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変わり者の物語  作者: あなぐま
第4章 道の先
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第43話 風の変わり目

 鋼が打ち合う激しい音が響いていた。


 シンは既に二本目の剣を抜いて攻め続けている。だがその息つく暇もない連撃を、ベルマイアは悉く防いでいた。隙をついてゲールが背後から刺突を繰り出すが、それも籠手で弾かれる。


「アルカシア!」


 黄金の光が吹き荒れた。ウィルの持つ剣から放たれた光が地面を抉り、粉塵を焼く。ウィルは額に汗を浮かべてそれを絞った。駄々洩れにするのではなく、細く、鋭く、研ぎ澄ませる。それを見てベルマイアは歯を剥き出して獰猛に笑った。


「悪くない! さあ見せてみろ!」


 言われるがままにウィルは剣を構えて突っ込んだ。ベルマイアは自分を押さえるシンとゲールを同時に弾き飛ばし、大上段から打ち下ろされるアルカシアを真正面から受け止めた。剣を合わせたまま二人同時に踏み込み、鼻を突き合わせる程の至近距離で吠えた。


「打ち砕く!」

「舐めるな!」


 近づく事さえ出来ない鍔迫り合いが始まる。

 だが徐々に、ウィルが押されていった。


「っ……!」


 ウィルは戦慄していた。目の前にいるのは、一人の男。

 だがまるで、巨大な岩壁に素手で挑んでいる気分だった。


 今までアルカシアの力で倒せなかった敵はいない。普段は自制の為に抑えているものの、全開にした剣は岩のドラゴンすら圧倒する。純粋な力でならベルマイアにも勝ると思っていた。後は技の勝負だと。だが違った。伝説の剣が力負けしている。それも、単純な腕力に。


「ウィル! そのまま押さえてろ!」


 弾かれた二人が戻ってきて再び三対一の戦いが始まる。


 ベルマイアは三人の猛攻を凌ぎ続け、逆に三人の体は一撃受けるごとに悲鳴を上げる。異常だった。どんな剣士にも呼吸の癖や弱点はある。だがこの魔族には、それがない。そして三人が突破口を見つけられずにいる間にも、身の毛もよだつような速さの剣と、攻略法も分からない技が怒涛のように押し寄せてくる。


 ウィルは突然、寒気を感じた。

 相手が構えを変えたのだ。何かが来る。咄嗟に剣を強く握った。

 魔族が目を細める。


「我が身は、一振りの……」


 斬り飛ばされたウィルの上半身が血飛沫を上げて宙に飛ぶ。

 そんな一瞬先の結末が見えて、ウィルは仲間達を突き飛ばした。


「剣」


 のけぞったウィルの胸が横一線に裂けて血を噴く。一呼吸遅れて衝撃が走り、合わせて五つの斬撃が周囲をまとめて吹き飛ばした。


 突き飛ばした二人は辛うじて射程の外に逃せていた。全く見えなかった。だがウィルはそう来ると知っていた。先の撤退戦でリメネスが一度食らい、二度目にして叩き返したのをヴィッツが見ていたのだ。ベルマイアに対して有効だったのはそれだけだったと彼女は言った。だから狙っていた。大技の後で敵は僅かに崩れている。


「そこだ!」


 ウィルは一気に斬り込む。

 入ると確信した。


 だがその時、瞬きほどにも満たない刹那に、確かにベルマイアはこちらを見ていた。読まれている。そう気付いた時には既に腕を掴まれていた。黄金の剣が弾き飛ばされた。足が地面を失い、世界が反転し、背中が地面に叩きつけられる。そしてその右腕を、垂直に突き立てられた剣が串刺しにした。


「っ――!」


 ウィルは声にならぬ悲鳴を上げた。誰の物とも分からない鋳造剣。その剣は深々と入り、腕を地面に縫い留める。歯を食いしばって左手で抜こうと柄を握るが、岩にまで突き刺さっているのかびくともしない。傷口が開くばかりだ。


「くそっ……!」


 ウィルは渾身の力を込めて藻掻いた。その傍らでシンとゲールが果敢にベルマイアに挑んでいる。だが完全に押されていた。打ち合う度に切り崩されていき、そして遂に、ゲールが斬り捨てられた。


 ウィルは思わず立ち上がろうとして更に傷が開く。

 ゲールの体が崩れ落ち、彼の剣が地面に突き刺さった。


 その剣は、彼の墓標のようだった。見れば墓標は一本ではない。魔族軍本陣での乱戦では既に多くの者が倒れ、彼等の剣が何本も地面に刺さっている。まるで剣士の墓場だ。


 一人になったシンが、尚もベルマイアと戦っている。左手の剣が砕かれ、右手の剣が腕ごと斬り落とされる。シンは雄叫びを上げて残る一本の腕で殴りかかった。その左腕までも斬り落とされたが、両腕を失くしてなおシンは止まらない。喉元に喰らいつこうと歯を剥き出して飛び掛かる。


「見事だ」


 ベルマイアは薄く笑って、剣を振り上げた。

 ウィルはそれを見て死に物狂いで手を伸ばした。


「駄目だ! やめろ!」


 剣が振り下ろされた。頭を失ったシンの体が地面に落ちる。ウィルは叫びながら再び剣を抜きにかかる。だがどんなに力を込めても動かなかった。ベルマイアは踵を返し、再び同盟軍に向け歩き出した。


「待て……! 待てよ! 俺はまだ負けてない!」


 どれだけ叫んでもベルマイアは振り返る事さえしなかった。見苦しく足掻いているのだと分かっている。何が負けていないだ。惨敗だ。黄金の剣を失い、友を殺され、挑む事さえ許されない。時間だけが無情に流れ、墓標ばかりが増えていく。


 誰もベルマイアを止められなかった。名もなき勇敢な兵達が次々とその剣に倒れていき、とうとうグラム王が挑みかかる。剣の腕はウィルやジーギルにも引けを取らない。だが相手が悪すぎた。


