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変わり者の物語  作者: あなぐま
第2章 北の大地
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第23話 脱出と再会

 どれ位の時間が経っただろう。

 遠くで何か重いものが擦れる音がして、僕は我に返った。


「……逃げなきゃ」


 レイの頭を撫でつつ僕は改めて周囲を見る。


 狭い石造りの牢で窓一つ無い。石で出来たベッドや椅子もあったようだけど、今はただの瓦礫になってしまっている。据え付けられた松明も腐っていて、床に敷かれた藁は水に浸って氷の様に冷たかった。そして部屋の隅からは太い鎖が伸びていて、レイの両腕に繋がっていた。


 レイの脚は動きそうにない。傷は治るどころか悪化している。今から二人で逃げるにはかなり状況が悪い。まずいな。ここは終着点じゃない。まだ折り返し地点なのに。 


「レイ、立てる?」


 一応聞いてみる。レイはしばらく僕から離れなくて、それから乱暴に涙を拭った。自分を引き剥がすように僕から離れる。


「……待って」


 休ませてあげたいのは山々だけれど、一刻の猶予も無い。レイは壁に手をかけて脚に力を込める。身を震わせながら少しずつ体を起こして、僕はもう一方の手を取ってそれを手伝った。


「っつ!!」


 苦痛の声が漏れるとレイはその場にへたりこんだ。僕もつられて倒れる。髪の間から粗い息遣いが聞こえた。握った手は脂汗で濡れている。


 やっぱり駄目だった。ならここからは僕がレイを背負って来た道を引き返す事になる。松明だけは持ってもらって、知っていれば近道とかも教えて欲しい。大丈夫、大丈夫だ。絶望的な道のりだけど、来れたって事は帰れるって事だ。


「……ねぇ、馬はどこ? 気の利かない私の王子様」

「は?」

「囚われの姫を助ける物語の王子様は、白馬で駆けつけるって相場が決まっているでしょう? 城の外に繋いでいるのかしら。まさか歩いて来たなんて言わないでよ?」


 完全に元のレイに戻ってる。

 立ち直りが早いのか、それともカラ元気か。

 でも、あれか? 白馬ってあれの事か?


「ご、ごめん。ちょっとお遣いに出しちゃった」

「ふっ。ふふふふふふ」


 ぺしりと弱々しく頭を叩かれた。

 なんだよもう。僕は王子様なんかじゃないよ。


「と、とにかく牢から出よう。先はまだ長いんだから」

「あはは、どうやって出るって? 鍵、開いてないじゃない」


 ん?


「君、どうやってここに入ってきたの?」

「いや、その、開かなかったから、格子の間をすり抜けて」

「そんな事だろうと思ったわ。これね、絶対に通れない出入口じゃなくて、絶対に開かない出入口なのよ。結局は同じ事なんだけど、まさかそんな方法で入ってくる人がいるとはね。鉄も魔法も君には全く形無しだわね」


 そう言ってレイはまた笑った。


 待てよ。なら僕はどうやってレイを出せばいいんだ。そもそも鎖で繋がれている彼女をどう動かす。なんて事だ。見つける事が大仕事だったから、連れ出す事が全く頭になかった。無計画にも程がある。


 何がおかしいのかレイはずっと笑ってるけど、僕は情けなくて頭が痛くなってきた。


「ごめん、僕、何しに来たんだか。本当にかっこ悪いね……」

「かっこいいよ」


 そう言ってレイは僕の手を取った。


「君は、十分かっこよかったよ」


 何だこれ。背中がむずむずする。触れているレイの手がやけに優しく感じた。馬鹿言っちゃいけない、かっこよくなんかない。いや、かっこ付けようとして自分で全部台無しにしている感がある。溜息しか出ない。


 からん、と。

 何かが転がる軽い音がした。


 緊張で体が一気に力む。レイの手を振りほどいて弾けるように立ち上がった。今の音、外からだ。誰か来ているかもと頭の隅で考えながらも、鉄格子に駆け寄って外を見る。


 さっと視線を走らせた。一瞬何もないように見えた。捻じ曲がった通路、果てしなく続く牢獄、囚人達の絶え間ない喚き声。来た時と同じ。何も変わらない。一体何だったんだ。


 そう思った時だった。通路の小さい窓から、雲が途切れたのか微かな光が差し込む。それに反射して床で小さな何かが光った。


 宝石、いや、水晶だ。

 大きさは拳程度。


 見れば壁に小さな窪みがあった。そこから落ちたのか、さっきは走っていて気付かなかったんだ。こんな事でいちいち驚くなんて怖がり過ぎなんだろうか。長い溜息が出た。張りつめた筋肉がしぼむ。


