第31話 決戦前夜
エイセルからの招集にティグールにいた者達全てが集結した。
クライムは王宮の地下室から飛んで来た。
メイルは仕事を放り投げて走ってきた。
その夜、拠点扱いになったメイルの部屋に十数名の人間が押し掛けた。
レイ、ヴィッツ、テルルは三人並んでベッドを占領していた。アレクが壁に寄りかかり、リメネスは机で静かに紅茶を飲んでいる。クライムはその隣に座っていたが、二度と逃げないようにとメイルがその膝の上を陣取っている。髭面の騎士、筋肉質の騎士、骸骨面の騎士、青年の騎士、四人もそれぞれ場所を取っている。
小さな部屋の中心で、夜の暗闇を数本の蝋燭が照らしていた。
「ちょっと待って! どういう事よ!」
ヴィッツがテーブルを叩いてその蝋燭が揺れた。
エイセルは変わらず緊張感も無い様子で頭を掻く。
マキノの手紙の内容を伝えたからだ。全ての物事の前提であった筈の魔法使いの封印、それが既に破られていたと、そう記されていた手紙だ。エイセルは困った顔で説明を試みる。
「それが分かれば苦労は無ぇよ。その封印ってのは、どうも国中にある八か所が合わさって機能していたらしいんだが、マキノが言うにはもう七か所が破られてるらしい」
「最後の一か所はどうした」
「まだ無事だ。リューロンがそれを護りに行った」
「だがもう、それは封印として機能もしていないだろう」
「手紙にもそうあった。敵さん、多分いつでも城から抜け出して来れる」
ざわめきが広がる。クライムは城の中庭で見た大軍を思い出していた。脱出の際に追って来たあの軍団、それを統率する魔族ベルマイア。その全てがもういつ襲ってきてもおかしくない。いや、既に城から進軍して来ている可能性さえある。
「だが来ていない。そうだろう? 何故だ?」
そうテルルが首を傾げ、髭面の騎士が話を繋げる。
「何か機を待っているのだろうさ。封印破壊の立役者、魔族の協力者殿が今ここにいるんだろう? エイセル、お前さんがオレ達を呼び出したのもそれが理由か」
「それなんだよなぁ……。何かもう嫌の予感しかしなくてよぉ」
ガリガリと再び頭を掻き毟る。
クライムは焦った様子で口を開いた。
「最後の一つがなんで無事なのか分からないけど、時期を合わせて来るような相手の動き。これってやっぱり」
「会談だろ。それしかない。奴らも何かしてくるつもりだ」
「何かって何よ。あたし達は結局どうする訳?」
「敵がどう動くか分からないと後手に回る事になるけれど」
思いついたようにヴィッツが言う。
「それはやっぱ、破談に持っていく気でしょ?」
「俺達が同士討ちを始めれば、付け入る隙は生まれるか」
「混乱を見計らって敵が進軍。筋は通ってるな」
「逆に完璧な同盟を結ばせる気か? フェルディアは、奴らに食われてんだろ?」
「同盟を口実に他の国も乗っ取る気だと?」
『レイ、どう思う』
リメネスの発する金属製の声色に、皆が話を止めてレイを見る。
くるくると髪の毛を弄りながら、レイは渋い顔をしていた。
「……私の知ってるヴォルフって男はもっとこう、極端な奴でね。敵は頭から、やるなら徹底的に。そう言う無茶を力づくで押し通して来る馬鹿げた男なのよね」
「そういや、お前は敵の大将と面識あったっけな。で?」
「そうね。まずあいつの目的は変わらず私達の殲滅」
そう言って人差指を立てる。
「数日後、そのお偉いさん達が雁首揃えて集まって来る」
そう言って中指を立てる。
「皆殺しにする」
そう言って薬指を立てる。
「……」
誰も、何も言わなかった。
考え得る限り最も過激な方法。
思っても、誰も言わなかった事だ。
アレクが叫ぶ。
「おいおい! もう交渉どころじゃないぞ!」
「落ち着けよ。ここには冬だっているんだし」
「例の協力者一人でそんな事出来ないだろ! それとも、他にも敵の仲間が紛れているのか!?」
「その協力者だって眉唾物だろ。本当にいるのか? そんな奴」
「面倒ね……。殺すなら殺せばいいのよ、うちの国にも悪い話じゃない……」
「ボア! お前は少し黙ってろ!」
「ちょ、ちょっと! みんな落ち着いて!」
皆の混乱を尻目にエイセルは少しリメネスに目配せした。リメネスはそれに気付いた上で、無視して静かに紅茶を飲む。それにどんな含みを感じたのか、エイセルは深く溜息をついた。そして皆を制しようと立ち上がる。だが右からも左からも怒鳴り声が返ってきて埒が明かない。
「待て待て。俺達は取り敢えずやる事やって、後の事は後で心配しようぜ、な?」
「うっさい! そんな悠長にしてたらグラムまで襲われるわよ!」
「フェルディアを盾にすれば被害も無い……。魔族がついでにこの国を潰してしまえばいいのよ……」
「あー、だからよぉ。少し俺の話、聞いてくれないか?」
「グラムの大使に伝言して皆を非難させよう! むざむざ見殺しには出来ない!」
「他の国の連中が信じるか? 下手に動けば私達の手で交渉を潰す事になる」
「交渉なんてもう終わりよ! 他の国の大使なんて知った事じゃ……!」
「聞こえてねぇのかな……」
不意に延びてきた手がヴィッツの頭を掴んで力任せにテーブルに叩きつけた。
衝撃と共に蝋燭が揺らめき、急に部屋が静かになった。
「っつ……!」
一瞬の事でヴィッツは何をされたか分からなかった。鈍い痛みに耐えて見上げれば、自分を押さえつけるエイセルの姿が映った。目を細め、眉間に皺を寄せ、猛烈に不機嫌な顔で見下ろしている。
「黙れって言ったんだよ。小娘」
吐き捨てるように、エイセルが言った。
その異様な雰囲気に、口論していた皆が押し黙る。
エイセルはふっと力を抜くと、ヴィッツを立たせてその頭を小突いた。ヴィッツは後ろに二三歩よろめき、ベッドに足を取られてポンと座った。レイは面白そうにその様子を見ていた。エイセルは鷹のように鋭い目で皆を見回す。
