第29話 寂しがり屋の御伽噺
グエンはその夜も仕事に追われていた。
来るべき会談の為に作成する書類が山のようにある。彼が担当するのは、各国の大使達が西から首都を目指す移動経路の整備と防衛だった。王宮に到着するまで彼等に傷の一つでも付こうものなら、グエンは文字通り首を括る事になるのだ。
ただでさえ厄介な仕事が、あのスローンのせいで更に厳しい審査を受ける事になった。石頭から提出された護衛方策は完璧だった。しかし護衛する身にもなって欲しい。いっそ大使達など道中で全員死んでしまえばいいのだ。グエンはそんな事を考える。
既に夜も遅く人も少ない。だだっ広い事務室で一人、蝋燭の灯りだけを頼りに仕事を片づける。夜の王宮に昼の華やかさは無い。薄気味悪かった。肖像画も銅像も、皆こっちを見て笑っているように見える。しかも最近は夜の王宮に幽霊が出るなどと、変な噂まで経っている始末だ。
「!!」
扉が叩かれてグエンは驚く。
誰だ。まったく心臓に悪い。
「開いている」
イライラしながらグエンが呼ぶと、入ってきたのは同僚のジェールだった。
自分より一回り若い生意気な男だ。濃紺のローブには銀の刺繍が二本。
なぜかコップを二つ持っていた。気さくな顔でニッと笑う。
「お疲れだな。一杯やらないか?」
そんな時間があるように見えるか。そう言おうとして口を噤む。ジェールはグエンの向かいに座って、二つのコップに葡萄酒を注いだ。グエンも羽根ペンを置いてそれを取る。二人はコップを掲げた。
「会談の成功に」
「フェルディアの栄光に」
心にも無い言葉で乾杯して中を煽る。
置いたコップにジェールはもう一杯注いだ。
「いつ帰るんだよお前は。家族が待ってるだろう」
この生意気な年下はそんな軽口を叩く。どうせ仕事に飽きてちょっかいを掛けに来たのだろう。図々しいと言うか、物怖じしないその性格が異例に取り立てられる要因なのだが。
グエンも仕事には飽き飽きしており、酒も入ってか口からボロボロと愚痴が出て来た。中間管理職など貧乏クジでしかない。会談などで戦争が回避出来るものか。帰りが遅いと妻に浮気を疑われる。そんなグエンの話をジェールは面白そうに聞いていた。
「妬いてくれるだけ良いじゃないか。俺なんてまだ独り身だ」
「あれはもう癇癪に近い。家がむしろ落ち着かないくらいだ」
「この贅沢者。なら俺にくれたっていいかな?」
「よし分かった。表へ出ろ」
「ま、待て待て! 冗談だ! そんな怒るな!」
酒を片手に、二人は心の膿を吐き出していった。ジェールは少しの間、女が欲しいだのグエンが羨ましいだの喋っていたが、邪魔したな、と適当な所でコップと共に仕事に戻った。
結局グエンは徹夜で仕事にかかり、王宮内の自室で仮眠を取るとまた仕事を始めた。時間は全く足りなかった。部下の尻を蹴り、スローンに文句を付けられ、再び夜になる。
「よ、来たぜ」
「またお前か」
そしてジェールはやって来た。
再び二つのコップを持ってきて。
次の日も次の日もやって来た。
会談が近づくに連れグエンの疲れも溜まる一方だ。夜の王宮の怪談話など、大よそ疲れが見せる幻覚の類だろう。グエンも酒や紅茶が無ければ、この時間帯は文字一つ書けない。重い目を擦るグエンにジェールはまた軽口を叩く。暇な奴めとグエンは返した。
「そう言うなよ。俺の部署も今残っているのは俺だけさ。どうだ? こっちは」
「終わらん。敵国の人間を守るのにここまで骨を折る必要があるのか?」
「アグロバールの石頭はいつだって完璧主義だ。見せろよ、どこまで骨折ってる?」
ジェールはひょいとグエンの書類を取った。持出厳禁の極秘情報、だがグエンはもうそれを注意する元気も無い。小難しい事を延々と説明した書類の言いたい事はただ一つ。安全性に問題無し。ジェールは笑った。そのまま次々と書類に目を通す。
「はは、ここまで書く必要あるのか?」
「首都の外での事だ。中に入ってしまえば問題ないのだがな」
「冬の御方様々だな。しかし俺達も知らない冬の防備。書面でどう説明する?」
「事実をあるがままに。それ以外はスローンが許さん」
もっとも長年王宮で務めるグエンにとっては、その仕組みが分からないでもない。他にこんな事を考える者も無く、彼自身の推測も推測でしかないのだが。
