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変わり者の物語  作者: あなぐま
第4章 道の先
44/57

間話5 変わり者の旅立ち(後編)

 その時。


 目の前に広がっていたのは、炎。


 約束も、嘘も、世界も、何もかもを焼き尽くす赤い炎。


 その場にいた半分が、その竜の出現と同時に炎に飲まれ、もう半分が逃げる途中で更に炎に飲まれた。見上げれば幸福の花束も、誓約の剣も、一緒くたになって吹き上げられている。用意された全てが台無しになるのを見ても、正直に言えばそれほど感慨も沸かない。


 まるで体と頭が痺れてしまっているようだった。

 しかし世界が終わるその時に、正しい判断など誰が下せるだろう。


 痺れた頭を置き去りに、炎は容赦なく、圧倒的な勢いで迫ってくる。その奥に見える竜の昏い瞳は、しっかりとこちらを捉えていた。逃げ回る人々に目もくれず、こちらをだ。それが見えてようやく頭が回り始める。痺れていた分を補うように一気に、炎の熱にあてられたように激しく。


 助けなければ。そう思ってすぐ隣の少女の手を取った。

 どこか逃げる場所を。そう思って広間の檀上の更に上、城の奥へと足を進める。

 動きにくい。そう思って長く引き摺る意匠のドレスを途中で千切り取った。


 約束を。

 そう思って、ただ走る。


 あの時、差し出された手を取らなかった。真っすぐ向けられた気持ちに応えなかった。自分の意地を通して未来を先送りにした。それが、今、この炎の中で思い出される。


 ただ走った。女々しく思い返す自分をそのままに、体は生きる為に走り続ける。


 ああ、でも、あの時。

 少しでも別の選択をしていれば。

 一つでも別の歯車が噛み合っていれば。


 もっと違う未来が、待っていたのだろうか。



***



 吹き抜ける風を遮る物がない、広い、広い平原。


 風の道筋を目で追えば、遠く彼方に果ての山脈リューンが見えていた。光を吸い込むほど暗い深緑の古森も、河向こうの街の灯りも良く見える。雲の隙間から時折月が顔を出せば、夜とは思えないほど辺りは明るくなった。


 平原の中でも一際大きく波打つ丘の上。そこに二人の人影があった。周囲に村は見当たらない。だが旅人にしては馬も連れず、荷物も妙に少なかった。


「いいのか。行かなくて」

「……うん。いいんだよ」


 モルテンに訊かれて、ニルスは答える。答えておきながらも、彼は遠くまで見通せる丘の上から動かず、見えるはずもない遠くの街に目を凝らしていた。体は全く正直だ。だからこそ未練が残ると口にする訳にはいかない。


「強情な奴だな。お前いつもは糞真面目なだけなのに、たまにそうやって俺が驚くほど頑固になるよな。いったい誰に似たんだか。父さんお前をそんな子に育てたつもりはありませんよ?」


 決意がぐらぐらに揺れている所を茶化されて、ニルスは口を尖らせる。


「僕だって父さんに手ずから育てられた覚えはない。それにこれは僕と、サラと、二人で決めた事だ。別れも済ませた。一年後に約束もしてある。少しぐらい感傷的になったって良いだろ」

「生意気言うようになりやがって。ま、ガキが男になるにゃあ、結局の所それが一番だったって事か」


 モルテンは茶化した態度を崩さない。それもいつもの事なのか、ニルスも遠くの街に視線を送ったまま答えなかった。


 視線の先の、遠くの街。

 そこでは今頃、華やかな結婚式が執り行われているだろう。

 この地域一帯を治めるウルム侯爵が初めての妻を迎える、大々的な式典だ。


 あのサラが美しい花嫁衣裳に身を包み、侯爵の手を取って家に迎え入れられる。本当は見たくもない。式典なんてこの手でブチ壊して花嫁を掻っ攫ってしまいたい。いや、それよりもし、彼女の手を取るその花婿が、自分なら。オデオンやキアラン、村の皆に祝福されて、誓いの剣を手に幸福の花束を彼女に贈る花婿が、もし。


 だがニルスは力づくで目を閉じ、モルテンと向き合った。


「待たせた。もう行こう」


 向き合った父は、一転して真面目な顔でニルスを見ていた。覚悟を問われているようで、ニルスもその視線から逃げない。


「俺はこのまま、東の街道を進もうと思っている。いつも通り、これまで通りだ」

「そっか。僕の当面の目的地は峡谷の村だから、こっちの方だよ」


 モルテンが首をやったその先には、碌に整備もされていない捻じ曲がった街道が伸びていた。

 ニルスが見たその先は街道すらない、岩と低木だらけの大地が広がっている。


「本当に行くんだなぁ。いや分かってる。今更訊くのも野暮、ってな」


 落ち着いた声色でモルテンが言う。こんな父を見るのはいつぶりだろう。そして、もう二度と見ないかも知れない。今日の事を決めてからずっと分かっていた事だが、いざこうして岐路に立つと、今までそこにあるとも知らなかった感情が腹の底から胸まで上がり、危うく喉から出そうになってくる。


 これまでニルスはずっと父と旅を続けてきた。一つの場所へ数年とどまって、また次の場所へ、次の場所へと。二人はこれまで人の火が灯る場所に長居は出来ず、世界各地を転々としてきた。人の姿を写し取った寂しがり、泉の魔物の宿命だ。その宿命が分かるのは、結局は同種であり、家族であり、親子である二人だけなのだ。