「何だったの?」

「いや、なんか小さい水晶が転がっていて」

「水晶?」


 レイは眉間に皺を寄せて思いきり怪訝な顔をした。

 大袈裟な反応だ。どうかしたんだろうか。


「水晶ね。ふふ、成程やってくれるわ。仕掛けたのはベル、いや蜘蛛かしらね」

「いったい何の話を……」


 衝撃音。

 僕は再び飛び上がった。

 びっくりしてもう一度外に振り向く。


「なんだあれ!?」


 月の光できらめく物が、なんだか大きくなっている。床に転がった拳大の水晶から、細長い水晶が真っ直ぐ伸びて壁に突き刺さっていた。


 再びの衝撃音。今度こそはっきり見えた。水晶の一部が一瞬盛り上がったかと思うと、剣のように鋭い水晶が素早く伸びて、今度は天井に突き刺さる。とんでもない速さだった。何だあれは。


「さーてと。急がなきゃあねぇ」


 後ろで能天気な声が聞こえてくるけど、またしても新たな水晶が生えて壁に突き刺さる。しかも新しく生えた部分からも更に新しい水晶が生えてくる。壁に突き刺さる度にけたたましい音がして、牢獄は今や武器を作る製鉄所のように煩かった。


「げっ!」


 剣の水晶が牢の一つを鉄格子ごと貫通した。中から悲鳴が聞こえて牢の外にまで血が飛び散ってくる。囚人達が更に騒ぎ始めた。ある者は牢内を無茶苦茶に走り回り、ある者は出せと言わんばかりに鉄格子を叩きまくっている。


「何だあれ! この鉄格子、絶対に開かないんじゃなかったの!?」

「あれは特別製な訳よ。眠れる悪魔って言って脱出防止用の罠って所かしら。バレたのよ、私達の事。でも困った事になったわね」


 剣は後から後から止めどなく生えてきて、拳大だった水晶はネズミ算的に大きくなっていく。別の牢からも悲鳴が聞こえてきた。刺された囚人は呻きながらも剣を折ろうと掴むけど、そこから生えた別の剣が一瞬でとどめを刺した。頭を一突きだ。


「クライム、良く聞いて。この鎖のせいで私は魔法が使えない。簡単にはここから出られないのよ。多分それよりあれが入ってくる方が早い。だから、君だけでもここから、」

「ふざけんな!!」

「そうなるわよねぇ……。さて、どうしたものかしら」


 遂に一本の太い水晶が格子を破って入ってきた。レイを反対の隅に突き飛ばして、僕は牢の敷石を引き剥がす。頭まで振り上げて、思いっきり水晶に叩きつけた。折れない。でも抉れた。腰から剣を抜いて力任せに斬りつける。一回。二回。


「ぐ、あ!?」


 激痛が走って視線が下がる。今まさに斬りつけている水晶から細い水晶が突きだして、僕の右肩を貫いていた。痛みに耐えてそれをへし折り、左手で引き抜く。でもどんどん水晶は生えてきて、一本が腹を掠め、一本が脚に突き刺さる。


「くそ!」


 まるで持ち手のいない剣を相手にしているようだ。一つを受けても次々と剣が突き出されてきて、僕はガムシャラにそれを叩き壊す。そして一瞬、ほんの一瞬その成長に隙が出来た。視界に大本の抉れた傷が飛び込んでくる。自分の剣を構え直し、そのヒビめがけて振り下ろした。


 重々しい音を立てて最初の水晶が床に落ちる。同時にそれから生えていた全ての水晶も成長を止めた。僕は荒い息を吐いた。


 なのに。

 見計らったかのように新たな水晶が牢へ入ってきた。


「これじゃあキリが無い!」


 生えてくる水晶を片っ端から叩き折っていくけど全然間に合わない。しかもその隣にさっきよりも更に大きな三本目が飛び込んできた。同時に四本目が腕に突き刺さる。


「レイ! 奥へ!」


 僕は手助けしようと前に出かけていたレイの手を掴んで、反対側の隅に再び押しやった。


 限界だった。もうどうしようも無かった。三本目と四本目は目の前で好き勝手増えていく。僕はレイを庇いつつ、時折伸びてくる水晶を叩き折る事しか出来なかった。本当に、まったく何しに来たんだ。助け出せないのに助けに来て、結局は罠を起こして事態を悪くしただけ。自分の無力さに腹が立った。悔しい。


 悔しい!

 悔しい!!