「あぁ……」


 ウィルの手が、剣の柄からずるりと落ちた。ざらりとした地面ごと拳を握りしめた。血を吸って赤黒く変色した土を握ることしかできなかった。目の前で希望の光が一つ、また一つと消えていく。主を失った剣が一つ、また一つと増えていく。呆然とする中でよぎったのは、師の言葉だった。剣士は常に自由であれ。国の為、人の為に戦っても幸せになれない。


 それがスローンの事だと気付いたのは最近だ。先生も、ブリュンも知っていたのだ。だから口を酸っぱくして自分にそう教えた。実際に、彼らの言うことは正しかった。その結果のこの墓場だ。誰かの為にと命を投げ打った剣士達の成れの果てだ。これが、こんなものが。ならば、逃げるのか。


「……っ、情けない」


 己自身を叱咤して、ウィルはぐっと唇を引き結んだ。地面を叩き、再び剣の柄へ手をのばす。言い訳などできない。目を逸らす事など許されない。全てはウィルの選択だ。こうなると分かって彼女の元を飛び出したのだ。


 誰かの為に戦っても幸せになれない。

 その現実を否定するためにここまで来た。


「そうだ。俺が、選んだ。そう生きると決めたんだ……!」


 柄を握る腕に力が籠る。剣は抜けない。それでも決して力は抜かない。力の限り引き続ける。喉の奥から絞り出すような声を上げた。顔が真っ赤になり今にも血を噴きそうだった。そして僅かに、ほんの僅かに動き。勢い良く剣は引き抜かれた。


 荒い息を吐く。血が流れ出る左腕の傷をきつく縛り上げた。そして引き抜いた剣をそのまま握り、ふらつく足で歩き出す。騎士達が敗れている。兵達が倒れている。そしてグラム王が負けている。深手を負って倒れた王に、今まさに止めが振り下ろされようとしていた。ウィルは叫んだ。


「我が、名は!!!」


 その声は、戦場の全てを一瞬で支配した。

 敵も、味方も、そしてベルマイアもウィルを見た。


「我が名は! ウィリアム・アデライド! アルバトス王に忠誠を誓いしフェルディア王国一の剣士にして! 我が師より伝説を預かりし、黄金の騎士の銘を受け継ぐ者!」


 満身創痍のその男は力の限り吠え続ける。与えられた肩書を名乗るなどらしくない。黄金の剣を探す時間もなく、持っているのは誰の物かも分からない刃毀れだらけの鉄屑だ。それでも、その場にいた誰もが、ウィルから視線を逸らす事が出来ない。


「我が剣、我が命は、仲間達に捧げている! アルダノーム軍総指令ベルマイア、お前の無敗伝説は今日で終わりだ! 俺はこの戦いで、お前を超える!」


 ぶわっとウィルの総毛が逆立った。ベルマイアがグラム王から剣を引き、恐ろしい笑みを浮かべてこちらへ足を進めたのだ。威圧感が更に増している。まだ上があった。まるで巨大なドラゴンと対峙しているような感覚だった。ただでさえ勝ち筋が見えないのに、これ以上本気にさせてどうするつもりなのか。


 だがウィルは、ここが自分の正念場だと感じていた。向かってくるのは紛う事なき世界最強。運も奇跡も裸足で逃げ出し、残ったのは足が竦んだままの、紛れもない自分自身。憧れていた英雄にはとうとうなれなかった。だが青臭い理想ばかり語ってきた自分は、今こそ立ち向かわなければならない。


 それこそが、彼が選んだ生き方なのだから。



***



「こちら第九部隊! 敵トロール大隊を補足、追撃します!」

「すまない、陣を抜かれた! 誰か回してくれ!」

「持ち堪えて! 今そっちに援軍を送るから!」


 目まぐるしく、戦況が動く。


 メイルは矢継ぎ早に指示を出し、とにかく軍を動かし続けた。まともに戦えば押し潰される。だからひたすらに戦場を攪乱し続けた。なにしろようやく作戦らしい作戦が働くようになってきたのだ。


 ここまで来れば嫌でも分かる。敵の指揮官が変わった。ベルマイアではない他の誰かが指揮を引き継いだのだ。有能な人物なのだろう。だがそれでも、あの魔族に比べれば天と地ほどの力の差がある。これは千載一遇の好機だ。


「第四、七、十三番隊! 敵が崩れる! 押し込んで!」


 分かっている。助けられているのだ。誰かが、おそらく多くの仲間達がメイルの為にベルマイアを指揮の座から引きずり下ろした。だからこの機は逃せない。メイルは氷の球から聞こえてくる戦場全体の声に耳を澄ませていた。


 球は全ての鳥達の声を拾う。だが鳥達は互いの声をほぼ伝えない。結果、順を待たず一斉にまくしたてられる報告は、重なり合って何を言っているかも分からなかった。


 だがメイルは、時に二十近く重なるその報告を完璧に聞き分けていた。可能な限り戦況の報告を続けるよう最初に指示を出し、返ってきたそれを元に全体を把握する。やっている事は崩壊前の本部と同じだ。ただしメイルは、各国の指揮官数人掛かりが魔法も駆使して行った事を、一人で、それも全て手作業で行っている。


