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変わり者の物語  作者: あなぐま
第4章 道の先
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第42話 星喰らいの狼

 アストリアス。

 そこはフェルディア王国東部、防衛の要である街だった。


 黒の城の目と鼻の先に位置していたため、開戦直後に碌な抵抗も出来ないまま攻め落とされたが、だからこそ被害は少なく、奪還した今も十二分に兵站として機能している。


 決戦での街の役割は保険であり、最後の砦だ。同盟から搔き集められた物資と兵器の全てが集中し、必要に応じて戦場へ補給する。そして戦いが黒の平原に留まらなかった場合は、ここが拡大した戦線全ての拠点となるのだ。


 だが事実上、同盟軍は決戦に全てを賭けていた。街に残っているのはそこに持ち込めなかった余り物。街に配備された兵達自身がそれを誰よりも理解していた。最後の拠点とは名ばかりだ。ここまで敵が来るようであれば、それは戦争の敗北と、この世界の終わりを意味している。


「まさか……」


 そして、敵は来た。

 世界の終わりは、狼の姿をしていた。


 城壁の上からそれを見ていた全員が、半ば茫然とそれを見ていた。巨大な獣が暗い炎を撒き散らしながら真っ直ぐこちらへ走って来る。獣が近付くにつれ辺りが暗くなる。まるで夜を引き連れて来ているようだった。


 戦争は本当に負けたのか、同盟軍本隊はどうなった。怯えた様子で皆が確かめ合った。だが狼を前にした今、遠くの戦場の事など考えている暇はない。たった今から、ここが最前線になったのだ。


「門を固めろグズ共! ありったけ持ってこい!」

「弓兵隊、配置に付け! 第二陣、第三陣、遅ぇぞ! 走れ!」


 指揮を執る者はいない、皆を鼓舞する者もいない、そんな人間は全員が決戦へ行ってしまった。兵達は慌ただしく走り回り、てんでバラバラの対策を取り始める。それでもなんとか城門前に雑多な資材が集まり、兵が群がってそれを支えた。


 地鳴りのような足音が近付いてきて、門を押さえる手が震える。だがここで逃げても助からない。そして遂に狼が街に辿り着く。アレク達四人が遅れて到着したのは、その直後の事だった。


「おい! 門が破られてるぞ!」


 遠目に見える門は異様だった。狼が体当たりした衝撃で扉が歪み、蓋のように嵌って開かなくなっている。だがその僅かに開いた隙間を力づくで抉じ開けたかのように、分厚い鋼の扉が左右に押し広げられていた。狼は既にその中だ。


「遅かったか! リューロン、急いで!」

「分かってる。このまま突っ込んであれを破る。お前等、一旦降りろ」

「いや……、それは大分無理がある……」


 短絡的なリューロンの提案をジーギルが抑えた。鯉口を切り、鞘から僅かに白銀の刀身を覗かせる。何を考えているのか察してリューロンが足を速める。ジーギルが、きゅっと目を細めた。


「射程範囲内だ」


 城門内で戦っている兵が振り返った。人間の姿をしたフェンリルが数十人の兵を次々と引き裂いていく地獄のような戦い、その中で一瞬、彼等の視界を数度の銀閃が掠める。


 次の瞬間、歪んだ門と破壊された資材が斬り刻まれて崩れ、間髪入れずに新たな魔物がそれを突き破って飛び込んできた。全身を鋭い鱗で覆われた大柄なドラゴンだ。地面に爪を食い込ませて派手に減速し、その背中から二人の剣士が宙へ飛ぶ。


「アレク! 同時にだ!」

「ブチ殺す!」


 リューロンの勢いをそのままに、二人は上空から狼に斬りかかる。フェンリルはそれを素手で受け止めた。右手にアレクの剣、左手にナルウィの剣、胴体は無防備だ。そこに門の向こうから一気に伸びてきた銀の一撃が突き刺さった。フェンリルが二人を放し、たたらを踏む。リューロンが唸り声を上げて突進した。その巨体でフェンリルに体当たりし、そして、一気に城内の詰め所に叩きつけた。


「態勢を立て直せ!」


 ジーギルは呆気に取られている兵を怒鳴りつけた。農民に毛の生えたような雑兵達だ。それでも彼等は、兵としてここに居る。


「奴を倒すぞ! ここを通せば私達の愛するもの全てが獣の餌になる! それが許せないなら、ここで私と共に命を捨てろ!」


 潰れた詰め所が吹き飛び、リューロンの巨体が軽々と宙を舞った。瓦礫を押しのけて現れたフェンリルは先ほどより二回りも大きい。姿形は人間らしくても、頭は既に狼のそれだ。歪に牙が並んだ三重の口を開ける。そして、世界を震わす怒りの咆哮を上げた。



***



 右翼で奮戦していたディグノーは突き刺した剣を無理矢理引き抜く。

 案の定、剣は根本から綺麗に折れてしまった。


「くそ、役立たずめ!」


 残った柄を放り投げると死体から戦斧を奪い、先ほど食い千切った敵の喉笛をぷっと吐き出した。灰色の髪も熊の毛皮も血まみれだ。その人間離れした戦い方から仲間からも狂戦士などと冷やかされるが、彼の頭はどこまでも冷静だ。全方位から敵の殺気。包囲されつつある。後ろからヴィッツの叫びが聞こえてきた。


「ちょっと! なんか回り込まれてるわよ!」

「知った事か! 全員叩き斬れ! 一人も逃すな!」

「元気で良いわねあんたは! テルル! そいつの後ろを護って!」


 グラムの王立騎士団である彼等には、周囲の臭いから戦況を把握する勘のようなものがある。その勘が叫んでいた。この状況は非常にまずい。まるで積み木が崩れるように次から次へと崩壊していく状況。全面敗走の前兆だ。