「お前らの言いたい事は大体分かった。首都にいる奴らの身柄の安全。万一に備えた城の警戒。まあ大方、俺達に出来る事なんてそんな所だろう。だが作戦に変更はない。敵の狙いがどうだろうが、会場は予定通り俺達が制圧する。役人共の首なんざその後にでも心配すればいい。悪いな、クライム」
急に話を振られたが、クライムはただ静かに首を振る。
「いいよ。僕も、それが一番だと思うから」
エイセルも静かにクライムを見る。レイの言っていたクライムの覚悟、それはどうやら固まっているらしい。一方でヴィッツは再び文句を言う。喧嘩腰でなく、座ったまま。
「あたしは作戦を見直した方がいいと思うわ。宮殿の防衛と魔族の協力者。二つも同時に相手取るなんて危険よ」
「敵が二つならオレ達も分かれるか? エイセルは勝手に会場に行けばいい。それとは別に数人を回して、会場の周囲を固めて協力者を待ち構える」
髭面の騎士も、やはり座ったまま提案する。
だがエイセルはそれも却下した。
「俺はギルの野郎にここでの指揮を任されている。今は俺が団長で、俺の命令は絶対だ」
「ヒヒッ。仰せのままに、団長殿」
そう言って髭面は肩をすくめる。
「ヴィッツ。お前を明日の作戦から外す」
「はぁ!?」
思わず立ち上がったヴィッツをレイが座らせた。
エイセルは気にせず話を進める。
「テルル、リメネス。お前らもだ。準備が整ったらすぐに黒の城へ向かえ。会談の結果がどう転ぼうと敵は動く。接近して偵察、可能であれば迎撃して来い。コムラン、ドミニク、ギブス、ボア。俺と一緒に予定通り城へ潜入する。とにかく速攻で会場を押さえて、ウィルの仲間が集まるまで誰も近づけさせるな。協力者はその後でゆっくり炙り出す。アレク、お前は本当に来るんだな」
アレクはフンと鼻息を鳴らした。
そして何の気なしに言う。
「メイルも連れていく。道案内も要るだろうからな」
メイルは思わずアレクを見た。正直、メイルは今回は置いて行かれると思ったのだ。どうやって皆を説得しようか、マキノの真似をして散々言い訳を考えて来たのだが、まさか向こうから言われるとは思わなかった。
「お前も来るんだろ」
アレクは次いでクライムも見る。
クライムは無言で頷き、フィンは欠伸をし、レイは楽しそうに笑って言った。
「さ。これで作戦も固まったし、後は会談を待つばかりね」
皆がざわざわと同意した。ヴィッツは不機嫌そうだったが、テルルにあれこれ宥められていた。グラムの騎士達は当日の細かい役割分担について相談を始める。クライムは眠そうなフィンと何やら話していた。
「……はあぁぁ」
エイセルは大きく息を吐いた。
ため込んだ気迫が空気のように抜けて体が萎む。
疲れた。何で自分がまとめ役なのか全然分からない。ジーギルには丸投げされるしリメネスは助けてくれないしヴィッツには嫌われるし、泣きたい。ともあれ皆が納得してくれたようで一息ついた。後は全ての下調べを終わらせるくらいだ。首都での生活も明日で終わり。心残りの無いようにしなければ。
「おい」
一人で考え事をしているエイセルに、急にアレクが声をかけた。
気のせいか少し上機嫌に見える。厭らしい薄ら笑い。いったい何だ。
「さっき、右腕使ったな」
「あ……」
ヴィッツを押さえつけた時、そうだ、思わず右腕を使った。
冬の魔法使いにやられて動かなくなっていた右腕。
とうの昔に治っていたのをずっと隠していた右腕。
「ち、違っ! アレはその! アレだ! つまり……!」
慌てて言い訳を考えるエイセルの胸倉をアレクが掴む。
とてもとても、悪い顔で。
「ちょっと面貸せよ」
***
首都の外れに位置する円形の建築物。
アレクが通い詰めていた剣闘場は、今はとても静かだった。
ガランと広い空間に月明りが差し込み、薄暗くもどこか青白く見えていた。
その中心で向き合っているのは二人の男。
アレクの髪は伸び放題で、適当に縛られてダラリと垂れている。毎日の荒稽古で無駄な筋肉が削げ落ち、むしろ痩せたようにも見えた。エイセルは変わらず白髪交じりの茶色い髪をガリガリ掻き毟っていた。無精髭は生え放題でシャツのボタンは掛け違っている。腰から下げた真剣が酷く不釣り合いだった。
『では決闘の方法から説明する。得物は剣のみ。一対一。それは凡そ同じだろう』
少し離れた所に立っているのは立会人のリメネス、見物に来たヴィッツとテルル、何故かその足元で丸くなった毛深い猫。リメネスの金属を通したような不思議な声は、この石造りの空間に不思議な反響を生んでいた。リメネスは自分の剣を抜いて説明する。
『切っ先を下に垂直に構え、まずは己の出自と身分、そして名前を名乗る。順番はどちらからでも構わないが、偽りは許されない』
「面倒くせーな。なんでだよ」
『最期の言葉だからだ。それともお前は、墓石に羊使いとでも刻んで欲しいか?』
アレクは本当に面倒くさそうに肩をすくめる。剣の師匠としてのこだわりか、無口なリメネスが今は妙に饒舌だ。恨みがましくエイセルを見ると、諦めろとばかりに苦笑された。
『とは言え、今回は命までは取らせない。どちらか一方が戦闘継続困難となった時点で、立会人である私が勝敗を決める。逆に継続可能であれば腕が落ちても私は止めない。異存はないな』
アレクは頷いた。
首都に来てからと言うもの、毎日のようにエイセルに挑みかかり、そして敗北してきた。この糞オヤジは死んだ魚の様な目をしているクセに、渾身の一撃をのらりくらりと受け流し、喉だの胸だの急所ばかり斬りつけてくる。腹が立って仕方ない。
ここで勝てなかったとしても駄々を捏ねるつもりは無い。
しかし最後に相手の本気を見なければ終われない。
対してエイセルは少し困った顔をしていた。
