第22話 蛇の巣穴
朝霧の漂うティグールの街。
今日も多くの人間が歩いている。
吐く息が白い。この北国、この時間帯はいつも寒い。
まだ街が眠りから覚めていない早朝。ある者は店の開店準備をし、またある者は徹夜で飲み明かした帰りだった。そんな中に、王城へと向かう者達がチラホラ見える。彼らは皆、王宮で働く役人達だった。下等級の者は城内に住む事を許されない。故に彼らの朝は早い。皆先を急ぐ。
舗装された大通りを抜け、ヴェリア王の石像を曲がり、そろそろ正門が見えてくる。
ティグールは街を囲む堅固な城壁の内側にもう一層、王宮を囲む別の城壁を持っているのだ。彼らは毎日ここで検問を受ける。門番は頑迷だった。朝一番の頭痛の種だ。
第二の種は王宮の内部構造だ。王の住まう宮殿へは一本道であったが、それ以外は大変入り組んでいて仕事場へ向かうのも面倒なのだ。国軍本部、中央議事堂、とにかく何でも詰め込んだ場所だ。しかも中央に行くにつれて高い構造になっている。
この宮殿を造った奴は絶対に私達に恨みがあったのだ。
毎朝、誰もがそう思っていた。
二層構造の城壁は戦時中の負の遺産だ。
あの門番は恐らく暇過ぎて人を怒鳴る他やる事も無いのだろう。
アグロバールの石頭は今日も意味も無く不機嫌に違いない。
閉鎖空間での彼らの噂話は数え上げればキリが無い。
そう言えば。
あの子供は、今日は一体何をやらかすのだろう。
誰からともなく、そんな話が宮殿に広がる。
昨日は人間上位の嫌味な上司をコテンパンに言い負かしていた。
女性職員にドレスを着せられて泣きながら仕事をしていた事もあった。
握手した拍子に議員の手を握り潰したのは、一体いつの事だったか。
そもそも少女は登場からして派手だった。
彼らにとっては思い出したくもない記憶、第一級王国中央総合試験。まともに受かった話など滅多に聞かない。見えない不正は飛び交っているし、人脈があれば採点も甘くなる。毎年入ってくる新人は余程運が良いか世渡りが上手いかのどちらかだ。
そこに馬鹿正直に堂々と合格してきた変わり者が来た。
史上最年少にして史上最高得点を叩き出してきた化け物が。
種族はリュカル。ドワーフや闇小人と並ぶ、地中の賢者の異名を持つ亜人。そんな非人間など面接を通るはずも無いが、彼女は他に例を見ない人格的行動を示し見事試験を突破したらしい。
噂では。
あくまで噂では。
面接会場に乱入した酔っ払いを面接官を尻目にひたすら介抱していた姿が余りに真摯で、それが評価に繋がったとか何とか。だが、そんな馬鹿な話があるかと誰もが言う。
初日、話題の少女を一目見ようと娯楽に飢えた役人達が揃って仕事を片手に彼女を探した。そしてすぐに見つかった。
丈の合わないローブを引きずる様に着ている少女がいたのだ。
歳はまだ十の辺りをうろついているだろうか。
赤茶色の髪に大きな眼鏡。髪の間から覗く歪に尖った耳。
そして何故か、その頭には白いイタチが乗っていた。
確かに宮殿内には動物を持ち込んではならないと言う規則は無い。しかしそれは明記されていないと言うだけで、誰もそんな事は考えもしない筈なのだ。だが少女は違った。イタチは片時も少女を離れなかった。
一人の男が揶揄い半分に挨拶に行くと、少女は大袈裟に自己紹介して直角に腰を折る。イタチが頭から落ちて少女は叫んだ。敬語が使えないらしく常にタメ口で、しかも一人称が「ボク」。行動がいちいち面白くて少女は常に周囲の笑いを呼び、その度に面白いほど真っ赤になる。
後にその男はねちっこく嫌味を言い。
最後に鼻で笑って握手をし。
腕をへし折られた。
素手で穴を掘るリュカルは腕の力が異常に強い。
男がその最初の被害者となり、職務復帰には十日以上かかった。
人見知りが激しく、少しでも改まると少女はどもって会話が出来なかった。長時間立っている事が出来ないのか、廊下の隅で一息ついている所も良く見かける。イタチはフィンという名らしく、少女はいつも無口な友人に楽しそうに話しかけていた。
空気が濁りがちな宮殿で、少女の純粋さは多くの人間に受け入れられた。