 ちらりと近くの部隊長に留まる氷細工の鳥を見た。開戦当初は本部の声で口喧しく囀っていたが、さっきからすっかり無口になっている。撤退命令が来ない以上戦い続けるしかない。そもそも撤退などあり得ない戦いだった筈だ。


 ヴィッツは舌打ちをして剣を握り直した。

 命令が無いなら好きにするまで。正面突破だ。


「待って! だめ!」


 甲高い少女の泣き声が聞こえて、走りかけた脚が止まった。


「ヴィッツ、近くにいるんだよね! 答えて!」


 声は背後の部隊長、その肩に留まった氷の鳥からだった。ようやく本陣から連絡があったかと思ったが、どう聞いても今のは指揮官の声ではない。と言うよりメイルの声だ。どうしてあの子がそこにいる。ヴィッツは鳥に詰め寄った。


「あんたメイル!? 何やってんのそんな所で!?」

「そのまま進んだらやられる! 戦っちゃ駄目なんだ!」

「そうじゃないわよ! ガレノールとか他のジジイ共はどこに……」

「まずはコールの隊と合流して! 城に向かって左後方にいる筈だから!」


 メイルは切羽詰まった様子で全く取り合わなかった。しかもその指示はどこか曖昧で、メイル自身も半信半疑で喋っているように聞こえる。ヴィッツは混乱するばかりだ。しかし今は一刻の猶予もない。


 本陣にいるメイルは大きく溜息をつき、胸を撫で下ろした。


 地図上を動く氷の駒を見る限りでは、ヴィッツが自分を信じてくれたようだ。だが戦線はそこだけではない。中央で喚き続けているグラム王から左翼で粛々と作戦を遂行するゴルビガンドまで、矢継ぎ早に上がってくる報告の対応に追われる。


 頭が沸騰しそうだった。

 また涙が出そうだった。

 情けない、情けない。


「言われなくても、分かってるよ……!」


 なぜお前がそこにいる。指示を出した全員からそう言われた。

 まったくその通りだ。


 本来ここに居るべきは自分ではない。多くの兵からは相手にもされず、メイル本人も自信がない。ガレノールはこの戦場を俯瞰する魔法の地図を使い、同盟軍を見事に指揮していた。だがメイルが幾らそれを見て分析しても、戦場にいる兵達とは悉く話が噛み合わないのだ。


 メイルにはこの魔法道具が使いこなせない。歩兵や騎兵を象った氷の駒、顔がついているのにメイルに見向きもしないその駒が、無性に腹立たしく見えてくる。


「メイル! 援軍のおかげで敵を押し返せそうだ!」

「好機ではあるけど大丈夫なの? シン、まだ行けそう?」

「問題ない! 何かあればまた連絡をくれ!」

「ちょっとメイル、言われた通りコールと合流したわよ! もう我慢できないし突っ込むわ!」

「分かった、気を付けて!」


 自分に自信の持てないメイルは作戦を半ば現地の判断に任せている。シンとは岩のドラゴン討伐の頃からの付き合い、その判断力は折り紙付きだ。碌に顔も知らないゲールという騎士にしても、山猫のヴィッツにしても同様だ。


 少なくとも、自分の判断に比べれば、よほど。


 もう訳が分からなかった。この地図は一目で戦況を把握出来るように作られている筈だ。それなのにメイルはそれを見間違う。他の人間が息をするようにしている事さえ、自分には出来ないのか。右か左か、そんな馬鹿な事まで自分を疑わなければ、多くの兵を殺していたかも知れない。


 グラム王の喉元まで近付いている敵に気付けなかった。

 助けを求める兵を他所に明後日の方向へ援軍を送りかけた。


 余りにも酷い。

 これでは、まるで。


「え……」


 そこまで悶々と自己嫌悪を重ねて、不意にある考えが頭に浮かぶ。

 鳥肌が立ち、気付いた時には叫んでいた。


「シン! 引き返して!」


 自分でも何を喋っているのか分からない。

 思考が完全にメイル本人を追い越していた。


「なに!? 今が好機なんだぞ! お前だって……!」

「だからだよ! いいから引き返して!」

「くそ、訳の分からない事を! 後でちゃんと説明しろ!」


 文句を言いつつ、シンは後退を決めたようだった。心臓が早鐘を打っている。メイルは先走った自分の思考に追い付き始めた。度重なるメイルの失態、それは間違いなどという言葉では済まされない。まるでこちらの不利になるよう誘導されているような、誰かの意思が感じられたのだ。だからシンには、敢えて真逆の指示を出した。


 と、そこまで頭が追いついて、同時に失敗に気付く。


 気付いた時には遅かった。

 地図上で味方の位置を示している無数の駒。

 硬い氷で出来ている筈の駒が全て、ぐるりと首を捩じってメイルを見ていた。

 ぞっと悪寒が走る。


「しまっ……!」


 急所を腕で庇いながら後ろに飛び退く。

 それとほぼ同時に氷の駒の内部が赤熱し、爆発した。


 机が砕け、氷の破片が飛び散り、その内の幾つもがメイルに突き刺さった。鋭い痛みを感じ、地面に背中を打った衝撃で一瞬息が止まった。


 何が起こったと、今も誰かの声が自分を呼んでいる。メイルは仰向けに倒れたまま荒い息を吐いていた。心臓は早鐘を打ったまま戻らない。それでも追撃を食らっては堪らないと、無理矢理にでも体を起こす。だがそこでメイルが見たのは、苦心して搔き集めた全てが台無しになっていた所だった。


「うそ……」


 氷の駒が、完全に砕け散っていた。ただの一つも残っていない。使っていた地図が焼け焦げ、無数の黒い紙片となって木の葉のように宙を舞っている。地形も文字も判別不可能だ。


