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変わり者の物語  作者: あなぐま
第3章 鉄の都
43/57

間話4 変わり者の旅立ち(前編)

「おかしい……」


 ニルスは山と積まれた食材を片っ端から捌きながら、運の悪さと自分の性格を呪っていた。


「おかしかないだろ宿屋の。それよりまだかー?」

「まだだよ! 一体みんなどれだけ食うんだ!」


 飛んでくる軽口には怒号で返す。大勢の男達を詰め込まれた酒場は笑顔と喧騒で大賑わいだった。だが酒屋を切り盛りする側にとっては、まさに戦場そのものである。


 ケプセネイアは小さな村だ。

 ウルム侯爵領の北側に位置し、気候は寒冷で時折森から霧が流れてくる。


 寒さに強い農作物が主食であり、森から獲物が豊富に取れる事などまずない。それが取れたのだ。それも大量に。冬に備えてそのほとんどが燻製と塩漬にされるが、少しくらいは皆で片してしまっても罰は当たらないだろうと、誰ともなしに言い始めたのだった。


「何が少しだ!」


 村一番の酒屋と言えど、そこで働くのは四人のみ。女将は店を壊すなと檄を飛ばし、その子供達であるオデオンとサラは接客に追われ、店主は酒瓶片手に早々に客側へと寝返った。


 そこで宿屋の親子、モルテンとニルスが招集されたのだ。山積みの獲物の皮を剥ぎ血を抜き、煙で燻し塩樽に漬け、それ以外を酒の摘みにする係。つまるところは貧乏クジである。加えてそのモルテンまでもが寝返って店主の隣に収まっている始末だ。


「だから馬車を壊したのは私じゃない!」

「クソ侯爵が、今度会ったら絞め殺してやる」

「あの大猪を仕留めたのも当然俺だ! 感謝して食えよ貴様ら!」

「おい宿屋の! さっき注文した分まだかよ!」

「まだだよ! できるまで鼠のシッポでも齧ってろ!」


 作業に追われてニルスの口から普段は出ない罵声が飛び出す。だがそれでも彼は裏切り者共を合わせた三人分の働きをし、葡萄酒煮込みやら香草焼きやら一手間加えたものを作り続けている。塩でもふって火の中に放り込めば適当な物が出来上がるだろうに、彼は律儀に皆の要求に応えた。


 何でも引き受けてしまう、そんな自分が腹立たしい。しかし頼む方にも非はあるだろう。なぜ自分に頼むのか。そんな事を考えつつも悲しいまでに手は動いた。


「俺は絶対こんな村出てってやるぞ!!」


 ようやく落ち着いたニルス、オデオンの二人がキアランのテーブルに着いた頃、開口一番オデオンが叫んだ。疲れ切ったニルスからは疲れ切った笑いしか出て来ない。


「それさ、もう五年前からずっと言ってるよね」

「見てろ! もうすぐモルテンの腕も盗み終わる! そして! 出てってやる!」

「猛るな逸るな若者よ。ささ、もっと飲め、それから更に飲むがいい」


 宿屋の息子らしく、ニルスは二人に料理をよそい。

 酒屋の息子らしく、オデオンは喉を鳴らしてコップを呷り。

 詩人の息子らしく、キアランは芝居がかった口調でからかう。


「懲りないよね、本当に」


 出てってやる。オデオンのこれは田舎に住む若者特有の病気だ。誰もが決まって患い、そしていずれは治って堅実に村で一生を過ごす。だが彼は治らなかった。オデオンが別の村に自分の店を構えようとしているのは最早公然の秘密であり、しかも準備は着々と進んでいる。


 もっともニルスに言わせれば、こんな平和で優しい村を捨てるなど罰当たりもいい所なのだが。


「安寧な生活を捨てて夢を追う少年。うん、良いね。良い詩の題材になりそうだ」

「ぶれないねキア。でも食事中に物を書くのはやめてってば」

「しがない詩人見習いとしては小さな話でも金の粒に勝る価値があるのさ。君があの件で協力してくれるなら、こんな苦労は無いんだけど、ねえ?」

「知るか。前に僕と、ちゃんと約束したろ」

「出てってやるーーーー!」


「オデオン、うるさいよ」


 短く、声がかけられた。

 その声に、ニルスの息が一瞬止まる。


 気遣いや遠慮を残さず削り落としたような、淡々とした声だった。自然と、ニルスの顔が上がった。


 そこにいたのは、栗色の、髪の長い少女だった。


 女性にしては背が高い。三人とほぼ同じ身長だ。顔にかかった前髪の向こうから細い目がこちらを向いている。声色と同様に、初めて会う人は少し冷たい印象を受けるだろう。仕事の邪魔だと両袖が捲られていて、そのせいか肌についた擦り傷や切り傷が妙に目についた。


「お疲れ様、サラ」


 ニルスが引いた椅子にサラが座り、テーブルに四つのコップが置かれた。

 筆を走らせながら顔も上げずにキアランが礼を言う。


「ありがとうサラ。もう落ち着いたのかい?」

「休憩。少しだけ。もう父さんも母さんも飲んでるから」


 そう言ってサラは三角巾を取り、顔にかかった栗色の前髪をかき分ける。机に突っ伏したままのオデオンを放ってニルスとキアランはコップを取り、三人でカンと乾杯。そしてぐっと中身を呷った。だが飲んでいる間もキアランはずっと羊皮紙に何か書いている。それを見ながらサラはコップを傾ける。


「さっきから随分仕事熱心ね、キアラン」

「一流の宮廷詩人への道は実に遠く険しいのだよサラ」

「一流って、お前どーすんだよ。このままクソ親父の跡を継いで、クソ侯爵専属のクソ詩人になって良いのか?」

「詩人なんて金にならない商売さ。君の言う通り駄作を量産して泡銭を稼ぐ位が丁度良い。幸いそういう点ではネタに困らない御方だからねえ」

「雇い主でしょ、キア。滅多な事は言わない方がいい」


 そう言いつつニルスにも否定できなかった。薄めて不味くなった林檎の果汁が、更に不味くなったような気がした。


「ネタに困らねぇって、侯爵の失態を誉め倒すだけの仕事だろうが。最近だと何した? 隣の領主を怒らせて、とうとう交易がなくなるって?」

「僕は魔物退治に農民を狩り出して、村一つ潰したって聞いたよ」

「後はそうだねえ。つい先日、たまたま見かけた行商人を娼婦にしようとして平手を食らってたかな。それからそれから……」

「三人とも、それくらいに」


 たしなめるようなサラの言葉に、キアランは大袈裟に肩をすくめた。


「ま、それも今だけさ。後世に残るような伝説や御伽噺を創るって目標もある。いずれは創作の旅に出たいから、当面はその資金調達に徹するつもりだよ」

「そう、考えているのね。オデオンも同じくらい考えているといいのに」

「姉貴面すんな血も繋がってねぇのに。それに俺だってもう行先も決めてんだ。知ってんだろ」

「いや、それは初耳かな。どんな所なの?」


 そう聞いてサラはさり気なくオデオンのコップに酒を盛る。


「谷間にある静かな村だ。ここから近過ぎず遠過ぎずだな。物流は村に河が走ってるから問題ない。近くの山からは質の良いハーブも採れる。街からも適度に離れて荒事も少ない。我ながら良い場所が見つかったと思ってるぜ。そんで村の名前はなぁ……」