「クライム」


 後ろから優しい声がした。レイがそっと僕の肩に手をやる。振り向くと柔らかく微笑むレイと目が合った。髪の隙間から覗く血のように赤い目が、なぜかとても美しく見えた。


「もう、十分よ」

「諦めるな! 僕がなんとかする! 絶対助けるから!」


 夢中で叫んだ。諦めかけていたはずの口から無責任な言葉が飛び出してくる。


「いいから、少し休んで」


 顔をしかめつつ、レイがゆっくり立ち上がる。倒れた拍子に脚の傷に触れたのか、両手が血で真っ赤だった。ふらふらになりながらも僕を庇うように前に立つ。何をしようとしているんだ。いや、何も出来ないはずだ。永い投獄生活で力は残っていない。鎖のせいで魔法も使えない。でも、さっきの、あの優しい目は。


「レイ、どうしたの」

「いいから見てなさい。お姉さんがちょっとした手品を見せてあげる」

「何言ってる! 使えないんだろう、魔法は!」

「私を誰だと思ってるの?」


 何が何だか分からなくて、僕は動けなかった。レイが両手をゆっくりかざす。目の前で暴れる水晶に向けて真っ直ぐと。不思議な既視感を覚えて、その背中になぜか胸がざわついた。血で濡れた手。汚れた袖。どこかで。


「あ……!」


 分かった。

 呪文だ。


 服が元々黒くて気付くのが遅れた。レイの手から服の上を通って肩にまで伸びている赤い紋様、それは彼女が自分の血で描いた呪文だった。


 フレイネストでのマキノが脳裏を掠める。

 あの常軌を逸した魔法が、止められない暴威が、生々しい傷が。


 だめだ。


「やめろ!!」

『ゼルギオーズ!!』


 轟音と共に一瞬で目の前が真っ白になった。


 顔を手で庇いながら薄く目を開ける。雷だ。レイの手から、幾つもの稲妻が視界一杯に弾けて、蛇のようにのたうちながら手当たり次第のものを破壊している。それが水晶を切断し、粉砕し、焼き尽くしていく。


 レイの両腕から血が噴き出す。マキノの時と同じだ。雷は止まらない。狂ったように暴れ回り、建物ごと破壊しかねない勢いだ。余りの熱さに僕は一歩離れようとして、そして思い止まった。


 マキノはこの魔法を使った後、生きているのが不思議なくらいの重症だった。回復したのもきっと万全の準備をしていたからだろう。でもレイはどうだ。元々死にかけていた所に追い打ちをかけるように無茶をして、体がそれに耐えられるはずが無い。


「レイ!」


 雷鳴が轟く中、僕は必死に呼びかける。返事は無い。やっぱりこの魔法は自分で止める事が出来ないんだ。吹き荒れる風に逆らいながら、僕は少しずつレイに近付く。弾き飛ばされ石の破片が顔を掠めた


 後ろから抱き締めるようにして、僕はレイの両手に向けて腕を伸ばす。目の前で迸る激しい閃光で、目を閉じていても視界が真っ白だ。僕の指先はじりじりと雷を生み出すレイの手に近づき、それだけ熱さが増して手が焼けていく。


 手が重なる。レイの指は固く強張ってびくともしなかった。あらん限りの力を込めて無理矢理それを折り曲げる。


 少しずつ、手を握らせていく。

 その間も手が焼けて、気を失いそうだった。

 力が抜けていく、でも今はただ力を込める事しか出来ない。


「っ……!」


 目の前が急に暗くなった。

 魔法を握り潰した。雷は止まっていた。

 やった、やってやったぞ。死ぬかと思った。

 へたりこんだ僕に、レイはぐったりと背中を預けた。


「……やってくれたよ。まったくもう」


 ポカっとその頭を叩く。


 焼けて張り付く前に、僕は手を引き剥がした。煙が立ち上る自分の焦げた両手。まるで焼き加減を間違えた鹿肉だな。


 急に胸元に違和感を覚えた。すぐに気付く。レイが嵌めていた魔法の指輪、僕のそれと対になっていた指輪が黒く焦げて彼女の指から落ちた。床を転がり、一瞬ひびが入ると、砂のように崩れて跡形もなく壊れてしまった。それと同時に僕が持っていた指輪も胸ポケットの中でガサッと崩れる。


「……」


 この旅の始まり。

 何度も助けられた命綱。

 それが、もう二度と取り戻せない。複雑な気分だった。


 雷鳴で馬鹿になっていた耳に、音がようやく戻ってきた。囚人達は相変わらず叫び続けている。代わりに沈黙していたのは、あの水晶。牢獄一杯に蜘蛛の巣のように広がっていた剣の水晶は、全て砕けて動きを止めていた。