 これではマキノが新たな指揮官を見つけてきても無意味だ。

 本陣を失くした同盟軍は、もう二度と立て直せない。

 メイルがこの手で止めを刺したようなものだ。

 頭の中が、真っ白だった。


「おい! この私を無視するとは良い度胸だ小娘! 返事をしないと処刑するぞ!」


 割れんばかりの怒鳴り声が響いて、思わず飛び上がった。さっきからずっとメイルを呼んでいた声だ。その声は目の前、地面を転がる氷の球から聞こえていた。


「グラムの、王、様……?」

「そうだ! 今の音はなんだ! 状況を説明しろ!」

「ご、ごめんなさい……! ボクのせいで……!」

「謝るな! 説明しろと言っているのだ私は!」


 半泣きの少女を相手に、グラム王は容赦なく問い詰める。

 それに気圧されて、メイルはたどたどしく話し始めた。


「……冬の魔法を、全部壊されちゃったんだ。いや、もうとっくの昔に壊されてたんだよ」

「落ち着け。とっくの昔、それはいつからだ」

「分かんないよ! でもここにあった氷の駒は兵隊の位置を示していた筈だったのに、全然見当外れの動きをしてたんだ!」

「馬鹿な。あの冬の魔法が、何かに干渉されていたとでも言うのか」

「そうだよ! それで敵は都合の良いようにこっちの駒を動かして、ボクはそれに騙されたままみんなを殺そうとしていたんだ! 操られているとも、気付かずに……!」


 メイルは泣きながら洗い浚い吐いた。

 言葉にするほど惨めになっていくようだった。


「俄かには信じられん話だ。確かなのか」

「ボクが、それに気付いたから、用済みになって駒は完全に壊されたんだ。たぶんベルマイアだ。指揮官でもなければ、敵味方両方の軍隊を一度に操るなんて出来ないよ」

「冬をも超える魔法をか? 奴は剣士だと聞いたぞ」

「関係ないよ。魔族はみんな、魔法を使える。そうレイからも聞いていた。聞いていたのに……!」


 つくづく自分が嫌になる。マキノならこんな過ちは犯さなかっただろう。騙されたフリを続けつつ、相手の作戦を逆手にとって更にその裏を掻けた筈だ。だがメイルはそこまで頭が回らず、考え無しに行動し、結果がこのザマだ。


「……なるほど、理解した」

「本当に、ごめんなさい! でもボクには、もう……!」

「だから、落ち着け。他の誰かなら上手くできた訳でもない。はっきりしているのは、ベルマイアが敵軍の指揮をしている限り、我々に勝ち目はないという事だ」


 メイルは泣きながら頷いた。メイルが想像さえ出来なかった作戦をこうも矢継ぎ早に繰り出し、まだどれだけの布石を残しているか分からない。これからメイルがどんなに奮闘しようと、それも赤子の手を捻るように容易く覆されるだろう。


「どんな手を使ってでも、何を犠牲にしてでも、奴を最優先で抑える必要がある。メイル、奴が今どこにいるか、大まかにでも検討は付いているか」

「検討は、うん、何となく付いてる。こっちから見て若干左翼側、あの少し高くなっている辺りが」

「あそこか、確かに軍旗が少し多いな。隠すつもりもない訳か」


 グラム王はメイルの話を聞きながら、何か考えているようだった。メイルにはそれが何か分かる訳もなく、ただ聞かれた事に答え続ける。


「分かった。確認するぞ。奴が指揮をしている限り、お前は手も足も出ない、そうだな」

「そう、だよ。魔族が相手じゃ、ボクなんかには何も出来ない」

「確認する、もう一度だ。場所は、あの一際高くなっている左翼側の丘で間違いないな」

「そう言っているじゃないか! ベルマイアがいるのは、あの旗が少し多めになっている丘だよ!」


 自分は無力なんですと何度も言わせて、そんな嫌がらせに何の意味がある。癇癪を起す寸前のメイルに、いいか、とグラム王は前置きし、諭すような口調で続けた。


「現状、この戦いにおいて同盟軍を指揮できるのはお前だけだ。お前はそこで、お前にしか出来ない事をするんだ。ベルマイアは此方でどうにかする。奴は、我々に任せろ」

「だから……!」


 ボクに出来る事なんか、そう叫ぶ前にグラム王の気配はすっと消えた。


「なんだよ!」


 聞くだけ聞いて。言うだけ言って。適当な所で雑に放り投げられた。いったい何をしに出てきたのか分からない。メイルはグラム王の声がしていた氷の球を、八つ当たりに地面に叩きつけた。だが硬い音がして球は跳ね返り、割れるどころかヒビの一つも入らない。メイルは腹が立って再び球を引っ掴む。


「…………あれ?」


 そこでメイルは初めて、その玉が無事である事に疑問を持った。

 それと同時に、同じ頑丈さを持つ駒が壊された事にも。


「……そっか。冬の魔法は外部から力を加えても壊せない。駒が壊れたのは内部から干渉を受けたから、翻せば、こっちが無事なのは干渉を受けていないからだ」


 そう思わせて此方にも罠が、と疑心暗鬼にもなった。だがもしそうでないなら、まだメイルにも出来る事がある。何もかも今更だ。それでも全てを一からやり直す。


 メイルはぐいと、涙を拭った。



***



「そういう事か……」


 左翼で戦っていた山猫のシンは、敵を斬り伏せた状態のまま苦々しく呟いた。


「そういう事って!? 何!?」


 近くで戦っていたティオは、急に空気の変わったシンにそう喚く。部隊長の持つ氷の鳥から本陣にいるメイルの声が聞こえたが、それがどうかしたのか。シンは周りの仲間達を見回し、城に突入したクライムの事を考え、彼の故郷にある墓の事を思い出す。そして、剣を強く握った。



***



「ええ分かってるわよ! 行ってやるわよ!」


 右翼で戦っていたヴィッツは、氷の鳥を通して聞こえてきたメイルの声にそう返した。正確にはあの少女が話していた相手、我等が騎士王様にだ。そして今のやり取りなど耳にも入っていなかったであろう相方の狂戦士を大声で呼びつけた。



