第25話 王都到着(前編)
肌寒い平原を、冷たい風が吹く。
北のリューン山脈から吹き下す風は、時折山頂の雪まで運んで来ると言う。国の人間達の言う所である北の果ての山脈は、その極寒と険しさから人間の侵入を許さない死の山である。山に近いほど空気も冷える。彼の故郷、グラムではフェルディアより一足も二足も先に冬が来るのだ。
ジーギルは一人、突き出た岩山の上で眼前の寂れた景色を眺めていた。波打つ平原、隆起した岩肌。この辺りではよく見る風景だ。吐く息は白く、動物の気配も少ない。その面白くも無い景色を瞳に映しつつも、彼の心は遥か遠く、己の生まれ故郷にあった。
あれは、もうどれだけ前の事か。
その頃は戦闘らしい戦闘も無く、ジーギルの仕事と言えば各地から入って来る魔物の出没情報を仕入れては巡行部隊の配置を調整するだけの、なんともつまらない物だった。おまけに首都近郊での目撃情報は、何者かによって既に倒された後だった、という訳の分からない事後報告書と共に来るものが殆どだ。最早溜息しか出て来ない。
言うまい。リメネスだ。あの女ときたら、魔物の気配を感じると、馬よりも速く走って行って一撃でそれを斃して来るのだ。命令も待たず報告もよこさず。ジーギルは書類を放り投げる。
グラム王国、王立騎士団団長と言えば、くたびれたその姿だけでも有名だ。くたびれた黒髪を後ろで適当に縛り、まるで引退間際の年老いた狼のようだ。目の下に大きな隈を作り、剣を杖代わりにしているのもよく見かける。だがその剣が一度抜かれれば、人間など一瞬で鎧ごと両断されると専らの噂だ。
巨漢という言葉を体現したような先代団長ゴルビガンドは、エイセル・ベイン、リメネス・ナキア等、名立たる候補を差し置いてこの男を後任した。先代とは真逆の才能に初めは皆が戸惑ったものだが、その手腕と実績に文句を付けられる者は誰もいなかった。
否、付けられよう筈もない。
国王の兄弟子たる男に、何の文句が付けられるのか。
あれは、もうどれだけ前の事か。その日も最低限の礼節のみで玉座の前に跪いたジーギルに、文句を付ける者は誰もいなかった。
君主に捧げた剣を杖替わりにしているのも、戦場に赴いたままの品のない戦闘服でいるのも目を瞑る。左右にずらりと控える貴族達の冷ややかな視線を浴びて、右後のゴルビガンドは苦笑し、左後のリメネスは知らんぷりだ。
「どうにかならんかな……」
グラム王は頬杖をつきつつ、そうぼやいた。
まあいい、と話を切り出した。内容は簡単なものだった。
北の山脈に近く凍土の多いグラムでは、最低限の資源の他は食料も工芸も南部諸国からの輸入に頼っている。明確な同盟こそ無いものの、一度彼らが窮地に陥れば救援を出すのが習わしだ。今回も同じだった。正体不明の魔物が出現し交易路での被害が拡大。討伐部隊を編成し、一刻も早く行路を復旧させよ。
ジーギルはその場で、王の隣に控える文官を質問攻めにした。最低限の礼節の他、弟弟子に対する遠慮は無い。仕舞には後ろから無言でリメネスに小突かれる始末だった。
だがジーギルは考える。
考え、考え、進言した。
フェルディアを含めた他国の人間が絡んでくる場合に備え、身分を隠し、自分を含めた少人数の部隊で対処する。
当然周りから反発が来た。だが王は彼の意見を尊重した。背後に控えるゴルビガンドも諫めない。この嗅覚とも言える判断力こそが、先代のような絶対的な力の無いこの男を団長たらしめる才能であるのだから。出発は三日後。人選は任された。
「ところで、リメネス」
一礼の後に下がろうとする三人を、王は決まって呼び止める。
「まだ、申し入れを受ける気にはならないか」
二人の男が足を止め、リメネスだけが振り返る。そして少し、王と目を合わせる。ゆっくりと片膝をつき、無言で頭を下げた。二人にはそれで十分だった。忠誠を表すその姿勢を見て、王はどこか満足そうに彼女を再び下がらせる。これもまた、いつも決まった二人の関係だ。
騎士は王の剣である。
鞘に収まったままでは、あなたを守る事は出来ない。
初めて王がこの話を口にして以来、リメネスはそう断っているのだ。
「悪くない話だろうにな」
肌寒い空の下。
波打つ大地の高台の上。
独り言のようにジーギルはそう呟いた。
呟きと共に、再び白い息が口から洩れる。
ジーギルが国の有力な騎士を引き抜いて国を発ってからどれだけ経ったか。岩のドラゴンと言う元凶を叩いて尚、騎士達の殆どが故郷に帰還しなかった。魔獣の深淵、ドラゴンの中の対の指輪。それを目にしたジーギルが再び判断したからだ。まだ、終わっていないと。
南部諸国との国交安定と北方各国の国境紛争。別々であったはずの二つの問題は、今や共通の一点へと収束しつつある。エイセルとリメネスは前者を、そしてジーギルとゴルビガンドは後者にそれぞれ当たる。ジーギルはゆっくりと、重い腰を上げた。
「来ましたかな」
いつの間にか隣に控えていたゴルビガンドが地響きの如き声で唸った。ジーギルには見えてはいない。だが感じたのだ。敵が近いと。やはりこれは、臭うとしか言いようのない第六感だった。程無くして、遠くから徐々に駒音が聞こえ始めた。その音から二人は相手の数を探る。
「ラビア王国軍二十。斥候のつもりでしょう」
「……一騎、やたら前に出ている奴がいる」
「剣の死神で間違いないですな。また厄介な相手が出てきた」
「フェリックスめ。近頃大人しくしていたと思えば、何故よりにもよって私がいる時に来たのか」
「むしろ団長が居ると知って出てきたのかと。フェルディア王国内での我々の動きも、ある程度は各国に掴まれているのでしょう」
「奴は私が相手をする。絶対に皆に手を出させるなよ」
そのまま二人は岩の高台を降りる。
高台の陰に揃っていたのは、グラムの国境警備隊だ。
馬に乗った鎧も無い速度重視の部隊。
掻き集められたその数は、凡そ五十。
剣を杖代わりにして、ジーギルは部隊に向き合った。
久々に率いるグラムの王立騎士団。王命とは言え、ジーギルは彼等を置き去りにして岩のドラゴン討伐に参加した。しかし久しぶりに再会した部下達の信頼は、全く揺らいではいなかった。一通り彼らの様子を確認すると、ジーギルは馬に飛び乗り部隊に背を向けて進み始める。
部隊もそれを追って進軍を開始した。
ジーギルの足も次第に速まる。
腰の剣に手をかけた。
そしてゆっくりと、剣を抜いた。
***
「凄い! 大きな街だ! レイ! アレク!」
大きい! 大きい!