 だがそれも終わる。今朝方発った二人の「故郷」を最後に、ニルスは父であるモルテンと別の道を行くと決めていた。たとえ互いの事を理解できる、たった一人の家族でも。たとえこれから先、二人の道が二度と交わらなくても。


 父はそれが良いとも悪いとも言わなかった。

 ただ、お前が決めた事なら、俺は何も言わないと。


「しっかりな。とりあえず、背筋伸ばせ」


 モルテンはそう言って手を差し出す。ニルスは少し面食らった。何、かは分かる。握手だ。だがニルスは今まで一度も父と握手などした事がなかった。背負ったり背負われたり、冗談紛いに抱き合ったり首を絞めたり、そんな事ばかりだ。


「ん」


 モルテンはもう少し手を差し出す。早くこの手を取れと。ニルスが頭の整理をつけるまで数瞬。その後、流れるようにモルテンの手を取った。思いのほか強く握り返される。自分を見る父の顔を見て、ニルスもしっかり握り返した。それはどこか、父親が息子を認める儀式のようにも見えた。


 左手で父の肩を叩くと、父も自分の肩を叩いた。


「父さんも、元気で」

「お前に言われたかねぇよ」


 そんなやりとりをして、二人はそのまま軽く手を振ってそれぞれの道へと歩き出す。意外なほどあっさりとした別れだ。だがこれが彼ら親子の形だった。家族のようでも、悪友のようでもある。


 そしてニルスは少し緊張しつつ、一人で生きる初めての旅、その一歩を踏み出そうとしていた。


 踏み出す筈だった。

 ずっとそう思っていた。


「あん?」


 それがモルテンの間抜けな声で挫かれる。別れてたった一歩目だ。水を差されたようでげんなりしながらも、ニルスは振り返ってモルテンを見る。


「なにさ。いったい」


 見ればモルテンは左、西の方を見て眉をひそめていた。つられてニルスもそちらを見る。それは何の事もない。さっきまでニルスが女々しく眺めていた方角。ウルム侯爵城。結婚式会場の方角。


 そして違和感に気付く。こんな遠くからは当然何も見えない。建物も灯りも丘の起伏に隠れて、そちらに街がある事すら分からなかった。だが、今は分かる。その遠くの街の灯りが見えるのだ。月の光も星の光も掻き消すほどの強い光。揺らめき、時折強まる、激しい光。


 赤い、炎。


 モルテンが荷物を投げ捨てて走り出した。

 一瞬遅れて、ニルスも走り出す。


 胸の奥が抉られるような、重々しい何かが、ニルスの体に広がっていた。



***



 二人の魔物は飛ぶように夜の大地を駆け抜けた。


 泉の魔物に本当の姿はなく、代わりに他のあらゆる姿を写し取る。その万能さ、その異質さから人と長く共に生きる事は出来ないが、人目も憚らずその力を振るえば、途端あらゆる事が可能になる。


 走り辛い人の形はすぐさま捨てた。ぐにゃりと不自然に二つの影が歪むと、大柄な馬に変わった二人はその圧倒的な脚力で大地を蹴る。


 そして崖にぶつかれば山羊となって駆け下り。

 河に差し掛かれば鳥となって一気に飛び越え。

 森に入れば狼となって一直線に突っ切った。


 焦燥感が強くなる。遠くに見えた炎の光は近付くほどに眩さを増し、夜の平原にはあり得ない熱気が体を焼き始める。領主の城はまだ遠い。なのにこれだけの熱さで体が焙られる。城では一体何が起こっている。なんで、どうしてこんな事になったんだ。


「……!」


 領主の館はまだ遠い。ここはニルスの故郷であり、式を挙げているサラの故郷。今朝方二人が別れを済ませたばかりの村。ケプセネイアの村だ。


 それが、炎に飲まれていた。


 辺りは昼のように明るかった。家という家、木々という木々が赤赤と燃え盛り、あっという間にその形を失っていく。見慣れた何もかもが目の前で崩れていく。家も、木々も、人も。


 炎の中を大勢の人々が逃げ惑っていた。暗がりと逆光で顔まではよく見えない。だがどれも聞き覚えのある声だ。村中を分断する炎の迷路を、彼らはひたすら逃げる。火事、そんな言葉では説明できない。これは何者かに引き起こされた状況だ。


「おい! 宿屋のか!」


 あまりの事態に一時呆然としていた二人に、野太い声がかけられる。


 炎の壁の向こうで、逃げている途中で足を止めた男が二人を見つけたのだ。今朝方別れを告げたばかりで、ここにいる筈のない二人をだ。当然ニルスも知っている人物、粗暴で有名な村の鍛冶屋だ。背中に誰かを抱えていた。モルテンが叫ぶ。


「オリクか! 何があったんだ!」


 何があったかは見れば分かる。問題はどうしてこんな事になったか、今皆は無事なのかだ。轟々と燃える炎の音に負けないように、鍛冶屋も叫び返す。


「分からない! 急にあいつらが来て片っ端から焼き始めたんだ!」

「あいつら!? 誰だ!」

「今からこいつを投げる! ニルス! 受け止めろ!」


 質問に答える余裕はないと、鍛冶屋は背負っていた人物を両手で抱え直す。その人物をこの炎の壁の向こうまで投げ飛ばそうというのか。ニルスは相手を受け止めようと身構える。しかし直前、はっと鍛冶屋が何かに気付いた。