適当に起きて適当に飯を食い、適当に散歩して適当に料理して適当に皆で酒を飲む。それがエイセルの理想の一日だ。別に剣が好きではない。強いて言えば、剣を志す皆の熱意に当てられるのが好きだった。あれやこれやと騎士にもなったが、本気になるのは疲れてしまう。
「……」
だが、そんな事も今は言えない。いつもは煩いアレクが静かに自分を見つめている。逃げるなと言っているのだ。本気でやるから、本気で返せと。ここで手を抜くほど野暮では無い。この手で叩き上げてきた剣がどこまで鋭くなったのか、それを確かめたいと思う自分もいる。
エイセルは剣を抜いた。剣闘場に常備された鈍らの一本だ。それを言われるがままに構えて、目を閉じ、ふうっ、と長く息を吐く。
目つきが変わる。
本気になるのは疲れてしまう。
だからエイセルの本気は、いつも一瞬だ。
次いでアレクも剣を構える。
そして名乗った。
「フロッシュ侯領、第一近衛隊騎士落ち。アレクサンダー・フレイクス」
「グラム王国、王立騎士団副団長。エイセル・ベイン」
ヴィッツとテルルは三歩下がって様子を見る。
エイセルの間合いは出鱈目に広い。本当はリメネスもその中だが、彼女は気にしない。この勝負は一瞬で決まると分かっていた。この二人は型が同じだ。小手先の技術に頼らず、勝負所は常に一撃で決めていく連中である。
アレクは横に構えた剣を軽く後ろに引いている。一歩踏み込み一気に振り抜く、一番得意な構えだ。対してエイセルの剣は更に後ろまで引いて、切っ先が完全に背後に向いていた。右手で剣を持ち、左手を刀身に添えている。まるで鞘に納めた剣を、今まさに抜き放とうとしているような構えだった。
見た事もない構えだ。
頭も、脇も、隙だらけに見える。
「……」
だがアレクは、その隙を突く気にはとてもなれなかった。ジリジリと間合いを詰めるアレクに対し、エイセルはその構えのまま微動だにしない。ただ目だけが、鷹のように鋭い目だけが、静かにアレクを見据えていた。
ヴィッツの知る限り、アレクは右腕を使ったエイセルを見た事が無い。訓練の最中も彼の剣を一度も躱せていなかった。今まで一度も読めなかったエイセルの剣。だが今回ばかりは、読み切らなければ斬られる。
呼吸一つ許さない緊張だった。
心臓の鼓動さえ止まってしまいそうだった。
だが、アレクは笑った。
剣を読むなど、知った事か。
芋虫の如く距離を詰めていた左足が止まる。
右足の踏み込みで床が砕けた。筋が引き千切れるほど握り込み、剣閃が空気を切り裂く。その刹那、必殺の一撃を打ち込むアレクの目には、同じくエイセルの剣が真っ直ぐ斬り込まれてくるのが見えていた。二つの視線が宙でかち合ったのは、ほんの一瞬だった。
場違いなほど澄んだ音が剣闘場に鳴り響いた。
その金属音は一瞬でその空間一杯に広がり、反響しては返ってくる。
テルルに見えたのは既に剣を振り抜いた二人の姿。首は落ちていない。腕も落ちていない。二人とも傷一つ無かった。違和感を覚えた時にはもう視線が上がっていた。ガランと広い闘技場の中央で、何かが月明りを受けながらクルクルと飛んでいたのだ。
それは剣身だった。
真っ直ぐ床に突き刺さった所で、リメネスが口を開く。
『そこまで』
荒い息が肺から一気に吐き出され、心臓が止まった時間を補うように激しく脈打った。忌々しげにアレクが自分の剣を見ると、剣が半分になっていた。
「……ふふ」
ヴィッツはもう笑いしか出てこない。見事な切り口だ。何度も折り曲げては鍛え上げられた、その鋼の層までもがはっきり見える。対してエイセルの剣は刃毀れ一つしていない。折ったと言うならともかく斬り落とすなど、意味が分からない。
『勝負はついた。お互い一歩下がれ。その場で一度、』
「てめぇこの野郎! どう言うつもりゴラァ!!」
リメネスの言葉を待たずにアレクは剣を放り投げてエイセルに掴みかかる。エイセルの一瞬の本気は勝負がついた時点で吹っ飛び、胸倉を掴まれて揺すられるままだ。
「何が利き腕が使えないからだ畜生! 今までずっと手ぇ抜いてやがったな!」
「ま、ま、待てって兄ちゃんよ! 俺は別に、」
「何が待てだ! 大体てめぇ副団長ってどう言う事だ!」
「お前こそあのロロの部下だぁ!? まさかフロッシュ侯領の騎士殺しってお前か!?」
「ここへ来て一日中、剣も持たずにフラフラしやがって!」
「疲れるじゃねぇか! いいだろ、若い奴らで仲良くしてればよぉ!」
「それに今の技は一体なんだ! どうやった!」
「んなもん気合いだ気合い! 誰でも出来る!」
「出来るかボケ!」
二人とも好き勝手喚き合い、もう決闘の作法などどこ吹く風だ。リメネスは静かに溜息をつき、テルルはポンとその背中を叩いた。
「面白い決闘だったな」
『最初くらいは正しい手順を踏めないものか。師が師なら弟子も弟子だ』
「リム姐は頑張ったわ。でもあの二人に剣の道なんて無理よ。っと、そろそろね」
その言葉通り、アレクは容赦なくエイセルを拳でブッ飛ばすと、作戦が終わったらもう一戦やるからな、と一方的に宣戦布告して剣闘場を出て行った。ヴィッツとテルルは小走りでそれに追いつき、アレクを挟んで楽しそうに決闘の感想を語った。
若い三人がいなくなって、その場が急に静かになった。
夜の剣闘場では、月明かりの中で塵がゆらゆらと舞っている。
蛙のように地面に伸びたエイセルを無視して、リメネスは二人の剣を拾い上げる。
『珍しいな。お前の事だから、もっと手を抜いてくるかと思った』
「……それでついて来たのかよ。相変わらず真面目な女だな」
転がったままエイセルが呻く。
『悪かったよ。弟子を取るくらいだ、お前も大分思う所があったんだろう』
「そんなんじゃねぇよ。でも俺ももう大人だからな。ガキ共にはモテてみたいさ」
『ふふ、大人か。全然似合わないな』