***



「了解だ、陛下」


 中央で戦っていたウィルは、すぐさま前進を開始した。視線の先では丘の上で多くの軍旗がたなびいている。聞き間違いではない。あそこに敵将ベルマイアがいると、メイルは確かに言っていた。


 敵総大将の居場所。彼女はそれをグラム王一人に話したつもりだったろう。だがそれは冬の魔法の仕組み上、氷の鳥を通して同盟軍全体に拡散された。彼女にそのつもりは無かった筈だ。だがグラム王は、そのつもりだった。


 あの少女の指揮が完封されているこの状況。それをどうにか打破できないかと考えていた者達は全員、今のやりとりから王の真意を正しく理解した筈だ。


 腕に覚えのある者は今すぐ丘にある敵本陣へ向かい、指揮官たる魔族を集中攻撃して注意を引き付けよ。



***



「陛下! おやめください! 貴方まで行く必要はありません!」

「後釜なら国に残してきた。幼いが後継もいる。何ら問題ない」

「大ありです! 王である貴方が渦中に身を投じるなど!」


 グラム王は自分を止める兵を、剣で殴って黙らせる。


「玉砕覚悟で挑まねば奴を止める事など出来ないだろう。私が先陣を切らねば、誰が後に続く」

「そこまでせずとも。各国の実力者が束になれば、魔族とは言えたった一人……」


 そこで兵は口ごもる。

 グラム王が真っ直ぐ自分を見ていたのだ。

 戦場を俯瞰する王の眼差しは、余りに現実的で、冷たかった。


「……本来なら、逆だった。魔族と戦わずに済むようガレノールは策を練っていた。だが今となっては、奴を前線に出した方がまだ勝ち目がある。結果どれだけの犠牲が出ようと、その間にあの娘が態勢を立て直しさえすれば」


 だからこそ、命を捨てても魔族を押さえろと、あの少女の口から直接命令させなかった。戦場に散る命を背負うには、小娘ごとき十年早い。それは王の役割だ。そして恐らくは皆が己の役割を、なすべき事を分かっている。


「後は、早さの問題だ。今なら本陣は奴を含めて多くても数人。だがこちらの動きに気付けばカドムが山と群がってくる。その前に一気に叩く。お前は残れ」


 そう言いながらグラム王は剣を握る。意図せず巡ってきた機会に、昂っている自覚はある。魔族軍本陣、あそこに彼女を、リメネスを殺した男がいる。


 贈り物一つ受け取らず、自らを王の剣と定義していた女。王を安全な城に閉じ込めておく為に全ての戦いを引き受けた。それが貴方の為だと。余計なお世話だと、何度言ったか分からない。今の自分を見れば、あの女はまた呆れたように微笑むだろうか。


「ここからは、私達の戦いだ」


 グラム王の意図を汲み、多くの騎士達が動き出した。常人を遥かに超えた実力を持つ彼らは、黒の兵など雑魚同然に蹴散らして一直線に黒の軍本陣を目指す。


 そして、それは当然のように読まれていた。



***



「そう来るだろうな。それしかないだろう」


 同盟軍の僅かな布陣の揺らぎから、本陣に座るベルマイアは騎士達の動きを察した。不思議はない。相手の指揮官を潰して策を元から絶つ、それはそもそも彼が先にやった事だ。隣に控えていたカドムが低い声で唸る。


「それにしても、予想よりも早い対応ですね」

「ああ。敵本陣は間違いなく潰した。しかし……」

「予備の指揮系統があったのか、戦場から誰かが直に指示を出しているのか」

「あるいは、あの赤毛の少女が、か」


 剣で地面を突きながらそう考える。干渉した氷の駒越しに見た少女だ。倒れた指揮官に代わり誰が粘っているかと思えば、それがまさか子供だったとは。だが関係ない。女だろうが子供だろうが、一度戦場に立ったのなら対等だ。


 同じ指揮官としての礼儀だ。

 ベルマイアはこれから、手ずから彼女を殺しに行く。


「任せたぞ」

「承知しました」


 その短い言葉で傍に控えるカドムが指揮を受け継いだ。


 ベルマイアは腰を上げ、剣を抜いた。簡素な装飾のみが施された武骨の剣。だが無銘ながらも黄金や白銀と並べても見劣りしない業物だ。出陣した将を見て、黒の兵が左右に分かれ道を作る。ベルマイアは丘を降り、真っ直ぐに同盟軍本陣を目指した。


 その後ろに一人のカドムが追従した。

 そして一人、また一人と増え、とうとう二十人近いカドムが揃う。 


 ベルマイアは獰猛な顔で笑った。自分を前線に引き摺り出す作戦だろうが、来るというなら、受けて立つまで。出迎えの用意も出来ている。そして遠くには既に一番槍の騎士が見えていた。自然と、剣を持つ手に力が籠った。


「来い」



***



 砦の街アストリアスの廃墟の中で、石造りの巨大な塔が不意に持ち上がった。


 狼の顔をした筋骨隆々の大男、フェンリルが下からそれを支えている。はち切れんばかりの二の腕が更に膨らみ、それは突進してくるドラゴンに向けて投げつけられた。周囲に、大きな影が落ちる。


「馬鹿力め」


 視界を覆いつくす圧倒的な質量を前に、リューロンの背に乗っていたジーギルは思わず愚痴を零した。当のリューロンは鎧のような全身の鱗を逆立てて、止まる様子は全くない。ジーギルは止む無くそのまま立ち上がった。息を整えて、剣を軽く抜き、収める。


 大気が裂け、塔が真っ二つに両断された。


 その隙間を抜けてリューロンが狼に掴みかかり、同時に左右に分かれた塔が背後の街を押し潰す。二匹の激突直前にジーギルはその背から飛び降りていた。こんな怪物同士の頂上決戦に横槍を入れるなど狂気の沙汰だ。