見ているだけで楽しいと、誰もが笑った。
まあ長くは続かないだろうと、誰もが言った。
大きな間違いだった。
少女は猛烈に優秀で勤勉だった。子供だけに物覚えがよく応用もきく。全職員の顔と名前、部屋の配置、無数の規則。三日も経つ頃には少女は全て覚えていた。加えて少女は賢くしたたかだった。宮殿内の複雑な空気を早くも把握したのか、下が揉めれば見事に仲裁し、上が気分を害せば真っ先に挽回した。賢すぎて、空恐ろしい。
噂では。
あくまで噂では。
肩に乗っているイタチが実は人間以上に頭の良い精霊の類で、誰にも聞こえない声で常に少女に助言をしているとか何とか。だが、そんな馬鹿な話があるかと誰もが言う。
もっとも子供らしい所も見かける。
時折、仕事の手を止めて、少女は窓の外に目を向けるのだ。
その瞳はまるで恋する乙女のようだった。
優秀で、勤勉で、賢く、したたかな少女も、その時ばかりは仕事も何も手に付かない。宮殿では誰に対しても向けないような、寂しさの影が差し込んだ顔だった。故郷に想いを馳せているのか、恋人からの手紙を待っているのか。素性の知れない彼女に対してそれを聞く者は誰もいない。
無遠慮にその頭を撫でるのは、同じく新参者のエイセルくらいだ。フラフラとやって来ては少女の頭を大きな手で乱暴に撫でる。少女が大袈裟に飛び上がり、イタチがエイセルの頭に噛り付き、そうして二人でまた仕事に出るのだ。それはさながら歳の離れた兄妹か親子のようだった。
二人の後ろ姿はよく見かける。
少女を見れば誰もが挨拶をした。
最早亜人などと、気にする者は誰もいない。
多くの者が親しく振舞い、少女を疎む者もそれに目を瞑った。
それが無意識な純粋さ故の結果だったのか、彼女の努力の成果だったのか。新参で子供で亜人の少女は遂には宮殿に受け入れられた。昇進同様の異動が決まったのも、また当然の事だと皆が思っていた。
だが。
しかし。
その異動先を知った者は皆、耳を疑った。
行き先はこの宮廷で上位に位置する、最も過酷で厳しい部署だ。
中途半端な人員が入ると、半日で絞りカスの如き有様になる地獄の管轄。
その厳しさ故に他署から絶対の信頼が寄せられ、かつ絶対に敵に回すなと言われる伏魔殿。
そこに君臨する上級役員の名はスローン・アグロバール。
フレイネストから舞い戻ってきた八大法典の生字引。
「アグロバールの石頭」と呼ばれる専制君主であった。
その初顔合わせとなる日。
宮殿から甲高い叫び声がした。
***
「お前は!!」
ガランと広いその広間で、メイルの声がグワンと反響する。途端、彼女をここまで連れてきた役人に頭を殴られた。
「慎め。これから貴様の主となる方だぞ」
獅子の様な髪に山羊の様な髭。その顔を見紛う筈も無い。その男はあの時と何も変わらず、座ったまま冷たい目でメイルを見上げた。
「遅刻だ。メイル・リィ・メイ」
服を着た法律が人間面をしてそこに座っていた。そしてそのテーブルの向かいの席には、どういう訳だかエイセルが座っている。悪戯が見つかった子供のように慌てた様子で。
「よ、よぉ嬢ちゃん。し、仕事はもう終わったのか?」
「エイセル! 何でこんな所に! 何でこいつと! って言うか何やってんの!」
「カトルだ。結構面白いぞ。嬢ちゃんもやってみろよ」
多くの人間がそれぞれ小さなテーブルに座っている中、二人が座っていたのはカトル専用のテーブルだ。格子状の模様が付いた遊戯盤の上では、白と黒、数十の駒がバラバラと並んでいる。スローンが手元の小さな砂時計をひっくり返して唸った。
「小娘相手になんて様だ。そんなだから妻にも尻にしかれるのだ、エイセル・ベイン」
「言ってくれるなよ。シルヴィ本人にもそう言われるけどよ。それと嬢ちゃん、そんな怒んな」
話が一息ついた所で、所在なさ気にしていた案内の役人が、ここぞとばかりに口を開いた。
「監査長、こちらが、」
「ご苦労」
ぴしゃりと一言で黙らされた。役人はすごすごとメイルを残して帰って行く。あの時と同じだ。上から目線で融通が利かなくてツリ目で枯れ木で髭で気に食わない役人。気付けばメイルはギリギリと歯を剥き出して威嚇していた。