「だよなぁ……。でもあいつら俺達の背中を追っかけてるみたいだし、仕方ねぇだろ。格好悪い所は見せられねぇよ」
『お疲れ様。少しは格好いい所も見せられたんじゃないか?』
エイセルはそのままダラダラと床を転がる。流石に体が痛くなって止まった所で、今度はリメネスの猫がその腹の上を陣取った。猫の重みでぐえっと変な声が下から聞こえる。
「お、お前は何でそう余裕があんだ? 俺ぁもうダメだ。一杯一杯だ」
『知りたいのか? 流石に家庭が出来るとお前のような男でも考えるんだな』
「うるせー。俺だって考えてんだよ。下が出来れば上になっちまう。シルヴィと二人で決めた事だけどよ」
『エイセル』
「あ?」
『おめでとう』
不意にリメネスが柔らかい声で言った。急な事でエイセルは少し面食らったが、それでも照れ臭そうにはにかんだ。つい先日、待ちに待った報せがあったのだ。あくまで私事だったため会議中は顔に出さないよう苦労したが、友人にこうも素直に祝福されると駄目だ。嬉しい。
「ありがとよ」
腹の上の猫を抱き上げて、そのまま飛び起きた。
「さーてと。肩の荷も下りた事だし、残りもちゃっちゃと片付けるか」
そのままリメネスに手渡して、ぐしゃぐしゃと頭を乱暴に撫でた。
「な、旦那」
ニャアと低く、猫が鳴く。
***
スローンは静かに本を読んでいた。
暖炉にくべられた薪がパチパチと音を立てる。不規則に揺らめく光が雑多に散らかった部屋を照らしていた。昼間は部下達が働き蟻の如く動き回るこの一室。この時間、こんな場所に残っている物好きはスローンくらいだ。不機嫌そうに頬杖をつき、腰に下げていた空の鞘は椅子に立てかけている。
綴られた文字をなぞる視線がさっと上がる。
「入れ」
虚空に向かってスローンは言う。誰もいない筈の夜の宮殿で、入口の扉はゆっくり開いた。そこから顔を出したのは赤茶色の髪に眼鏡をかけた少女だった。丈の合わない濃紺のローブを引きずるように着ていて、指の先が裾から見える程度に覗いている。
「はは、バレた?」
悪戯が見つかった子供のようにメイルは笑う。そのまま部屋の中に入ってきて椅子を探した。すぐに大きな椅子を見つけてズルズルと暖炉の前まで引き摺る。小さなテーブルを挟んで、メイルとスローンは向かい合う。
スローンそれを無視して本を読み進める。
メイルは本を覗き込むようにして話を振った。
「こんな時間まで何してるの? また仕事?」
「とうに終わった。お前こそ、こんな夜遅くに何をしている」
「ちょっと落ち着かなくてさ、遊びに来たんだ」
「寝ろ」
一言だった。いつものメイルであればその命令口調に文句の一つも言う所だが、今日は何故か言い返さない。スローンの飲んでいた紅茶を勝手に別のカップに注ぐと、暖まりつつそれを飲んだ。アグロバールの石頭にこんな無遠慮が出来るのも、フェルディア広しと言えどメイルくらいである。
「にがっ……」
暖かい紅茶を流し込んで一息つくと、口から白い息が漏れた。グラム程ではないにせよ、やはりこの国でも夜は冷える。少し身震いするとカップを置く。途端メイルは顔面に飛んで来た毛布の直撃を受けた。
「ふわっ!?」
目の前が急に真っ暗だ。どこが出口かとワタワタ悶えていたが、ようやくプハッと顔を出す。人の温もりが残る毛布。スローンの膝掛だった。メイルは少し笑うと、それにすっぽり包まった。向こうは何事も無かったかのように黙々と本を読んでいる。
「意外だな。スローンも本を読んだりするんだ。それ、学術書?」
紅茶に何杯も砂糖を入れながらメイルが訊く。
「カトルの歴史だ。お前のせいでこれに手を付ける馬鹿共が増えたのだ。好き勝手に規則を増やし、ありだのなしだの。喧しい事この上ない」
「へー。また規則が気になるんだ。『リンク』はあり?」
「ありだ。しかし動くのは三マスのみ」
「じゃあ『フロート』は?」
「なしだ。考えられん」
「それじゃあ大分戦術も限られるね。ボクは『フロート』を使って冬に勝ったのに」
「実際の戦争では不可能な戦術だ。お前の勝利も無効だな。また挑み直す事だ」
「はは。今度、宮殿中に分厚い資料を配ると良いよ。ボクも手伝う」
「やかましい」
メイルは一口紅茶を飲む。
スローンは一度も本から目を上げず、終始不機嫌そうにしていた。
だがメイルは柔らかく微笑みながら、そんなスローンを眺めている。
暖炉の薪がパチンと弾ける。二人共、喋らなかった。
以前は落ち着かなかったが、今のメイルはこんな時間が心地良い。
二人ともなんだかんだで、長い付き合いだった。
「どうだ。調子は」
やはり本から目を上げず、スローンが言った。
「落ち着いた、かな。街の友達も悩みが取れたみたいだし、宮殿もスローンの方針に乗り始めてる。やっぱりスローンは正しいからね、滅茶苦茶言うけど。滅茶苦茶だけど。……滅茶苦茶だよ? 分かってる?」
「くだらん。当然の事をしているまでだ」
「世界会談のためとは言え。もっと現実的な案、出せないのかな」
「現実的とは不完全と言う事だ。そんなものはこの私が許さ……。砂糖を入れるのをやめろ」
再びスプーンを取るメイルをスローンが睨む。
メイルは口を尖らせた。
「この紅茶、苦いよ」
「ふん。ガキが」
スローンはミルクの入った小さなポッドを突き出す。メイルは渋々それを入れ、カチャカチャと掻き混ぜた。
「会談、か。上手くいくといいね」
スプーンを置いてメイルは言う。ミルクで少しはマシになったが、やはり甘さが足りない。だが砂糖の入った小瓶は一瞬目を離した隙にテーブルの反対側、メイルの手の届かない所へ移されていた。やっぱり嫌いだ、こんな奴。
「スローンはどう思う? 会談への準備ばっかり整えてるけど、やっぱり結果、気になるよね」
「ならん」
ぴしゃりと一言切り捨てる。
こいつは本当に一言が多い。