「逃げろ!!」


 モルテンがニルスを突き飛ばした直後。

 爆音と共に、目の間に炎が撃ち込まれた。


 それは大地を抉り、残骸を吹き飛ばし、空気ごと世界を消し飛ばすような炎だった。二人は倒れこみ、しかしすぐに起き上がって鍛冶屋を探した。だがそこにはもう燃え盛る炎しかなかった。鍛冶屋もモルテンも気付いた、自分は気付かず助けられた。なら、なぜそこに、鍛冶屋がいない。


 空気を掻き分ける、圧倒的な存在。

 上空に何かを感じてニルスの視線が上がる。


 そこに、彼らがいた。


 たった今、一瞬で鍛冶屋を焼き殺した炎の塊が、巨大な竜の姿をして空を飛んでいたのだ。いや、正確には全身から炎を噴き出している巨大な竜が、自分達になど目もくれずに空を飛んでいる。


 長い首に、長い尾。

 広がる巨大な翼、尾を引く炎の筋。

 その身を焼き焦がしながら止めどなく燃え続ける赤い炎。


 その姿はまるで、火口から吐き出された溶岩が竜の姿を取って動き回っているかのようだった。見たこともないドラゴンだ。だが、その姿、その名前は聞いた事はある。いくつもの呼び名を持ち、そのどれもが本当の名ではないと言う。ニルスは茫然とその内の一つを呟いた。


「……炎竜」


 それは文字通りの炎の竜。

 それが、全部で三匹。

 どんな理由でここに来た。

 何の恨みがあって村を焼く。


 溢れかえる悲鳴に、そんな疑問は吹き飛んだ。ニルスとモルテンはすぐに皆を探した。出会う人皆に必死に声をかけ、村の外へと誘導し、瓦礫の下敷きになった人がいれば無事な村人と協力して引きずり出した。いつしか体は傷と煤にまみれていた。


「ニル! お前、どうしてここに……!」

「オデオン! 早く向こうへ! ここももう火に飲まれる!」


 互いに声をかけ合い、助け合う。鍛冶屋だけではない。村の皆が、自分の命を危険に晒す事も厭わず奮闘していた。だがその間もドラゴンは無情にも暴れ回る。吐き出す炎で、長い尾で、巨大な翼で、あっと言う間にあたりは炎の海になっていく。


 怒りからか使命感からか、ドラゴンに挑む者もいた。だがその怪物は近づく事さえ許さない。軽い一息で空気は焼け、岩は赤熱し、人間は悲鳴を上げる間もなく炎の中で灰になる。


「……っ」


 救助の中、馴染んだ光景に目が奪われてニルスは思わず走り出した。体が勝手に動いていた。焼け崩れて酷く分かり辛いが、ニルスはこの道を知っていた。歩き慣れた道を走り、見慣れた家を横切り、そして辿り着く。


 だが、辿り着いたそこに、彼の家はなかった。

 微かに見分けられたのは、炎に呑まれる直前の屋根と、崩れる柱、潰れた机。


 泉の魔物は本当の居場所を持たない、持ってるのは、すぐに忘れられる小さな思い出だけだ。それは例えば父と二人、この村で始めた宿屋。家族とも呼べる村人達との日々。人として満たされた居場所。そんな束の間の甘い夢までもが、目の前で焼け崩れていく。まるでニルスの全てを否定するかのように。


 燃え盛る家を前に、ニルスは膝から崩れ落ちた。

 呆然と周囲を見回せば、崩壊はそこら中で広がっている。


 見知った誰かが倒れている。

 馴染みの家が、焼け落ちて見る影もなく壊れている。

 あそこの腕は昨日喧嘩したばかりの老人だ。

 あの炎は毎日のように通った友人の酒屋だ。

 潰れた家は炎に飲まれ、酒瓶が割れて時折火が強くなる。

 料理好きの息子は村を逃げていた。

 じゃあ、その飲んだくれの父親はどこへ行った。

 しっかり者の母親はどこへ消えた。


「立て」


 放心状態のニルスの肩を、いつしか隣に来ていたモルテンが叩く。


「立て、ニルス。もう座り込むのはやめると決めたはずだ」


 彼の目にも、この十年間積み重ねてきた人生、二人の家が焼け落ちている様は見えている。だが毅然とした態度は崩さなかった。


「戦わないといけない時ってのはある。お前もそうだろ。命に代えても、守りたい奴がいるんだろう」


 檄を飛ばされて、ニルスはふらりと立ち上がる。

 分かっている、とモルテンの手を払った。


「僕は、行くよ」


 立ち上がったその目には、力強さが戻っている。既に体中が傷だらけだが、それでもニルスには行かなければならない場所があった。そんな息子の顔を見てモルテンは微笑んで頷くと、ゴンと拳でニルスの背中を押し、そのままふらりと距離を取った。振り返りもせず、ニルスは訊く。


「父さんも、行くの?」

「ああ、仕方ねぇよなぁ。仕方ねぇさ」


 いつも通り茶化したような軽い口調でモルテンは答える。


 その体が、燃え盛った。


 ニルスは背後で熱が膨らむのを感じる。モルテンの体が爆発的に大きくなり、首を伸ばし、尾で大地を撃ち、翼を広げるのを感じていた。モルテンが写し取ったのは空を焦がすドラゴンの姿。村を破壊する災厄と同じ力を持ったモルテンは、ぐっと地面を踏みしめ、そして一気に闇の広がる夜空へと飛びあがった。


 一瞬、ニルスもそれを追おうかと迷った。

 だが既に追いつけない。追いかけてはいけない。


 炎竜、対、炎竜。人智を超えた怪物同士の戦いの音を背後に、ニルスは村を離れ先を急ぐ。目指す先、侯爵の城からは別の火の手が上がっている。あそこに居るのだ。この村を襲っているものと別の炎竜が。そしてニルスが約束を交わした、彼女が。