「ここで私がその推測で書いてしまっても良いんだが……」
「推測でも書けるだけ凄いさ。因みにどう書いてみるんだよ」
「仕掛けはこの制服だとな。要するに通行証の代わりだ」
「制服が通行証?」
固い作りの濃紺のローブ。フェルディアの役人達に支給される伝統的な制服だ。服の縁に沿って金や銀の刺繍が付いているが、階級によってその数や順番が違っている。グエンは金、銀、銀の三重線。ジェールは銀、銀の二重線だ。
「これもあくまで噂だが、この制服は王宮の秘密の工房で作られていて、それは魔法使い共の工房と隣接しているって話だ」
「魔法使いの工房? 魔法使い様が俺達下々の制服を作っているって言うのか?」
「いや、恐らく最後の仕上げだけだ。ちょっと自分の刺繍を見てみろ」
言われるままにジェールは見る。
複雑に絡む模様が線状に伸びていて、どこか神秘的で美しい。
「私が思うにそれは飾り文字で、冬が作った魔法の呪文になっている」
「なるほどなぁ。階級ごとに刺繍が違うのは、呪文が通行制限を決めているからか」
「城外持出禁止でやたら厳しい管理がされているから、当たりだとは思うが」
「で? それ、書くか? 報告書に」
「……書ける訳ないだろう」
つまり結局、面倒な仕事は面倒なままと言う事だ。
ジェールには笑い飛ばされ、グエンは大きく溜息をついた。
しかし愚痴だろうと推測だろうと、上の目の届かない所での息抜きは思った以上に疲れが取れた。渋々付き合っている振りをしながら、グエンはジェールが夜に訪ねに来る事を楽しみにするようになっていた。他部署とは別に頻繁に話す訳でもない。それでも酒の礼くらいはするべきだろう。
昼、グエンが仕事に忙殺されている時に珍しくジェールの後姿を見かけた。相変わらず仲間達に軽口を叩いている。グエンは後ろからその肩を叩いた。いつもの礼に今度奢ってやろう。たまには自分が年上面したって構わないだろう。そう声を掛けた。
だが。おかしな答えが返ってきた。
「よしてくれよ礼だなんて。それより久し振りかな、こうして話すの」
二年、いや三年振りだったっけか?
ジェールは、気さくな様子でそう言った。
一昨日、ジェールは一目惚れした街娘に結婚を申し込みに行ったと言う。
昨日、ジェールの結婚を祝って仲間達で再び飲み明かしたと言う。
また今度な、そう笑うジェールを前にグエンは首を傾げていた。一昨日も昨日も、ジェールは城に残って自分と他愛ない話をしていた筈だ。飲みに出ていた時間は無かった筈。それをどうして嘘をつく。おかしな疑問が頭を離れず、仕事も碌に手に付かない。
その時である。
例の怪談の噂話が聞こえてきたのは。
「よ。今日も一杯やろうぜ」
夜。無遠慮に部屋に入ってきたジェールに、グエンはビクッと体を震わせた。二つのコップに葡萄酒を注ぎ、適当な言葉で乾杯し、一気に煽ってそれを置く。
「……」
それは単なる噂話だ。
夜の宮殿には、幽霊が出る。
幽霊は人間の姿をしており、言葉遣いや仕草に至るまでそっくりである。しかし、それは偽物。周りの人間はそれと知らずに幽霊と言葉を交わし、心を喰われ、そしてもし正体に気付けば体まで喰われて二度と戻っては来れないのだと言う。事実その噂と共に、何人かの役人が理由も無い休暇を取っていた。
「聞いてくれよ。今日もあのスローンの奴がさぁ」
蝋燭の僅かな灯りの中で、二人はコップを傾ける。揺らめく炎に影が蠢き、それはどこか幻想的で、不気味だった。肖像画が、彫刻が、皆グエンを見て笑っている。馬鹿な奴だと笑っている。どうして気付かないのだと。目の前にいるソレが、本当に人の形に見えるのか、と。
「どうした?」
ジェールが嗤う。口が耳まで裂けたように見えた。
だが、違う。いつもの軽口、いつもの会話。
本物とは、まるで、見分けの付かない。
「……ジェール」
生唾を飲み込んで、グエンは重い口を開いた。
「お前、本当にまだ女が出来ていないのか?」
ジェールは惚けた顔をした。
くいっとコップを空にする。
それを机に置く音が、やけに部屋に響いた。
「そうか、彼には良い人が出来てたんだね」
その声は、変わらずジェールの物だ。
だが言葉遣いも雰囲気も、彼のそれとは変わっていた。
これは、誰だ。