「何言ってんのさ。上手く事が運んだら、スローンの大好きな統一国家に一歩近づくんだよ? 何だっけ。誇りと秩序を取り戻す?」
「そう上手く行くものか。奴らは開戦を避ける為に来るのではない。開戦に当たって誰を先に潰すか、その探り合いに来るだけだ。この国は当然袋叩きだろう」
「そんなんじゃフェルディアに良い事ないじゃん。何やってんのスローン」
「私には関係のない話だ。噛み合わないな。誰が統一国家を望んでいると?」
ぎろっと不機嫌そうに睨まれて。
メイルの頭に疑問符が浮かぶ。
「スローンが?」
「違う」
疑問符が増える。
意味が分からない。
「……だって何度も言ってたじゃん。統一国家が自分の理想だって」
「私の理想ではない。国王の意思であり、この国の理想だと言った」
「はぁ? で、でも建国以来の大義だって、フレイネストで散々、」
「だから。私ではなく国と軍の大義だ」
疑問符が増える一方である。
全く、意味が分からない。
しかし思い返せば、クライムやマキノに怒鳴り散らしていた時も、国の理想が自分の理想だとは言わなかった、かも知れない。今まで彼自身の意見など聞いた事はなかった、ような気もする。メイルの混乱を他所にスローンは呆れたように話を続ける。
「凝り固まった大義を相手に、貴様ら如きが口を挟むなと、私は再三言って聞かせた筈だ。挙句あのざま。フレイネストで魔物ではなく兵に殺されかけた時、ようやく体で覚えたと思ったのだがな」
「じ、じゃあさ。スローンは何の為にここまで会談に骨を折ってるの?」
「気に食わんからだ。見ろ、あの本棚」
言われるがままに、部屋の隅にある本棚を見る。
「第四課の月次報告だね。随分たまってるな」
「では棚の三段目に何がある」
「あれ、八課のが混じってる」
「なぜ誰も直さん」
「…………………」
つまり。
つまりだ。
この石頭は気になるから直している、ただ、それだけだと言いたいのか。警備に穴があるから、規則に不備があるから、それが気になるから動いていると。フレイネストでメイル達を頭ごなしに怒鳴りつけたのも、ただ頭が、固かったからだと。思わずメイルは言った。
「スローンてさ。もしかして凄い馬鹿なんじゃないの?」
勘違いとはする方が悪いのか、される方が悪いのか。いや、とメイルは思う。これは絶対にスローンが悪い。だって言い方って物があるだろう。この期に及んで、それはないだろう。
「ふん。私をそう罵ったのはお前で二人目だ」
「あぁはいはい、奥さんね」
スローンは変わらず指輪を嵌めている。結婚した契りに指輪を交わす風習もあるが、どうにもこの男には不釣り合いだ。
「でもそんな人、本当にいるの? ボク会った事もないんだけど」
「私も会わせるつもりはない。二人揃って敵になるのは目に見えている」
「そりゃいいや。一緒にスローンをぺしゃんこにしてやる。学者気質なんだっけ。お喋りだとも言ってたね」
「奴なら嬉々として今の状況を解説しただろうな。世界会談など、最短でも五日は語り倒すだろう。くそ、考えただけで気分が悪い」
「ボクは聞きたかったよ、その話。会談、もう明日だけど……」
揺らめく炎が二人を照らす。不意に言葉が途切れた。だが二人共、考えている事は同じだった。
「会談は破談する」
スローンは言った。
薪の音だけが静かに聞こえてきていた。
「……どうにかならないの?」
「ならん。この会談には余りに多くの思惑が加わり過ぎている。落とし所は無い。表では大使共が不毛な和平交渉を進め、裏では敵国の間者共が揃って城に攻めて来るだろう」
ぎくっとメイルが震えた。
必死に平静を装う。
持っていたカップの中で、紅茶が波を作っていた。
敵国の間者。それを手引きしているのが自分だとはとても言えない。メイルはスローンと共に警備を固めながら、それを崩す準備をしているのだ。スローンの口からエイセルの耳へ。メイルが横流しした情報は計り知れない。
裏切り。
その言葉が重くメイルにのしかかった。
後悔などある筈もない。最初からその為に首都に潜入したのだから。だが時間を掛け過ぎた。気軽に話せる同僚が増え、スローンと二人で働く事が当然になっていた。メイルは完全に情が移っていた。
会談はもう明日だ。
だが、作戦を中止に出来ないか。
スローンを、味方につけられないか。
そんな小さな疑問が胸に沸く。
「お前はクビだ」
唐突な一言で小さな疑問は微塵に砕け、俯いていたメイルは顔を上げる。途端スローンと目が合った。見透かされているような眼差しに、メイルは一言も言い返せない。
「最初から分かっていた事だ、お前はこの環境に向いていない。会談は良いきっかけだろう。会談当日、宮殿は荒れる。本格的な戦が始まり、国民は狩り出され、国益は戦火に流れていく。そこにお前の居場所はない。クビだ」
パクパクと口が動くが、何を言いたいのか自分でも分からない。それにスローンの口ぶりは、まるでメイルを心配して会談から遠ざけようとしているとも聞こえる。
願っても無い事だ。会談が終わればメイルがここで粘る必要はない。こんな所は抜け出して、またクライム達と旅が出来る。会談翌日、何と言って仕事を辞めようか悩んでいた。それを向こうから言い出したのだ。言い返す理由はない。では、今、口から出かかっているのは一体何だ。
「残りたいって言ったら、どうする?」
何を言っているのだとメイルは思った。
だがそれが、真っ先に頭に浮かんだ事だった。
気づけば、スローンの視線は本へと戻っていた。
「駄目だ」
有無を言わせぬ固い声で。
スローンはただ一言、そう言った。
残りたいと言っておきながら、メイルは断られる事を望んでいた。最後のけじめは付けようと考えていたのに、結局は決断もせず、言い訳もせず、都合のいい流れに身を任せるだけ。自己嫌悪で胃が捻じれそうだった。気まずいと思いながらも、スローンから目が離せない。