***



 侯爵の城はケプセネイアの村よりも酷い有様だった。


 城下町も城壁も徹底的に破壊し尽くされ、その瓦礫の山の中に僅かに人の形を残した炭の塊が転がっている。何一つ残す事もなく、誰一人逃がす事もなく、徹底した破壊の痕だ。


 それは雑に焼き払った村の様子とは明らかに違った。ケプセネイアでは目的もなく全てをまとめて焼いたような大雑把さがあったが、この城ではその一つ一つ、一人一人を懇切丁寧に殺していったような誰かの意思が感じられた。まるで彼らの目的はこの城だけで、それ以外の村々はものの次いでに襲ったような印象を受ける。


「ここ……」


 ニルスは生きた人間には誰一人として出会う事なく瓦礫の上を走り、そして開けた場所に辿り着いた。大勢の人間がいた痕跡がある。おそらく椅子が並べられ、人々が揃い、何か催し事があったと思われる場所だ。


 ここで行われていたのは、結婚式だ。そう理解した途端、雑多に転がる黒い塊が何だったのか見分けられてくる。砕けた煉瓦、幸福の花束、誓約の剣。全てが式の途中で乱入を受けたように中途半端なまま炭になっていた。だが、そんな物はどうでもいい。


「サラ」


 どこだ。

 どこに行った。


 狂ったようにニルスは辺りを探す。黒い塊のどれかが彼女なのか。今も瓦礫の下に埋もれているのか。だが見回す内に、ある物が目に留まる。急いで駆け寄り、手に取って確認する。それは引き裂かれた白い布。破けたのではなく、素手で無理やり引き裂いたような粗さが見える。


 それが如何にも彼女らしくて、ニルスは彼女の行動の軌跡を追った。ドレスを破り、走って逃げた。ではどこへ。


「!!」


 遥か高く、奇跡的に形を維持している城の塔から。

 微かに人の声がして、ニルスは再び走った。


 瓦礫を蹴飛ばし、階段を駆け上がり、夢中でニルスは走る。何かに変身して空を飛ぶ手間すら惜しかった。恐怖と焦りが全身を支配して、とにかく体を動かして、一歩でも先に足を伸ばしていなければ気が狂いそうだったのだ。


 体が熱いのは、走っているせいだけではない。

 この先に、炎竜がいる。


 吹き抜け構造の螺旋階段。

 分厚いレンガ造りの巨大な空間。


 その遥か上には鐘がぶら下がっているのが見えた。この先にきっと彼女がいる、何としても登り切る。そう一歩上がった瞬間に気付いた。階段の途中に誰かがいたのだ。


 異様な光景だった。


 赤い髪をした女が一人の男の首を掴んで持ち上げ、今まさに手を放して階段から落とそうとしているのだ。苦悶の叫びを上げながらじたばたともがく男は、煤に塗れていても分かるほど豪華な服装をしていた。遠目で顔までは良く見えないが、同じく遠目に何度か見た事がある。この地域一帯の領主。サラの花婿。ウルム侯爵だ。


「やめろ!」


 塔全体に響くほど大きな声で、ニルスは女に向かって叫んだ。あの高さから落とされれば、ニルスが何に変身してどういう行動に出ようと助けられない。しかしこの距離では、今から止めに走り出しても間に合わない。侯爵の命は、文字通り女の気分一つだ。


「おや少年。君もよくよく運のない男だね」


 当の女はニルスを見下ろしながら場違いなほど軽い調子で話しかけた。だがニルスにはあんな知り合いはいない。遠目に見えて、やはりその顔立ちまではっきり見えないのだ。一方で侯爵は、ニルスの存在に気付いて言葉にならない助けを求めた。


「見苦しい。少年はこんな男まで助けようっていうのかい? お人よしも度が過ぎれば身を滅ぼす事になるよ。いや、どの道もうすぐ、少年も死ぬ事になるんだけどね」


 声からすると、女はまだ随分と若いようだった。しかしその声色、その雰囲気はまるで老婆のそれだ。人を惹きつける不思議な魅力がありつつも、生き物を本能的に警戒させる底知れない恐ろしさがある。ニルスと同じで人の姿をしているだけだ。あの女は、炎竜だ。


「もう、あんたの喚き声も聞き飽きたね」


 女がそう吐き捨てると、侯爵は一際大きな悲鳴を上げた。

 それに釣られてニルスも弾かれたように走り出す。


 階段を駆け上がりながら、ニルスは上に見える二人から目を離さない。侯爵がなぜ急に苦しみ出したのかが見えた。侯爵を掴む女の手が、燃え始めたのだ。侯爵は宙吊りでいつ落とされるかも分からない状況のまま、生きながらにして焼き殺されようとしている。


 もう間に合わないと分かっていても、ニルスは足を速める。女は目の前で人が焼け焦げていく様子を心底楽しそうに眺めていた。そして、あまりにも唐突に、その体を宙へと投げ捨てる。


「あげるよ。後は少年の好きにしな」


 女の言葉も耳に入らない。ニルスは咄嗟に手を伸ばすが、燃え盛る体はあっと言う間に目の前を通り過ぎ、次の瞬間には塔の床に叩きつけられた。この地域一帯の領主が、サラの夫となった筈の男が、粉微塵に砕けた。