 本来の地図は焼けてしまったので真っ新だった予備の地図を使っている。

 氷の駒など既になく、各部隊の数と動きは全て書き込んで把握している。

 地図は直に地面に置いているため、たまに書いている途中で穴が開く始末だ。

 そもそも羽ペンすら無いため木炭を細く削って代用している。

 伝令も見張も姿はなく、メイルの情報源は氷の球だけだ。


 恐ろしく効率の悪い方法だった。

 だが、そんな方法しか思いつかなかったのだ。


 続々と報告が上がり、それをどんどん書き込んでいく。目を大きく見開いて瞬き一つしない。鼻から血が滴っているのも気付かない。驚異的な集中力だった。


 だがその手が、ピタリと止まった。


「……?」


 現地の報告を元に見えているこの戦況。それに違和感があったのだ。違和感というより既視感だ。メイルはこの戦況を、どこかで見た事がある。


「敵が、止まる……」


 中央、最前線。そこで奮戦していた部隊長は、氷の鳥を通してそんな言葉が本陣から漏れたのを聞いた。何を言っているのかはすぐに分かった。その言葉の通り、苛烈な攻撃を仕掛けていた敵が突然、僅かに止まったのだ。兵が入れ替わり編成も変わってくる。


「前列に盾、中列に槍、後列に騎兵。弓兵無し、重戦士無し、魔術師無し」


 本陣から漏れる声は、それを予言のように言い当てていく。薄気味悪いほど的確だった。その目で見ているかのような口ぶりだ。


 メイル自身も混乱していた。

 見ているのではない。

 知っているのだ。


 散々に力押しした後、急に戦線を膠着させる。そこで相手が緩んだところを、両翼から大回りした部隊が左右から一気に波状攻撃を仕掛ける。


「『フロート』だ……」


 カトル。


 盤上で白と黒の駒を戦わせる、模擬戦めいた宮廷遊戯。メイルにとっては忘れられない思い出だ。フロートはその中でもメイルが好んだ作戦だった。エイセルとスローンの助言を元に、これで冬の魔法使いを倒した事がある。


「なんだこれ、どういう事だ」


 鼓動が早まる。これは実戦だ。遊戯を引き合いに出すなど馬鹿げている。だがだからこそ、なぜ敵がカトルそのものの動きをしているのか分からない。


 しかし考えてみれば、カトルはそもそも実際の戦場において生み出されたもの。今メイルが広げるこの地図こそが、まさにカトルの原型なのだ。そのカトルには全てに「元」がある。五百年前の戦争で魔族軍が好んだ戦術が、研究し尽くされ、盛り込まれていても不思議はない。


 それにスローンは言っていた。フロートなど考えられない、実際にはあり得ない戦術だと。確かに不可能だ。人間はそんなに速く動けない。これは元々、魔物達の強靭な脚力を前提とした電撃作戦なのだ。


「………」


 もし。


 もしこれがフロートそのものだとしたら。

 メイルはその攻略法を知っている。

 自分が好んだ戦術だ。弱点も知り尽くしている。


「どうしよう、どうしよう……!」


 だが今までの失態を思い出す。自分にとって好機だということは、また何かの罠か。また誘われているのか。迷った。これは転換点だ。次の一手が勝敗を分けるかも知れない。


「くくっ。これは、面白い」


 思考を邪魔するしわがれた声に鳥肌が立った。

 思わず後ろを振り返る。


 そこで、信じられないほど近くで、本陣の兵達とパイプのトロールが戦っていた。ここまで近づかれるまで気付かなかったとは、どれだけ視野が狭くなっていたのか。ここは同盟軍本陣だ。ここにも敵がいるのだ。


「ほれ、お前達も見てやらんか。あんな小さな子供が、万を超える軍隊を統括しておるぞ。こんな事があり得るのか? くくく、愉快だなあ。こんな面白い事があったとはなあ」


 そのトロールは、舐め回すような目でメイルを見ていた。戦い、斬られ、体中から血を流しながらもだ。メイルは小さく悲鳴を上げる。生理的な何かが全力であの魔物を拒絶していた。


「に、逃げなきゃ……!」


 兵士達はどう見ても劣勢だ。それにマキノがいない。冬もいない。あの魔物はそれを倒してここにいる。だがどこへ逃げればいい。メイルの足で逃げられるのか。そもそも本当に逃げるのか。仲間達に、背を向けて。


 頭は今すぐ逃げろと言っている。

 体は逃げられる訳がないと言っている。

 心は逃げる訳にはいかないと言っている。

 どうすべきか、どうしたいか、全てがぐちゃぐちゃだ。


「だ、第、第四騎馬隊! ボクの指示を、良く聞いて!」


 メイルは座り込んだまま声を張り上げる。うまく舌が回らない。


「そこから右手側、敵の大隊。彼等がもし二手に分かれたら、すぐにボクに教えて!」


 それがフロートの予兆である筈だった。それさえ見落とさなければ全ての動きを察知できる。だがメイルが指示した相手、騎馬隊の部隊長はメイルの事など知りもしない。


「黙れ! 小娘ごときが、こんな時に話しかけてくるな!」

「待ってよ! 大事な事なんだ! これで全部……」

「くそ、忌々しい! さっきから何なんだこの氷細工は! 指揮官がいないなら無用だろうが! なぜこの鳥は俺から離れない!」


 相手は全く聞く耳持たなかった。彼だけではない。子供の指揮など聞けるかと、今もメイルの指示は半分以上が無視されている。仕方ない事ではある。だが今回ばかりは仕方ないでは片づけられない。確証もなく作戦は固められないのだ。


「くく、それが普通の反応だろうさな。さあどうする? どう出る?」


 しわがれた声が聞こえるが、今は無視する。

 無視して声を張り上げた。

 クライムがいつも、そうするように。


「ちゃんとボクの話を聞いて! あなたがどう思ってるか分かんないけど、ボクはアルバ、フェルディア王に任されてガレノールの代理をしているんだ! あなたが部隊長の任にある以上、ボクの指示を聞く義務がある筈だ!」


 腹に力を込めたまま嘘八百を並べ立てた。

 マキノがいつも、そうするように。


「黙れと言っている! そんな戯言に付き合ってられるか!」

「戯言なんかじゃない! だからボクはここにいるんだ、ノルランデル!」


 急に自分の名前が呼ばれて、部隊長が言葉を飲み込む。


「何なんだ、お前。なぜ俺の名前を……」

「知ってる、当たり前だよ。ボクはずっとガレノールの指揮を後ろから見ていて、冬の鳥を託された部隊長七十二人の名前も名簿で見た。それが今では五十四人。でも誰が残っているかも分かってる。だから……」