「何だか安心したよ。彼は気さくで良い人なのに、どうしていっつも一人で家にいるんだと思ってたんだ。でも困ったな。まさかこんな時期に事情が変わるなんて、調べ方が足りなかったね」
いったい、ジェールは何を言っている。いや、この男はジェールなどではないのだ。昨日会っていたのも、一昨日会っていたのも。ジェールの姿をしているだけの別の何かだ。
幽霊の正体に気付いた者は、二度と帰っては来れない。
目の前の男はゆっくりと立ち上がった。
グエンは身動き一つ出来なかった。
「あなたには感謝しているよ。ここまで城の事情に精通した人はいなかった。幸せな家庭と充実した日々。あなたの話も面白かった。でも、それも、もう、終わりだ」
自分を見下ろすそれの双眸が、黄色く、濁った光を宿した。
それを見た途端、グエンは悪寒が走るのを感じた。
「あなたを帰すわけには、いかない」
蝋燭に揺らめく男の影が膨らむ。
机を押し分け、書類を押し分け、どんどん大きくなっていく。
体から溢れて来るのは苔色の剛毛。
頭から伸びて来るのは二本の大角。
泉から上がってきたばかりのように、体から水が滴り始めた。
その見るも恐ろしい光景に、最早グエンは声一つ出せなかった。
蝋燭の火が吹き消えた。
部屋を再び、静かな闇が包み込む。
***
レイとメイルは向かい合って夕食を取っていた。
ジャガイモと豚肉のクリームシチュー。エイセル自慢の一品だ。だが二人はただ黙々と食べていた。メイルは俯きっ放しで、レイも気まずそうにしている。
「……」
沈黙が痛かった。しかし何も話せない。ここ数日、ずっとこの調子だ。水道橋跡の樹の上でクライムが飛び立った、あの日から。
「クライム……」
沈黙の中、メイルが呟いた。
その目から、涙がポロポロと零れる。
レイはかける言葉も無かった。クライムの事が知りたかった。彼の生い立ちが気になった。旅の話を聞きたかった。だが、こんな事になるとは夢にも思わなかったのだ。もう十日以上も帰って来ない。二度と帰って来ないかも知れない。
レイは目の前のメイルを見て心が痛んだ。
そして同時に、我慢できなくなった。
「フィン、どうして何もしてくれないの」
目も合わせずに、窓際で丸くなっているフィンにそう言う。取り返しの付かない事をしたばかりで、同じ事を繰り返すだけかも知れない。だが、言わずにはいられなかった。
「私のせいよ。認める。だからこそ私じゃ彼を連れ戻せない。でも君の言葉なら彼も聞いてくれるんじゃないの?」
フィンは目を瞑ったままだ。尻尾だけがゆらゆらと揺れていた。
「そんなの僕の知った事じゃない」
「知った事じゃない? 君がクライムを放って置いたせいでもあるのよ? 知らなかったとは言わせないわ。君は全てを知っていた筈よ。クライムの仲間が、もう一人も生きていないって。彼がずっと自分に嘘をついたまま、死んだ仲間を探して旅をしていたって」
返答は無い。レイは腹が立ってきた。
「何十年も彼と旅をしていたんでしょう。どうして何も言わなかったの? なぜ?」
「言ったさ」
その一言に、レイは黙る。
メイルは静かに泣き続けていた。
フィンは薄く、目を開ける。
「言ったさ。何度も、何度も。でもクライムには聞こえなかったんだ」
フィンはレイを見た。その目は美しい青色で、雪のように澄んでいた。
「出会ったばかりの頃、僕がその話に触れるとクライムは何も答えなくなった。彼は仲間の死を受け入れられない。事実に繋がる物に対しては目を閉じ、耳を塞ぎ、何も考えないようにしていた。永い間旅を続けて、ようやく今の形に落ち着いたんだ。でも、ふふ」
フィンは思い出すかのように窓の外を見た。
夜も深いティグールでは、曇って星一つ見えない。
「前に、クライムの仲間を二人で訪ねに行った事がある。オデオンって名前だった。彼は故郷を離れて店を構える事を夢見ていて、その夢の通りの店を開いたらしい。クライムが場所を聞いていてね。行ってみるとそこには確かに店あった。古いけど良い所だったよ。恐らく本当にオデオンが開いた店だったんだろうね」
メイルが顔を上げる。覚えていた。岩のドラゴンを落とした後、首都を目指す前にクライムはそこに行くと言って聞かなかった。メイルは別行動で、マキノと一緒に図書館の街アグナベイに向かった。ついて来るなと言われたのだ。他でもない、フィンに。
