い。それでもその彼女が、何も言わずに僕の隣にいてくれる。それが照れくさくて、遠くを見るフリをして顔を逸らした。


「あっちは、この国の中心かな。だんだん大きな街が増えてくるよ」

「そうみたいね。流石に追手も来ないだろうけれど、貴方はどこへ行きたい?」

「どうかな。この辺りだと大きな河に着くから船が欲しいな。図書館の街は少し遠いけど、工芸の街と騎士の街がいいかも知れない。要塞の街は、やめよう。あそこは息が詰まるし」

「要塞の街。フレイネスト?」

「うん。それだ」


 サラの本にも書いてあったらしい。僕も嫌な思い出があるし、わざわざ案内する事もない。少し自慢したい気分になって、体を起こした。


「それより首都にも行ってみよう。あそこは凄いよ。何度か空から見下ろしてみた事があるんだけど、どこまでも街が続いていて全体が見えないくらいなんだ。大きな水道橋跡とか歌劇場とか、剣闘場なんて所もある」

「それは凄い」

「そうなんだよ。なんなら宮殿にも案内したいんだけど、流石に難しいかな。凄い嫌味な魔法使いが住んでいて、番犬みたいに見回ってるんだ。王様も腹黒い人だったし、最高議長も怖かったし、上級役人も腹立つ奴だったな。スローンって言うんだけど」

「そう、詳しいのね」

「本当にたくさんの事があった場所だから。でもまずは行ってみようか。後の事は、それからだ」

「ついて行く。それで……」


 僕は立ち上がって、これからの予定に想いを巡らせる。でもサラは座ったままだった。言葉を切ったまま僕を見上げている。どうしたんだろう。


「その国。フェルディア王国は、どこ?」

「どこって、すぐ向こうだよ。道は分かるから、すぐに……」


 指をさして、サラに教えた。


 まだ記憶に新しい。みんなで旅した道のりだ。

 その先にフェルディアがある。

 グラムも。ヴェランダールも。


 でも道の先には、何もなかった。


「……あれ?」


 僕らがいる広い草原。僕らが通ってきた曲がりくねった道。その先は遠くへ遠くへと繋がっていて、どこまで通じているかも分からない程だった。でもその道は、途中から酷く荒れていた。両脇に柵もなく、道は途中で崩れていて、草も、木々も、すっかり焼け焦げてなくなっていた。


 荒れた道の途中にも村は見えた。黒い煙を吐き続ける村が。炎に包まれた街が。人の声はなく、動物達の気配もなく、代わりに恐ろしい何かの唸り声が聞こえてきていた。微かに見えたのは列を成している鋼の鎧。潰れた家を執拗に叩き続ける大きなトロール。そして奥。更に遠くに見える影。山よりも大きい、天を衝くほど巨大な、ドラゴンの暗い影。


 ……なんで。

 どうして、あんな物があるんだろう。

 僕が知っている街は、人々は、どこへ行ってしまったんだ。

 僕は焦ってサラに振り返った。


「あの、ごめん。でも本当なんだ。向こうにある筈なんだよ。僕は一時期ずっとあそこにいたんだ。間違える筈ないのに」

「謝らないで。本を読む限り、場所は合っている筈だから」


 サラは平然と答えた。

 でも、本って何の事だろう。


「……サラ、さっきから何を読んでいるの?」


 サラが読んでいた本。表紙も背表紙も中に綴られた文字も、何故か僕には読めない。読むのが怖かった。読みたくなかった。でも、訊かずにはいられなかった。


 サラは、僕の目を見たまま、答えた。


「貴方の物語」


 その言葉を僕が理解するには時間がかかった。そんな本、僕は知らない。ある筈がない。でも彼女の答えを聞いた途端、ぼやけていた全ての文字が見えるようになった。綴られていたのは、僕の旅の記憶。僕の仲間達の思い出。僕が彼女に自慢したくて、伝えたかった、僕の宝物。


 道の先から強風が吹きつけた。

 柔らかい風も青い空もどこかへ行ってしまった。


 そして風に煽られて、本の頁がパラパラと先へめくれていく。暖かい思い出ばかりじゃない。どうにもならなかった事。受け入れられなかった事。許せなかった事。そんな事が綴られている。