 座ったまま横を見ると、雷が一掃したのは水晶だけじゃなかった。外気が盛大に吹き込んできている。見れば牢の外壁がぽっかり吹き飛んで景色が良くなってるし、絶対に開かない鉄格子も、恐らく絶対に外れなかった筈のレイの鎖までも焼き切れている。解決法としては最低だけど、結果的にはこれで脱出できそうだ。


 でも、おかしい。


 こんな奥の手があるんだったら、どうして今までやらなかったんだ、って、そうか。自分で止められないなら切り札を切っても死ぬだけだ。きっとあの雷は最後にレイ本人まで焼き尽くした。魔法の止め方は使った術者が死ぬ事、どうせそんな所だ。


 術者の血と痛みを代償にして、無差別に爆発する最悪の魔法。

 フレイネストでは曖昧にしていたけど、今度ちゃんと訊かないとな。


 でもそれなら、逆になぜ使ったんだ。

 使っても死なないよう、対策でも取っていたんだろうか。


「……はは」


 その答えも一瞬だった。

 死ぬ気だったんだ。僕だけ逃がすために。


 レイは何も変わっていない。ドラゴン討伐に協力して酷い目に遭ったのに、いや、旧大戦でも裏切られて何百年も閉じ込められたのに、また自分じゃない誰かを助けようとした。ふざけんな。死なせてたまるか。死にたいって言っても助け出してやる。


「レイ、立って」

「……むり。立たせて」

「もう、しっかりして。すぐにでも……」


 騒ぎを聞きつけてあの鋼の兵隊が来る。そう言おうとした僕の耳に、固い何かが擦り合う騒がしい音が飛び込んできた。一人じゃない。編隊で向かって来ている。


「もう来てる! 立て! 立つんだよ!」


 雷が壊したのは僕らの牢だけじゃない。この辺り一帯の牢が残らず開いていて、生き残った囚人達が脱獄を始めていた。痩せ細って骨と皮だけの人間達。鎖で縛られた得体の知れない怪物達。ここはもう混乱の極みだった。


 その中で、酷く落ち着いた何かが聞こえた。


 向かいの牢だ。皆が慌ただしく自分の牢から逃げ出す傍ら、その牢にいた囚人はゆっくりと格子を開けて外へと進み出た。


 何か変だ。雷の直撃を食らっていながら彼は無傷だった。戸惑う素振りも見せない。牢が開いていて当然、鍵が掛かっていなくて当然といった様子だ。いや、むしろ鍵と言うなら何十と男の腰にある。腰に巻きついた鎖からジャラジャラと。


 見上げるように大きな男。

 こいつは囚人じゃない。

 この牢獄の、番人だ。


 簡単なズボンを穿いているだけで上半身は裸。筋骨隆々で岩のように盛り上がった体だ。ボサボサの茶色い髪が背中まで伸びていて、顔も上半分が見えない。


 でも牢番は、顔をこっちに向けていた。周りの騒ぎも全く気にせず、僕とレイをじっと見つめている。僕まで目が逸らせなかった。レイを起こそうとした手も止まってしまう。髪に埋もれた見えない目が、僕には見えた気がした。


 レイとは違う、炎のように赤い瞳だった。

 それが一瞬、昏い光を放つ。


 牢番の髪の毛が逆立つ。身を丸くして強張らせ、筋肉が膨れ上がる。地面についた手がガリッと敷石に爪痕を残した。言い知れぬ危機感が漂ってくる。こいつ、やばい。


「な、何なんだ……」


 身の毛もよだつ光景から目が離せない。


 体はどんどん膨らんでいく。針の様に固い毛が皮膚を突き破って全身から生えてきた。髪の毛の中からは四つの獣の耳が、後ろからは太い尻尾が突き出してくる。再び牢番の赤い目が僕らを捉える。もう、人の顔じゃない。口は耳まで裂け、薄く開いた鋭い歯の奥には、更にもう一列の歯が並んでいた。


「レイ! やばい! 逃げるよ!」

「……やだ、おぶってよ」

「冗談言ってる場合じゃないんだって!」


 異変に気付いて辺りの囚人が離れ始めた。牢番は茶色い毛に覆われた怪物となって、更に変身を続けていた。どんどん大きくなる体躯は壁や天井まで圧迫して、ぱらぱらと砂や破片が落ちてくる。口から炎の混じった熱い息が漏れた。