あれがこの国の首都か!
フレイネストなんて霞むくらいだ!
「すげぇじゃーか。メイルはこんな所に入り込んだのかよ」
「おー! 久しぶりねティグール! 随分大きくなったじゃない!」
いやいや、何その近所の子供に久々に会ったみたいな感想。
僕だけ驚いてるみたいだけど、こんな大きな街は生まれて初めてだ。城壁の端まで視界に入らない位の大きさだし、その奥に城壁がもう一周、その更に奥にそれよりも高い城が見えている。凄い所だ。ここまで来たんだ。
思えばヴォルフの城から命からがら逃げ出して。
あれから、どれ位になるだろう。
魔物に追われて、散々に岩山や森を超えてようやく、本当にようやく辿り着いたんだ。ここまで来るのにどれだけ苦労したか。
以前見た黒の城とも雰囲気が大分違う。明るいんだ。ここからは多くの人の息吹が感じられる。こんな形じゃなくても、いずれティグールには来てみたいと思っていたんだ。そう思ってメイルにも調べて貰った事だってある。
古王国の時代から続く最古の都市。
別名、世界の中心。来てみればそれも納得だ。
ここに、例の冬の魔法使いもいるんだろう。それもあってかマキノは首都を目の前にして別れた。代わりにウィル、リューロン、ナルウィと合流して、五百年前に黒の城を封印した八人の魔法使いを探しに行くらしい。また寂しくなるけど、今は僕ら三人だけだ。
その三人に歯止め役はいない。僕らは子供みたいに平野を走り抜けて城門へと急いだ。足が軽かった。首都が見えてから、今までの疲れが吹き飛んでしまったみたいだ。
間近で見る城門も、無機質なフレイネストのそれとは別物だ。細かなレリーフや金の混じった見事な細工で縁取られ、上からは色彩豊かな国旗が幾つもたなびいていた。それを守る衛兵も煌びやかな鎧を纏って堂々としている。腰からは細身の長剣。右手には軍旗の付いたハルバードが握られていた。
そこにいたのは僕らを含めて馬車が数台。
検問。嫌な思い出だ。でも今の僕らには紹介状がある。
王宮に努める一級官吏からの紹介状。メイルからの紹介状だ。
「ふむ」
何だか豪華な蝋封がされた小奇麗な紹介状を見て、衛兵は僕らを見る。先頭では腕を組んだレイが楽しそうにふんぞり返っていた。
地面に届く長い黒髪。
目も覚めるような美しい顔。
擦り切れた、それでも立派な作りの黒いローブ。
尖った耳は丸くなり、赤い目は暗褐色に変わり、背中の翼も引っ込んでいる。やっぱり魔法かな。今のレイは普通の人間にしか見えない。それも子供のような人間にだ。早く早くとうずうずしていて、キラキラした目で衛兵の一言を待っている。衛兵はぷっと笑うと、僕らに紹介状を返した。
「よかろう。通るがいい」
「やった!」
レイはそう叫ぶとぴょんと飛んで敷居を跨いだ。
「私いっちばーん!」
***
首都の中心地から少し外れた、それでも賑やかな通りの一角。メイルはパッと顔を上げた。人混みの中に、こちらに近づく三人の人影が見えたのだ。
狩人のように雑多に服を着こんだ長身の剣士。
ぼさぼさの黒髪に少年のような顔の身軽な青年。
重厚なローブを纏った地面に届くほど長い髪の女。
顔がほころぶ。
手紙でいくら無事だと聞かされても、メイルは仲間の身を案じて眠れなかった。無事に首都まで辿り着けるのか。追手の手に掛かったのではないか。悶々と考えながら日々を送っていた。だが、本当に無事だった。何もかも別れた時のままだ。泣きたいほど懐かしかった。
ずっと会いたかった。
大声で名前を呼びたかった。
手を振って、駆け寄って、思い切り抱き付きたかった。
だが、である。そうやってはしゃぐのが今までのボク。それは一旦奥にしまい込む。今この時の事は何度も頭で練習してきたのだ。最初が肝心。メイルはすっと手を伸ばすと、良く通る高い声で三人を呼んだ。
「こっちだよ!」
それで三人はメイルに気付く。
クライムは嬉しそうに手を振った。
アレクは人目も憚らず飯をよこせと叫んだ。
精一杯背筋を伸ばして胸を張り、メイルは落ち着いた調子で三人を迎える。この数か月でボクがどれだけ大人になったか見るがいい。だが。二人の間にいた黒髪の女は、メイルを見ると両手を広げたまま猛然と突っ込んできた。逃げる間も無く捕まった。
「メイルーー!」
「ギャーー!」
メイルの計画した大人っぽい出迎えはその瞬間吹き飛ぶ。
体中を無茶苦茶に揉みし抱かれてメイルは叫んだ。
「レ、レイ、だよね!?」
「そう! 私レイ! 初めましてね!」
メイルは抱き上げられたまま、目の前の女を見つめた。
その顔を確かめるようにペタペタと触る。
「……レイ、レイだ」