 調子に乗って喋りまくっていた口がぐっと詰まった。


「って誰が言うか! 危ねーな!」


 サラが舌打ちをする。抜け目のないこの少女に居場所を知られれば、裏から手を回されて家に連れ戻されかねない。オデオンが口を割らないと見ると、サラはニルスの方に詰め寄った。


「ニルス、貴方は私の味方よね」


 どこの村? と顔を近づける。急な事でニルスはぐっと口の中の物を喉に詰まらせた。至近距離で見る彼女の顔がやけに細かく見える。長い睫毛、赤い唇、褐色の瞳、目にかかる栗色の髪の一筋一筋まで。顔が火照る。


 それを見てオデオンは呆れながら助け舟を出した。


「俺は誰にも話してない。あんまり、そいつからかうな」

「黙って。私は彼に訊いているの。ニルス、どう?」

「う、うん。これは本当に知らないんだ。ごめんねサラ」

「ふーん……」


 まるでニルスの瞳の奥を覗き込もうとするように、サラは怪訝な表情でますます顔を近づける。ニルスはその褐色の瞳から目が離せない。心臓の音がサラまで聞こえやしないかと思った。だがサラはふいと離れて席を立った。


「まあいいわ。それじゃあ三人とも、ゆっくりして」


 素っ気なくそう言うと、再び仕事に戻った。オデオンは頬杖をつきつつコップを呷り、キアランは気にせず構想をまとめ、ニルスは深くため息をついた。年下の男三人、揃いも揃って彼女には頭が上がらない。いつもの事だ。


「……」


 少しして、サラが完全に離れたのを確かめてから、オデオンはぼんやりしているニルスに訊いた。


「で、結局お前はどうすんだよ」

「ん? どうするって、前に話した通りだよ。父さんにももう相談してるし、雪が降る前には……」

「ちげーよこのヘタレ。そっちじゃねぇ」


 急に話をふられて適当に答えている所を一刀両断。

 話が見えなくなってニルスは呆けるが、オデオンは店の奥に目線を送る。


「本当に、このままで良いのかって訊いてんだよ」


 目線の先には淡々と働くサラの姿があった。空いた食器を片付け、注文があれば酒を追加し、居眠りした男達には体が冷えないよう、そっと毛布を掛ける。ニルスがずっとその姿を目で追っているのがバレていたのだ。ニルスは少し難しい顔をする。


「……もう、いいんだ。元から無理な話だし」

「そうやって屁理屈こねる癖に、いつまでも諦めついてねーだろが」

「だから、いいんだよ。僕はこのままの距離も気に入ってるんだ」

「そのままの距離、ねえ」


 キアランは顔を上げてくるくると羽ペンを弄ぶ。


「確かに、ニルは一番サラに近い場所にいるだろうさ。この村の男共は一通りサラに言い寄って、いや女からも告白されてたかな? あと彼女に声をかけてないのはニルくらいだ」

「全員フるなんざ良い度胸だよな。心臓に毛でも生えてんのかよ、あの女」

「そんな事ないよ。少しでも相手を傷つけないようにって、サラは毎回悩んでた。なんか分かるらしいよ。来るのが」

「お前が言うならそうなんだろうよ。けっ。なんで告白した男より、フった後の相談受けただけのお前が仲良くなってんだよ」


 オデオンの野次にニルスは複雑な顔をする。サラは店の奥で働き、三人の声も届かない。それでも少し声を落とした。


「僕だってそんなつもりじゃなかったよ。僕は年下だし、弟の友達だし、警戒してなかったんじゃない?」

「それに全く羨ましくないしねえ。特別を求めないという意味での特別な関係。まさに人畜無害な飼い犬の位置だ。義理の姉に求婚した身としてはオデオン、代わって欲しいかい?」

「ガキの頃の話を持ち出すな、嫌に決まってんだろ。お前はどうなんだよニル」

「酷い言いようだよね。放っておいてよ、まったくもう」


 ニルスははぐらかすように空のコップに水を注いだ。


 自分の気持ちは知っている。彼女が、好きだ。だがそれを伝える事はない。最初から考えられない事なのだ。自分のような人間が、誰かと特別な関係になるなど。


「……」


 いやそれより、一体いつから。

 自分の事を、人間だ、などと……。


「おい、いい加減にしとけよお前」


 女々しい心を読まれたかのような言葉に、はっとニルスは我に返る。


 だが自分が言われた訳ではなかった。別のテーブルで、接客中だったサラを酔っぱらった鍛冶屋のオヤジが抱き寄せていたのだ。


「いいからたまにはお前も飲めよ! 俺が奢ってやるからよぉ!」

「よせよオリク。お前、この村の野郎ども全員を敵に回すぜ」


 周囲はやんわりと注意するが、鍛冶屋には聞こえていない。泥酔しているせいか、加減もなく筋肉質な腕で腰の辺りを無理矢理抱いている。だがサラは抵抗もせず薄く笑顔を浮かべていた。絡まれるのもいつもの事だ。悪気はないが、誰もサラを助けない。


 そんな中、ニルスだけが憤然と立ち上がった。


 オデオンとキアランは溜息混じりにそれを見送り、ニルスは肩を怒らせて二人に近づく。一方でサラは、何か思いついたかのようにポンと手を打った。


「そうか、オリク」


 薄く笑ったまま、テーブルにあった一際大きなコップを取る。


「貴方、まだ酒が足りてないのね」


 そのまま笑顔でコップを振り上げて、鍛冶屋の頭をブン殴った。木製のコップが微塵に砕けてオヤジはその場に倒れた。周囲からは歓声が上がり、サラが取っ手の破片をポイと捨てる。


「片づけて」


 待っていたように男達が群がり、満面の笑みのまま気絶した鍛冶屋を引きずっていった。


 この村の男達は仲良く過去にフラれた者同士だ。こうなると分かっていたからこそ誰も手を出さなかったのだ。店は何事も無かったように騒がしさを取り戻し、サラも改めて袖をまくって仕事に戻ろうと振り返った。