「店主は不在で僕らは引き返した。看板を見たよ。店と一緒に作ったのか開店の日付が彫ってあった」
フィンは、二人を見て笑った。
「三百年以上前の日付だった」
二人は何も言えなかった。
少しも笑えない。
「クライムだってそれを見ていた。でも、見えていなかったんだよ。心って怖いよね。自分を守る為なら不都合な物は全部無かった事にしてしまう。レイの言葉が届いたのは、今だからだ。変わったよ。昔の彼なら、ショーロみたいに思い出に被る光景を見ていたら、助けに行かずに逃げ出していた」
「なぜ?」
レイの問いは止まらない。
「なぜ、そこまで彼は、その……」
「壊れたかって? 変わり者にとっては仲間が全てだからさ。だから『放っておけない』」
フィンは思い出すように、目を閉じる。
「『忘れちゃいけない。みんなと話して、一緒に笑って、その全ての積み重ねの上に今の僕があるのだから。顔の無い男を僕としてくれるのは、今まで出会った全ての人達のおかげなんだから』」
メイルがそれを聞いたのは先日の事だ。しかし思い返せば、今まで何度も聞いてきた気がする。いや、フィンが覚えている位だ。昔からずっとクライムはそう言い続けてきたのだろう。自分自身に言い聞かせるように、自分自身に思い出させるように。
「変わり者に顔は無い。どこにでも居ながら、どこにも居ない。姿を変え続けているのは本当の自分を見せない為だ。彼等の本当はどこにも残らない。だから思い出しかないんだ。誰かが彼等を覚えている間は、彼等も誰かでいられるんだ」
「……その全ての積み重ねの上に、今の彼がある」
「それが無くなれば、顔の無い男は誰にもなれない。彼等は寂しがり屋なのさ。御伽噺の通り、本当に国を滅ぼす力だってあるかもしれないってのに、ね」
御伽噺。
古い古い御伽噺だ。
子供の頃、誰もが一度は聞いた事がある。
ぽつりぽつりと、メイルがそれを口ずさむ。
「……顔を持たない一人の男が、人の少女に恋をした。家となって彼女を守り、馬となって彼女に仕え、人となって彼女を愛し、竜となって敵を滅ぼす。しかし少女はもう二度と、彼の元には戻れない。彼とは知らずに邪竜と出会い、少女は、足を滑らせた……」
「その話の教訓は、嘘をついても、取り繕っても、人は幸せにはなれないって事さ。実物に会ってみた感想はどうだい? 御伽噺とよく似ていただろう。いや、多分クライムこそが……」
少女を亡くした「彼」の悲しみはどれほどだったろう。正体を明かさず嘘をついた自分を、どれほど呪った事だろう。自分にとって全てだった存在を失い、彼はどうなってしまったのか。レイは呟く。
「だから、彼は自分を保てなくなったの? 誰にも、何にもなれなくなって」
「かもね。でも、もう違う。クライムは全てを取り戻した。誰にでもなれる。何にでもなれる。それもこれもレイのおかげだよ」
フィンは笑った。とても、歪な笑いだった。
「よくも遠慮なく言えたもんだよね。ああ、責めている訳じゃないけれど、分かっていても中々言えない事だと思ってね。レイはもっとクライムには甘いと思っていたよ。彼の事が好きなんじゃないのかい?」
レイは気まずそうに下唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
あの時のレイには遠慮の欠片も無かった。知らなかったとはいえ、自分の言動を思い出しただけで気分が悪い。もちろん好奇心に駆られて無神経に詮索したつもりない。しかし今となっては、何もかも言い訳だった。
「彼は、私を助けてくれたのよ」
ただ、自分の気持ちを正直に言う。
「私に生きていいって言ってくれた。新しい道を示してくれた。だから私は彼に報いたい。でも、だからこそ、彼には前を向いていて欲しかったのよ。何か抱え込んでいるなら相談して欲しい。辛い事があるなら助けてあげたい。そう思って……」
メイルは黙ってそれを聞いている。
レイはそのまま必死にフィンに問う。
「でも、やっぱり間違ってた? 私は、ただ彼を追い込んだだけだったの?」
答えの見えないまま、レイはフィンに訊き返す。だがフィンは面倒くさそうに鼻を鳴らしただけだった。そこまでクライムに肩入れする義理は無い。フィンはクライムの親友だ。だがそこに馴れ合いは一切無い。優しい言葉もかけないし、折れてしまえば切り捨てる。