今まで指輪を通してしか話した事の無い相手。岩のドラゴンを落としても会えなかった友達。クライムにヴォルフの城から助け出されて目の前にいる。目の前にいるのだ。抑えていた感情が止められなくなった。もう我慢だとか大人だとか、意味が分からない。
遅れて歩いてきた男二人は、メイルー! レイー! と抱き合う女二人を見て苦笑していた。メイルはレイをぽかぽか殴り、レイは小動物でも愛でるようにメイルに頬ずりした。訳の分からない事をぺちゃくちゃ喋り、泣きあったり笑いあったり、二人は二人なりにひたすら再会を喜んでいた。
「メイル、ただいま」
それがある程度落ち着いた頃。
クライムは少し申し訳なさそうな顔でそう言った。
クライムが最後にメイルと会ったのはフレイネストでの夜の事。半ば放心状態のメイルを、クライムは一言も声をかけずに置き去りにした。ずっと気になっていたのだ。だがメイルは、無邪気な笑顔で彼を迎えた。
「うん! おかえり!」
その一言でクライムの心は一気に暖かくなる。魔法のような一言だ。
トンと地面に足を下ろすと、レイの手を引きながらメイルは走り出した。
「さあ! みんな入ってよ! ここが僕の家なんだ!」
とても自慢げに、そう言った。
***
メイルの下宿。王宮に務める役人達に与えられた木造五階建ての第三階。その小さな一室は五人と一匹が押し込められてぎゅうぎゅう詰めだ。中央に位置するテーブルに山と料理が並べられ、到着した三人はそれを腹一杯詰め込みながらやいのやいのと騒ぎ立てる。
「おいエイセル! 次の料理だ!」
「やっぱりフェルディア産は味が薄くて駄目ね! おかわり!」
「エイセル! なんでエイセルがここにいるんだ!」
クライムは掴んだ鶏肉でエイセルを指す。レイとアレクが料理という料理を掻っ込む傍ら、エプロン姿のエイセルは困ったように頭を掻いた。
「なんでって言われてもなぁ。なんでだったっけか?」
「僕が聞いてるんだ! て言うか山猫屋ではよくもやってくれたな!」
「あぁん? じ、時効だ、勘弁してくれよ兄ちゃん」
「さっきから煩いよクライム。もう少し黙って食べられないのかい?」
ドラゴン狩りから随分長く会っていないものを、よくもそんな昔の恨みを覚えているものだ。そうフィンは半ば感心し、クライムは変わらず喚き、メイルが一生懸命事情を説明し、アレクとレイは隙を見てクライムの分の料理までかっさらった。
「グラムの王立騎士団!? エイセルが!?」
「に、兄ちゃん! 声がでけぇ! そこは一つ内緒でだな!」
「え!? じゃあジーギルとかヴィッツとか、グラム出身の山猫、全員!?」
「なんつーか、ギルの野郎は団長なんだ。俺らはその付き添いでだな……」
「王立騎士団の団長!?」
「おかわり!」
「ま、ま、待て姐ちゃん! 今作ってるからよ!」
「あーもー騒がしいったらないね……」
レイは鬼のような勢いで食料を掻っ込んだ。黒の城を出てすぐも、マキノの非常食を食い潰してあっという間に傷を治していた。魔族には食料を魔力に還元する術でもあるのだろうか。エイセルだけが手持ちの食材を切らして泣きそうな顔だ。アレクは気にせず食す。
「おー! 凄い凄い!」
メイルの要望で、レイは小柄なその体から大きな水鳥の翼を生やしてみせる。魔法で作った翼なのか、それは服の上から直接伸びていた。狭い部屋が更に狭くなってフィンは唸り、クライムが笑い、メイルが喜び、アレクは気にせず食す。
悪鬼のように恐ろしい赤い目。
髪の間から鋭く伸びた長い耳。
人目に付かないのを幸いと、レイは完全に元の姿に戻った。
エイセルはそんなレイをしげしげと眺めている。
「しかし姐ちゃんが例の指輪の魔族かぁ。もう伝説みたいなもんだな」
魔族など既に歴史の埃に埋もれ、実際はどんな姿だったかも正確に伝わっていない。クライムも未だに疑問だ。黒の城で見かけた魔族は、中庭の男にしろタリアにしろ翼など無かった。黒い髪に黒い翼、それが魔族だと聞いていたのに。結局の所、魔族とは一体何なのか。
一方で目の前のいわゆる魔族は鼻高々だ。
「そう! 私伝説なの! もっと褒めたっていいのよ!」
レイはどうだとばかりに胸を張る。
エイセルは無言でその胸を鷲掴みにする。
直後、凄まじい力で殴り飛ばされる。
アレクはしゃぶり尽した骨を咥えながら、それに不思議な既視感を覚えていた。
テーブルの上の料理の山。アレクはようやく食べ尽した。クライムは今になって自分の分まで食べられている事に気付いたが気にする事はない。変わらず賑やかな周りを他所に、アレクはよしと立ち上がった。
「じゃあ俺は少し街に出るな」
メイルはレイの翼に猫じゃらしの如く弄ばれていたが、その一言で我に返る。
「ちょ、ちょっと待って。アレク。街へ出るのは良いけど剣は置いて行って。それと絶対に騒ぎは起こさないでよ? 城を固める冬の防衛魔法、まだ正体が掴めていないんだ。どこで見つかるか分からない」