「…………」


 そこに、立ち尽くしたニルスの姿があった。全身からポタポタと葡萄酒を滴らせている。彼女を助けようと近付いた所に、サラがオヤジを殴るのに使ったコップの中身、そのほぼ全てを頭から浴びたのだ。白かった麻の服が葡萄酒に染まって紫色だ。サラは悪びれもせずに言う。


「あら失礼」

「…………いいよ、別に」


 ニルスは何とも言えない顔で口元の酒を舐めた。

 そして情けなさで肩を落としながら、体を拭きに店の外へ出た。


 もう夜も深い。


 熱気の籠る店内と違い、外はかなり肌寒い。元気が良いのもこの店だけで、点在する家々は明日に備えて眠っていた。見上げればすこし雨雲の残る夜空が広がり、遠くに目を遣れば未だ火の灯る領主の街が見え、反対側には大きな古森の奥に深い闇が見える。


 ニルスは上着を脱いだ。きつく絞って酒を落とし、瓶に貯められた水に浸してそのまま体を拭く。かなり冷たい。それでも熱くなった頭を冷やすには丁度いい。一通り拭き取った後、替えの上着を取りに一度自分の家に戻ろうとした時だ。ふと、後ろでコンコンと音がした。


「?」


 振り返ると、丁度扉が閉まる所だった。誰だったんだろうと思って近付くと、ある物に気付いた。勝手口の下に洗い立ての服が綺麗に畳まれて置いてあったのだ。


 少し顔をほころばせて、ニルスはそれを手に取った。さっきまで室内にあった服はほんのり温かい。ありがたくそのまま袖を通すと誂えたようにぴったりだった。彼女には敵わない。


「……」


 考え過ぎるのは、ニルスの悪い癖だ。考え過ぎた結果としてよく先走る。だがそんな自分のちっぽけな悩みが、サラには筒抜けになっている気がしてならない。


 さっき、間近で見た彼女の顔、彼女の瞳を思い出す。あの真っすぐな瞳には見覚えがある。彼女の相談に乗って二人で話していた時によく見た瞳だ。


 彼女はいつも何も言わない。

 しかし本当は、全部分かっていて言わないだけなのだろうか。

 自分の気持ちも、悩みも、迷いも。


 そして。


 嘘も。



***



「そいつは考え過ぎだ」

「それは考え過ぎだよ」

「……やっぱりそうなのかな」


 酒屋での馬鹿騒ぎから一夜明けて。

 三人は仲良く村はずれの定期市を物色していた。


 雑多に生えた低木を利用して幾つもの簡易テントが張られ、地面に敷かれた風呂敷の上には各地方特有の様々な商品が並べられている。ある店には数十種類の香辛料。ある店には珍しい文様の食器類。ある店にはドラゴンの骨粉やら一角獣に角やら胡散臭い代物が勢揃いしていた。


 いつも通り露店を順番に物色しながら三人は雑談を交わしていた。


「大体秘密なんざバレる訳ねーだろ、秘密なんだから。それともバラしてーのかよ」

「いや、絶対に知られたくない。二人の事、信じてはいるけどさ」

「友情。それも良い題材だけれど、詩人の卵たる僕に秘密を漏らすニルスの何と軽率な。そしてそれを絶対に詩にしないと約束させるニルスの何と罪深い。でも僕はうっかり者だからね、ついうっかり詩にして世に広めてしまいそうだよ。ついついうっかり」

「約束は約束だよキア。うっかりはやめて」


 二人に漏らした昔の自分を殴ってやりたい。そんな事を考えながら、ニルスは露店を見て回る。傍から聞けば意味の分からない話だが、三人には何か通じる所があるようだった。


「それなら僕だってうっかり秘密を洩らしちゃうよ。キアランは実は領主の妹と仲が良いとか。オデオンの初恋の人はアイネだったとか」

「ななななななんの事を言っているか分からないな」

「てめえこの野郎! なんでそんな事知ってんだ!」


 二人は揃ってニルスをぶん殴った。

 抜けている癖に、油断も隙も無い。


「でもまあ、秘密なんて早々に打ち明けた方が楽になると思うけどねえ。ぬるま湯に浸かっているようで気持ちがいいかも知れないけれど、寒くても外の出ないとすぐに風邪ひくよ。そして死ぬ」

「死なないってば。僕だって色々と考えてるんだ」

「色々考えた結果、なーんにも言わないままときたもんだ」


 無視してニルスは踵を返す。考えても仕方のない事だ。ニルスは、何をどうするつもりもない。


「それよりオデオン、良い物は見つかった訳?」 

「ああ、まあ、ぼちぼちな。でも今月は少し品薄だな。南の領の作物は雨に弱いから、この間の台風で大分やられちまったのかも知れない」


 はぐらかすようにニルスは話題を変えるが、思いのほか真面目な返事が返ってくる。


 さっきまでもダラダラと雑談を交わしながらも、各地からの品揃いに鋭く視線を送っている。ニルスはオデオンの夢に反対だが、同時に応援もしていた。彼は五年前から独立の夢を語り続け、そして五年間、その夢に向かって努力し続けているのだ。


「そういう面をもっと女将さんに見せていれば、ドラ息子だなんて呼ばれずに済むのに」


 そんな事を言いつつ、ニルスは陶器の壺を手に取った。件の女将は、今頃サラと共に昨晩の後始末に追われているだろう。それを放って働きもせずフラフラしているオデオンは、傍から見れば穀潰し以外の何者でもない。


「秘密にして着々と準備を整えておく俺が格好良いんだろうが。お前も少しは見習えってんだ」

「心意気はそうだね、見習うよ。でも経験だけなら、僕、先輩」


 食材を中心に物色するオデオンに対し、ニルスは全ての店を片っ端から回る。本人の言う通り旅の経験が長い分、ニルスが興味を示す物も多岐に渡るのだ。一方キアランはと言えば、いつの間にか二人から分かれてフラフラと歩き回り、行商人達から旅の話をせしめていた。


「……」


 ふと、ニルスが一つの店で足を止めた。


 そこは怪しげな金属器を売っていた。赤茶色のマントにすっぽりくるまった行商人がテントの暗がりに座り込み、その前に敷かれた黒い布の上には、金銀様々な装飾品が並んでいる。彼が見ていたのは、その端に陳列されていた品だ。どこが目に留まったのか、じっと、それを見つめている。



 それは、首飾りだった。

 装飾は美しい、天使の羽。



 だがその顔がうっと歪んだ。何見てやがると寄ってきたキアランとオデオンも、同時に顔を歪める。首飾りの下に置かれた値札に恐ろしい金額が記載されていたのだ。それはざっと、ニルスの手持ちの全財産と同額だった。