「おらぁあ!」


 だがアレクは突っ込んだ。

 その馬鹿正直な突撃の影からナルウィも切り込む。


 街の兵達は目で追うのが精々で、全く手が出せなかった。怪物同士の戦いの余波で建物が凄まじい勢いで薙ぎ倒されていく。まるでこの世の終わりだった。狼が暴れる度に火の粉が散り、それが周囲を暗くする。見上げれば確かに太陽が見えるのに、街は夕暮れのように薄暗い。


 アレクは距離を取って忌々しそうに舌打ちし、再度斬りかかる。


 狼の拳は大振りで、感覚を研ぎ澄ませれば辛うじて捉えられる。だが躱した拳が背後の建物を粉砕し、地面を割り、掠っただけで皮鎧が抉れる。直撃すれば即死だろう。一方でアレクの剣は歯が立たず、リューロンの攻撃でさえ効果は薄い。これだけ暴れ回りながらも狼の体力は無尽蔵だ。


 追い詰められている。

 そんな状況に、アレクとリューロンの頭に血が上る。


 考えている事は同じだった。視線を合わせるまでもなく呼吸は合い、二人同時に一か八かの賭けに出る。狼の新たな大振りを前にアレクが一歩踏み込み、時間差でリューロンが挑もうとして。


 そこを、ナルウィに突き飛ばされた。


「ちょっと失礼」

「はああぁあ!?」


 いつからか死角まで下がっていたナルウィの急な行動。アレクは無様に右へつんのめり、反動でナルウィは左へ飛び退く。その間を空振りした拳が地面に直撃し、爆発したように瓦礫と粉塵を巻き上げた。


 それが晴れるより先に銀の光が煙を切り裂く。

 突然、真正面からジーギルが飛び込んだ。

 フェンリルは怒りの叫びと共に腕を振るうが、その腕からばっと血が噴く。


 既に狼の背後にまで回っていたジーギルは追撃に剣を振るうが、放たれた銀の光は簡単に弾かれる。剣を構え直して、様子を伺う。


「やはり、この剣で直接斬りつけなければ、傷はつけられないか」


 フェンリルの右腕にはようやく傷らしい傷がつき、そこから赤黒い血が流れている。知らずに囮役をさせられた男二人は揃って澄まし顔のナルウィに文句を言っていたが、刃が通るなら勝ち筋も見えてきた。休まず暴れていたフェンリルも動きを止め、腕の傷と、ジーギルを忌々しそうに見ている。


 見ている。


 空気が張り詰めるのを感じた。

 知性のない怪物のようだった狼が、明らかに様子を変えた。

 そして三重の口を開く。


「…………アルギュロス」


 喋った。


 その地響きのような声を聞いてジーギルが、アレク、リューロン、ナルウィ、そしてその場にいた駐在の兵全員が身構えた。何かが来ると肌で感じる。


「光」


 狼が歯を食いしばり、その隙間から暗い火の粉が舞う。


「消えろ」


 狼は真下に向けて炎を吐いた。


 地面に当たり跳ね返った炎が広範囲にふり撒かれた。皆が剣や建物を盾にそれを防ぐが、防ぎきれなかった者が悲鳴ごと呑まれていく。そして広がる炎と共に急激に街が暗くなった。それでも延々と炎は吐かれ続ける。建物を飲み込み、城壁を伝い、遂には空にまで届く。


「太陽が……!」


 誰かが叫んだ。厚い雲に覆われるように、暗い炎に呑まれて太陽が消える。一瞬で夜が訪れ街が闇に鎖される。隣に立つ人間の顔も判別できない。後ずさりすれば瓦礫に足を取られそうだ。


「くそ、あの野郎どこだ!」


 アレクは悪態をついて振り返るが、何も見えない。代わりに後ろを走り去る獣の足音が聞こえた。狼にはこの暗闇が見えているのだ。轟音が聞こえ、衝撃が走り、悲鳴が闇に響き渡った。


 大混乱だった。狼の拳をまともに食らって兵が粉微塵に弾ける。薙ぎ払われた瓦礫の雨に打たれて人が建物ごと消し飛んだ。訳も分からず逃げた先で喰い殺され、見当違いに振るわれた剣が仲間を殺す。何も見えない。絶望的な狼の咆哮が、街に響く。


「呑まれるな! 恐れたら負けだ!」


 凛とした女の声が耳を貫いた。

 咄嗟に皆が声の方を向く。姿は見えないが、ナルウィだ。


「ここは街の中央、場所は開けて私達は丸裸だ! 私の声から離れるように逃げろ! 建物の裏に隠れ、目が慣れるまで絶対に戦うな!」


 尻に火が付いたように兵がバタバタと動き始める。日常的に光の教義を垂れるナルウィの声には、有無を言わさず従わせる力があった。未だ戸惑っている者にも、まるでそれが見えているかのように彼女は怒鳴りつける。


「何をしている! 走れ!」


 ナルウィの言葉通り、急激に目が利き始める。感覚を奪われたのではなく単に暗いだけ、ならばこの瞬間を耐えれば巻き返せる。ただ兵の為に目立って振る舞うナルウィが、当然のように狙われた。


「馬鹿が!」


 リューロンはその声に向けて走った。あの御立派な聖職者崩れは、汚れ役の暗殺騎士の分際でまだ聖人面をして矢面に立とうと言うのか。始めて出会った時から変わらない。何度言っても治らない。


 ドラゴンの目は人より遥かに優れる。ナルウィと思しき陰も見えた。まだ周りの兵が邪魔だが、知った事ではない。約束なのだ。他の人間など蹴散らして踏み潰して、何をおいても、彼女だけは。


「リュー! だめ!」


 そんなリューロンの気配と考えを見抜いたようにナルウィが叫び、思わず彼の足が緩む。

 だがそこへお構いなしにフェンリルが突っ込んできて拳を振るった。


 直前で気付いたナルウィは間一髪で身を翻す。

 そこを狼の爪先が掠め、その細い体が宙に飛んだ。


 遅れて全ての結末がリューロンには見えた。彼女に庇われた兵が虚しくバラバラになったのも。目の前の全てが地面ごと抉られて消えたのも。瓦礫に叩きつけられた彼女の体が、転がったあと動かなくなったのも。