 焦茶色の体毛に白い腹毛。

 膨らむ巨体は鉄の壁も石の天井も押し分けている。

 さっき見えた口の奥のもう一つの口。更にその奥にも口があって、口が三重になっていた。


 三つの口、四つの耳、六つの目玉。

 全身から炎を吐く、巨大な狼。


「あんたが見張りだったわけ、フェンリル。まったく御苦労な事ね」


 レイが呆れたように言って溜息を付いた。こんな化け物を前にして愚痴が出てくるなんて……、待て。今、この狼の事を何て呼んだ。


「危ない!」


 狼は大きく口を開けると僕ら目がけて喰らい付いてきた。とっさにレイを抱えて奥へ倒れこむ。狼は僕等の代わりに鉄格子を噛み砕き、床を削って大量の石やら鉄やらを口に含んだ。そのまま上を向いて豪快に咀嚼する。


 ……喰ってる。

 石も、鉄も、魔法の牢屋も。


 物足りないとばかりに飲み込むと、狼は再びこっちを向く。僕は下がろうとするけど、外から吹き込む風が体を押し返した。背後にあった壁はもうない。外壁が壊れて大きく開き、もう一歩下がれば真っ逆さまだ。崖っぷちに追い込まれてる、なんでこんなに高いんだ。


 後ろは遥か下まで続いていそうな奈落。

 前からは鋼の兵隊と巨大な狼。

 僕、剣、一本だけ。

 どうする。どうする。


「結構高いわね」


 レイは下を覗き込んで口笛を吹いた。


「クライム、高いの苦手?」

「苦手だよ!」

「あらそう。でも仕方ないわよね」


 レイはにこやかに僕を後ろから抱き締めた。

 腰の辺りに手を回して、しっかりと。

 冷や汗が額を伝う。


「……嘘だよね。ねえ、冗談だろ?」

「行くわよ!」


 レイは床を蹴って宙に身を躍らせた。


「ぎゃあああああああああ!!」

「あはははははははははは!!」


 体が風を切る。どんどん牢が遠ざかって、渡りの鉄橋や見張りの塔が僕らを掠めて上へ飛んでいく。落ちる、いや、落ちてる、死ぬ。死ぬ!


「気分良いわ! 最高ね!」

「気分悪い! 助けて!」 


 複雑に入り組んだ城の隙間を縫うようにして、僕らはどこまでも落ちていく。

 何かがぶつかるかと思えば僅かに逸れて、またどこまでも落ちていく。


「せー、の!」


 掛け声と共に、レイは落ちながら空中で体を捻り、僕の上に回り込んだ。そして大きく翼を開く。


 見える、地面だ。もう城の最下層でたむろしている兵隊一人ひとりまではっきり見えるようだ。一方でレイは翼で突風のような空気を受けている。僕らが地面に激突するまで、あと、少し。思わず目を瞑る。


 地面にぶつかる直前で見えない空気に押し返された。一瞬水平に宙を滑走すると、次の瞬間レイが翼と魔法で掻き集めた空気の塊が爆発したように一気に弾ける。辺りにいた兵隊達は何十人も吹き飛ばされ、僕らは逆に急上昇を始めた。


 加速が、さっきよりも速い。髪の毛が逆立つ。口の中に空気が突っ込んできて悲鳴が出ない。


 レイは何度も羽ばたき、複雑に絡み合う建物の間を次々とすり抜ける。抱えられただけの僕は回避の度に右へ左へ、体が引き千切られるようだった。レイはフィンより小さいだけに機敏に動き、そしてどんどん城の向こうの空が近付いてくる。


「外よ!」


 ばっと視界が開けて、灰色の空と切り立った山脈が飛び込んできた。


 外。

 外だ。

 あの城から、出られたんだ。

 まるで悪い夢から覚めたような気分だった。

 フレイネストから見続けていた悪夢が、大空に溶けて消え去った。


 城の中を彷徨っていた時は外に世界がある事さえ忘れて、ただ必死にレイを探していた。でも、その暗い狭苦しさは飛び去った瞬間に吹き消えた。吸い込む空気、広がる景色、まるで全てが始めて経験するようだった。最高の気分だ。でも。


「げ!」


 後ろを見て顎が外れる。黒の城の城門が開いて、中から溢れるように鋼の兵隊が出て来ている。中庭で見た黒の軍勢の一部が僕らを追って来たんだ。傷を負ったレイは長く飛べない、それを見越して追いかけて来ている。