「贈り物かい、少年」


 そんなニルスの反応を面白がってか、行商人が話しかけてくる。


「いや、そんなんじゃ、ないんですけど」


 天使の羽から目を逸らせないままニルスは答えるが、見栄張るなと後ろの二人はその背中を叩いた。行商人もそうかそうかと、面白げに頷いている。不本意な扱いをされているようで、ニルスは恨めし気に視線を上げて相手の顔を見た。


 その行商人は、深紅の髪をした女だった。


 フードから覗いた長い髪、妖艶に光る瞳、どれも少し珍しい赤っぽい色合いだ。指にも耳にも自前の金属器を幾つも付けている。整った顔立ちから、行商人はとても魅力的に人物に見えた。しかし、何かが危険を知らせて来る。この女の笑顔は、まるで、吸い込んだまま離さないような妖しさがあるように見えたのだ。


 そんな行商人の顔を改めて見て、キアランが声を漏らした。


「あ? どうしたキア」

「あー、いや、彼女だ。侯爵が怒らせたのは」


 そう言ってキアランが気まずそうにポリポリと鼻を掻く。そう、丁度昨晩聞いたばかりの話。悪い噂の絶えないウルム侯爵が、偶然出会った行商人を娼婦にしようとして激怒させたという話だ。思い出した所で改めて目の前の彼女を見れば、確かにその話も納得の美貌だ。


「悪かったね行商人。あの領主、見境の無いクズでね」

「いやいやあの時は驚いたよ。まさかこの歳になって、初めて出会った男性にああも積極的に迫られるとは思いもよらなかったからね」

「もうこの領にはいないかと思っていた。不快だったろう」

「折角の市があるというのに自分の本業まで忘れちゃいないさ。あのまま引き下がるのも逃げているみたいで悔しいじゃないか」


 そう言ってカラカラと笑う。容姿も声もサラと同じ年若い女性そのものだが、どうにもその喋り方、その雰囲気は、年月を重ねた老婆のものを思わせた。


「だがあの領主様も知るべきだね。天下の往来で女に恥をかかせるという事が、どういう事か」


 そのまま横に目を流して、不気味に言葉を続ける。




「そしてこの世には、決して手を出すべきではない存在がいたという事をね」




 フードの向こうに見える赤い瞳に、一瞬、仄暗い闇が灯る。

 だがふっと薄れ、意地悪な調子で行商人はニルスを見た。


「少年も想い人がいるなら覚えておく事だ。女の怒りはしつこいぞ?」

「だから、僕はそんなんじゃないんですって」

「ふふふ、男女の関係はそれぞれさ。恋愛もあり信頼もあり。言葉にせずとも人に言わずとも、そこには素晴らしい絆があると私は思うね。それを形にして伝えるのは、決しておかしな事じゃあない」


 悟りきったような言葉に、ニルスは少し考える。


「贈り物には魔法があるんだよ少年。どんな物でもだ。目について離れないなら、それはきっと運命さ。気になるなら手に取ってみてご覧よ」


 促されるままにニルスは首飾りを手に取った。

 確かに、綺麗だとそう思える。そのままじっと見て……。

 だが、我に返ったように、ニルスは首飾りを行商人に戻した。


「いや、やっぱりいいです。僕には分不相応だ」

「でたよ。だからヘタレだってんだお前はよ。姉ちゃんもなんか言ってやれ」

「男がヘタレなのは良くないね。少年はどうも常に一歩退いているようだが」


 さて何故かな、そう言って行商人は口元を押さえてニルスを観察する。


「少年は、そうだね……。この地に根を下ろして日が浅いね」


 ニルスの全身を舐めるように見ながら、行商人は言葉を続ける。

 その格好も相まって、行商人というより占い師のようだ。


「そして想い人はとても近しい所にいる。この村で生まれ育った人間だね。昔から知り合いではあったけれど、意識し始めたのは少し遅い。想い人が少年の中で特別になった夜の出来事も、この私には目に浮かぶようだよ」


 占い師は意地悪な顔でニルスをからかう。


「……聞いてました?」

「ああ、聞いていたとも」

「なら揶揄わないでくださいよ、恥ずかしい」

「うふふ、こんな所で秘密とやらをべらべら話すもんじゃない」


 どこで誰が聞いているか分からんよ? と行商人は自分の耳をトントンと叩く。占い師というよりペテン師だ。人目も憚らず三人で話していた内容を、おそらく最初からずっと聞いていたのだろう。


「商売人は情報が命さ。どんな話も聞き洩らさないよ」

「いや、嘘ですからさっきの話。忘れてください。僕は……」

「『あなたと、永遠に一緒にいたい』」


 突然、行商人はそう言った。

 そして首飾りを指さす。


「少年が持っている物に、込められた意味さ」


 自分の気持ちを代弁されたかのような行商人の口調に、ニルスは一瞬言葉を失う。


「贈り物には意味がある。はめ込まれた宝石、あしらえた装飾、そして身に付ける場所によってね」

「それがさっき言っていた魔法、ですか」

「どんな物にもね。贈り物はある意味、贈り主の身代わりでもあるのさ。それが相手の心の臓の真上に来る。だから首飾りの持つ意味は、永遠の絆、決して消えない想い」


 少し強めの意味合いだけどね、と行商人は笑う。


「『いつまでも、健やかに』」


 近くの髪飾りに触れて、行商人は言葉を続ける。


「『見通す心、真実を知りたい』」

「『ゆるぎない力、譲らないという決意』」

「『気晴らし、慰め、叶わぬ願い』」

「『過去との決別、未来への希望』」

「『あなたが、幸せでありますように』」


 並べられた装飾品を指さしながら、その一つ一つの意味を説明する。ニルスはそんな様子を感慨深く見ていた。まるで、世界中の誰かの想いが、形を変えてこの場に並んでいるような気がした。


「随分、沢山意味があるんですね」

「それだけ人の想いは様々だと言う事だよ。人間ってのは本当に不器用な生き物さ。まあだからこそ、私みたいなのが飯にありつけているんだけれどね」


 ニルスは自分の手の上にある首飾りをじっと見つめる。


「どうして、そんな事をするんでしょう」

「さてね。理由を一言で言い表せるほど単純じゃないよ。中には少年のように、自分の想いを直接伝えなくて、代わりに贈り物に語らせようとする者もいる」

「それは勇気がないから、ですか?」

「想いが言葉で収まり切らないからかも知れない。言葉なんて一瞬の出来事だよ。でもその一瞬に形を与えて、いつまでも贈った相手の傍における。そして形にしておく事で、その想いはより強くもなる」