だからフィンは待っていた。
もうこれからはクライム自身の問題だ。
不意に外から何か聞こえた。
犬の鳴き声だ。
もう夜も更けているというのに、何頭もの犬が大声で吠えている。
「来たね。まあ、もう大丈夫なんだよ」
フィンは何もかも知った風にそう言った。
犬の声は威嚇ではない。恐怖だった。それはさながら魔物の気配を感じた時の反応だった。すぐにレイもメイルも気付く。落ち着かなかった、何かが居る。何かがこちらに近づいてきているのだ。しかし、覚えのある気配だった。
「二人とも、行っておいで」
フィンの一言に、メイルは涙も拭わずに飛び出した。
大分迷った後、レイも遅れて後を追った。
***
メイルの部屋は三階だ。階段を駆け下り、扉を開け放ち、夜の街を駆け抜けた。空気が張り詰めていた。犬がそこら中で鳴いていた。
「!」
通りの向こう。街の闇の中に浮かぶ大きな影を見て、レイは絶句した。
そこにいたのは苔色の毛で覆われた二本角の化物だった。
体中から水が滴って、泉から上がってきたばかりのようだ。
蹄の付いた後脚で立ち上がり、長い腕は肩からだらりと垂れていた。見るからに堅そうな剛毛で包まれていて、ずんぐり大きく見えていた。後からは山羊のように小さな尾が、頭からは歪に捻じれた角が生えている。
レイは咄嗟に魔物を攻撃しそうになった。この、身に覚えもない恐怖と嫌悪感はなんだ。これが彼等が必死に隠し続けた本当の顔、泉の魔物の姿だというのか。思わず足が一歩退きそうになる。
だが思い止まった。
メイルがいたからだ。
怖がりもせずに近づいている。
魔物がこっちを見た。
「……あ、レイ」
気味の悪い、しゃがれた声で魔物は言った。
「メイルにも今、話してたんだ。冬の魔法、分かってさ。服を沢山持って来たんだ」
その姿も声も、クライムとは似ても似つかなかった。しかし当のクライムは何でもないかのように話しかけてくる。まるで自分の姿に気付いていないのか、水道橋跡でレイ達と話した事など、何もなかったかのように。
「人数分あるかな。大丈夫だと思うんだけど。エイセル達って、何人いたっけ」
レイは彼が何を話しているのか全く分からなかった。彼の心の傷を抉って、深く深く傷つけたのに、当の彼はこの十日間何をしていた。相も変わらず仲間達の為に城に潜入して冬の秘密を調べていたのか? そしてそれが分かったから、報告に戻って来たと?
「十着くらいあるんだけど、足りないかな」
「クライム、大丈夫、大丈夫だよ! だからもう、家に帰ろうよ!」
メイルは必死に呼びかけていた。
「家……?」
一瞬、魔物が震えた。夢遊病者のように頼りなかった様子が急に張り詰める。魔物はメイルを見下ろす。苔色の毛に覆われて、その表情は読めない。
「家はないよ」
クライムは淡々とそう言った。
「僕に家は無い。家族は無い。仲間は無い。何も、無い」
それは変わらず恐ろしい声だったが、酷く虚ろに聞こえた。
「僕を知っている人はもう誰もいない。僕の世界は壊れたままだ。もう、二度と戻って来ない」
「ボクが覚えてるよ! ずっとずっと覚えてる!」
魔物は静かに首を振った。
「僕には本当が何一つ無い。メイルにもずっと嘘をついてきた」
メイルはクライムを怖がらなかった。いや、怖いのかもしれない。だが逃げなかった。
レイは大きく息を吐く。嫌悪感如き何だと言うのだ。彼は彼だ。他に何がある。そしてここまで追い詰めたのは自分だ。自分の言葉で引き止めなくては。ゆっくりと歩み寄り、話しかけた。
「私は、君の話が好きよ」
少しずつ、距離を詰める。
「驚いたわ。本当に色んな所を回っているんだもの。色んな人に出会って、色んな物を見て回って、失敗ばかりしてきて。城にずっと閉じ込められていた私に、それを聞かせてくれたじゃない。それは君だよ。嘘なんかじゃない」
「……」
クライムは答えない。そこをメイルが繋げた。
「色んなもの、見せてくれたよね。ボクはクライムが今まで積み上げて来た世界が大好きだよ。クライムはボクにとっての大事な世界なんだ。たとえボクが、クライムにとっての大事な世界になれなくても」
「メイル……」
「そりゃあ、ボクはまだ子供で、小さくて、弱くて。それでも、あなたの事が……」