 ドラゴンが絶叫した。人の心など失くした獣が走り、八つ裂きにしてやると歯を剥き出し、怒りのままに掴みかかる。それは余りに迂闊だった。狼の拳でリューロンの頭が地面に沈んだ。そして容赦なく止めが振り上げられ、それを止めようと今度はアレクが飛び込んだ。


「アレク、逸るな!」


 ジーギルの制止が追いついた時には、既にアレクはフェンリルの反撃を食らっていた。保険にと持っていた盾が割れ、剣が砕け、アレクは血反吐を吐いて地面に叩きつけられる。その隙にリューロンが何とか体を起こすが、フェンリルはそれを掴み、彼の体を盾にするように街に向けて突進した。


 その突進で石造りの建物が七軒、貫くように薙ぎ倒され。

 轟音と共に崩れ落ちる八軒目の瓦礫がリューロンを押し潰した。


「そこか」


 その正面を銀の光が撃ち抜く。

 すんでの所で狼は躱した。


 その光で、闇が僅かに払われる。だがようやくジーギルの目に映ったのは、惨憺たる状況だった。視界が奪われる前までそこにいた殆どがやられていた。残った兵も我先へと逃げ出し、まともに立っているのはジーギルただ一人。フェンリルは完全に彼に狙いを定めている。


「……分かった。相手をしてやる」


 破壊された街で、狼と騎士が一対一で向かい合う。

 ジーギルは剣を鞘に納め、腰を落として一歩下がった。


 柄に手をかけ、構える。


 それに応えるように剣と鞘の隙間から鋭い光が溢れ出した。ジーギルは剣を抜かない。その鷹のように鋭い目は狼をぴたりと捉えている。そして、誘われているような状況に苛立ったフェンリルが僅かに動いた、その瞬間に、ジーギルは抜いた。



***



 丘の麓の乱戦は苛烈を極めていた。


 黒の軍本陣へと押し寄せた同盟軍の精鋭を、待ち構えていたカドム達が迎え撃つ。世界でも名のある剣士達とカドム達は、ほぼ互角の戦いを繰り広げていた。


 グラム王は戦いながら声を張り上げ、皆に多対一を徹底させている。

 盲目のカドム、イアにより、山猫のギブスと剣の死神フェリックスが討たれた。

 ヴィッツとディグノーがカドム・ロアと交戦中だが、二対一でも押されている。

 山猫の騎士であるシン、コール、エイブラが協力し、カドム・ヌウを撃破。

 トロール並みに大きいカドム・カルとレグナ王国騎士アルマンは、先程から延々と戦っている。


 互いの身を削り合うような戦いだった。


 ウィルは思わず歯噛みした。流浪の傭兵だったウィルにとって、ここに来た各国の正騎士達は偉大な先達であり、憧れだった。それが次々と散っていくのがやりきれない。それでもひたすら剣を振り続けた。自分の体ではないようだった。


 ウィルは既に三人のカドムを倒している。黄金の剣の力に物を言わせたような大人げない戦い方をしたが、それで通用するなら躊躇しない。それは向こうも同じだろう。


 戦いの向こうから、ゆっくりと近付いてくる黒鎧の騎士が見えていた。


 五人の騎士が挑みかかった。黒鎧はそれを同時に相手し、あっという間に三人斬られた。だが内一人が己の胸にまで食い込む黒鎧の剣を必死に掴み、その隙に残る二人が斬り込む。それがあっさり止められた。二人同時に、鞘の方で腹を撃ち抜かれたのだ。黒鎧の剣が引き抜かれる。三人の騎士の首が飛んだ。


「あれが……」


 兜の無い、武骨な黒い鎧を纏った剣士だ。波打つ黒い髪に、女性のように整った風貌、そして禍々しい赤い目。あれが目標である敵の総大将、ベルマイアだろう。敵として立ち塞がる魔族を見るのは初めてだ。


「世界、最強……」


 生唾を飲み込む。冗談のような肩書だ。だがそれは誇張でも不遜でもないのだ。素質と鍛錬に裏付けされた確固たる実力が覆る事はない。だがそれを、今ここで覆さなければならない。あの魔族を指揮の座に戻せば戦争は敗北する。そしてここで倒さなければ、彼の剣はメイルにまで届くだろう。


「おい、手は空いてるな」


 後ろから二人の剣士がウィルに並ぶ。

 山猫のシンと、ラビア王国のゲルブランドだ。


「シン、一緒に戦ってくれ。俺一人だと、どうも勝てそうにない」

「当たり前だバカ。生言ってんじゃねぇ」


 ゴンと頭を殴られる。痛い。


「俺は正面。ウィルは右から。それとお前は……」

「ゲールで構いません。私は左からですね。了解しました」

「まずは同時に行く。その後は、食らいつけ」


 目標を定めると当時に、遠くのベルマイアがこちらを向く。

 その眼差しは水面のように静かだったが、その瞳は烈火のように赤かった。


 先手を打たせまいと、雄叫びを上げてシンが突進した。それが合図だった。ゲールが豹のように素早く左から回り込み、ウィルは金の光を爆発させて右から切り込む。恐怖はあるが、迷いはない。友が隣で戦ってくれるなら、ウィルはどんな相手でも倒せる気がした。


 どんな絶望にも、光は差すと思えていた。



***



 白銀の騎士と巨大な狼人間の戦いを、兵達は建物の影に隠れて遠巻きに見ていた。


 だが最早近いも遠いもない。矢継ぎ早に放たれる銀の光は空まで貫き、狼が投げつけた岩は城壁外までも届く。剣の一撃、拳の一振りで勢いよく街が削れていく様は、まるで嵐か竜巻のようだった。