 そしてそれが、途中から白紙になった。


 風が止んで、真っ白な頁が静かに開いた。そこにはやはり何も書かれていない。僕の物語は完全に途切れていた。サラは少し残念そうに、頁を戻していく。


「不思議な本よね。どうして、途中で書くのをやめてしまったのかな」


 戻していき、戻していき、そして止まった。

 その見開きの途中まで文字は続いている。

 僕の物語が途切れた箇所は、炎の熱さだけがあった。

 痛くて、痛くて、本当に痛くて、思い出すだけで辛かった。


「そう、だね……」


 僕がやめた訳じゃない。

 僕にはどうにもならなかった。

 僕だってどうにかしたかったんだ。


「本当に、そうだ……」


 分かっていたんだ。どうにもならないって。僕になんか、最初からどうする事も出来なかったんだって。それでも僕はあんな世界を、あんな結末を見たくなかったんだ。暖かい村が見たくて、賑やかな街を訪れたくて、良い人や嫌な人、好きな事や嫌いな事、たくさんの物と触れていきたかったんだ。


 その為に頑張ったつもりだ。仲間達も頑張っていたし、それにあてられて今までにない勇気が湧いていた気がする。この気持ちは本物だ。今でもそう思っている。


 夢を諦めた訳じゃない。

 歩くのを止めた訳じゃない。

 世界と向き合うと決めたあの日の想いは、こんな所で潰えたりはしない。


 僕は、あの道の先が知りたい。


「もう、行くの?」


 サラが本を閉じてそう言った。その目は僕の瞳の、その奥を覗き込んでいるようだった。何が見えているかは分からない。彼女には、どんな僕が見えているんだろう。


「……ごめん。こんな所に、サラを置いて」


 本当は、彼女の手を引いて一緒に行きたい。でもその行き先は、僕が先に行かないとなくなってしまう。僕の頭はぐちゃぐちゃだった。でもサラにはお見通しなんだろう。昔からそうだった。


「構わない。それに、いつもそうだったでしょう。村で私と貴方がずっと一緒にいるなんて、そんな日が一日でもあった? それでも私は十分だった。隣にいなくても、近くにいるんだって、分かっていたから」

「そうかな。僕はずっと一緒にいたかったんだけど」

「女々しい事を言わない。私に世界の全てを見せるなんて見得を張ったのは貴方よ。恰好をつけたくて口から出まかせを言ったのは分かってる。でも言った以上は、守ってもらう」

「ひどいな。出まかせなんかじゃなかったよ。僕は本気だった」

「あらそう?」


 茶化すようにそう言って、サラは立ち上がる。


 嵐が、彼女の髪を揺らしている。どこから吹いているかは分からないけれど、この風を辿れば大丈夫だろう。きっと走れば届く距離だ。でも僕は足が遅いし、急がないといけない。もう行かないといけないんだ。


「行ってらっしゃい」


 最初の一歩を踏み出せずにいる僕に、背中を叩くようにサラが言った。本を抱えて立つ彼女は、もう僕に近づかない。一歩でも離れれば二度とここへは戻って来れないだろう。二度と彼女には会えないだろう。でもここで踏み出さないと、僕は全てを諦めてしまう。


 鉄と灰の臭いがした。

 熱さと痛みが戻ってくる。

 でもこれが、僕の選んだ道なんだ。


「行ってくる」



***



 瓦礫の山と化した黒の城跡。


 その一角に、岩とも炭とも分からない物があった。


 腕もなく脚もないが、どこか人の形をしているようにも見える。だがその体はすっかり黒くなり、最早燃える物も残っていないせいか、体を焼いていた炎も消えていた。魔王の炎が直撃し、遥か城の頂上から落ちたにしてはしっかりしている。


 その口元が、ガサリと動いた。

 灰が落ち、唇が欠け、中から空気が漏れる。

 そして、ボロボロと涙がこぼれた。


「あ……」


 かつて、ここで立ち止まった事があった。

 その身を炎に焼かれ、一歩も動けなくなった事があった。


 雨が降り、雪が降り。

 いくつもの歳月を無為に過ごした。

 命が芽吹き、そして枯れ。

 いくつもの歳月を無為に過ごした。


 意を決して立ち上がった果てが以前と同じこの姿とは、皮肉にも程がある。しかし、どうしてだろう。胸が痛い、涙が止まらない。


 とても永く、温かく、悲しい夢を見ていた気がする。大事な夢だった筈だ。なのにどうしても思い出せず、胸に大きな穴が開いたままだ。だが、それでも、こんな所で今更立ち止まっている訳にはいかない。前に進むと決めたのだ。仲間達が待っているのだ。


「あああぁぁああああ!!!」


 世界を震わすような叫び声が響く。

 それは、夢を裏切り現実を選んだ、変わり者の慟哭だった。



 思い返せば。

 彼女を想って涙を流したのは、これが初めてだったかも知れない。



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