「想いを、形に……」

「本当の想いを、ね」


 ニルスは自分の手の上にある首飾りをじっと見つめる。

 それは、行商人の言うように、自分の気持ちを再確認しているようだった。

 行商人はそんなニルスを穏やかな目で見る。

 その隣でオデオンもキアランも、ニルスを見ていた。


「いや、でも高過ぎんだろそれ」


 何とも言えない空気がむず痒くて、オデオンは空気を読まない事を言った。


「坊や、私の話を聞いていたかい? 高い安いの問題じゃないんだよ」

「そういう問題だろ! 金がないと気持ちが伝えられないとかアリかよ!」

「私が値札に書いているのは、それだけの価値があるという表現方法の一つさ」

「価値を決めるのは贈り主だ! その前にお前が勝手に決めたら、逆に価値が下がんだろうが!」

「おや、坊やの癖に穿った事を言うじゃないか。そういう考え方もあるかもね」

「構う事はねぇニル! 今更そんな高ぇもん、」

「買います」


 三人は揃ってニルスを見た。

 ニルスは構わず、もう一度言う。

 

「これ、買います」



***



 泉の魔物。


 彼らは遠い昔から森の泉に住む者達だ。


 その恐ろしい姿故に、彼らは皆に嫌われ、恐れられ、いつも一人だった。だが彼らは、泉の水面が人の姿を映すように、一度見たものをそっくりそのまま写し取る事が出来た。その姿なら誰にも嫌われない、恐れられない、一人でいなくても良いのだ。


 泉の魔物は森を出た。常に誰かの姿を写し取り、人としての生き方を手に入れた。孤独に苛まれない満ち足りた日々だ。様々な物の形を取り、様々な人の顔を取り、泉を離れた彼らは長い年月をかけて世界を彷徨う、しかし誰の目にも留まらない幻となった。


 そう、幻である。そんな怪物が今更誰かを好きになるなど、笑い話にもならない冗談だ。そもそも「ニルス」などという人間は最初からこの世に存在しない。もう誰も泉の魔物の事など覚えていない。


 どんな物語にも。

 どんな伝説にも。

 どんな御伽噺にも。

 彼らの姿は残っていない。


 それでも良いと思っていた。この終わりのない孤独が癒せるのなら本当の姿など不要なのだ。見つけ出した温もりが、ようやく得られた友情がたとえ偽物だとしても些細な問題だ。つまり魔物は本質的に寂しがり屋で、嘘つきだった。


 嘘は長くは続かない。ニルスやモルテンの経験上、一つの居場所に十年もいれば彼等の正体はバレ始める。そうなる前に次の居場所へと旅立たなければならない。


 ニルスがオデオンの夢に反対する理由もそこにある。本物の故郷がある幸せが分かっていない、そうニルスは何度も説得した。必死で説得した。余りの必死さに、自分の正体まで明かしてしまったほどだ。だがオデオンの夢は変わらなかった。


「ところで僕の夢、ニルにはまだ話していなかったっけねえ」


 代わりに意地悪な目を輝かせたのがキアランだった。詩人の卵である彼の前で秘密を漏らすニルスは、彼の言う通り全く軽率だった。


 森に迷ったサラの為にあばら家に化けた話、隣村まで往復する彼女の為に馬に化けた話。キアランはそんなニルスの話の一言一句まで正確に記憶し、そしてそれを詩にして語り歩くと言い出したのだ。どんな御伽噺にも残っていないなら、この僕が残してやろうと。


 その始まりは、そう。


「顔を持たない一人の男が、人の少女に恋をした」


 夢を膨らませる彼を、せめて僕が死んでからにしてとニルスは必死に止めに入った。泉の魔物と人間の寿命を考えれば理不尽極まりない約束だが、キアランも一応了承した。ニルに限って言えば、いつかうっかりドジ踏んで死にかねないし、別に理不尽という訳でもないか。そうキアランは笑った。それは軽い、ほんの軽い、冗談だった。


 だが約束は約束。

 いつかは泉の魔物の御伽噺は世に広まるのかも知れない。

 それがいつの話になるかは、ニルスにもまだ分からない事だったが。


 いや、そんな日が、本当にいつか来るのだろうか。



***



 もう、夜も遅い。


 ニルスが吐き出した白い息がふわりと空気に溶ける。雪が降る前に最後の暖かさが楽しめるこの季節、それでも夜ともなればもう冬の足音が聞こえてくる、しかしこの夜にはまだ一人、ニルスに呼び出されて外に出ている者がいた。

 

「待った?」


 丘を上がってきたのは、少し寒そうにしていたサラだった。店の仕込みが終わった後にそのまま来てくれたらしい。捲った袖を元に戻し、髪紐を解いてバサッと髪を後ろに流した。ニルスが毛布を差し出すと、それを受け取って隣に座った。


「ありがとう」


 少し身震いをして毛布にくるまる。


「お疲れ様。最近はずっと忙しそうだね」

「そうね。収穫もひと段落したから、みんな暇なんでしょう。貴方やモルテンが手伝ってくれるから、まだ少しは回っているけれど」

「うちが忙しい時はサラだって手伝いに来てくれるだろう。お互い様さ」

「かもね。でもそれなのに、うちの跡取り息子は遊んでばかりよね」


 そう言って、サラは鋭い視線をニルスに送る。


「どうせ今日も三人で定期市に行ったんでしょう」

「うん、まあね。女将さんには……」

「言っていない。仕方ないんだから」


 呆れた様子で溜息をつく。オデオンの計画は母親も黙認している。だがそこには、今の店できっちり働いた上でならという暗黙の条件付きだ。


「そう言わないであげてよ。オデオン、真面目だったよ」

「貴方が言う? 彼の夢を後押ししたのは貴方でしょう」

「違うよ! 僕はむしろ、外がいかに危険かって話してきたのに!」

「逆効果」


 否めない。オデオンは考えを改めるどころか、更なる話をニルスにせがんだくらいだ。


「まあでも、仕方ないかな。貴方の話は面白いし。放っておくといつまでも聞いている私もいる」

「悪かったよ。いつまでも話していて」

「いいのよ。ただオデオンは私と違ったというだけ。なぜか暗い話が多いんだけど、触発されるのも分かる。あの話、嫌いな商会を潰そうとして鉱石を買い占めた話、今度続きを聞かせて」