 だんだんと腹が立ってきて、メイルは声を荒げた。


「だから、分かってるんだよみんなの事は! ボクの声は五十四人全員に届いている筈だ! いい加減無視するのはやめてよヴォーリン! それにサブラク、カルネウス! 敢えてボクの指示と逆に動いているの、気付いてないとでも思った!?」

「お前まさか、本当に。いやしかし、子供の命令になど……」

「うるさい!」


 メイルはそれを一喝して黙らせる。

 スローンがいつも、そうしていたように。


「子供でも、今はこの同盟軍の指揮官なんだ! いいから黙って、私に従え!」


 それを皮切りに、バタバタと部隊は動き出した。メイルもそれに容赦なく指示を重ねていく。もう腹も括った。動きも読めている。後は自分を信じて進むだけだ。しわがれた声も、無視していればいい。


「素晴らしい手管だな。儂も指揮官と名のつく生き物は何人か見てきたが、その年齢で大したものだ」


 ひたすら無視して指揮を続ける。メイルはもう振り返りもしない。声がどんどん近づいているのも無視する。戦っていた兵達の声が少なくなっているのも考えない。蟲達の蠢く音が迫っているのも気にしない。


「地中の賢者か。だがその内でも優秀な部類だな。連中の頭は何度か開いてみた事があるが、お前程となると、やはり中身の作りからして違うものかな?」


 無視しろと、メイルは自分に言い聞かせる。今更逃げ出してももう遅い。腰に差した短剣で何ができる。クライムも、フィンも、レイも、皆が勇気を出して戦っているのだ。自分だってその万分の一でも振り絞れる筈だ。


「く、くく。その青い未来を、儂の手で黒く塗り潰せると思うと何とも昂る。さあ、その前に如何程の才であったか試しておかねばなあ。指揮を執るのに胸から下は必要あるまい。両脚を千切り、両腕を喰らい、腰をもぎ取り臓物を引き摺り出しても、まだ人の言葉は出てくるものかなあ」


 しわがれた声と共に、腐敗した生臭い息が首にかかる。戦っていた兵達は、もう誰の声もしない。蟲達の蠢く音は、すぐ後ろにまで迫っていた。


「怖く、ない……」


 ぞわりと、人の腕よりも大きい百足が何匹もメイルの隣を抜けて地図を這った。何だか分からない大きな羽蟲が背後で大量に群れている。体がカタカタと震えた。拳を強く握っても涙が出てきた。


「怖くない、怖くない、怖くない……!」


 すぐ後に大きな気配を感じた。

 座り込んだメイルの細い脚を、武骨な手が掴む。

 メイルは思わずぎゅっと目を瞑った。


「失礼。その子に何か用ですか?」


 聞き覚えのある若い男の声がしたのは、その時だった。



***



 振り返ったトロールが見たのは、灰色の髪の若い魔術師だった。

 酷い有様だったが、魅力的な、それでもどこか胡散臭い顔で朗らかに笑う。


「彼女は私の連れなんです。見ての通り大変多忙な状況でして、お話なら私が代わりに承ります」

「……それはそれは、失礼をしたな」


 トロール、蜘蛛はじっとマキノを見る。


 折れた右腕は包帯で体に固定されて動かない。左腕にもしっかり包帯が巻かれ、生々しく血が滲んでいた。その左手にどこで拾ったのか剣こそ持っていたが、持ち上げる事もできずガリガリと地面を引き摺っている。魔法が使えない上にこの様子では、死にに来たようなものだ。だが小鹿のように頼りない足取りのまま、マキノは凄んだ顔で大法螺を吹く。


「できれば場所を変えては貰えませんか。でなければ、力づくで……」


 話の途中で、ぽろりと剣が左手から滑り落ちた。

 マキノが少し顔をしかめる。


「……力づくで、お引き取り頂くほかありません」


 取り敢えず最後まで言い切ってから、震える手で再び剣を拾った。


 マキノはそのまま自分を嘲笑うトロール、蜘蛛の指輪の従者を改めて観察する。主人である蜘蛛に意識を奪われ、体を酷使されたトロールは、どう見ても死んでいた。それでも死んでいる事など気にせずに、美味そうにパイプをふかしている。


「そうつまらん事を言うな。これは儂の数少ない愉しみでな。しかし、貴様も丁度いい所に来たものだ」


 そう言って蜘蛛はそのままメイルの脚を掴み上げた。逆さ吊りにされたメイルが悲鳴を上げる。すぐにトロールの周りにいた蟲達が、その足を伝って巨体を這い上がり、ガサガサと腕からメイルの脚にまで迫る。


「まあ座れ。すぐに、面白くなる」


 蜘蛛はそれを見て、おぞましい笑みを浮かべる。

 蟲達の口がメイルの足先にまでかかった。

 だがマキノは、それを笑顔で一蹴した。


「結構です」


 無造作に小瓶を放り投げた。


 それがトロールの足元で割れた。一瞬で周囲が炎に包まれ、そして異常なほど煙を噴いて全てを埋め尽くす。蟲達は次々と炎に呑まれ、煙に燻され、悲鳴を上げながらガサガサと崩れていった。