「っつ……!」


 呆然としている間もない。ニルスの手は侯爵を掴む事こそできなくとも掠めていた。その時に僅かな炎がニルスの指先に燃え移っていたのだ。燃える指を押さえ、叩き、服で包んでも、炎は全く消える気配がなかった。


 そんなニルスを尻目に女はのんびりと階段を上り始める。まだやり残した事がある、まだ殺し損ねている者がいると言わんばかりに。


「待て!!」


 ニルスの叫び声も届かない。女は振り返りもせずに階段を上り切り、最上階へと通じる扉を閉めた。あんな怪物をサラと会わせる訳にはいかない。


 最早炎は右腕全体に燃え広がり、恐らく消える事はないだろう。そしてニルスも気付く。モルテンの判断は正しかった。怪物を殺す事が出来るのは、同じ怪物だけだ。


 体に力が籠る。


 思い出すのは故郷を焼き滅ぼす炎のドラゴン。無情にも人を焼き殺す最悪の邪竜。自分の右手を焼き続ける、この消えない炎。そしてニルスの体が、炎に包まれた。


 この世の物とは思えない、恐ろしい唸り声が城を震わせた。


 螺旋階段に出現した新たなドラゴンは、自分のいる塔の狭苦しさに忌々しそうに唸ると、塔の最上階に目を向け、その先にいる筈の守らなければならない者と、倒さなければならない敵に向かって、もう一度城を震わせる咆哮を上げた。


 翼が広がる。そして螺旋階段を踏み砕いてニルスは飛び上がり。塔の内部を破壊しながら一気に最上階へと突っ込んだ。



***



 床をぶち破って出現したニルスを見て、女は嗤った。


「うふふ、これはこれは」


 突如炎竜が出現した事にも全く動じない様子だった。その程度では何も変わらず、何も変えられないと言わんばかりに。そして、いた。やっと見つけた。生きていてくれた。


 純白のドレスで身を包んだ花嫁。

 女性にしては背の高い、栗色の髪の長い少女。

 顔にかかった前髪の向こうから鋭い目がこちらを向いている。

 どこから手に入れたのか、抜き身の剣を構えて紅い女と対峙していた。

 煤で汚れ、顔に擦り傷を作り、疲弊仕切った様子でも、変わらず彼女は美しかった。今まで、一度も見た事がないくらいに。

 

 しかし見惚れている場合ではない。炎竜の長い首は天井にまで届きそうで、その高い位置からニルスは最上階を見下ろす。物見の部屋のようにがらんとした最上階は、鐘を操作する仕掛けがあちこちに見えた無骨な空間だった。そしてその場にいるのは、ニルスを除いて全部で四人。


 一人は領主を殺した深紅の女、炎竜。

 一人は剣を構えて周囲を警戒するサラ。

 一人は彼女に後ろに守られている小さな少女。

 一人は少女を庇うように抱き寄せている吟遊詩人。


 少女はおそらく侯爵の妹だろう。あの侯爵の親族とは思えないほどできた子供だとサラが言っていた。そして別人のように綺麗な身なりをしているのはニルスとサラの親友、キアラン。領主に仕える職業柄、結婚式にも参列していた筈だ。


 領主を焼き殺した時と同じ残酷な笑みを浮かべる深紅の女。

 それを見てニルスの憎悪が膨れ上がり、呼応するように体中の炎が勢いを増した。


「よくも、サラを……!」


 かつて、ニルスはこれほどまでに誰かを憎んだ事はない。どんな大義名分があろうと、たとえ世界中の全てが敵に回ろうと、彼女を傷つけるものは絶対に許さない。その為なら。


「殺してやる! 炎竜!」


 ニルスの怒りの咆哮に呼応して、深紅の女の口が耳まで裂ける。一瞬燻ぶった煙が上がったかと思うと、女は一気に燃え上がった。そしてあっという間に膨らむと、ニルスと同じくドラゴンの姿を形作る。細長い首、ゆっくりと広がる巨大な翼、そばにいるだけで肌が焼けつくような熱。


 炎の中からニルスを見る、昏い瞳。

 今まで出会った事もない、絶対的な悪意。

 だがニルスはひるまない。


「サラ、下がるんだ! キアランは二人を!」


 キアランはニルスの仕草に気付いたようで、すぐさま二人を物陰に隠した。この巨体であの炎竜と戦い、皆を巻き込まない自信はない。親友がうまく立ち回ってくれる事を祈るしかない。そんなニルス達の様子を、深紅の女はドラゴンの姿となってもなお嗤う。


 唸り声をあげてニルスが襲い掛かった。

 深紅の炎竜が、それに鉤爪を突き立てる。


 崩れかけの塔の最上階で、二匹のドラゴンが暴れまわった。絡み合い縺れ合うその度に熱が放たれ、サラもキアランも体を必死に物陰に隠す。


 死に物狂いで挑みかかるニルスを、深紅は容赦なく切り裂き、打ちのめす。ドラゴン同士の戦い。だが実質的には、殺し合いなど知らない田舎者の青年と、数え切れない命を奪ってきた怪物との戦いに他ならない。深紅は嬉々としてニルスを追い詰め、ニルスの攻撃はから回り続けた。