 その渦中にいるジーギル本人は無言のまま、後先考えず全開だった。


 未だ半人半狼の姿のフェンリルは、しかし更に一回り大柄になっている。白銀の雨で蜂の巣にしても傷一つ付かないほど頑丈で、疲れる素振りも見せず猛威を振るい続けている。離れればぶちまけられた瓦礫が砲弾のように飛んできて、近付けば巨大な爪の餌食になり、懐に入れば三重の口に齧り取られて即死だ。


 だがジーギルは飛び込んだ。彼も生身の人間だ。底の見えない化物相手に、刻一刻と体の限界は迫る。短期決戦に賭けるしか勝ち目はない。


「あの獣畜生、絶対に許さねぇ……」


 そこに、遠くからアレクがフラフラと近づいた。


「おいやめろ! これ以上やったら死んじまうぞ!」


 兵達は追いかける事も出来ずに叫ぶが、アレクは全く聞く耳持たない。ようやく意識が戻ったと思えばすぐに死地へ戻るなど、まったく助け甲斐がない。連れ戻すのは簡単だが、なぜか躊躇われる。そこで兵達が助け出したもう一人、黒祭服の女剣士も目を覚ました。


「……今、どうなってる。私、どれくらい落ちていた?」


 霞んだままの目で、辺りを見回す。


「気を失っていたのは、ほんの少しだ。あまり喋らない方がいい。致命傷ではないが、あの狼の手が掠ったんだ」


 ジーギル達とは少し離れた建物の影で、倒れるナルウィを十人弱の兵隊が守っていた。しかし皆、幽霊でも見るかのような目だ。そんなに酷い状態だったのかとナルウィは自分を確認すると、なるほど酷い。腹が抉れている。それにしても、何故まだこんなに沢山の兵がいるのか。


「逃げろと、言った筈だけれど、何をしているの」

「言われた通り目が慣れるまで逃げていました。慣れたから戻ってきたんです。貴女のおかげで私達は命を拾った。今度は私達が貴女を助ける」

「気持ちだけ、貰っておくよ。でも、行かないと」

「馬鹿かお前らは! あのドラゴンまで殺され、チンピラみたいな傭兵は殺されに戻った! もう今度こそ俺達も逃げるぞ! あの狼は、倒せない!」


 兵の一人がはっきりと敗北を口にした。ナルウィも否定しない。彼が臆病風に吹かれてそう言っているのではないと分かっていた。彼の言う通り、恐らくこの戦いに勝利はない。目指すは引き分けだ。


「……ジーギルと戦って、あれは少しでも消耗している?」

「そうは見えない。倒せる倒せない以前に、そもそも死という概念があるのかも疑わしいよ。あの狼がもし神話に出てくる怪物そのもので、それをヴォルフが契約で従えているなら。僕達人間に、倒す手段なんてあるんだろうか」

「倒すどころか、戦えもしねえ。戦えるのは英雄だけだ。俺達は違う」

「英雄、か。化物じみている事は否定しないけれど」


 先ほどからここにも巨大な瓦礫が雨霰と降ってきているが、細い銀光が流星群のように追い縋ってきて一つ残らず撃ち落としている。ジーギルは狼と戦いながらも此方を庇っているのだ。


「でも、彼はそんな大層な男じゃないよ。それよりドラゴンは。今、殺されたって」

「……見ない方がいい」


 兵は渋い顔で目を逸らす。殴り殺されたドラゴン。瓦礫の下敷きになったまま、その溢れ出た血で深紅の池ができていた。ナルウィは一瞬目を見開くが、死相が出たような顔のまま、力なく首を振った。


「……いや、そんな筈ない。彼は、まだ生きてるよ」


 その譫言のように空虚な言葉が余りに痛々しくて、兵達はなんと返したら良いか分からない。それでもなおナルウィは言葉を続ける。死相が出たような顔のまま、微笑んでいた。


「私と彼は一緒に生きて、最後には一緒に死ぬ。そう約束したんだ。だから私が生きている以上は彼も生きている。さて私も、本当にもう行かないと」


 ナルウィは兵達を尻目に地面を這った。

 既に剣も折れて、立ち上がる事さえ出来ないまま、狼に向けてにじり寄る。


「馬鹿を言うな! 何ができる、そんな体で!」


 兵の言葉にもナルウィは答えない。

 止めるのは簡単だ。だが彼らはやはり、それが躊躇われた。


「なんなんだお前達は、揃いも揃って……」


 兵達には全く理解できない。この砦の街にあるのは兵器と物資のみ、そもそも戦うようには出来ていない。あの狼が来た時点で負けなのだ。なのにまだ勝つ気でいる。身も竦むようなアレクの雄叫びが聞こえてきて皆が顔を見合わせた。あの助け甲斐のない命知らずめ、本当にまた戦い始めたのだ。


 折れた剣を手に突っ込んでくるアレクを見て、ジーギルは思わず顔が引きつった。ぼろぼろの体で走ってくる彼はまるで手負いの獣だ。だが信じられない事に、以前よりも更に速い。


 アレクは何度でも挑みかかった。時間がないのだ。ジーギルは正気を疑うほどの近距離戦に挑んで着実にフェンリルを追い詰めているが、どう見ても限界を超えている。ここで白銀は崩せない。なんとしても勝機を掴む。そんなアレクの蛮勇にあてられて、ジーギルも残る力を振り絞る。


 そして、また一太刀入った。


「っ……!?」


 至近距離で、狼の目が怒りの震えたのが見えた。

 次の瞬間、突然目の前が真っ暗になる。


 ジーギルは反射的に目の前にいた筈の狼を斬るが、空振りした。すぐに炎を吐かれたのだと気付く。視界を奪う為の、溜めのない軽い一噴き。決死の覚悟で接近したのが裏目に出た。そう判断する一呼吸分にも満たない隙に、すぐ近くで殺気が膨らんだのを感じ、迎撃する間もなく直後右腕に激痛が走った。