「ふはは。煙幕とは古典的な。だが魔法の使えない魔術師如きが、その程度の小細工で……」


 蜘蛛の軽口を待たずにマキノが一気に飛び込んだ。

 先ほどの頼りない足取りが嘘のような鋭い動き。

 その姿を見て、蜘蛛は思わず引き攣った笑いを漏らす。


「……はっ。正気か?」


 その魔術師は、剣を構えて低く腰を落としていた。

 ハッタリだった血濡れの包帯がはらりと落ち、左手で力強く剣を握りしめる。


 マキノが踏み込む。


 目にも留まらぬ一閃が煙を裂いてトロールの右手を掠めた。剣は狙い違わず指の腱を断ち切りメイルが落ちる。それをマキノは左腕で受け流して地面へ逃がし、更に踏み込んで重い一撃を叩き込む。鎧の継ぎ目が弾き飛ばされ、剥き出しになった膝をすぐさま横薙ぎに剣が切り裂いた。軸足をやられてトロールの巨体が体勢を崩す。崩されながら、蜘蛛は大笑いしていた。


「ふはは、はははははは! こんな馬鹿な!」


 持ち上がった腰を起点に脚をかけられ、腕を引き落とされ、トロールが宙に浮く。そして地響きと共に盛大に地面に叩きつけられた。メイルは地図の端に燃え移った火をバタバタと叩きながら叫んだ。


「マ、マキノ!? 剣使えたの!?」

「嗜み程度ですよ。昔はアレクに稽古をつけていたのですが、実際に振るうのは十年振りでしょうか」

「ははははは! 剣の稽古だと!? この魔術師の面汚しめが!」


 体を起こしたトロールはなおも笑っていた。

 まるで効いた様子もないが、マキノは薄く笑って答える。


「似たような事を、別の魔法使いにも言われましたよ。しかし所詮は同じ人種ですね。魔法にばかり頭が凝り固まって、それ以外の分野に関しては赤子以下です」

「それで魔法以外を習得したのか? その魔法使いの鼻を明かす為に?」

「ええ。その男もあなたと同じく向こうで無様に転がっています。世間知らずの引き篭もりが、調子に乗ってお外に出たりするから痛い目を見るんです。そのまま自分の部屋で王様気取っていれば良かったものを、っと失敬。あなたもでしたね」

「くくく、剣術、体術、武術。それに硫黄の臭いがしたが、その小瓶の中身はなんだ?」

「さて何でしょう。ああ、大丈夫。答えは急ぎません。手品は他にも仕込んできましたし、じっくり考えて頂いて結構です。『すぐに面白くなる』、そうでしょう?」


 メイルはもう冷や汗が止まらなかった。マキノの安い挑発で、蜘蛛の目がどんどん怪しく輝いていく。今や蜘蛛の獲物はメイルからマキノへ完全にすり替わっていた。詐欺の手口を見ているようだ。


「メイルさん。彼は私が受け持ちます」

「で、でも、魔法使えないんでしょう?」

「この手の嫌がらせなら多少の心得があります。時間稼ぎなら問題ありません」

「でも、でもマキノの腕。右腕が……」


 無理をして動いているのは明白だ。左腕一本であの大立ち回り、だが右腕にも負荷が掛かり、包帯からじわりと本当の血が滲んでいた。それでもマキノは微笑みかけてくれる。また気遣われているのだ。いつもそうだ。


「あの、マキノ、ごめんね。冬の魔法、壊しちゃって。指揮もボクが勝手にしちゃって。折角マキノが新しい指揮官を探してくれていたのに、ボクが勝手に……」

「やめて下さい。そんな所に追い遣ってしまった私に責任があります。あなたは良くやってくれている。ですから、非常に心苦しいのですが、もう少しお願いしたいのです。私にはあなたの代わりが務まらない。他の誰にも、メイルさんの代わりは務められないんです」

「違う、違うよ……」


 今更の事を謝ったメイルは、このまま洗い浚い白状したかった。多くの仲間に庇われてこの場にいる事。思いつきから作戦を決め、確証もないまま準備を進めている事。なのにマキノは、そんな自分を信頼し切った顔で見てくる。


 胃が捩じ切れて吐きそうだった。

 罪悪感の海に溺れて窒息しそうだった。

 焦燥感がガンガンと頭を叩いてくるようだった。

 もしこれで上手くいかなかったら。もし、全てが裏目に出たら。


「暫定指揮官! おい、来たぞ!」


 ぐるぐると頭を抱えていたメイルは、飛び込んできた声で無理矢理現実に引き戻された。それは氷の球から、戦場の誰かからの声だった。それが誰だったか思い出す間もなくメイルは咄嗟に答える。


「あの、ごめん、来たって何が!?」

「寝ぼけてるのか! お前の言った通りだ! 敵が二手に分かれた、いや、分かれる! すぐに何かが来るぞ!」


 頭はまだぐるぐると回ったままだ。

 考えが纏まらない。


 だがその声は確かに、自分が指示を出した第四騎馬隊のものだ。敵が動いたら報せろとメイルが言ったのだ。その報せがきた。敵が読み通りに動いた。それが意味するのは、つまり。


 放った網に、掛かってくれた。

 敵は気付かないでいてくれた。

 上手くいったのだ。


「あぁ……!」


 思わず呻き声が漏れる。安心なのか、他の感情なのかは分からない。マキノはそんなメイルを優しい眼差しで見つめると、そのまま踵を返した。目の前では倒れたトロールが、急ぐ必要もないとばかりにゆっくり体を起こしている。そしてマキノはそのまま剣を構えて突進した。


 その背後で、メイルはあらん限りの声を出していた。

 ただ、この指示を出す事を、どれほど待ったか。


「全軍! 作戦開始! 一気に敵を押し返せ!」



***



 風が変わった。

 誰の目から見てもそれは明らかだった。


 勢いに乗っていた魔族軍の動きが突然鈍ったのだ。連携を崩され、出鼻を挫かれ、足並みが乱れる。そこに同盟軍が次々と切り込んでいった。その戦い方は老獪なまでに周到で、魔族軍は蟻地獄にでも飲まれるように崩れていく。