 それでも、負けられない。

 どんな事をしても必ず倒す。

 その執念から苛烈な攻撃を繰り出すニルス。

 事情を知らない者から見れば、その姿は深紅と同じ邪竜そのものだっただろう。


 勢いよくしなる尾に強かに顔を打ち据えられ、ニルスは倒れこむ。巨体の重みで床や壁に亀裂が走った。だが気合で再び上体を起こす。そこで、ニルスは目が合った。


 目の前にサラの顔があった。無我夢中で戦っている間に、皆が逃げている方向に倒れこんでしまったのだ。サラは少女をキアランへと押し込み、剣を構えてニルスを睨みつけた。


「危ない! 下がって、サラ!」


 サラを背にニルスは体勢を立て直す。だが、一瞬でも敵から目を離したのが致命的だった。見れば深紅はゆらりと尾を振り、こちらに向かって嗤っている。何をしてくるか直感で分かった。だが対策など考えるまでもなく、その先端に生え揃っていた炎の棘が、尾の一振りでニルス達に向かって撃ち込まれた。


 一瞬で体が蜂の巣のように串刺しにされ、思わず叫んだ。激痛が頭から体を真っすぐ貫き、ニルスはたたらを踏んで壁に倒れこむ。もろくなった壁はたまらず亀裂を広げ、そして遂に砕けた。


 一気に外気が入ってきて空気が冷える。崩れた壁は炎を纏いながら遥か下へと落ちていき、塔の周囲を火の海にした。支えをなくして塔から落ちそうになる所を、なんとかニルスは踏み留まる。


 どれだけやられても構わない。

 あの敵だけは、絶対に倒さなければならない。

 たとえこの命に代えても、絶対に。


「みんな! 大丈夫!?」


 何とか上体を起こしつつ振り返る。



 そこには、炎の棘に腹を刺され、純白のドレスを真っ赤に染めたサラの姿があった。



 声にならない叫びが喉から飛び出す。さっきの棘は身を挺して自分が全て受けた筈だ。見れば侯爵の妹もキアランも傷一つない。なのに、どうして、自分の努力を嘲笑うかのように、サラが。


「ダメだ!!」


 ニルスが叫ぶのも間に合わない。


 サラは剣を取り落とした。

 口から一筋の血を零し、一歩、二歩と後ずさる。

 その背後には何もない。下に広がるのは瓦礫の山と火の海だ。


 まだだ。まだ大丈夫。まだ助かる。

 ニルスはそう思って手を差し伸ばした。


「サラ!」


 彼女を抱えて今すぐこの場を飛び去る。世界一の都市の世界一の名医を叩き起こして、どんな手を使ってでも彼女を治させる。そのためにも急がなくては。そう思ってニルスは必死に、必死に手を伸ばす。


「……!!」


 だがサラは、それに応えない。

 悲痛の表情のまま、ニルスを見るばかりだった。


 今まで一度もニルスに向けられた事のない拒絶の表情。なぜそんな顔をされるのか分からない。彼女とはずっと親しく接して、いつも心を通わせて、将来すら考えていたのに、なぜ。



 そこで。


 そこで、ようやくニルスは気付いた。


 自分が今、どんな姿をしているか。

 差し伸ばした手が、どれほどの熱を帯びているか。

 そして今まで、自分が何をしてきたか。


 ニルスは、ずっと怖かった。本当の事を相手に晒して、また嫌われ者の生活に戻る事が怖かった。だから自分は人ではないのだと言わなかった。言えなかったのではない。言わなかったのだ。どんな言い訳のしようもない。それはニルスに勇気がなかったからだ。


 だからずっと、嘘をついてきた。

 真実を話す最後の機会もふいにした。

 嘘をつき続けた結果として、この現実がある。


 敵の姿を映してまで戦った。隠れろ逃げろと、盛んに声をかけていた。それで守っているつもりだったのだ。だが、なんて間の抜けた話だろう。本当の事を話さなかった彼女には、ニルスも深紅も同じ邪竜にしか見えなかっただろうに。ただ怪物が唸り声を上げているようにしか、聞こえなかっただろうに。


 人に嘘をついていた筈が、自分にさえ嘘をついていた。

 そしてそれに、気付かなかった。

 気付いた所で何もかも、あまりにも遅すぎる。



 傷を押さえ、後ずさり。

 そして、少女は、足を滑らせた。

 そのまま崩れた床を踏み抜いて、その体がゆっくりと夜の空に落ちる。



 ニルスは走り、手を伸ばし続けていた。体の奥から激しい後悔と罪悪感が染み出し、それが毒のように胸を侵す。今までの嘘が、全ての過ちが、最悪の形で引き剥がされていく。それに伴って体を包む炎が薄れる。翼がかすみ、尾が吹き消え、身に纏っていた偽りの姿が霧が晴れるように消えていく。


 その姿に、サラは目を見開いた。


 自分に向かって差し出される手。自分を追うように塔から飛び降りるドラゴン。そしてその炎の勢いが弱まり、体が縮み、薄れる赤の向こうからようやく姿を現した少年。それは彼女がよく知っている顔だった。それは別の選択、噛み合わなかった歯車、そして今とは違う、幸せな未来だった。


 サラの表情から強張りが溶けた。苦痛、恐怖、怒り、悲しみ、その全てが消え去り、代わりに長い間ずっと抱えてきた温かな想いが一気に胸から溢れ出る。


 いつも近くにいた少年。

 森に迷った自分を助けてくれた声。

 満天の星空の下、不器用に紡がれた言葉。

 その全てが、今、ようやく一つにつながった。


 二人の体はどこまでも落ちていく。必死に伸ばすニルスの手は届かない。だがサラはようやく、ニルスに向かって手を伸ばそうとした。泣きそうな顔で、薄く、微笑む。


 その胸元から、何かが零れ出た。


 ドレスの下に隠していた、首飾りだ。


 星空の夜の帰りに、彼女が身に付けて。


 そして今まで、片時も外さなかったもの。


 その意匠を、刻まれた天使の羽を、ニルスが見紛うはずもない。


「え……」


 それを見てニルスの鼓動が止まる。

 空中で、二人の視線が絡み合った。

 サラは嬉しそうに、幸せそうに微笑んだ。


「……ニルス」 


 最期に、そう一言、彼女は呟いた。



***



 重い衝撃と共にニルスの体は地面に叩きつけられ、瓦礫の角に体中を打って脆くなった部位がバラバラに吹き飛ぶ。深紅の炎竜に蜂の巣にされた体が激突の衝撃に耐えられる筈もなく、その瞬間ニルスの体は文字通り砕け散った。