だがスローンはもうメイルを見ない。頬杖をつきつつ本を読む。無言で頁をめくっては、カップを取って紅茶を啜る。固い制服を固く着こなし、見るからに近寄り難い。鋭い顎鬚、今から見れば何だか似合っていなかった。空の鞘は最後まで意味不明なままだ。本当はどんな剣が収まっていたのだろう。
「……カトル。スローンとは決着、つかなかったね」
独り言のような呟きにも、スローンは一言も答えなかった。
メイルはバッと手を伸ばして、テーブルの反対側に遠ざけられた砂糖の小瓶をひったくった。一杯、二杯、三杯と残り少ない紅茶に砂糖を追加しカチャカチャと乱暴にスプーンで混ぜる。粘性を帯びた何だか分からない物が出来上がったが、それをメイルは一気に飲み干し、カップを乱暴に机に戻した。
引き摺ってきた椅子も貰った毛布もそのままに、メイルは黙って出口へと歩く。
なるべく無感情に、てきぱきと。
しかしドアノブに手を掛けた所で止まり、少し考え、ふっと振り返った。
暖炉の前。テーブルを挟んで向かい合わせの二つの椅子に、今はスローンただ一人。何事も無かったように本を読んでいる。薪が再びパチンと弾けた。その姿が、酷く寂しかった。
メイルは何か言いかけるが、キュッと口を結ぶ。
おもむろに向き合い、深々と頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
***
円い機械に取り付けられた部品が、カチコチと規則的な音を立てる。
ガラスの容器からは、怪しげな白い煙が立ち込める。
山と積まれた紙の中からは、時折ネズミが顔を出して部屋の端に駆けて行った。
「どう思う、アルバ」
僕がそう訊くと、机で黙々と作業していたアルバが深い深い溜息をついた。まあ、僕もしつこいんだけどね。反面教師にとアルバの部屋に通い詰めておきながら、答えを聞いてもまだ迷う。
「貴様はやはり本物の馬鹿だな」
いつも通り、落ち着きのない早口が容赦なく僕を詰る。
アルバは椅子ごとこっちを向いた。
「もう一度説明してやる。いいか」
アルバの口上が始まった。フェルディアの理想、他国の思惑、ヴォルフの動き、まだ見ぬ不確定要素。現状で考え得る全ての要素を列挙して、その一つ一つを事細かに分析し、そして結論付ける。
「つまりお前達の作戦は失敗に終わる」
無理。無駄。無意味。アルバの結論はいつもそうなる。屁理屈を捏ねているのは分かってるけど、あの早口で論理的に畳み掛けられると、本当に無理だと思ってしまうから不思議だ。でも実際そうなんだろう。何事も考え方だ。
「でもそれって、全く不可能ではないんだよね」
「確率の問題ではな。以前言った通り三分八厘だ」
「じゃあ出来る。みんななら、必ずやってくれるよ」
「その出来の悪い頭に刻んでおけ。一割の可能性は十回やって一回当たる事ではないし一分の可能性とは不可能と同義だ。つまり」
それからまた一方的にベラベラと話し始める。何かもう慣れたな。僕が何度訊き返してもアルバは答えてくれる。彼は基本的にお喋りで威張り屋だ。思い返せば僕を論破するアルバはいつも楽しそうだった。本人は無自覚だろうけど。
でも説明も途中で飽きて、僕は周りを漁る事にした。
あくまで聞いているフリだけだ。
足元に広がっている羊皮紙を適当に掴み取って、適当に相槌を打ちつつ読み進めた。今度の資料は松明でも魔法でもない灯りの発明だ。何百という種類の繊維に熱を通して、どれだけ明るく光るか実験したみたいだ。いくら時間があるとは言え、アルバも努力家だな。
「くくく、貴様も初めてここに来てから、随分と図々しくなったな」
しわがれた声が僕を笑う。
声の主は相変わらず見当たらない。
「まあね。図々しくもならなきゃ、アルバと蜘蛛の話なんて聞いてられないよ」
「だが儂が思うに、貴様にはもう何も無いのではないか? 旅は終わったのだ」
アルバは説明を止めてフンと鼻息を上げた。そして蜘蛛は、変わらず僕を試すように問いかける。悪魔の問いかけだ。僕は羊皮紙を整える。
「貴様の何百年にも及ぶ旅は全て、かつての仲間を見つける為だった。新たな人間と出会い、思い出を増やし、友情を深めたのも、全てはその為のついでに過ぎない。それが貴様の本性だ」
「……そうかもしれないね」
「そしてその目的は果たされ、思い出も友情も用済みだ。この国に関わったのも、他人の尻を追って来ただけの話だろう。そこにお前の意思は無い。ついでの仲間のついでの用事。お前にとって、この国がどうなろうと関係は無いのだ」
なんか、聞いているだけで心が黒くなるな。
僕は理論武装のアルバより蜘蛛の方が苦手だ。蜘蛛は上っ面の建前を引き剥がして、隠していた筈の内面を抉り出してくる。それが怖くて今まで反論できなかった。でも、今の僕には建前なんてない。隠し事は全部バレてしまった。
「確かに、僕にとってこの国はどうでもいいよ」
もう、蜘蛛の事なんて怖くない。
「でも僕はこの国に、前から来てみたいと思っていたんだ。この国だけじゃない。グラムより更に北にある果ての山脈リューン。ルべリアにある運河の街に、ヴェランダールにある黄金の宮殿。まだまだ見たい物が沢山あるんだ」
そう、世界は広い。翼も使わずに飛ぼうとした目の前の男にだって、ここまで来なければ会えなかった。もっともっと見てみたい。もっと遠くへ行ってみたい。
「それをね。僕が見る前に台無しにされたら困るんだよ」
アルバがハッと鼻で笑うけど、これが僕の正直な気持ちだ。僕は時間を無駄にし過ぎた。過去を求めて今を食い潰して来たんだ。これ以上は少しだって無駄には出来ない。それに、ただの無駄でもなかった。
「目的を失って尚、貴様は旅を続けるか?」
「旅をしていたのは、みんなを探すだけが目的じゃないよ。僕は元々旅が好きなんだ。約束もしたし」