 反撃に転じた同盟軍は、必死だった。

 ここを逃せば二度と好機は来ないと分かっていたのだ。

 そう、とうとう好機が来たのだ。


「やった、のか……」


 戦場の空気が変わったのを感じて、ウィルは茫然と呟いた。

 必死に押し殺していた恐怖が、喜びと共に溶けていくようだった。


「やったんだな、メイル……!」


 決して口にはしなかった。だがずっと、ずっと恐ろしかった。無謀な作戦を立て、玉砕覚悟で突撃し、多くの騎士が散った。だがそこまでしてウィル達が用意できたのは、単なる切っ掛けに過ぎないのだ。


 もし、誰もそれを活かしてくれなかったら。

 これまでの全ての戦いが、ただの徒労となったら。

 今までの全ての犠牲が、ただの犬死にとなったら。


 だが、とうとう全てが報われた。

 その事実に満身創痍だったウィルに力が蘇る。

 まるで胸の奥から溢れる熱さで、体が膨らんでいくようだった。


「やるな。だが、ここまでだ」


 ベルマイアが振り下ろした剣が一撃で地面を叩き割った。ウィルの剣は掠っただけで砕け散り、すぐさま畳みかけるような追撃が来る。


 ベルマイアは早々に決着を付けにきていた。二代目黄金の騎士はアルカシアを失ってなお驚異的な食らいつきを見せ続け、これだけ叩いてもまだ息の根がある。だがこれ以上時間はかけられない。今や大局の要は、あの赤毛の少女だ。彼女だけは確実に殺さなければならない。


「そうはさせない!!」


 ウィルは前に踏み出した。

 地面に刺さった墓標の一つを引き抜いて打ちかかる。

 奇しくもそれは戦友の、シンの遺した剣だった。


 ウィルの猛攻は止まらない。隙が多く、技も荒く、明らかに迂闊だ。それを承知でなおウィルは攻め続けた。体が熱い。ただの勢いと分かっていても、今なら何かが掴める気がしたのだ。


 ベルマイアは無言でそれを捌き、ウィルの剣を半ばで叩き折った。

 そして天を仰ぐ大上段から、無銘の剣を振り下ろす。

 ウィルは叫び、それを折れた剣のまま迎え撃った。


「!」


 そして、完全に受け止めた。

 ベルマイアは目を見開く。

 その刃折れの剣は、眩い黄金の輝きを纏っていた。


「これは……!」


 そのままウィルは右手の剣で相手を押し返し、左手で地面に刺さる新たな剣を握り込む。そして抜かれた瞬間その剣までもが光を放ち、ベルマイアを弾き返した。ウィルは両手に黄金の剣を構えて吠える。


「行かせない!」

「押し通る!」


 開いた間合いがすぐに詰まる。

 凄まじい剣戟の音が響き渡った。

 激しく踏み込みを変えながら、二人はひたすら打ち合った。


 ウィルからは一撃必殺の黄金の技が途切れる事なく繰り出されていた。その光に耐え切れず、剣がボロボロと崩れていく。だがウィルは戦場を駆けながら、斧でも槍でも次々と武器を抜き取って黄金の力を宿していく。距離が詰まればそれを振るって畳みかけ、距離が開けば手当たり次第に引き抜いて投擲した。


 そんな突然の事態を前にしても、ベルマイアは冷静だった。見極め、見定め、見つけ出した隙に強烈な反撃を入れる。ウィルの剣が二本同時に砕け、ほんの一瞬無防備になった。止めとばかりに無銘の剣が繰り出される。


 それをウィルは、素手で受け止めた。

 真剣白刃取り。

 あろう事か生身の腕そのものが黄金の光を帯びている。

 そしてウィルは勢いそのまま捩じるように受け流し、相手の鳩尾に重い肘鉄を叩き込んだ。


「ぐっ!」


 ベルマイアはたたらを踏んでそれに耐える。嫌な事を思い出させる。今の技、剣を奪った反撃に飛んでくる無手の剣術は、過去に一度食らった事がある。昔の記憶、腹の立つ女の顔が脳裏を掠めた。


「ウィル!!」


 突然、二人の戦いに女の声が割って入った。視界の端に赤毛の騎士、ヴィッツの姿が映り、投げられた何かが空を切って飛んでくる。それをウィルは迷わず掴み取った。脳裏を掠めた昔の記憶にベルマイアの反応が一瞬遅れ、そして見えた。ヴィッツが必死に探し続け、ようやく見つけ出したそれが、投げ渡され、受け取られ、振り上げられて目の前にある。


 光り輝く、黄金の剣。

 爆発した光の奔流が天を衝く。


「打ち砕け!! アルカシア!!」


 回避も防御も間に合わず、それはベルマイアに直撃した。大地が吹き飛び、渦中の二人も宙に投げ出される。思った以上の威力が出て、ウィルは混乱しながら体勢を整えた。投げ渡したヴィッツも絶句している。今までと何かが違う。何が起こっているのか。


 だが考える間もなく粉塵の中から再びベルマイアが突っ込んできた。必死にウィルも応戦する。闇小人謹製の鎧は抉れて深手を負っている。それでも全く弱っていない。むしろこの期に及んで更に激しくなっている。だがウィルも負ける訳にはいかない。


 ウィルは力を振り絞って最強の座に挑む。

 そしてベルマイアもまた、力を振り絞ってウィルに挑んでいた。


「ははっ!」


 血沸き肉躍る。昂った体からかつてない力が湧く。目の前にいるこの青臭い剣士こそ、探し求めた好敵手だ。旧大戦では決着も付けられず、生殺しにされたまま鍛錬に明け暮れたこの五百年。全ては今、この瞬間の為にあったのだ。