「……!」


 だが痛みは感じない。

 それ以上に頭が混乱していた。


 落ちる直前、自分が見たものは何だったのか。

 どうしてあれをサラがまだ持っていて、しかも今晩身に付けていたのか。

 自分の嘘がバレてしまって、結局彼女はどう思ったのか。

 最後に、彼女は何と言おうとしたのか。


 様々な想いが溢れ返って逆に何も考えられない。

 何も考えられず、何も分からないままだ。

 ならばサラに直接訊かなければとニルスは思った。


 ニルスは瓦礫に中を這いずり回った。泉の魔物の偽物の姿に何一つ本物はない。嘘の腕が砕けても偽りの脚が捩じれても、新しい嘘と偽りで塗り固めるだけの話だ。千切れた腕は作り直す。折れた脚を繋ぎ直す。そしてニルスは必死に彼女を探す。


 どんな事をしても、彼女に会いたかった。

 何としてでも、彼女と話がしたかった。


 粉々になった煉瓦の海を掘り返し。

 脆くなった木々を押し分け。 

 砂粒一つ一つに至るまで丹念に調べて。

 ひたすらニルスはサラを探した。


 だが不思議な事に、彼女はどこにもいなかった。どこを探しても見つからない。どれだけ呼んでも返事がない。この短時間でどこに消えてしまったのか。一緒に塔から落ちた、ならば必ず近くに居るはずだ。すぐそこに居るはずなのだ。


 ニルスはもう一度サラを呼んだ。

 返事が聞こえなくても。

 繰り返し、繰り返し。


 そして、自分の声が出ていない事にようやく気付いた。喉だけでなく、腕も、脚も、体中が今この瞬間にも焼け落ちている事に。自分がずっと燃え盛る炎の中を、あても無く這い回っていた事に。


 また足が崩れ。

 また作り直し。

 ニルスは炎の中から出てきた。


 体はすっかり黒くなり、最早燃える物も残っていないせいか、体を焼き続けていた炎はいつしか消えていた。ボロボロの脚では立っているのも限界で、ニルスはその場に座り込んでしまう。


 顔を上げ、自分がどこにいるのか確認した。

 背後に見えるのは辛うじて形を保っている塔。

 世界全てを焼き続けている炎。

 動かなくなった人々の代わりに不規則に揺らめく瓦礫の影。

 そして、頭上で激闘を繰り広げる、二匹のドラゴン。


 至近距離から互いの体に絶え間なく攻撃が撃ち込まれている。一撃ごとに大気が震え、放たれる炎が雨雲を消し飛ばす。戦いは苛烈を極めていたが、漆黒の夜空で二つの炎が縺れ合う様はどこか美しく、そして幻想的だった。


 片方のドラゴンが炎を口に溜めた。だがそれが放たれる直前、もう片方のドラゴンから小さな人影が飛び出した。それはまるで、その人影が巨大な体を脱ぎ捨てたかのようだった。


 放たれた炎が掻き消したのは、抜け殻となった竜の体。その隙をついて飛び出した人影はその手に炎で出来た鎗を作り出し、そして相手の胸に、深々と突き立てた。


 胸を貫かれたドラゴン。

 夜空の真ん中で力を失い、落ちていく。


 しかし突然、まるで幻のようにその体が消えた。遥か上空での戦い、ニルスからはよく見えない。ただぼんやりと、今消えたドラゴンはどうなってしまったのだろうと考える。


 本当ならニルスにも分かっている筈だった。皆を護って戦っていた父が、とうとう敗れ、散った事を。命を失った自分達は、泉の水へと還る事を。だが芯まで焦げ切ったその体では、疑問が渦巻くその頭では、最早何一つ正常に考える事が出来なかった。


 突き刺した相手を見失い、炎の鎗も役目を終えて消えた。

 人影がゆっくりと空から降りてくる。

 そのまま、ふわりとニルスの目の間に舞い降りた。


「……」


 背の高い老齢の人物だ。

 かきあげた髪、荒い無精髭、落ち着いた瞳、みな赤い色合いだ。

 左目に跨った古傷も相まって、引退間際の老兵士のようにも見える。

 だが、何かが違う。

 その一見して穏やかな男に対して、直感的、本能的な何かが全力で警鐘を鳴らしていたのだ。


 古傷の男は微動だにしないニルスを無言で見下ろす。この場で繰り広げられていた最後の戦いが終わり、辺りはまた炎の音だけが支配する。その内、夜の闇から更に三人の人影がゆっくりと現れ、合計四人の男女がニルスの前に揃った。