「あ? 知るかよ。剣も無しに外に出られるか」
むしろ剣など持って外へ何しに行くつもりなのか。久々に元気な姿を見れて嬉しいが、その有り余る元気で今までの努力をブチ壊されては堪らない。
「ダメだって! 何があっても剣は使わないで! ボクが何とでもするからさ!」
「アレク、ここはメイルの言う通りにしておこうよ。僕らは来たばかりなんだし」
「本当にね、剣を持たせたら面倒事しか起さないんだからね」
メイルにクライムにフィン。三者三様に駄目出しをされて、少しアレクは苛立った。剣を取られるのも守られるのも、アレクの柄ではない。
冗談交じりに、アレクはその場で剣の柄に手をかける。
振り返りながらゆっくりと引き抜こうとして。
「じゃあてめーら、その剣で今黙らせて、」
「落ち着けってあんちゃん。な?」
抜けなかった。
手をかけた剣が動かなかった。
気付けば、そこにエイセルがいた。
今まさにアレクが引き抜こうとした剣の柄尻を、エイセルが左手でやんわり押さえていたのだ。大した力ではない。抜こうと思えば抜けるだろう。しかしアレクは気付かなかった。他人の手が、自分の剣にまで伸びていた事に。
「お前……」
目の前でへらっと笑うエイセルの全身に、アレクは素早く視線を走らせる。ベルトの結び方から見るに、こいつは右利きだ。だがさっきから料理は左腕でしていた。右腕、隠しているが服の下に包帯を巻いている。何があった。アレクは低い声で言う。
「ちょっと来い」
「は? おいおいおい! ちょっと待て!」
問答無用。アレクはエイセルを引っ張って、足早に部屋を出て行ってしまった。一瞬の事で三人と一匹は呆然としていたが、メイルがはっと再び我に返る。
「え? ちょっとアレク!」
「いいよ、メイル」
二人を追って飛び出そうとするメイルをフィンが止めた。
「エイセルが付いてる。大丈夫さ」
「でも……」
うーっとメイルは唸った。
なぜだ。なぜ、こうなる。
メイルは気張って皆を待っていた。このティグールでなら自分の方が慣れている。地位もあるし、顔も利く。今まで皆が自分を守ってくれたように、ここでは自分が皆を守ってやるのだと。
だがアレクは言う事を聞かないし、エイセルは拉致されるし、レイにはいい様に遊ばれている。上手くいかない。思っていたのと違う。何故こうなった。メイルはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「分かった! もういい! クライム、ボク達も出よう! 街を案内するよ!」
もうどうにでもなれ、である。
「待って待って。私も行く」
「レイはダメ」
「えー!」
子供のように跳ねていたレイをクライムが一刀両断。レイは助けを求めてフィンとメイルを見るが、二人はしらっと目を逸らした。
「傷もまだ残ってるだろ? しばらく大人しくしていて。フィン、後は任せたよ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
「ん、行ってきます」
クライムは上着を羽織るとメイルの後に付いて外へ向かう。後ろからレイが抗議の声を上げていたが、あのお姫様にはこれ位が丁度良いだろうと、軽く手を振って扉を閉めた。
「ちょっとー!」
***
やれやれ。
ようやく落ち着いた。
みんな元気過ぎて何だか僕は疲れた。
旅が終わったばかりなんだから、もっとこう、休んだりとかさ。
疲れ切った僕が大きな石の橋脚に寄りかかって休んでいると、メイルがすぐに何かを持ってパタパタと走ってきた。目当ての物は買えたみたいだ。
「お待たせクライム! さ、次に行こう!」
「お、ありがとう」
僕らは歩きながらそのお菓子を食べる。生地を紙のように薄く焼いて、それでジャムや果物を巻いたお菓子だ。何これおいしい。隣ではメイルが口にジャムを付けながら、ボクの奢りだよと胸を張っていた。
指でそれを取ってやる。
ぱくっと食べるとメイルが真っ赤になった。
メイルはティグールの地理を完全に把握していた。森の木よりも背の高い建物がひしめくこの街をすいすい歩いていく。次々と案内されたのは、厳かな博物館、派手な歌劇場、大きなヴェリア王の石像。この見上げるような旧水道橋跡もその一つだ。
住宅街では身なりの綺麗な人達が騒がしく行き来していて、そこから一歩離れれば行商人の屋台やサーカス団で、どこもかしこも賑やかだった。子供達が屋台目当てに走り回り、式典用の派手な鎧の衛兵が街中を見回っていた。
気になってメイルに訊いてみた。
「どうしたのこれ。何か謝肉祭でもあるの?」
「これ? ああ、これは会談の準備に街を盛り上げてるんだよ」
ん? 会談? 何の?