続く言葉を、今はまだ言わない。
それはいつか、真っ直ぐに言うべき事だったから。
メイルはクライムに抱きついた。
「頑張ったけど、やってみたけど、ボクはまだまだ子供だった。でも大きくなるから。クライムの事を支えられる位、強くなるから。だから待っててよ。どこにも、行かないでよ」
脚の辺りに抱きつかれて、クライムは困った様子で手を差し伸べ、止めた。そのまま身を屈めてメイルを包み込む。抱きしめようとした手は、付かず離れず、メイルの近くで止まっていた。
「嘘ついてて、ごめんね」
「いいよ。何だって許してあげる」
「無駄にみんなを、連れ回した」
「そんな事ない。楽しかった。綺麗だった」
クライムはふうっと息と吐いた。
その大きな体が、少しずつ小さくなっていく。
「メイル。メイルが思っているほど、この世界は美しくなんかないよ。それを知ればメイルも現実に突き当たってしまうって、僕はずっと怖かった。本で読んだ程、僕が見せた世界は綺麗じゃなかったろう。怖い目にも沢山遭わせた。何度も何度も傷つけた」
メイルは苔色の毛に顔を埋めたまま首を横に振る。
その毛も、少しずつ短くなっていった。
角が頭に吸い込まれ、背がどんどん縮んでいく。
「メイル、花は綺麗かい?」
「うん」
「人は、まだ優しい?」
「うん」
「世界は、美しいかな」
「うん」
クライムはメイルの頭を優しく撫でた。
胸の辺りに抱きつく少女を、優しく抱きしめる。
「じゃあ、もう僕がいなくても平気だね」
「クライムが一緒にいなきゃ、いやだ」
ゆっくりと歩いてきたレイは、ようやく二人の前にやってきた。少女と抱き合う小さな姿。それは今までと変わらない。メイルはまだ子供だ。しかしその目はずっと彼を真っ直ぐ捉え続けていた。本物も偽物も、どうでもいい事だった。
俯いて、クライムの顔は良く見えない。
僅かに差し込んだ月の光で、一瞬その顔に一筋の涙が見えた。
「……レイ、ただいま」
「ええ。おかえりなさい」
***
よく晴れた日だった。
首都から離れた森の麓にあるその村では、季節外れの収穫に備えて皆が忙しく働いていた。土のせいか作物は頑固に根を張り、下手な鎌でも使おうものなら半日で駄目になってしまう。そこで今年は街まで行って砥師を雇い、剣のように磨き上げられた農具を使う。ぬかりはない。
村娘は収穫祭に向けて少し早めの祭りの準備をしている。
太った農婦は全く動かない牛を、綱を使って必死に引っ張っている。
剣士に憧れる子供達は、長い枝を振り回して遊んでいた。
のどかな村だった。魔物の気配も無く戦争の影も無い。遠く首都では会談の準備が着々と進んでいるが、そんな事など関係無い。微笑みの絶えない良い村だ。だが、一つだけ欠点があった。
「魔法使いがいない」
リューロンが唸った。
そんな気はしていたが、残り三人は同時に溜息をつく。
マキノも最近知った事だが、リューロン含めドラゴンという奴は魔法使いが傍に来ると「臭い」で分かるらしい。思い返せばフィンも魔法には敏感だ。ごく稀にだが、マキノが見た事も無い魔法を使った事もある。そのリューロンがいないと言えばいないのだ。だが調査はここからだ。
「では手筈通り魔法使いの手がかりを探して下さい」
魔法使いの手がかりと言うより、その手がかりを隠滅した手がかりだ。マキノの言葉に四人は村中に散らばる。魔法使いが全員殺されている可能性、その犯人が事の始まりであった可能性をマキノは皆に話し、彼等の旅は目的が同じでも手段が変わっていた。
マキノは相変わらず胡散臭い笑顔で片っ端から訊いて回る。
ウィルは近寄って来た村娘達を上手に断りながら情報を集めて回る。
ナルウィは礼儀正しく真正直に訊いてはついでに光の訓辞を教えて回る。
リューロンは人間には目も暮れず鼻をひくつかせながら村を歩いて回る。
情報ではここにいたのは樫の魔法使い。
八人の中でも最高齢の魔法使いだ。
彼の捜索を後回しにした理由は一つ、気分屋であった事だ。多くの人々を助けたと言う話も聞くが、それと同じくらいの恨みを買っているらしい。住む場所も転々としている上に、その村のどこに住んでいたかも分からない。元々足取りが掴みにくかった相手なのだ。
しかしマキノは今回の村で、柄にもない手応えを感じていた。
根拠は無い。強いて言うなら、勘だ。