「それも無為な旅だったろう? 顔を取り戻す貴様の旅は、取り戻せずに終わったのだから」
「僕もそう思ってたんだけどね……。蜘蛛、知ってた? 顔っていうのは取り戻す物じゃなくて、今までずっと積み上げて来て、これからもずっと作り上げて行く物なんだってさ。面白いよね」
僕は昔の仲間を探す為に旅をしてきた。
でも、その途中で出会ったみんなは仲間じゃなかったか。
そんな訳はない。
「そう教えてくれたのは、こんな小さな女の子なんだよ。僕にはもう何も言えない。しかもその子、もう僕なんか追い越しそうな勢いなんだ。僕がいつまでも止まっている訳にはいかないよ」
笑い話だ。一体どっちが年上なんだか。
「そうやってお前は歩き続けるか。愚かな」
アルバが、そう吐き捨てた。
その顔に浮かぶのは、嫌悪。
その真意は分からない。このアルバにも夢はあった。今のフェルディアとは違う、戦争を使わない世界の制圧。空飛ぶ機械や火の無い灯りとは次元が違う。世界そのものを作り替えようとしていたんだ。
でも、諦めた。アルバは夢を叶える為に綿密な計算を行い、人知れず努力を重ね、結果それが不可能だと言う結論に辿り着いてしまったんだ。そうだろう。無理だ。今まさに戦争が始まろうとしていて、アルバの夢も遠のくばかり。一分の可能性とは、不可能と同義だと。
ただ、それを他人に当てはめて欲しくない。
「ずっと思ってたんだけど、アルバってさ。前に言ってた新しい世界を作る為に、具体的には何をしたの? いったい何があって、そんな風にしか考えられなくなったの?」
「全てを行った。そしてその結果全て無駄だと結論付けた」
おぉ、全てと来たか。
この人も流石だな。でも。
「全てなんて、そんなの分からないじゃないか。まだアルバの知らない方法があるかも知れない。僕にも仲間がいるように、アルバも誰かに相談すればいい」
「引き合いに出せるほど立派な立場かお前は。お前の仲間だろうが他の誰かだろうがその全てを踏まえた上で不可能だと言っているのだ」
「全てを踏まえて? そんな筈ない。今の世界だって、五百年前の戦争時に比べれば信じられないほど平和なんだ。アルバの言う不可能の上には、実際に僕達が立っている。全ての可能性を考慮するなんて、そんな事は誰にも出来ないよ。アルバは傲慢だ」
「私は何でも知っている。知っている上でそれが無理だと言っているのだ」
知っている。
何でも、知っている。
その言葉が不意に僕の記憶を刺激した。
「僕には、ただ諦めているようにしか見えない。それに、あなたは何でも知っている訳じゃない」
「私は何でも知っている」
アルバは瞬きもせず、それがさも当然であるかのように繰り返した。
蜘蛛も黙って聞いている。僕も一瞬、口が詰まった。
でも、違う。
僕の前で、その言葉を軽々しく使って欲しくない。
あなたには分からない。あなたは、彼女とは違う。
「……僕は、何でも知っている人に会った事がある。あなたと違って、本当に何でも知っている人だ。彼女は逃げなかった。強い人だった。自分が死ぬ事が分かっていたのに、それに呑まれるんじゃなくて、受け入れるんじゃなくて、選んだって言ったんだ。自分が選んだ、選択肢の一つに過ぎないって……!」
レイを探して黒の城を彷徨う僕を救ってくれた人。
泣き言を言う僕に勇気をくれた人。
逃げたくても逃げられなくて、助かるのに助かれない。当時のタリアさんの中にどれだけの葛藤があったか分からない。彼女は本当に全てを知っていたんだ。それに引き換え、目の前にいる、全てを知っていると自称する、この野郎は。
「それなのに、あなたは一体なんだ! 何でも知っていると言う割にこんな所に引き籠って、逃げもしない! 選びもしない! ただ全てが終わるのを待っているだけじゃないか!」
「私には、その女が愚かな選択をしたとしか思えない」
「そんなのは結果論だ!」
「だが真実だ」
「違う! 結果がそれまでの過程を決めつけるなんて間違っている! 僕らが今一生懸命頑張って苦しんで、その過程の上にしか明日は来ない! 後悔するのも反省するのもその後だろう! 僕らがすべき事は、今この瞬間を精一杯あがいてみる事だけだ!」
「無駄なあがきだ。今にも落ちそうな吊り橋を渡る事が、お前の言う自分がすべき事なのか?」
「そうだ! それが僕が生きるって事なんだから!」
気が付けば僕は叫んでいた。
狭い地下室で、自分の声がガンガン反響してくる。
蜘蛛の囁きが、しわがれた笑い声が、今は聞こえない。
「あなたは、目の前に続く道の先を知っている。でも、そこに踏み出す勇気が無いんだ」
「そんな物は勇気ではない。仮にその軽率な一歩を勇気と呼ぶとして、お前にはそれがあるのか?」
「僕には無い。ずっとそれが無かったんだ。でもみんなに貰った。だから、僕は行く。あなたは?」
そのままの目で僕を見て、ふっと、アルバは笑った。
「貰った、か。やはりそれは勇気とは呼べんな。強いて言うなら、勢いだ」
勢いか。それでも構わない。僕を前に駆り立てるこの気持ちが嘘だろうと本当だろうと、今の僕には関係ない。その是非について考えるつもりも無い。でも、アルバは考えるんだろうな。考えて、考えて、そして駄目だと結論付ける。
やっぱり僕とアルバは話が合わない。
まったく、最後までこんな調子か。
「……だが、そんなものかも、知れないな」
笑ったまま、アルバはそう言った。
そう言えば笑った所、初めて見たかも知れない。
「下らんな。全くもって。いつだって時代を動かすのは偉人達の英断などではなく、その類の愚かな決断だった。お前のような馬鹿の早とちりで時代は動き、結果ますます世界は混迷を極める。……クライム。お前は馬鹿のデレクの逸話を知っているか?」
でれ……、誰?