「実は最近、西方諸国との国境付近でやたら小競り合いが増えててさ。巡回中の部隊がぶつかったとか、その程度なんだけど。いい加減お互いの立場を決めておこうって話になってるんだ」
ぶつかって……。ダメだろ。何やってるんだ。僕らが必死に黒の城から逃げてる間、国の反対側ではまだそんな事をやっていたのか。気分が悪くなってお菓子をぽいと口に放り込む。
「フェルディアは相変わらず近くの国に片っ端から喧嘩売ってるし、この間だってラビア王国の遠征軍がグラム王国にまで攻め入ったらしいし、もう何が何だか」
「グラムって、エイセルやジーギルの国じゃないか。大丈夫だったの?」
「グラムの部隊にいたって言う、疲れた顔の黒髪の剣士に叩き返されて、いちおう引き返したんだって」
疲れた顔の黒髪の剣士。さっきエイセルの話を聞いたばかりだし、彼の事しか思い浮かばない。でもジーギルが団長だとしたら、いつもその隣に控えていたゴルビガンドはひょっとして……。はは、まさかね。
「ここの中央議会だって、何考えてるか全然だよ。最高議長は怖い人だったし、冬の魔法使いは話が通じないし、スローンは話してるだけで腹が立つし。ボクもうどうしたらいいか分かんないよ……」
はあ、とメイルは溜息をつく。
確かに、案内の道すがら聞いたメイルの推測が正しければ、僕らは今八方塞がりだ。このフェルディアが既にヴォルフに乗っ取られているのなら迂闊に動けない。クーデターを目論むエイセルを止める事も出来ない。冬の魔法がある以上は普段の行動だって制限されるだろう。でも。
でも、違うよ。違う。
僕が考えてるのはそんな事じゃない。
マキノの指示で、メイルが役人として王宮で働いているのは聞いていた。けど、この人脈の広さは一体なんだ。僕が知らない間にメイルに一体何があった。今やメイルはこの国の奥の奥にまで入り込みつつある。マキノの期待なんて軽く超える成果だ。
「それにしても、あのスローンにまで気に入られるなんて。一体何をしたの?」
「気に入られてなんてないよ! ボクだって好きであいつの下に居る訳じゃないんだ! でも変な事を言われた事があるな。ボクが本とか持って歩いてると、どこか昔の奥さんに似てるんだってさ」
「えぇ!? あいつ結婚してたの!?」
相手は誰だ! 一体どこの物好きだ! って言うかそれ完全に口説き文句じゃないか! 犯罪だ!
「だよね! あんなのと結婚する人がいるなんて信じられないよ! 聞いてよ! この間だって形式が少しずれてるってだけで、ボクのやった仕事を全部白紙に戻されたんだよ! 背筋伸ばせだの遅いだの煩いだの、なんなのアイツ!」
一度スローンの愚痴が出ると、もうメイルは止まらない。それもそうか。殆ど一日中一緒に仕事しているって言うんだから。
でも、やっぱり気に入られてはいるみたいだ。メイルの言葉の端々からは、どこか彼に対する信頼の様な含みを感じる。確かにフェルディア王城の中では、あいつの存在は頼もしくて仕方ないだろう。
ぶつくさと文句が止まらないメイル。
それを見ながら、僕は少し考える。
やっぱりメイルは変わった。背も髪も随分伸びて大人っぽくなっていた。何せまだ十歳そこそこ、成長期だ。食べた分だけ大きくなる。
僕の気付かない所でもこの子は成長し、本人も気付かないうちに大人に近づいていく。きっと素敵な女性になるだろうな。でも、その時でも変身も出来ない僕は今の姿のままだ。並んで歩いている時に当然のように繋いでいた手が、今は当然のように離れている。
この子は走っていく。僕を追い抜いて、どんどん先へ。
でも、少し。
さみしい。
「クライム、どうしたの?」
メイルが下から覗き込んでくる。いけないな、僕の悪い癖だ。黙っているとすぐに余計な事ばかり考えてしまう。レイを無事に送り届けて、気が抜けているんだろうか。そう言えば、僕は今何をすればいいんだろう。
メイルは王宮で頑張っている。
フィンはみんなを守ってくれている。
アレクはメキメキと腕を上げている。
マキノは敵の弱点を探し続けている。
でも、僕は何もない。このまま所在無さげにメイルの家に厄介になるなんて御免だ。ティグールに着いてレイもアレクも元気なのに、僕だけが何だか腑抜けてしまっているんだ。
僕も何かしたい。
「メイル。僕もメイルの手伝いが出来ないかな」
唐突にそう口から出た。
メイルはきょとんとしている。
「そんな、クライムは何もしなくたって良いんだよ。ボクがクライムを守るから」
嬉しいけれど、それじゃあ駄目だ。駄々を捏ねてみるとメイルは一生懸命考えてくれた。と言うか一生懸命考えないと無いんだ、僕に出来る事。剣も使えない、魔法も使えない、頭も良くない、強くもない。そうだよね、無いよね、僕に出来る事なんて。
「あ!」
あ?