 かつて、何者をも及ばない王の器をこの目で見た。


 この男こそ剣を捧げるべき相手だと確信し、そして忠誠を誓った。

 王の道を切り拓く。行く手を阻む物は排除する。

 我が身は、一振りの剣。

 立ちはだかるならば、問答無用。


「いざ! 勝負!」

「これが最後だ!」


 二人の剣士が同時に構え、そして、最後に交錯した。



***



 黒の城全体を揺るがす地響きに、僕は思わずよろめいた。


「クライム、大丈夫?」

「だ、大丈夫。それより先を急ごう」


 揺れはすぐに収まり、僕は体勢を立て直して走り続ける。目の前を走るレイの背中。揺らいだ様子もなく、戦場を一瞥もしない。みんなの事を信じているんだろう。そんな彼女が頼もしい。でも僕は走りながらも、窓の向こうに今も見える黄金の光が気になって仕方なかった。


 あの光、ウィルだ。でも今のは岩のドラゴンを倒した時よりも更に大きな光だった。そこまでしないと戦えないって、一体どんな怪物を相手にしているんだろう。決着は付いたんだろうか。彼は無事なんだろうか。アレクは、マキノは、メイルは、そして蜘蛛と一緒に奈落に落ちたフィンは。


 ……いや、分かってる。みんなを心配するなんて筋違いだ。そんな暇があるなら一刻も早く城の頂上まで辿り着いてヴォルフを倒すべきなんだ。それで戦いは終わる。みんな僕らを待ってるんだ。


 この先に「魔王」がいるなんて、御伽噺の登場人物にでもなった気分だ。でも、これは紛れもない現実だ。少なくとも魔王はもう僕らに気付いている。いつからか、頭上から押し潰されるような威圧感を感じていた。城を走る、その一挙手一投足を捉える確かな彼の視線を感じた。体が、震える。


 僕は勝負所に弱い。その自覚はある。思い返せば最初からそうだ。あの炎の夜、誰よりも大切な人を助けようと命を懸けて、そして助けられなかった。


 僕はあれから何か変われたんだろうか。

 それとも、また全てを失うんだろうか。


「あら危ない」


 言われてすぐに手を引かれた。


 僕は背後のレイの胸に倒れ込み、肩越しに伸びてきた槍が耳を掠めて正面の敵に突き刺さる。螺旋階段の先の扉の向こう、そこにいた先頭の兵が急所を貫かれて倒れた。すぐにレイは扉向こうの敵に襲い掛かる。身の丈を超える槍が竜巻のように振り回され、十人以上いた重武装の敵が瞬く間に蹴散らされた。


「ご、ごめん、レイ」


 見逃しがいないか確認するレイに、僕はそんな言葉しか出てこなかった。

 目の前の敵に気付かなかったなんて。ああ、もう。


「いいって事よ。でも気を抜かないで。本城に入ったら、もう玉座まですぐだから」

「……レイ。もしもの時は、僕の事は捨ててくれ。僕はレイを助けに来ているつもりなんだ。足手まといにだけはなりたくない」

「あはは、何言ってんのよ。最初から君を戦力としてはアテにしてないってば」


 ああ。

 胸が痛い。凄い痛い。

 いやそうなんだけどね。知ってたけどね。


「……馬鹿ね」


 茶化すような態度がすっと消えた。

 見ればレイは静かに微笑んでいた。

 どうしたんだろう。


「捨ててなんて、行かないわよ。捨ててなんて行けない。君が隣にいてくれないとだめ。君にここから救い出されて、全ての決着を付けに、君とまたここに戻ってきたんだから」


 誰もいなくなった部屋で、時折戦場からの軽い振動が響く。変わらず上から重い威圧を感じる。でも何故か静かで、レイの言葉だけが聞こえた。僕に背を向けてレイは小さく続ける。


「だから、君はそこにいて。私がちゃんと出来るように、最後まで見ていて」


 レイに促されて僕は再び走り出した。部屋を出た先は城同士を繋ぐ橋になっていて、見上げれば以前よりずっと近くに目的の場所が見えていた。


「……」


 体は震えたままだ。僕は戦うのが怖かった。その反面レイはいつだって自分勝手で傍若無人で、頼もしくて力強い。彼女の言う通り僕の力なんてアテにはならないけれど、レイの力ならヴォルフにだって対抗できる。僕はそれを信じればいいんだ。


 でも。

 本当に、そうなんだろうか。


 何を犠牲にしても、どんな手を使っても。そう言って自分を危険に晒すレイの姿勢の裏には、どれだけ強い覚悟があるんだろうと思っていた。


 でもそれが、もし逆だったら。覚悟があるからじゃなくて、ないからこそ自分に言い聞かせているのだとしたら。本当はヴォルフと戦いたくない、そんな微かな苦悩が彼女にあったとしたら。


 目の前を走るレイの背中。

 なぜだろう、こんなに小さかっただろうか。


 走りながらその背中を眺める。

 いつしか、体の震えは止まっていた。



***



 重々しい音を立てて扉が開く。


 レイが押し開けた大扉の先、そこは広大な空間だった。冷たい敷石がどこまでも広がり、左右に並ぶ柱の他には彫像一つ無い。それなのに、圧迫感で息が詰まった。今まで絶えず頭上から感じていた殺気は、今や何に遮られる事もなく、広間の遥か先から真っ直ぐ僕達に突き刺さっていた。


 見れば壁際の暗闇がせわしなく蠢いていた。

 黒の軍隊、カドモス。凄い数だ。

 襲って来る様子はないけれど、僕らは慎重に足を進める。


 そして謁見の間の、一番奥。

 そこに彼は居た。


 傍らに四人のカドムを控えさせ、大きな黒い玉座に座っている男。その禍々しい目を、僕は知っている。まるであの岩のドラゴンが人の姿をとって目の前にいるようだった。


 レイと同じ赤い瞳。底の見えない闇に、鮮血を一滴落としたような色だった。立て掛けられていたのは漆黒の大剣。身に付けているのは黒いローブ。その下に見えるのは鋼の防具。そしてその全てが、太い鎖に縛られていた。何もかもドラゴンが倒された時に見たあの夢のまま。いや、彼はもう五百年以上ずっとそこに座っているのか。