 その内の一人、紅い女が口を開いた。


「少年、可哀そうに。出来れば苦痛なく逝かせたかったんだけどね」

「いい加減にしろ、ナクラヴィー。お前の趣味にこれ以上付き合うつもりはない」


 女の軽口を、古傷の男がたしなめる。


「でも結局の所どうするんだ? 驚くべき事に彼はまだ息をしている訳だが、俺達は寛大なる慈悲を持って彼を皆の元に送り届けてあげるべきじゃあないか?」


 四人の内の一人が軽口叩く。ペラペラと大仰な言葉を使いつつ、どこか神経を逆撫でしてくるようでもある。すると別の一人が、ずいと前に出る。


「殺す。下がれ」


 有無を言わさぬ固い声で、男は手刀を振り上げる。


「待て」


 古傷の男が、その手を掴んだ。


 固い声色の男は眉間に皴を寄せてゆっくりと振り返る。その瞳には、同族であるはずの相手に憎悪すら籠っていた。掴まれてなお手刀はニルスの首に撃ち込まれようと、ギリギリと力が込められている。それを止める古傷の男の指は、手刀に深くめり込んでいた。深紅の女が口を挟む。


「あらあらあら。どういう風の吹き回しかなバルサザール。今更一人の命を摘むのに、私達がこうまで時間をかける必要があるのかい?」

「私はいい加減にしろと言った。私達がお前の身勝手に付き合い全てを焼き滅ぼしたのは、あくまで血の盟約があったからだ。これ以上の身勝手は許さん」

「どうにも情が移り過ぎだね。私達を軽んじる相手に何の情けをかける必要があるんだい? あまり人間臭い事を言うもんじゃない。それに私達が人の世に顔を出す事は滅多にない。これくらい派手な焚火であった方が、後の世にも残るってものだろうさ」

「滅多に出ないからこそ、気を遣うべきだったな」

「そう言えば……」


 埒の明かない二人の会話に、軽口の男が横槍を入れる。

 先程とは別人のように、理知的で落ち着いた声で。


「先ほど、我々の姿を模した男と何か話していたな。あれは此奴と同じ泉の魔物だったか。一体何を話していた?」


 コロコロと気分が変わっていく相手に、少し顔をしかめながら古傷の男は答えた。


「お前達には関係ない」


 ただ一言で切り捨てられて、軽口の男は肩をすくめる。古傷の男の性分だ。何か最期に意味深な話でもして、何か大事な約束でもしたのだろう。だが軽口の男には関係ない。彼にとっては生かすも殺すも、この世の何もかもが、物の次いでの遊びなのだから。


「引き上げるぞロキ。マルコシアス、お前もだ」


 固い男は力づくで掴まれた腕を振りほどくと、殺気を撒き散らしたまま不機嫌そうに踵を返した。軽口の男も何も言わずにそれに続く。深紅の女は少し思う所があったようだが、ため息をついてその場を後にした。古傷の男だけが、一人その場に残る。


 ニルスはその間、結局微動だにしないままだった。自分の処遇が話し合われ、今まさに殺されようとしていた瞬間でさえも、彼の心はここにはなかった。その体からは魂さえも抜け落ちてしまったようにも見えた。


 そしていつしか、最後の一人も、その姿を消していた。



***



 彼は、その場で座り込んだままだった。

 死んだように動かなかった。


 四人の次に彼を見つけたのは、一人の男だった。


 男は彼に駆け寄る。そしてあまりに変わり果てた友の姿を見て泣き崩れ、何度も何度も叩いた。本当に死ぬ奴があるかと泣いた。約束なんていいから早く目を覚ませと叩いた。だが抜け殻のようになった彼は、何一つ反応を返す事はなかった。


 遅れて現れた少女が泣き続ける男を慰めた。しばらくして、男が涙をぬぐい最後に何かを言うと、二人はその場を立ち去った。


 雨が降り、雪が降り。

 いくつもの歳月が流れる。


 時折人が訪れ、彼に何か言葉をかけたり、手を引いたりもした。

 しかしやはり、彼が動く事はなかった。


 命が芽吹き、そして枯れ。

 いくつもの歳月が流れる。


 ある日。


 ようやく彼は思い出したかのように顔を上げた。


 見れば周りには誰もいなかった。何もなかった。だが苔生した頭を何とか働かせれば、僅かに最後の記憶が残っている。確か、彼は皆を守ろうと走り回っていた。大切な人を必死に探していた。


 だが今は誰もいない。どこに行ってしまったのか分からない。すぐ目の間にその答えがあるように感じる。だが、底なし沼に足を踏み入れるような、出口の無い闇に呑み込まれるような恐怖を感じて、そちらには踏み出せなかった。


 そして彼は、今まで誰とどんな話をしていたかも分からなくなっていた。何を語り、何に喜び、何に悲しんだかも。彼を彼とする全てが、なくなってしまったのだ。彼はもう思い出せない。自分がどんな姿をしていたのか。自分がどんな顔をしていたのか。


 分かるのは、自分が嫌われ者の泉の魔物だという事。全ての嘘が剥がされた彼は、何にでもなれる筈なのに、何にもなれない。どんな姿をして良いか分からず、彼は歪で不定形な姿のままだ。だが立ち上がる頃には頭だけが働き始めていた。ただ一つの想いの為に、働き続けている。


 放ってはおけない。

 忘れてはいけない。


 皆と話して、一緒に笑って、その全ての積み重ねの上に今の彼がある筈なのだから。顔の無い男を彼としてくれるのは、今まで出会った全ての人達のおかげなのだから。彼は絶対に、その全てを取り戻さなければならないのだ。


 そして彼は歩き出す。失った物を取り戻すために。大切な誰かと再び会うために。叶えられたはずの約束を、今度こそ叶えるために。


 出発点へ至る、長い長い道のり。

 変わり者の物語が、始まる。



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