「おや」
遠くで笛の音がする。
一同に集合を呼びかける笛だ。
マキノはすぐに走っていった。
路地裏のガラクタ置き場のように汚らしい場所。
そこに座っていた老人を囲って、既に皆が揃っていた。
老人は酔っぱらっていて赤い顔でニヤニヤ笑っている。
ナルウィがしゃがんで目線を合わせ、その老人に色々と質問をしていた。笛は彼女が吹いたのか。マキノがウィルをつついても、ウィルは肩を竦めるばかりだった。まだ何もわかっていないらしい。業を煮やしたリューロンが一歩前に出ようとするが、後ろ手にナルウィに止められた。
「さっきの話は本当なの? あなたは森で光を見たって?」
「さァなァ。なんせ三十年も昔の話で、俺ァまだこんなガキでよォ」
いや四十年? 五十年? そう老人は笑いながら首をひねる。成程。こんな調子では確かに何も分からない。マキノは黙って二人の話を聞いている事にした。紛いなりにも聖職者であるナルウィのお手並み拝見である。伊達に毎日懺悔を聞いていた訳でもないだろう。
「光ってどんな物だった? 森には光るような物はあったの?」
「森に光る物なんてねェよ。でも雷でも落ちたのかなァ……」
「でもさっき、その時に地震が起こってたって言ったね」
「詮索するねェ。あんたらァ、この村に何の用でェ?」
のらりくらりと話は逸れる。
根気よく続けるのがナルウィ流であるらしい。
「少し調べものをね。だから是非ともあなたのお話を聞きたい」
「それは金次第だぜェ? 世の中はホラ、先立つ物がよォ」
そう言って老人は髭を撫でる。そして手を伸ばしてナルウィの手を厭らしく撫で始めた。ウィルが顔をしかめる。
「だが世の中は金だけじゃねェよなァ……。思い出すには、何かと、なァ?」
そう言いつつ男は赤い顔で今度はナルウィの髪を弄り始める。欲望丸出しの目で舐めるようにその全身を見ていた。ウィルの背筋がきゅっと伸びる。我慢が出来なくなった時の彼の癖だ。マキノは揉め事の気配を感じて楽しそうに笑っていたが、ナルウィがまたしてもウィルを後ろ手に制する。
そして老人の手を軽くよけると立ち上がり、
背を向けて言った。
「リューロン。喰っていい」
呆気に取られたマキノとウィルの横を抜け、リューロンは恐ろしい唸り声を上げて老人に迫った。鼻面が突出し、顔に鱗が浮き出し、鋭い歯を剥き出して襲い掛かる。
「あぁあああああ!? 何だァこいつはぁあああ!」
「待て待て待て! 二人とも落ち着け!」
ウィルは必死にリューロンを羽交い絞めにする。
マキノは声を殺して笑っていた。
しかしナルウィ、聖職者の落ち着きとは何だったのか。
「ご老人、あなたもだ! 彼女はシリルの聖女、あなたのお話には乗れない!」
「し、し、知るかよォ! シリルって何だァ!?」
「リューロン、喰え」
ナルウィの一言で再びリューロンが襲い掛かろうともがく。助けてくれと老人は叫ぶが、当然の如く助けは来ない。マキノが抜かりなく防音の魔法をかけていた。リューロンは老人の目と鼻の先でガチガチと牙を打ち鳴らし、老人は涙目になりながら震えていた。
「た、助けてくれぇえええ!」
結局。リューロンは久々の獲物を喰い損ねた。
頃合いを見計らってマキノが脅迫同然に質問すると、老人はあっさり全てを話した。七十年以上前に村を大きな地震と嵐が襲った事。だが今では何故か、当時生まれたばかりだった彼しかそれを覚えていない事。当時の事などすっかり忘れていたが、歳を経るごとに記憶は鮮明になっていった事。
マキノが聞き出す傍ら、ウィルはリューロンに延々と説教をし、ナルウィはすました顔で材木に腰かけ聖書を読んでいた。リューロンの止めの威嚇で、老人はその場で失神した。
一行は村の広場へと歩き、ウィルは尚も説教を続ける。
それがある程度落ち着いた頃、ウィルは話し始めた。
「……彼はあんな様子だったが、どうだろう。信じられると思うかい?」
「面白い事象だと思います。確かに心に干渉する魔法は赤子には効きにくいんですよ。実際にここには魔法使いがおり、例の協力者は彼に関する記憶を消すよう村人に魔法をかけ、しかし生まれたばかりの赤子だった彼は唯一それを覚えている。筋は通っています」
「ならあいつから絞り出す事はもう無いな。喰うぞ」
「喰うな」