「ぐっ!」


 フェンリルがいた。

 右腕に喰らいついている。

 筋が千切れ、骨が砕ける鈍い音がした。


 そのままジーギルは滅茶苦茶に振り回された。肩口から手首まで完全に狼の口に収まり、剣が動かせない、銀光も届かない、硬直して剣を手放せもしない。腕が完全に死んでいるが、このまま地面に叩きつけられればジーギルも終わりだ。この状態でも可能な手を、咄嗟にそう考えてジーギルは叫んだ。


「切り裂けぇえええ!!!」


 アルギュロスが眩い光を放った。

 まるで銀色の太陽のように、炎も闇も消し飛ばす。

 それを間近で食らったフェンリルは両目を潰して絶叫した。


 闇が晴れた。狼はジーギルの腕に喰らいついたまま苦悶の声を上げている。ジーギルが振り返ると、こちらに走ってくるアレクと目が合う。


「アレク!」

「分かってる!」


 短いやりとりで話はついた。

 そしてアレクの居場所を掴まれた。


 フェンリルは目が眩んだまま歯を食いしばり、怒りのままにアレクを攻撃する。アレクは間一髪でそれを躱すが、その剣はあらぬ場所を薙ぎ払い、フェンリルには掠りもしなかった。そしてとうとう腕が喰い千切られ、切り離されたジーギルの体が派手に地面に叩きつけられた。


 徐々にフェンリルの目が回復する。すぐ傍に体勢を崩した人間、アレクの影が見える。狼は今度こそ確実に食い殺してやろうと歯を剥き出した。


「今だ!」


 凛とした女の声が響き渡った。

 次いで四方から一斉に発射された何かが戦場を蜂の巣にした。


 周囲の建物に隠れるように並んでいたのは移動型の大型弩砲だった。発射と同時に弾き上げられた大槍が自動装填される。そして続く号令で撃ち出された槍には、初弾と同じく鎖が付いていた。その無数の鎖が狼の道を塞ぎ、体に巻き付き、鉤状の先端部分が地面に食い込んで動きを止める。


 雁字搦めで動けない狼に、ありとあらゆる兵器が襲い掛かった。


 巨大な剣山、棘付きの砲丸、雑多な武器の雨が間断無く叩きつけられる。砦の街アストリアスに持ち込まれた同盟軍の余り物だ。籠城用、供給用にと腐らせていた兵器を一つ残らず搔き集めた。使いこなせる兵はいない。だから弩砲に無理矢理装填し、遠距離から出鱈目にぶつける。その全てをだ。


「出し惜しみするな! ありったけ食らわせろ!」


 指揮するのは兵の一人に背負われたナルウィだった。這ってでも戦おうとする彼女を見かねて一人がそれを助け、二人、三人と兵が集まり、そして街の全戦力が腰が引けたまま戻ってきた。彼女は声を張り上げてそれを鼓舞した。皆が必死に戦っている。自分もまだ戦える。それなのにだ。腹が立った。肝心なあの男は一体何をしている。


「キミも、いつまで寝ているんだ!」


 その一喝と同時に、街の一角で建物が吹き飛んだ。


 邪魔な建物を薙ぎ倒して、リューロンが一直線に向かってきた。死んだと思われたのも無理はない。全身から血を滴らせ、所々で鱗が丸ごと抉れている。その死体も同然の姿のまま、それでも怒れるドラゴンは戻ってくる。


 激怒しているのはフェンリルもだった。体が膨らむ、今度は際限なく膨らむ。耳が突き出し、尾が伸び、本物の狼へと変身していく。正真正銘の全力だ。ただでさえ手に負えなかった馬鹿力が更に増し、鎖が大型弩砲とそれを支える建物ごと引き摺られ始めた。暗い炎が口から、足元から生まれてくる。


「流石に、頑丈だな……」


 独り言のようなその声が聞こえて、狼が勢いよく振り向く。未だ目は見えないが、この声はアルギュロスを使っていた騎士のものだ。腕を喰い千切り、地面に叩きつけた筈がまだ生きていた。この騎士だけは無視できない。全力で、確実に息の根を止める。


 フェンリルは声の方へともがき寄った。

 鎖を千切り、武器の雨を弾き、三重の口を開く。

 だが騎士は場違いにも、ふっと笑った。


「こっちじゃない」


 近づき、僅かに目が慣れて騎士の姿が見えた。右腕は確かにない、あったのは鋭利な切り口だ。あの時、喰い千切られるより先に、誰かに斬り落とされていたのだ。しかも目の前の騎士が持っていたのは、刃毀れだらけの鋳造剣だ。あの忌々しい銀の剣は、どこにいった。


 初めて一人の敵に意識を集中したフェンリル。

 その頭上の煙を破って一人の男が飛び込んだ。

 アレクだった。


 アレクは巨大な狼の死角を取るためにだけに、総攻撃の隙をついて横の建物から飛び降りたのだ。そしてその手に持っていたのは白銀の剣、アルギュロス。力強く、柄を握る。


「ブチ殺す」


 銀の光が爆発した。


 アレクに本来この剣を使いこなす才は無い。だが剣にはジーギルが限界まで引き出した光が残っていた。持ち手が変わって銀の色合いが変わる。洗練された鋭い光から、ギラギラと下品に眩い輝きへと。


 フェンリルが吠えた。


 鎖に縛られ体勢を崩しながらも、その圧倒的な攻撃は殆ど殺されずに相手に迫る。伝説の魔物、星喰らいの狼が放つ致死の一撃。だがその背後でジーギルは左腕で剣を振るい、脚を斬られたフェンリルの攻撃が僅かにずれる。落ちるアレクは掠める爪を一瞥もせず、狼目掛けて真っ直ぐ剣を構える。


 砦の街、アストリアスを縦に割る銀の光。

 それは狼の左肩から深々と入り、真っ直ぐ胸元を突き抜けて地面にまで到達した。



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