「あった! あったよ! 頼みたい事! 是非クライムに頼みたいんだ! いや、多分これはクライムにしか出来ないよ!」
「よかった。正直、何をしていいか分からなくてさ。任せてよメイル」
僕にしか出来ないと来たもんだ。よし、今は下手に動かずメイルの手伝いに徹しよう。一人で動くと、また何かやってしまうかもしれないし。
「さて、僕は何をすればいいのかな」
頼られるのが嬉しくて二つ返事で引き受けたけど。なんだろう、僕にしか出来ない事なんて。そう思っているとメイルは無言でニッコリ笑った。
「……」
……かわいい。少し大人びたせいか、今のメイルはきっと世界で一番かわいい。以前ならそんなメイルにデレデレして、僕はどんな無茶だって引き受けただろう。
でも、なんだろう。
何かが違う。背筋が寒い。
この笑顔、何故かマキノを思わせるんだ。
「……メイル、大人になったんだね」
そんな言葉が口から洩れた。
***
フィンはうずうずと体を揺すっているレイを見て溜息をついた。
フィンは感動しにくい質だ。指輪の魔族、レイと初めて対面しても何を話す訳でもなく、久しぶりだね、その一言で全てを済ませた。戦争での話や首都までの出来事、話題はあったが振らなかった。振るような雰囲気でもなかった。
暇で暇で仕様がないといったレイを傍目に、フィンはもう一度溜息をつく。
もういい。大体なんで僕がクライムなんかの言う事を聞かないといけないんだ。
「レイ」
びくんとレイが跳ね上がった。
「僕はちょっと出かけてくる。昼過ぎになったら塔の鐘が鳴るけど、その位には戻ってくるつもりだから。レイはちゃんとここにいてよ」
意味ありげな視線を送ってフィンはそう言った。
「え、ええ! 分かったわ!」
鐘が鳴ったら帰ってこい。そう言外に含ませたのがちゃんと伝わったらしい。それだけ確認するとフィンは窓からぴょんと外に飛び出た。背後からはバタバタと誰かが部屋から飛び出す音が聞こえる。だがもう知った事じゃない。
「ふう」
お転婆な姫の御守りからもこれで解放。
メイルもクライムとどこかへ行った。
フィンは久々の一人の時間を満喫する。
翼を出さずに白いイタチのような姿のまま、屋根から屋根へ歩いていく。地上では空が狭く建物が空気を圧迫し、どこもかしこも人間でごった返して息苦しい。だがここは大違いだ。屋根の上は身軽なフィンだけに許された特等席だ。空はどこまでも広い。
屋根の上をぶらついていると、鳥達が空を駆けていく。
塔の上からは、大通りを沢山の人々が歩いているのが見える。
建物の海を押し分けるように建っているのは、国立歌劇場や水道橋跡。
気の向くままに、フィンは昼前のティグールを回った。
フィンは元々群れるのを嫌う。クライムと出会って以来毎日が騒がしいが、それでも基本は一人静かな時間を好むのだ。これは貴重な時間だ。最近はメイルにもやたらと顔馴染みが増えて、クライムが来てからは一気にうるさくなった。帰ればまたレイがいるだろう。あんな性格でも約束は守る女だ。
その後。
フィンは人目に付かないよう空を飛び。
猫に紛れて屋根の上で昼寝をし。
金だけ置いて露店から果物を失敬し。
面倒だったが親と逸れた子供に道を教え。
最後に少し体を動かすと短い楽しみを終わらせて帰路についた。
「………………誰?」
宿に着くなりフィンは唸った。
確か部屋を出た時、ここにはレイ一人だったはずだ。それが今は四人いる。増えた三人は三人とも女で、剣士だった。赤と、青と、金だ。
「誰はこっちの台詞よ! って言うか何で喋ってるのよ!」
「誰じゃない。オーバンの祭りでも会っただろう」
ベッドに腰かけたレイ、その右隣の赤い少女が吠え、左隣の青い少女が嗜める。少し離れた椅子で優雅に紅茶を飲んでいる金髪の女は知らんぷりだ。金髪は背が高く年上なのもあって、まるで赤と青の保護者のようだった。それにしても。
「オーバン、か」
聞き覚えがある言葉がフィンの記憶を刺激する。岩のドラゴンが落とされた後、大きな祭りが行われていた村だ。するとこの三人は山猫騎士団の一員か。エイセルにせよ彼女達にせよ、フィンは人の顔と名前を覚えるのは苦手なんだと何度言わせるつもりだ。
だが、そうだ。
あの祭りの夜、確かに居た。
何かにカンカンに怒っていた赤い少女と。
どこか冷めた様子でその隣にいた青い少女。
「えーっと、ヴィッツに、テルル、だっけ?」
この二人は山猫騎士団、それもエイセル同様にジーギルが連れてきた十二人の騎士だ。あの歴戦の狼集団の中では珍しくクライムやアレクとも同年代で、祭りでは皆で集まって楽しそうに騒いでいた。一方で相手は自分の事など覚えてないらしい。
「ちょっと待って! いたわこんな奴。ほら、あの、何だっけ、あいつね!」
真っ赤な髪を後ろで括ったヴィッツは、そう言ってビシッとフィンを指さした。背中まで青黒い髪を伸ばしたテルルは、そんな連れの様子を見て溜息をつく。レイはそんなテルルの髪を楽しそうに三つ編みにしていた。
「二人とも、」
どうして首都に。そう訊こうとして分かった。彼女達は確かに山猫の一員だったが、それ以前にグラム王国の騎士だ。理由はエイセルと同じだろう。無言で紅茶を飲む金髪の女騎士。リメネス、彼女の事も思い出した。
「でも、あんた何でここにいるの? ここにはメイルって子しかいない筈でしょ?」
「彼はメイルの友人だヴィッツ。覚えていないならそう言え」