 しかもその隊列の中から、一人が空中に飛び出してきた。

 翼が生えている。大きな蝙蝠の翼だ。


 レイよりも速い訳ではなく追い付く事は出来ないみたいだけど、それでも後ろにぴったり張り付いている。武装はほとんど外しているけど、鋼の兵士の一人だ。でも、その体は他の兵士より少し大きく、体表は火山灰のように黒っぽかった。


「レ、レイ! 逃げなきゃ!」

「やってるわよ! クライム! 白馬はどこ!?」

「だからもうここには……」


 何かないかと辺りを見回した時、目の端に光が掠めた。火だ。平原の向こうに波打つ丘の群れ。その一つの中腹が山火事の様に広く燃えている。それが何かの合図に思えて、僕は反射的に叫んだ。


「向こうへ!」


 レイは翼で一掻きして進路を変える。流石に下から追いかけてくる兵隊達はレイの速さに追いつけないようだった。彼らを後ろに引き離しつつ、燃える丘に向かって飛んでいく。


 何かが見えた。

 誰かがいる。


 助けなんて甘えた考えだ。合図があったからって誰かが来ているとは限らない。でも、いた。僕らを待っていた。目印に丘に火を付けて、こっちへ来いと呼んでいる。二人の男だった。だんだん顔まではっきり見えてくる。


 一人は灰色の髪の男だった。


 質素な服で何重にも厚着をしている男だ。彼は手荷物一つなく、唯一つ今さっき丘に火を付けたばかりの大きな松明を持っている。そして轟々と燃え盛る丘を背に、何が楽しいのかニコニコ笑っていた。なまじ顔が整っているだけに猟奇的で恐ろしい笑顔だった。


 一人は長身の男だった。


 山賊のように粗く雑多な服で身を包んだ剣士。腰からは二本の長剣を下げていて、槍も盾も持っていない。長めの黒い髪に、戦闘本能剥き出しの獰猛な表情。誰が相手でも斬り殺してやる、誰でも良いからかかって来いと、指がうずうず動いている。


 胸が熱くなった。


 いったい、二人して何をしているんだ。

 こんな所に、いるはずがないのに。

 助けに来てなんて、一言も言ってないのに。

 涙が零れそうだった。


「クライム! あれは!?」

「っつ……! 仲間だ! 僕を、助けに来たんだ!」



***



「見つけました」


 マキノは楽しそうにそう言って、自分の目にかけていた魔法を解いた。

 青白く光っていた瞳が、元のくすんだ色に戻る。


「大層な見送りじゃねぇか。あいつも人気者になったもんだ」


 一方アレクは山といる目の前の敵を見て、待っていたとばかりに笑っていた。


 城門からは鋼の鎧に身を包んだ軍隊が彼を追ってきている。まるで漆黒の大河が流れて来ているようだった。その全員が空を飛んで逃げてきているクライムを狙い、絶え間なく矢を放っている。


 そう、飛んでいるのだ。クライムが。とうとう鳥にでも変身出来るようになったのかと思ったが、目を凝らせばそれは違った。翼を持った女が飛びながらクライムを抱えているのだ。


 風にたなびく長い髪。

 目も覚めるような美しい顔。

 大きな水鳥の翼。


「天使……」


 無意識にそんな言葉がマキノの口から出た。


 だが敵が迫る状況で、それもすぐに我に返る。彼女が誰かは察しがつく。となればやる事は一つ。二人を連れて逃げるのみ。


「いいぜ、来い。まずはお前らからブッ殺してやる」


 だが案の定、隣の男は全然違う事を考えていた。


 平野を超えて自分達のいる丘にまで登って来ようとする軍隊。挑めば洪水に呑まれるように八つ裂きにされるのは目に見えているのに、アレクは鬱憤の捌け口が御丁寧に飛び込んで来た、その位にしか考えていなかった。一歩踏み出して剣を抜く。


「アレク、別の機会にして下さい。クライムさんとレイさんを殴るんじゃなかったんですか?」

「黙れ。今度俺の邪魔をしたらお前から斬ると言った筈だ」

「はいはい、好きにすればいいですよ。多分ですが、無理ですから」


 軍隊はクライム達だけでなく二人にも狙いをつけてきていたが、マキノの言葉を裏付けるかのように、なぜかその歩みが止まった。


「あん?」


 やる気満々だったアレクの足もつられて止まる。


 後ろからは尚も兵隊が押し寄せて、隊の先頭は潰れそうな勢いだ。今度はまるで障害物を避けるように横に広がったが、それでもやはり前には進めない。まるで誰かが地面に線を引いて、これ以上先へは進むなと言っているようだった。