ナルウィに色目を使われた事が余程気に入らないらしい。
随分と短絡的な思考回路である。
「チッ。ならさっさと行くぞ」
「ああ、彼が言っていた場所だな」
「ウンディアの森、ね」
ナルウィはポンと聖書を閉じた。
そこは村からも見える大きな森だ。山をも覆い隠すほどの巨木がひしめき、巨大な根が大蛇の様にうねるその森では歩く事すら難しい。狩人さえその森には近づかないのだと言うが、魔法使いの隠れ家としてはうってつけだ。
加えて魔物も多かった。狼や蛇の姿をした魔物がひっきりなしに一行に襲い掛かって来た。巨大な木の根が段差状になった樹海では、走り回るのは難しいし相手の発見も遅れやすい。
しかし一行にはリューロンがいた。魔物よりも早く魔物を感知し、襲ってくるのをただ待ち構える。狼達は拳の一撃で粉砕され、見るも無残な姿になってバラバラと地面に散らばった。樹の上から襲ってきた大蛇はウィルの一太刀で両断され、ナルウィが容赦なく止めを刺した。
マキノは魔物など気にも留めずに地図を眺めて方向を決める。
地形が複雑である事を除けば実に楽な道のりだった。
そして辿り着いた。
樹海の中心にぽっかりと空いた空間があったのだ。
巨大な樹々で視界にも困るこの樹海で、街一つ分が円く切り取られたようなその空間は明らかに異様だった。天を衝く程の樹々が邪魔して、森の外からは分からなかったのだ。森はどこも草や苔に覆われていたが、ここは地面が露出したままだ。樹々は若く、草木もほどほどだ。
「おい」
言われてマキノも気付く。地面が深く抉れている所があった。大きいが細長い切れ込み。巨大な剣を思い切り叩き付ければ、こんな跡が残るのだろうか。四人はそれぞれ歩きつつ辺りを見て回る。
「マキノの話を信じていなかった訳ではないけれど、こうして見ると、本当みたいだね」
周囲を見回してナルウィは言う。マキノにとっても、推測がこうして目の前の現実として現れると感慨深い。ブリュンに気付かされた例の魔族の協力者は、本当に魔法使いを訪ねては、こうして戦って殺していったのだ。吹き飛ばされて出来たこの空間は、その強さを物語っている。ウィルが顔をしかめた。
「こんな奴が、まだ生きているって言うのか? それも今首都にいるんだって?」
「憶測の域を出ませんが、その可能性は高いです」
メイルからの定期報告は問題なくマキノの元にも届いている。
会談の準備は順調だ。近い内に隣国から大使達が出発し、首都ティグールで今後の戦局を左右する話し合いが行われる。そして、事は起こる。エイセル達がクーデターを起こしてガレノールを失脚させ、ウィルの雇い主、トライバルがその後を継ぐ。
全てが上手くいけば、北方諸国は打倒ヴォルフに向け団結する。
魔族側がそれを見逃す筈はない。
それにガレノールの私兵の中には、あの冬がいる。
まさか首都がこの森同様に丸ごと吹っ飛ばされるような事は無いだろうが、厳しい戦いになるだろう。しかしマキノは、それにウィルも、とある理由から首都での戦いに参加する事は出来ない。だから彼らは今自分に出来る事をする。そして、目的地は近い。
「完璧な隠滅などありえない。隠滅したなら隠滅の痕跡が残っている、ですか」
歩きながらマキノは呟く。知っていればこそ見つけられた場所ではあるが、それにしてもこうも堂々とした痕跡が残っているとは思っていなかった。
マキノの足が止まった。
かがんで地面に転がっていた木屑を拾う。樫の木の破片だ。一目で分かった。協力者との戦闘で叩き折られた魔法使いの杖の欠片だ。ようやく見つけた魔法の痕跡だった。
マキノはそれを掌で転がしながら眺めていた。
「待ってて下さい。もうすぐ追いつきます」
腰を上げるとすぐに皆を呼んだ。長い旅路だったが、ここまで来れば後は駆け足だ。魔法の痕跡ならリューロンが追える。戦闘となればウィルとナルウィがいる。魔法の臭いを追った先には、協力者の隠れ家があるだろう。そこで鉢合わせて戦う事になるかもしれない。
その方が、むしろ都合はいい。
問題は恐らく、そうはならない事にある。
協力者は今、首都に居る。
己の手で戦火を灯せるだけの力と身分を備えた人物。
恐らくは既にクライムと出会い、メイルと話し、何食わぬ顔で隣にいる。
その首をまとめて斬り落とす為に、今も静かに牙を研いでいるのだ。