「お、覚えてるわよ!」
やる気の無さそうなエイセル本人と言い、どうにもこう、この潜入者達に緊張感は無い。
「逆に訊くけど、三人こそ何しに来たんだい。そう、ここはメイルの部屋だよ」
「知らないわよ、そんなの」
そう言ってヴィッツは口を尖らせた。
彼女はブツブツ文句を言うが、概要はこうだ。
面倒な下準備はエイセルに丸投げして、彼女達は街外れの剣闘場で稽古に明け暮れていたらしい。今日も今日とて二人はリメネスに稽古を付けて貰っていたが、そんな時だ。エイセルとアレクがやってきた。
話ならここで聞くとエイセルが欠伸をし、いいから勝負だとアレクが剣を抜く。そしてエイセルは露骨に手を抜いてアレクを勝たせたが、それが逆にまずかった。頭にきたアレクが延々と再戦を申し込み、男二人の不毛な戦いが続いていく。女二人は付き合いきれないとばかりに休憩がてら外へ出た。
そこでレイに捕まった。
指輪越しにすら話した事のない二人に、レイの事が分かるはずも無い。だがレイは初対面のヴィッツを欲望のままに抱きしめ、割と本気でヴィッツがもがき、しかし魔族の腕力に敵う筈もなく、そして成す術もなく二人は文字通りお持ち帰りされてここにいる。リメネスは助けてくれなかった。
「……ここに来てまだ半日と経っていないだろうに、僕らでさえ見つけていないグラムの騎士を三人も捕まえてくるなんて」
手が早いと言うか何と言うか。面倒事を持って来るという一点においては、レイはクライムと同等の才能がある。当のレイはと言えば、街で見つけた戦利品、もとい美少女二人を両脇に侍らせて随分とご満悦だ。
「それで、フィン、だっけ?! こいつは一体何なのよ!」
そう言ってヴィッツは立ち上がるが、レイの馬鹿力でまた座らされる。なるほど。この二人が大人しくベッドに腰かけているのはそういう事か。
「何って、えーっと……」
「言えないような奴なの!?」
何と言われても、どう説明してくれようか。
岩のドラゴンと同類だと言えばいいのか。
ヴォルフと同族だと言えばいいのか。
今はただの仲間だと言えばいいのか。
頭痛がしてきた。
やっぱり外になど出すべきではなかった。
ヴィッツの追撃はなおも止まらなかった。
「……」
リメネスは無言で紅茶を飲む。少女が騒ぎ立てる様子を少し面倒くさそうに。それでも黙って、穏やかに眺めていた。
今日も、日差しは暖かかった。
***
首都ティグール中心。
フェルディア王宮。
壮大な大きさを誇るその王宮では、国王や貴族達を含めて多くの人々が暮らしており、内設された施設では多くの役人、議員が政務をこなしていた。
その王宮の。
外縁部のとある一角。
役人達が何の気なしに通る一本の通路。
しっくいで白く舗装された壁に入った僅かなひび。
カミソリすら入らない様なその小さなひびから、少しずつ、水が漏れていた。
目を凝らさなければ見えない程の量だ。壁を静かに伝って床に垂れ、赤い絨毯の下に潜り込んでその下にある別の、また僅かな隙間に浸み込んでいく。
水は少しずつ漏れていた。
だが、一行に止まる気配もなかった。
それもそのはず。水ではない。泉の魔物、クライムである。
泉の魔物はその名の通り水となって泉に紛れ、その状態のままでも動く事に問題ない。事実アレクの姿を覚える前、クライムはずっとその姿のまま旅をしていた。そして体を完全に水に溶かしたクライムに侵入出来ない場所はない。地下水のように土の中さえ通り抜けられるのだから。
城門も城壁も、有って無いようなものである。
警備も衛兵も、今のクライムには関係無い。
ましてここには黒の城のような呪いも一切ない。
クライムは難なく王宮に侵入した。
国王暗殺まで成功しそうな勢いだった。
「ここ、いや、こっちかな」
壁の中、床の中。石組みの隙間を通り抜けながらクライムは目的地を探していた。文字通り光も射さない場所だけに、目的地へ辿り着くのは困難だった。そこはどこでもない。メイルでさえ見た事も無い。王宮の人間達でさえ存在すら知らない場所だ。
「やってもらいたい事があるんだ」
メイルはそう切り出して、まずは説明するよと二人は宿に戻った。そこでクライムはヴィッツ、テルル、リメネスの三人と鉢合わせて散々揉める羽目になったのだが、それが落ち着いた後の事である。
メイルはおもむろに棚から紐綴じになった分厚い書類を引っ張り出すと、紐を解いて書類を広げた。本の形に偽装していたが、それは大きな一枚の紙が何重にも折り畳まった塊。一体どこから持ってきたのか。フェルディア王城の見取り図だった。
最初はテーブルの上に広げていたが、ここでもない、ここも違うとメイルはどんどん広げていき、目当ての場所が見つかる頃には見取り図は部屋一杯にまで広がっていた。
それはどこから持ってきた訳でもなく、フィンの提案によりメイルが独自に作成したものだった。仕事の間も仕事の合間も、メイルは可能な限り王宮を歩いて事細かに見て回った。そして宿に戻ると記憶した限りの間取りを書き込み、自分の歩幅から距離までも正確に算出してこれを書き上げたのだ。
こんな馬鹿げた方法で情報が洩れているなど誰一人知るまい。
しかも手がかりは記憶のみ。まさに完全犯罪である。
「そう、この辺りだね」
メイルが指したその場所。
そこには何も無かった。
意味が分からなくてクライムが訊ねると、無い事が問題なのだとメイル、そしてフィンが説明する。