「まだ途中だったっけ。それにしてもサラは、本当にオデオンのお姉さんみたいだね」

「それは仕方ない。あの家に拾われて間もない頃は、彼の妹になろうと思った事もあったけど、すぐに諦めた。無理、あれは」


 ニルスはくすっと笑う。そんな話は初めて聞いた。年がさほど離れている訳でもないから兄妹でも姉弟でも良いのだろうが、妹にするにはサラはしっかりし過ぎている。


「でも最近は男の子同士で悪だくみしている事の方が多いわよね」

「サラに本気で反対されたら断り切れないって、オデオンも自分で分かっているんだよ」

「これでも心配しているつもりなんだけど。……ニルスとしてはどうなの?」

「どうって?」

「彼の夢よ。親友で、先輩として、上手くいくと思う?」


 そう訊いてくるサラの顔は真剣だった。やはり家族が離れるのは、ましてあの弟が独り立ちするのは心配なのだろう。でもニルスはサラほど心配してはいなかった。


「オデオンは頑張ってるよ」

「それは知ってる」

「だからきっと大丈夫さ」

「そうも思う。でも他の土地に行くとなると勝手は違う。彼は根が甘えん坊だから」

「彼は自分が至らないってちゃんと分かってる。だから父さんに弟子入りしたり市場を調べたり、それを補おうとしているんだ。五年間見てきた。確実にそれは彼の身になっている。だから大丈夫さ」


 そう、五年間だ。田舎者が外の世界に憧れるだけなら、とうに吹き消えている夢だ。ニルスはオデオンの事を優秀だとは思っていない。だが夢の為に努力し続ける姿勢は素直に尊敬している。きっとそれは彼の才能だ。


「まあ、貴方がそう言うのなら」


 誰にも隙の見せないサラでもニルスの言葉は素直に聞く。義理の弟をフッた時にその親友であるニルスが相談に乗り、それから積み重ねた二人だけの関係だった。


「それで、貴方はどうするの?」

「どうって? 僕はこのままオデオンを応援するつもりだけど」

「貴方も、村を出て行くんでしょう?」



 心臓が跳ねる。

 ニルスはばっとサラを見る。

 どこからそんな話を聞いた。

 誰がそんな話を漏らした。


 すると、サラはあの目をしていた。

 ニルスの瞳の奥、何もかもを見通すような、あの目だ。

 そして失敗に気付く。


「……はめた?」

「ええ。相変わらず正直ね」


 知っていた訳ではない。察していただけだ。そして不意の質問に対するニルスの反応を伺い、ニルスは思った通りの反応を返してくれた。


「はぁ……」


 薄く微笑むサラを前に、ニルスは深く溜息をつく。


「何で分かっちゃうのかなぁ……」


 村を離れるオデオンに考え直せとあれだけ説教をしていたのは、他でもないニルスだ。しかしそのニルス本人が、説教をしていたオデオンと同じように村を捨て、昔と同じ放浪生活に戻ろうとしていた。


 ずっと隠してきた事だ。

 父以外にはオデオンとキアランにしか話していない。

 それなのに、どうしてこう、彼女には先手先手を取られるのだろう。


「分かるわよ。私と、貴方の仲でしょう」

「それ、誰かに……」

「言っていない。オデオンの件と同じ。でも不思議。こんな良い村は無いって貴方はいつも言っていた。出来る事ならずっとここに居たいって。なのにどうして?」


 そういってサラはニルスを覗き込む。

 彼女は、これを機に何もかもを白状させる気なのか。


「夢が、うつったのかな」


 ニルスは、少し恥ずかしそうに笑う。


「オデオンにさ。旅の話をしていたのは、どれだけ大変かを伝える為だった。彼に夢を諦めさせたくてね。でも話していると思い出すんだ、振り返っていたんだよ。僕は自分の事を」

「振り返ってみたら、悪くはなかった?」

「いいや、最低だった」


 そう言って、ニルスはまた笑う。


「どれだけ振り返っても辛い事しか出てこないんだ。恥ずかしかったよ。オデオンがあんなにキラキラした目で見ていた物なのに、一度僕の目を通せば、こんなにも濁って見えてしまう」

「それはあの子が見ているのが夢物語で、貴方がその現実を知っているからでしょう?」

「紙一重なんだよ、その違いって。物の見方のちょっとした違いなんだ」

「そんなに、なんだ。でも私が今まで聞いていた貴方の話はそんなに苦しい話ばかりじゃなかった。本当は違った?」

「楽しい、フリをしていただけさ。嘘臭いんだよ。なにもかも」


 ニルスは言葉を濁す。


 泉の魔物は他人の姿を借りて生きている。それは逃げる旅だ。人の目から、世界との関わりから、そして本当の自分から逃げる旅だ。それは森の泉を離れた時から、望んで選んだ自らの宿命だった。だがニルスは、その宿命を曲げようとしている。


「それは本当に、あてられたとしか言いようがないわね」

「そうだね。でも楽しみなんだよ。これは逃げる訳じゃなくて、自分から選ぶ旅だ。何が起こるか分からなくて怖いけど、同じくらい胸が高鳴ってる」

「それは、この村にいると叶えられないものなの?」

「……うん。同じなんだ、きっと」

「この村でも、楽しいフリをしていた?」

「自覚がなくてもね。僕は一度も、本当の自分と向き合ってこなかった。小さな嘘で自分の周りを誤魔化して、幸せな役柄を演じていた。それで正しいんだって自分に言い聞かせてきたんだ」


 目を細めながら、ニルスは言葉を続ける。


「でも、僕はもう違う」


 立ち上がった


「僕はもう誰も、何も誤魔化したくない。僕は本当が欲しい。例えその結果、嘘の幸せさえ壊れてしまって、僕の手には何一つ残らなくなっても。僕自身が本気で向かい合わないと、本当の幸せなんて手に入らない。だからだよ」


 そう言って、ニルスは座ったまま彼を見ているサラに手を差し出した。いつからか自分の夢を熱のこもった言葉で語っていたニルスに、彼女は黙って耳を傾けていた。そのまま、ニルスの手を取って立ち上がる。彼女が立ち上がっても、ニルスはその手を離さなかった。


「僕は、この村を出て行くよ」


 ニルスは真っ直ぐサラを見る。

 サラは彼の瞳の奥からその真意を探る。

 しかしニルスはもう彼女の視線から逃げない。


「行先は決めていない。でも、出来る事なら全てを見ていきたいと思っている。全てだよ。これまでも沢山の物を見てきたつもりだ。でも、世界はそんなものじゃない。もっともっと広い、もっともっと大きいんだ」


 例えば、大国フェルディアの王都ティグール。地平線の向こうまで美しい街が続いているという。北の果ての山脈リューン、その名の通り世界の果てだとも言われているが、そんな物はこの目で見てみなければ分からない。泉の魔物の小さな殻の向こう、世界は無限に広がっている。


「サラも、一緒に来てくれないか?」


 ニルスは懐から取り出した物をサラに渡す。

 それは、あの天使の首飾りだった。


「僕はたくさんの物を見てきたい。沢山の人と知り合いたい。自信はないよ。楽しい事もあれば、辛い事もあるだろう。でも、どんな時も僕は、僕の隣にサラがいて欲しいんだ。他の誰でもなく、君に」