「……釈明を聞こう」


 静かな怒りが、地鳴りのように広間に響いた。

 それを間近で浴びたカドム達が僅かに体を震わせる。


「王の護衛たるお前達の任は、ここまで敵を近付けさえしない事だと認識していた」

「その、通りです。我々は陛下の身からあらゆる障害を……」

「取り払う事にある。その通りだ」


 言葉を重ねるごとに、彼の怒りがじわじわと空気を蝕んでいく。怒りの矛先は僕らじゃない。それでも生きた心地がしなかった。


「陛下。あれは、障害にはなり得ません。既に階下にてモーリス様がそれを見定め、それ故に敢えてここまで通したのです」


 震える声でカドムの一人が弁明した。ヴォルフの赤い目がゆっくりと僕らから逸れる。錆び付いた蝶番が軋むように、彼の頭がギシギシとカドムの方へ向く。


「平原の軍隊も同様です。彼の方の思惑通り、誘き出して叩いているに過ぎません」


 ヴォルフの視線を浴び始めて、カドムはどんどん言葉に詰まる。

 空気を求めるような奇妙な喘ぎが混じり、彼は喉元を押さえた。


「御心を、煩わせるものなど、何、も……」

「下らん思惑に興味はない。貴様の失態はあの男の命令を優先し、私を軽んじた事にある。与えられた命の使い処を履き違えたようだな、カドム・ガウ」


 もうカドムは何も喋れない。見えない何かに首を絞められ、そのまま吊り上げられているかのように体が持ち上がる、遂にその爪先が地面を離れた。


「御苦労。釈明は、確かに聞き入れた」


 骨が折れる鈍い音がした。

 見えない何かが急に消え、カドムがその場に崩れ落ちる。

 死んでいた。


 嫌な汗が頬を伝っていた。

 何だあれ。何が起こった。いったい彼に何をしたんだ。


「さて」


 ヴォルフの目が再び僕らを捉えた。次はお前だと言わんばかりに。僕は咄嗟に自分の喉を押さえた。まずい、目を合わせていたら殺される。でもあれから目を離すなんて正気じゃない。離した瞬間に魔法が飛んでくるかも知れない。一瞬で斬られてもおかしくない。ヴォルフの剣、一体どんな力を持ってるんだ。


「大丈夫よ。落ち着いて」


 思わず一歩下がった僕にレイが声をかけた。


「レイには分かるの? やっぱりあの鎖が……」

「ええ。彼を縛る封印みたい。黒鉄の剣も一緒に封じられてるなんて好都合ね」

「魔法使いが施した八つの封印。最後の一つもルベリア軍が護ってる。彼が自力で鎖を千切れると思う?」

「無理よ。それが出来るなら五百年も座ってないわ」


 そうか。つまり剣を抜くどころか碌に立ち上がる事も出来ない相手を、僕らは一方的に攻撃できる訳だ。しかもレイの手にあるのは、スローンが遺した不死を打ち破る闇小人の槍。だから大丈夫の筈だ。


 大丈夫の、筈なんだ。


 生唾を飲み込む。冗談じゃない。眠っているドラゴンの鼻面から鱗を一枚引き剥がしてくるって方が、まだ現実味がある。ましてヴォルフは瞬き一つせずにこちらを捉えているんだ。あんなのにレイをぶつけるなんて、とても。


「さあ、来たわよ」


 背後で大扉が音を立てて閉まった。


 慌てて振り向くと、暗闇で息を潜めていた黒の軍隊が動き出していた。逃げ道を塞ぐように僕らの背後と左右の壁を塞ぐ。右も、左も、どこを見ても黒の兵で埋め尽くされている。包囲が開いているのは正面、ヴォルフの方だけだ。そして軍隊は歯を剥き出し、唸り声を上げながら徐々に包囲を狭めてきた。


「クライム。行くわ」


 レイはヴォルフから目を離さない。

 改めて槍を構え直した。


「君は私の後ろをお願い。もし兵が私を狙ってきたら声をかけて。でも絶対に、私達には近づかないで」

「ああ、分かってる」


 僕は後ろの兵から目を離さない。

 腰から鞘ごと剣を引き抜いた。


「でも声はかけない。レイはヴォルフ一人に集中してくれ。兵は僕が何とかしてみる」

「こんな時に格好つけないで。本気なの?」

「この場所で彼らが相手なら、僕にもやりようはある。せめてこれ位は役に立たせて。そっちへは一人も行かせない」


 レイは少し答えに詰まっていた。でも虚勢を張っているつもりはない。出来る筈だ。メイルには、とても見せられない戦い方になるけど。


「分かった。お願いするわ」


 戸惑うのも一瞬で、レイはすぐに答えた。僕らは背中合わせに立っていた。前から数えきれない程の黒の兵が僕を睨み、後ろからはヴォルフの殺気を感じて冷や汗が出る。


「でも、最後に……」


 レイはそう続けようとして、言葉を探して口籠った。何を言おうとしているのかは分からない。でも「最後に」だなんて後ろ向きな覚悟は決めさせられない。今は、僕が彼女を後押しする時なんだ。


「行ってこい」


 その背中を突き飛ばすようにして、僕は地面を蹴る。


「頑張って。僕は、ちゃんと見ているよ」


 離れる一瞬、背後でレイが頷くのを感じた。


 僕らが走り出したのと同時に堰を切ったように黒の兵が襲い掛かってきた。手始めに僕から、次にレイだ。でも彼女の邪魔はさせない。僕は鞘に収まったままの剣を握り、投げ捨てた。そのまま何一つ持たず、目の前を埋め尽くす敵に向けて突っ込んでいく。


 その直後、ヴォルフに挑みかかるレイの雄叫びが広間を震わせた。


 彼女は何一つ言葉を交わす事も無く。

 五百年の因縁に何の決着をつける訳でもなく。

 その槍はただ真っ直ぐに、魔王の心臓目掛けて突き出された。



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