実はこの見取り図、最初は穴だらけだった。しかしメイルは建設当時の構造や構想から、当然そこに部屋があるはずだ、と当たりを付けて調査し、そして見つける事によって埋めていったのだ。最早手慣れたものである。
そして問題のこの場所。王宮外縁部の地下深く。周りの部屋の配置から、二人が思うにこの辺りにも確かに部屋があるはずである。だが無かった。そこへ通じる道も無く、誰に聞いても分からなかった。本当に部屋など無いのではと思ったほどだが、しかしどう考えてもあるとしか思えない。
ここまで来るともう気になって仕方ない。それこそメイルが、今こそ地中の賢者がその名の由来を示す時、と床を掘り進んで辿り着こうとした程だ。当然フィンに叩かれて未遂になった。しかし。そこへクライムはやってきた。
「まだだな。くっそー、メイルめ」
水が隙間を通り抜ける。それは意識的にやると思いの外難しい動きであった。冬の防衛魔法の隙間から侵入を開始したため、かなりの遠回りにもなっている。しかも問題の部屋に通じる道もどこにあるのか分からないため、クライムは目的地まで完全に石の隙間を縫うようにして移動する事になった。
もう体がだるい。
だが引き返す訳にもいかない。
今日一日で感じた寂しさが、胸に付いて離れないからだ。フレイネストで死体の巨人と遭遇してから全く休まず駆け抜けてきたせいだろうか。もう安全だ、そう無意識に思った瞬間に、今まで忘れていた全ての不安が押し寄せてきたのだ。
あの夜、クライムはメイルを置いて行った。さぞ不安がっているだろうと思った。しかし実際会ってみれば、逆にメイルは生き生きとしていて一回りも二回りも大人になっていたのだ。
過保護なくらい世話を焼いているとフィンに言われた事もあるが、もしかすると自分と一緒にいた事がメイルの成長を妨げていたのではないか。メイルを守る、本しか知らない少女に世界を見せる。そう思っていたのに、実際には自分がメイルに手を引かれて来たのではないか。
そう、手を引かれて来たのだ。
自分は全く動かなった。
少しも成長していない。
そもそも旅を始めたのは何故だ。
故郷を失くす前からも、旅をしたいとは思っていたはずだ。
何がきっかけだった。
誰の影響だった。
誰と約束をした。
その人はどうなった。
思い出せない。思い出したくない。仲間達はどんどん先に進んでいるのに、こうやってまた自分は足踏みばかりしている。不安は拭い切れない。体を動かしていなければ潰れてしまいそうだった。
クライムはひたすら目的地を目指す。
メイルを手伝っている内は不安は無い。
こうして動いている間は、確かに前へ進んでいるのだから。
「ん?」
違和感。
建物の重みで圧縮された堅い場所ばかり通っていたが、だんだんと、それが緩くなっている。近くに何かあるのだ。メイルの見取り図に、この深さに位置する部屋は存在しない。当たりだ。
最初に見つけたのはネズミの通る小さな穴だった。ようやく隙間を抜け出してほっと一息。どうやらその穴は例の部屋まで続いてるらしく、空気の流れに沿って穴の出口を目指す。段々と光が見えてきた。
穴を抜ける。
石造りの、窓一つ無い部屋だった。どうやら二人の読みは当たったらしい。クライムは周りを眺めつつ人の姿を取った。そこは散々に散らかった、見たことも無い部屋だった。
円い機械に取り付けられた部品が、カチコチと規則的な音を立てる。
ガラスの容器からは、怪しげな白い煙が立ち込める。
山と積まれた紙の中からは、時折ネズミが顔を出して部屋の端に駆けて行った。
誰もいない。この散らかりよう、確かに人の臭いがする部屋なのだが、それらしい姿も無い。それにしても酷い。クライムはつくづくそう思った。元々の造りは王宮と同じく豪華なものだったはずだ。広めのベット、綺麗な机、優雅な食器に絵画の数々。それが今では見る影もない。
床一面には書き散らかした羊皮紙が足首まで積もっている。部屋の隅には鳥の様な形をした大きな機械があって空間を圧迫し、机の上は小さな部品や書類の山で埋まっていた。作業用の机にも山と書類が積んであって、そこで座ったまま寝ている男も汚い雰囲気で……。
「あれ?」
男がいた。
男は机に突っ伏したまま寝息一つ立てずに居眠りしていた。右手に羽ペンを握ったままだ。恐らくこのゴミの山を量産している最中に寝落ちしたのだろう。
「えーっと……」
どうしたものか。部屋を突き止めた時点で収穫はあった。このまま帰って二人に報告するのが無難だ。秘密の部屋に引き籠っている時点で、この男からは危険な臭いしかしない。そもそも生きているかも怪しい。声をかけるべきか、否か。
そうクライムが迷っていると、男は跳ね上がるような勢いで飛び起きた。クライムは驚いて壁まで後ずさる。
「……」
男は飛び起きたまま空を見つめ、思い出したようにペンを強く握る。そして羊皮紙に飛び掛かると高速で何か書き始め、瞬く間に書類の山を高くしていった。その鬼気迫る様子にクライムは微動だにできなかった。
しばらくして、ようやく男は一息つく。軽く頭を振ると、初めて目が覚めたかのように欠伸をしたり首を鳴らしたりした。
「……む?」
ここで。
ようやく。
男はクライムに気付いた。
クライムは完全に逃げる機会を逸していた。
男は捲し立てるような落ち着きの無い口調で言った。
「誰だお前」
眼鏡の向こうの鋭い目が、クライムを捉えて離さなかった。