 重ねられる言葉に、サラは少し、目を見開く。


「僕は、君が好きだ」


 言葉にしてから、ニルスの心臓は一瞬遅れて跳ねあがる。

 それでも、もう言葉は止まらない。


「僕と、結婚してくれないか?」


 美しい星空の下。

 二人きりの丘の上。

 ニルスはサラの手を取って、そう言った。


 サラの目は、見開かれたままだ。その口も僅かに開いているが、何か言葉が出かかっているのか、それとも何か別の意味があるのか。


 その口が、すっと閉じる

 そしてもう一度開いた。


「……ニルスは」


 どんな言葉が来るのか分からない。

 どんな反応を返されるか分からない。

 ニルスの中の臆病風はとうの昔に裸足で逃げだした。

 ただ煩いくらい脈打つ鼓動を感じながら、サラの言葉を待つ。


「ニルスは、そういう事を言わないと思っていた」


 そう言って、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。

 もう、ぬるま湯の関係には戻れない。


「……がっかり、させたかな。僕も結局、村のみんなと同じで、サラを困らせてる」

「そうね。貴方までそんな事を言うなら、私はこの事を誰に相談すればいいの?」

「僕にまで気を遣う必要はないよ。僕は本気だ」


 サラはすっとニルスから手を離す。そして渡された首飾りを見つめ、そっとそれを指でなぞる。そんな彼女の仕草一つ一つが、今のニルスには殊更気になって仕方ない。サラの指が、首飾りから離れる。


 そして、顔を上げて、言った。


「ごめんなさい」


 その答えに、ニルスの息が詰まる。


「気持ちは嬉しい。でも、私は貴方と一緒には行けない」


 一歩、サラが離れる。


 そのまま少し歩く。

 星空は、変わらず綺麗なままだ。

 そしてサラは振り向いて言う。


「……実は、私はもうすぐ結婚する。相手が決まってるの」


 愕然とする。


 その言葉は巨大な杭のようにニルスの心臓を一瞬で打ち抜き、深々と刺さったまま全く抜けそうにない。そのせいでもう心臓が動かない、息が出来ない、言葉が出てこない、頭が蒸発して眩暈がしそうだ。


「……誰、と?」


 それでも、息の出来ないまま力づくで言葉を絞り出す。

 そんなニルスを見ながら、サラは淡々と答えた。


「ウルム侯爵」


 抜けなかったはずの杭が音を立てて吹き飛んだ。心臓の動き出し、肺に息が流れ込み、言葉が溢れてくる。たった今聞いた言葉が頭に叩き込まれて湯気が出そうだった。


「ウル、ム? 侯爵? あの領主様と、サラが?」

「ええ。近々みんなにも話すつもりだった」

「待って、待って本気? 本気であの侯爵と結婚するつもりなの?」


 サラは神妙に頷く。


 これは、全く考えていなかった。


 ニルスは多くの男達がサラにフラれる所を見てきた。自分の方が相応しいなどとは思ってもいない。たとえ彼女に断られたとしても構わないのだ、いやそれは嘘だ、構わなくはない全然構う。だが問題はそこではない。


「僕のせい? 僕が困らせるような事を言ったからそんな嘘をついているの?」

「違う。正式に侯爵から要請があって、私はそれを受諾した」


 受諾。場違いな言葉をサラが使うが、それは二人の関係を如実に表しているようだった。しかし正式な要請とは言え、正式とはなんだ。それは、初対面の行商人を娼婦にしようと捕まえた事と、何か違うのか。


「サラは、その。あの侯爵が好きなの?」


 混乱した挙句、咄嗟に出てきたのがこれだった。口にしてから後悔する。本当に好きだったら、どうするつもりだ。


「ニルス、私を馬鹿にしている?」


 サラは咎めるようにそう言った。流石に失言だった。だが代わりの言葉が出てこない。混乱してばかりのニルスを見て、サラは呆れたように溜息をつき、語り始めた。


「侯爵からの要請は、何も最近出てきた話じゃない」


 そうだ。それはニルスも知っている。侯爵が以前からずっとサラに目を付けていた。本人が出張ってきた際はサラが巧みな話術で追い払い、使い走りの役人でも来ようものなら村中の男共が総出で歓迎してやったものだ。


「領民だろうが旅人だろうが、目についた女は片端から手籠めにしようとしている男だから。でも領主も大人になって、正式な後継ぎが必要になってきた」


 だから正式に要請を出してきた、と。


「今回は手足を縛って連れ去るのとは訳が違う。外聞があるのよ。私が断っても、領主は意地になって追いかけてくるか、この村の別の女を見繕うでしょう。村の風当たりも強くなる。こんな場所だもの。権力者に囲い込まれれば、私達はきっと真綿で首を絞められるように、少しずつ息が詰まっていく。それに好機でもある」


 淡々と、自分の計画をサラは語る。


「たとえ慰み物だろうと、これで私は「正式な」領主の妻になる。発言権が出てくるのよ。いずれ子供が出来たなら、その教育にも携われるかも知れない。血の繋がりが出来るという事はそれだけ意味がある事。この村も、もう少し過ごしやすい場所になる」


 そのために、自分を戦略上の手駒として送り出す。一応筋が通っている話にも聞こえるが、それ以上にニルスは、慰み物だの、子供が出来るだの、血の繋がりだの、聞いているだけで胸が掻き毟られるような言葉の連続に頭がついていかなかった。


「そんな理由で、あの男と結婚するのか……」


 声が、自然と震える。

 そして思いが口から吹き出てくる。

 止まる事なく、次々と。


「ダメだ! 僕と一緒に行こう! どこか遠い所まで!」

「その後、この村は? 他の全てを見殺しにして貴方を取れって?」

「この村の事なら僕がなんとかする! なんとでもしてやる!」

「私がしたいの。親を亡くした私を育んでくれた人達に、私が恩を返したい」

「違う方法で返せばいい! こんな形で、サラが全てを失ってしまうなんて!」

「領主を暗殺でもするつもり? あの男の手綱が握れるとしたら、それは忠臣でも側近でもない。肉親だけよ。それに生活的にも悪い話じゃないでしょう。侯爵夫人様よ、私」


 自虐的に笑うものの、案外本気かもしれない。サラは時折、こうした冗談とも本音とも分からない毒を平気で吐く。


 一つ、一つ。懇切丁寧に反論が突き返されてニルスは焦ってくる。他にどんな言葉でなら彼女を引き留められる。もっと言うべき事があったのではないか。今にも話が切り上げられてしまいそうで焦燥感が募っていく。