「そう言う事でしょうね。大昔の魔法使い達が作った、彼らを閉じ込める為の封印がまだ生きているんです。恐らくあそこまでが限界なんでしょう」


 それはなんとも奇妙な光景だった。


 そこには何もないはずなのに、無敵の軍隊が止まってしまっているのだ。兵隊達は怒りで吠えながら、地団太を踏んで逃げる二人を悔しそうに睨んでいる。何とかしてその見えない一線を越えようと、地面を槍で突いたり空を切り裂いたり、皆が滅茶苦茶にもがいていた。


 それも当然。無敵の魔族を何百年も閉じ込め続けた絶対の封印。むしろそれを苦も無く突破したクライム達こそ奇跡なのだ。


 マキノの魔術師としての見解から言えば、魔法には隙がある。構成が複雑になり人の手が掛かれば掛かる程、そこには理論的な抜け道が出来るものなのだ。それは丁度「決して開かないが故に突破不可能な牢」を「すり抜ける」事でクライムが突破してみせたように。


 これもまた、クライムの諦めの悪さと偶然、そして封印を弱めてくれていたヴォルフの功による魔法の隙であった。だがマキノは奇跡を信じない。結果に文句がないからこそ深く詮索しないが、しかしいくら偶然とは言え、そこに人知の及ばぬ何者かの介入を感じずにはいられない。


 正確に言えばそれは人知と言うより、全知を成し遂げた一人の女の城内からの介入によるものだったが。

 しかしレイとタリアの友情も、クライムと交わした約束も、全てはマキノの預かり知らない別の物語である。


「ふう……」


 ひとまずマキノは緊張を解いて一息ついた。クライムのせいで今回は嫌でも真正面からぶつかる羽目になると思っていた。だが取り敢えずは、取り敢えずは山と敵を相手にする事はなさそうだ。


 なさそうだったのだ。


「おい、じゃあれは何だ」


 アレクの言葉で再び視線が上がる。そして一気に嫌になった。どうして彼は、こう面倒事ばかり持ってくるのか。


 アレクが指した先、クライムとレイの後ろには翼の生えた一匹の魔物がぴったり張り付いていた。魔物は直感的に分かっていたのだろう。二人と同じ速度で同じ軌道を飛び、今まさに地上の軍隊が越えられない一線をも越えようとしている。


 そして超えた。

 マキノは叫ぶ。


「やりますよ! あれが最後の相手です!」

「よしきた! やっちまっていいな!」

「存分に!」


 マキノは松明を投げ捨てた。

 アレクも魔物が来るのを待ち構える。


 レイは死にかけの様子だった。それをクライムが必死に励ましながら、こちらへ来るよう誘導している。後ろから迫る魔物はどんどん距離を詰めていき、今にも手が届きそうな距離から何とかレイが逃れている。


 間に合わない。そうマキノは判断した。

 ばっと丘を焦がす炎に手をかざす。


 力を込めながらゆっくりと、まるで掬い取るような仕草で持ち上げた。すると炎が手に沿って宙に浮き始める。そのまま大蛇のように長く伸びた炎を、マキノはどんどん巻き取っていく。アレクは黙ってマキノから数歩離れた。遂に炎の尾が地面から離れ、丘に広がっていた大火全てがマキノの支配下に置かれた。


 自分を取り巻く炎を通して、マキノは遠く離れたクライムと視線を合わせる。気付かなければ万事休すだが、クライムはしっかりとそれを受け取っていた。


 軽く頷いて合図すると、マキノは全ての炎をクライム達目がけて撃ち込んだ。空気を揺らす衝撃が走って、炎が一気に空を走る。


 その瞬間、クライムは羽ばたくレイの翼を掴んで無理矢理下へ引き落とした。炎はそれを掠め、追撃していた魔物を呑み込む。落ちる二人をアレクが下で受け止めた。それと同時に、炎の中から煙で燻る魔物が落ちてきて、鈍い音と共に派手に地面に叩きつけられる。


「……しぶといですね。アレク!」


 マキノの声で、アレクはすぐに二人を放り投げて走って来た。

 視線の先には揺らめく魔物の影。


 致命傷だった。至る所が焼け爛れて煙が上がっている。炎で翼は穴だらけになって、もう二度と飛べないだろう。地面に落ちた弾みで右腕があらぬ方向を向いていた。だが生きていた。


 左腕で曲がった右腕を叩き込むと、痛々しい音と共に外れた骨が嵌った。痛みと怒りで体表の鱗がザワりと波打つ。魔物が腰から剣を抜くのと同時に、アレクが真っ直ぐ斬り込んだ。