「王命を受け森の魔物を討ちに行った騎士だ。道中奴は魔法の武器を借りるべく五人の魔女を訪ねた。嘘をつき、愛を囁き、結婚の約束までしてな。兜、甲冑、剣、盾、馬。完全武装で魔物に挑み、無傷でそれを撃破した。問題はその帰り。五又をかけたと魔女にバレたのだ」
何の話か分からないけど、僕を無視してアルバは話し続けた。
「五人の魔女は激怒した。身ぐるみ剥がされ、半殺しにされ、デレクは命からがら帰国した。だが、そんな無様な奴を国の連中は褒めちぎった。武器も持たず単身魔物に挑み、瀕死の傷を負ってまで尽くしたその忠義、真に天晴。その勘違いから一気に騎士団長にまで昇格したが、魔女に名前まで呪いをかけられた奴は新たな名を名乗るしかなかった」
そこでアルバはニヤッと笑った。
「ヴェリア大王と言えば、お前も知っているだろう」
え? ヴェリア? フェルディアの始まりの王だよね。
アルバはそこで大笑いした。
「はははは! 街にある巨大な奴の像、その時の物だぞ!? 単身魔物に挑んだ名誉の負傷! それが実は女に引っ掻かれたミミズ腫れの痕とも知らず、皆が毎日拝んでいる! それがこの国の始まりだ! それが、統一、国家だと!? はーっははははははは!」
アルバは立ち上がり、腹を抱えて笑いまくる。
気味が悪くて声が掛けられない。
どうしよう。アルバが壊れた。
「思えばそうだ! 五又風情が世界最大の国家を作った! 魔族如き何だと言うのだ!」
あああああどうしよう。最後だから少し本音で話そうと思って来ただけなのに。いや、もう放って置いた方が良いかな? 良いよね。何か知らないけど楽しそうだし。うん。帰ろう。
「くくく、随分とまた楽しそうだな。そんな貴様は初めて見るぞ」
蜘蛛がいつも通り皮肉を言う。
アルバは目に涙を溜めながら必死に笑いを堪えていた。
「ふふふ、そうだな。今の私は非常に良い気分だ。しかし残念だが、これでお前とのお喋りも終わりのようだな。さらばだ、蜘蛛」
アルバはそう言って手元にあった分厚い本を取ると、無造作に部屋の隅に投げた。
「!?」
なんだ、これ。
今、何か起こったのか?
目の前が急にはっきり見えるようになった。蜘蛛の糸が取れ、頭の霞が晴れ、悪い夢から覚めたような気分だ。そうだ。思えば今までずっと、この部屋に初めて足を踏み入れてからずっと心に靄がかかったような気分だったんだ。何をしても浮かないし、何を考えても気分が悪くなる。それが、急に治った。
目眩を堪えて僕は立ち上がり、フラフラと吸い寄せられるように落ちた本を拾いに行った。何があるかは分からない。でも今、アルバは何かをしたんだ。
「ん?」
本をひっくり返すと、気持ち悪い物がへばり付いていた。
毛むくじゃらで八本足の潰れた虫。文字通り、蜘蛛だ。
今アルバは、これを狙って本を投げたのか?
「くく。酷い事をする」
そして全く別の方向から、またしてもしわがれた声が聞えて来た。見ると声の方向、本棚の上には別の虫がいた。やたら大きい鋏虫。今ならこいつが喋っていたんだと分かる。むしろ分からないのは、今までどうして分からなかったかだ。
「酷いものか。蜘蛛、これも貴様の願いだろう」
「あああああああああああ!!!」
そうだ!
そうだ!
どこかで聞いた事があるって、馬鹿か僕は! この気持ち悪い声は、黒の城で聞いたものだ! この声に散々嫌味を言われて思わず死にかけたんだ! どうして忘れていた! 何で思い出せなかったんだ! と言うか何でこんな所にいるんだ! 封印はどこに行った!
「ちょっ、ちょっとアルバ! 何なのあいつ!」
「うん? 何を今更。奴は蜘蛛だ。貴様も知っているだろう」
「そうだとも。城でもここでも、幾度となく話した仲だろうに」
「城!? やっぱりお前はあの時の!」
「おい蜘蛛。まさかこいつに呪いをかけていたのか?」
「くくく。許せ。面白くてついな」
呪い?
呪いって何の事だ。
いつからかけてたんだ。
その呪いのせいで、今まで僕は蜘蛛の事を疑問にも感じられなかったってのか。そうだ。この地下室だけじゃなく、メイルの部屋でも街中でも、蜘蛛は所構わず僕に話しかけていた。つまりこいつはずっと僕の背中にへばりついていたのか? 一体何なんだ。なんで喋ってる。
いや、何じゃない。決まってる。
こいつは黒の城に巣くった魔物の一人だ。
僕が城から連れて来てしまったのか?
それとも何年も前からここにいたのか?
待て。ちょっと待て。つまりこいつはずっと、僕の話を聞いていたのか? 僕らの話。みんなの作戦。それが僕のせいで、敵の一人に、だだ漏れ……。
駄目だ。
僕はもう死んだ方が良い。
「ぼ、僕は帰る! 作戦は中止だ!」
「待てクライム。こいつはヴォルフの配下だがそれ以上に己の欲望に忠実な奴だ。お前達の作戦など律儀に報告する輩ではない。それより私をここから出せ」
「はあ? 知らないよそんなの! 勝手に出ればいいじゃないか!」
「馬鹿かお前は。この部屋に出口など無いだろうが」
出口が無い? 何を馬鹿な。
でもそう言えば、僕はいつも鼠の通った穴から部屋に入って来ていた。
メイルがこの部屋を見つけられなかったのも、ここに通じる道が無いからで。
「え? じゃあアルバって、今までどうやって外に出てたの?」
「出ていない。私は蜘蛛に閉じ込められてから二年近くこの部屋で暮らしている」
「閉じ込められてる!? 二年も!? し、仕事は!? 宮殿で働いてるんじゃないの!?」
「幽閉されていると言ったろうが。この二年間、お前と蜘蛛以外には誰とも会っていないし何もしていない」
「……何それ。聞いてないんだけど。ちょっと待って。もう何が何やら」
「塞がれているだけで通路はある。お前の力で何とか抉じ開けて私を連れ出せ。お前達の愚にも付かない作戦にこの私が協力してやろうと言うのだ。私の計算に間違いは無い。作戦の成功率など逆立ちした所で零のままだ」
アルバが眼鏡を外した。途端、身に纏う空気が重くなる。落ち着きの無さもせわしなさも消し飛んだ。体は覇気で一回り大きく見える。
子供がそれを見れば、体が痺れて動けなくなるだろう。
大人がそれを見れば、誰もが思わず片膝を着くだろう。
そのアルバは、僕が知ってるアルバとは別人だった。
誰だこいつ。ちょっと待って。作戦、明日なんだけど。
「今から私が、それを百に変えてやる」