 だが、違う。

 まだ本当に大事な事を言っていない。


「サラ、僕は、まだ君に言っていない事があるんだ」


 ずっと先延ばしにしてきた。ずっと言えなかった。

 だが、今だ。今言わなければ、きっと一生後悔する。


「さっきの嘘の話だ。ずっと言いたかった。一番最初に言うべきだったんだ」


 自分が、人間ではない、と。


 そうだ。それで何もかも解決する。自分の力を駆使すれば、サラの言う通り領主を暗殺するなど造作もない。恐ろしい魔物になって脅してもいい。近しい誰かになって説教してもいい。自分がここで、真実を告げさえすれば。


「僕は本当は……」

「だめ」


 その言葉を、サラが遮った。


「貴方が、ずっと何かを隠しているのは知っていた」


 言葉が途中で固まったまま、ニルスは動けない。


「そのせいで苦しんでいるのも。いつも自責の念に駆られていた事も。でもそれを打ち明けるのは、私じゃだめなのよ。だって……」


 サラは少し、寂しそうな顔をした。


「だって私は、貴方と一緒にはいられない。貴方の気持ちに応えられない。だから、そんな大事な物は、受け取れない」


 そう言って、手に取っていた物をニルスに差し出す。さっきサラに渡したばかりの天使の首飾りを。その意味がニルスに分からない筈もない。ぐっと全ての言葉を飲み込み、ニルスはそれを更に突き返した。


「じゃあ、持っているだけでいい」


 両手で優しく包み込むように、更に首飾りを握らせる。

 今度はサラが困惑した。


「それは、ますます出来ない。高かったんでしょう、無理しちゃって」

「余計なお世話。今の言葉がもしサラの本音なら、サラがあの領主を丸め込めさえすれば良い話だ。それで君の気が済むなら、それが君の生き方なら、僕にそれを止める権利はない。でもそんなものサラなら一年もあれば余裕だろう?」

「言ってくれるね。その後、貴方は何をどうするつもりなの?」

「君を攫う」


 ぽかんとした顔で、サラが固まった。


「この世界のどこにいようと、必ず見つけ出して君を攫う」

「……そんな勝手。第一貴方は、私から故郷も、家族も、未来も奪って、代わりに何をくれるの?」

「僕の持つ全てだ。そしてこれから僕が見つけた一番綺麗な世界、一番美しい物、全部君の為に用意する。サラが、幸せでいてくれるなら、なんだって」


 そんな子供じみた答えに、サラはくすりと笑った。


「見栄を張るのも男の子の特権、か。その一年後。果たして私はそれで良いと思っているかな」

「じゃあその時の為にそれは持っていて。一年後、僕は必ずここへ戻ってくる。その時もしサラが、」

「貴方の「正式な要請」を「受諾」する気があったなら?」

「……もっと言い方あるだろう」


 真剣な話をしているはずが揶揄われて、ニルスが少し臍を曲げた。


「いいわ」


 サラいつものように、薄く微笑んだ。

 そして首飾りを軽く握る。



「『私の、これから人生を、ずっと、貴方と一緒に』」



 微笑んで、彼女は言う。


「そう思えた時に、私はこれを身に付ける」


 真っ直ぐに、ニルスを見る。


「少なくとも当面はなさそうだけど。趣味じゃないし、少し重い」

「言ってろ。一年なんてすぐさ。サラがすぐにその気になるように、沢山土産話を用意してやる」

「それは楽しみ。貴方の話、今のままでも私は好きだった。心を入れ替えて世界に臨むとまで言うんだから、もっともっと楽しい話が聞ける」


 好きだった。今の話の流れで、そんな言葉が軽く出てくる。意識しているのはニルスだけなのか、相変わらずニルスには自分とサラとの距離感がよく分からない。


「それで、出発はいつ?」


 少し首をかしげて、サラは訊く。


「もう、すぐ。雪が降る前には出ようと思ってる。僕も、きっと父さんも」

「モルテンも?」

「多分ね。でも、もう父さんとは行かない。そう決めたから」

「本当に自分一人で生きていくんだ。それが貴方の、夢?」

「……うん。そうだよ。僕の夢だ」


 本心からニルスは言った。好きな人に一度フラれたからと言って、彼女を理由に駄々を捏ね、夢も目的も放り捨てるほど子供ではない。そんな事では父にもオデオンにも、それこそサラにも笑われてしまう。


「いい顔」


 そんなニルスを見て、サラは薄く微笑む。

 そして首飾りを服のポケットに入れると、改めて毛布を肩に掛け直した。


「寒くなってきたし、私はもう戻るわ。首飾り、ありがとう。期待には応えられなかったけど、貴方からの贈り物は純粋に嬉しかった」

「うん。ごめんね。こんな夜遅くに呼び出して。おやすみ、サラ」


 さっきまで真剣なやりとりを交わしていたとは思えないほど、いつも通りの気軽さで二人は別れる。ここで気まずくなるには、二人は互いを知り過ぎていた。そしてニルスは、村の灯りの方へ向かうサラを少し呼び止める。


「サラ」


 どうしても、最後に言いたかった。


「君が好きだ。本当だよ」


 サラはもう一度、薄く笑う。


「覚えておく」


 そんな憎まれ口を叩くと、今度こそサラは一度も振り返る事なく、自分の家へと帰っていった。綺麗な星空の下、二人きりの丘の上には、ニルス一人が取り残される。サラがいなくなって、急に空気が冷え切ってしまったようだった。口から、白い息が漏れる。


「フラれちゃった、か」


 覚悟はしていた事だ。しかし不思議と寂しさばかりがある訳でもない。自分の気持ちを、サラに知ってもらえた。泉の魔物である事を隠して嘘の生活を満喫するように、自分の気持ちに嘘をついてサラの隣にただ居るだけ、そんな甘えた状況は覆せた。


 寂しさばかりではない、しかしすっきりした訳でもない複雑な感情がニルスの中に溢れていた。今まで感じた事もないものだ。誰になって、どこに行っても、感じた事がないものだ。それが良い事なのか、愚かな事なのかは分からない。分かっていたら誰も苦労はしない。こんな苦痛も、苦悩もない。


「でも」


 まずは、歩き始めてみなければ分かるものも分からない。


 今まで散々足踏みをしてきた自分だ。ここは少しくらい、勇み足で転びそうになるくらいでも丁度いい。いや、これからニルスはこの世界の全てを見に行くのだ。勇み足では物足りない。期待は膨らむ。世界一の都市、世界一の山脈、まだ見ぬ人々、新しい苦しみ、本当の世界。すっと空を見上げる。


 まずは、この満天の星空からだ。


 パンと自分の顔を叩いてから、ニルスは、泉の魔物は歩き始める。

 そして帰っていった。彼の家、彼の故郷。


 これから何度も何度も思い返す事になる、彼が一番幸せだった、我が家へ。



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