 二つの剣が火花を散らす。


 弾き飛ばされたのはアレクの方だった。手負いの相手に勢いを付けて斬りかかったにも関わらず、力任せに押し返され、アレクは受け身を取りつつ地面を転がる。


 魔物はゆっくり剣を構えた。


 マキノは相手を観察する。城門から大挙してきた他の兵隊に似ている。だが体は少し大きめで色もやや濃く、何より翼が生えている。言わば彼等の上位種だ。顔には焼き鏝で付けられたのか、左目から顎にかけて深い焦げ跡が刻まれていた。


 魔法の隙を突く賢さがある。

 単独で敵を追い詰める実力がある。

 この魔物は恐らく、奴らの将だ。


 アレクが再び雄叫びを上げながら挑みかかった。魔物も叫びながら剣を振り下ろす。激しい火花が散る。力の差は歴然だった。それでもアレクは魔物の剣を受けつつ機敏に立ち回り、遂に一撃の脇を抜けて、すれ違い様に魔物の腕に一太刀入れた。


「すごい……」


 遠くで繰り広げられる激しい剣戟を見て、クライムは茫然とそう呟いた。


 人間離れした怪力でアレクを追い込む魔物と、狐や狼を思わせる素早い動きでそれを躱すアレク。自分の知っている喧嘩っ早いだけの男とは動きが違う。マキノとの特訓に、死体の巨人との決闘。クライムの知らない間に、アレクはフロッシュ候領の騎士殺しと呼ばれていた頃の勘を取り戻していたのだ。


 鋭い一撃が撃ち込まれ、魔物の剣が真っ二つに砕けた。

 続く二撃目で左腕が宙を舞う。


 だが急に魔物の後ろから何かが鞭のように飛び出してアレクを弾き飛ばした。魔物の翼だった。綺麗に顎を打ちすえられて、アレクは剣を取り落として片膝をつき、すかさずそこに魔物が襲いかかる。


 マキノが飛び込んだ。


 腕を無くした左側から組みついて、持っていた宝石を魔物の目の前で爆発させる。次いでクライムが絶叫しながら体当たりした。魔物が忌々しそうに唸ると、二人は揃って振り払われ、地面にしたたかに打ちつけられた。だが体勢を立て直したアレクがその隙に二本目の剣を抜く。


 アレクが一歩大きく踏み込み、魔物が爪を振りかざしてそれに突っ込む。

 やはり魔物の方が一瞬速い。真っ直ぐアレクの心臓を目指す。

 それを悟ってもアレクは少しも躊躇しない。

 その時だった。


「カドム・ギィ! 私を忘れたの!?」


 鋭い声が両者の間に割り込んだ。

 魔物の視線が目の前のアレクから逸れる。

 

 離れた所に座りこんだ女。

 弱々しい有様とは裏腹に熱い力が宿った瞳。

 死ぬまで主に抗い続けた最悪の裏切り者。

 そしてかつての戦いでは、幾度となく刃を交えた宿敵。


 その一瞬の隙が勝負を分けた。


 鋭い爪が掠めてアレクの頬から血が噴き出る。だが空を切る剣の一閃が正確に魔物を捉え、赤黒い血と共に大きな首が宙に飛んだ。


 魔物の体がぐらりと傾き、重々しく地面に落ちた。

 動かなくなった死体を確認して、アレクが荒い息を吐く。


 倒れこんでいたクライムとマキノも、ようやく肩の力が抜けてほっと溜息をついた。アレクも暫く用心していたが、間違いなく倒した事を確認すると乱暴に剣を収めた。そしてレイに向き直る。


「てめぇこの野郎。余計な真似しやがって」

「あーら御挨拶。君って全然変わらないのね」


 お互いに憎まれ口を叩き合う二人を見て、クライムはすっかり気が抜けてその場で大の字に寝転がり、マキノは微笑んで歩み寄った。


 少し、レイの顔が曇る。赤い瞳、黒い髪、黒い翼。クライムに始めて姿を見られた時と、同じ不安が胸にこみ上げて来ていた。


 マキノがすっと手を差し出す。

 そして白々しく言った。


「はじめまして。あなたがレイさん、ですね」


 レイは少しきょとんとした顔でそれを見ていたが、しばらくして、ふっと笑った。


「ええ、はじめまして。君も、全然変わらないわ」


 そして座り込んだままマキノの手を取った。アレクはどうでも良さそうに顔を逸らす。クライムは感慨深げに二人を見ていた。朝焼けを前に、二人は握手をしているような恰好だった。


 長い、長い、夜が明けた。


「ようやく会えましたね」



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