今日から異動だと言われた。
新しい上司に顔を見せに行けと言われた。
柄にもない綺麗な場所に連れて来られた。
そしてなぜこの男がそこにいるのか。
スローン・アグロバール。
フレイネストで出会った石頭の上級役人。
こいつのせいで、メイル達は散々な目に遭ったのだ。
亜人だと言う理由で陥れられたメイルを、冤罪だと知りつつ規則だからと拘束し続け、そして魔物が襲ってくる街に釘付けにした。この男さえいなければクライムと別れる事にもならなかったかも知れない。口を開けば統一だの王だの大義だの、思い返せば本当にこの国の悪習を形にしたような男なのだ。
「まぁ落ち着けって。な? 大将も何とか言ってやれ」
エイセルに言われて、メイルの視線がスローンから周りに逸れる。
議事堂と分館を繋ぐ広い渡り廊下、通称「白夜の間」。上流階級の溜まり場で、メイルの柄でもない優雅な場所だった。飾られた花瓶。歴史をなぞった天井画。中庭から吹き抜ける柔らかい風。メイルも滅多に通らない。
見渡すと、そこに座っていた多くの人間達の目がメイルに向けられていた。上流階級特有の威圧感。静かにしろと、誰かが軽く咳払いする。視線が痛い、だが警戒心は引っ込まない。嫌々でも口を動かす。
「エイセル、こいつと知り合いなの?」
「ここには結構来るんだが、そしたら何かカトルをするようになってなぁ。いつからだった?」
「少なくともこれで八戦目だ。私の戦績は六勝一敗一分。お前の番だぞ」
砂時計を確認してスローンが言う。エイセルは慌てて駒を動かした。
そのまま二人はメイルを無視して勝負を続ける。だらしなく腰掛けたエイセル、鉄の板でも入ってるのかと思うほど背筋が伸びたスローン。対照的な二人、戦況は互角。一人で警戒しているメイルが馬鹿みたいだった。
「……はぁ」
肩の力が抜ける。
広間の空気が再び動き始めた。向こうのテーブルでは狸のような貴族が何事も無かったかのように茶菓子を貪り、反対側のテーブルでは三人の魔法使いが分厚い本を持って議論を再開した。
確かに、フレイネストでは中央から派遣される形で来ているとは言っていた。王宮でも彼の噂は何度も聞いている。知ってはいた。しかし会う事になるとは思っていなかった。
視線に気付いたのか、スローンが適当に話を振ってきた。
「聞いたぞ。コンジェルスを主席で通ったそうだな。ここには慣れたか」
フレイネストでの一件など、気にもしていない様子だ。
文字通り見下されてるのが悔しくて、メイルぐっと背筋を伸ばしてみせた。
全然伸びなかった。
「余計なお世話。関係ないだろ、ほっといてよ」
「ふ、機嫌の悪い事だ。一人か? あの煩い連中はどうした」
「ここへはボクらだけだ。でもスローンと会うくらいなら来なきゃ良かったよ」
「そうか。どういう事情でここに来たかは知らんが、お前はこれから私の部署で働いてもらう。私の期待を裏切るなよ。今後、失敗は許さん」
メイルと同じ濃紺のローブ。しかし金の刺繍が二本多く、その下に深紅の一枚を重ね着している。最高等級だ。議員の次に地位が高い。無性に腹が立ってきた。エイセルにもだ。短い間だったが王宮に馴染むまでにもあれこれと世話を焼いてきて、メイルとしてもすっかり友達感覚だった。それが、なぜこんな奴と馴れ合っているのか。
フレイネストでの一件は話した筈だ。
それを知っていて何も言わなかったのだ。
知っていてなお、メイルに黙っていたのだ。
「メイル、落ち着いて」
耳元でフィンが囁く。
「過ぎた事だよ。今更こいつに喧嘩を売っても、良い事なんて何も無い」
その忠告にメイルは顔をしかめる。思えばティグールに来てからというもの、フィンはやたらとメイルに口を出してくるようになった。
朝は早く起きなきゃダメだよ。
早く支度しないと遅刻するよ。
見ていないでさっさと話しかけて。
まるで口煩い親戚のお爺さんみたいだった。
どんな魔法を使っているのか、二人の会話は周囲に聞こえない。試験の時といい危ない局面を何度も助けられたが、反面どうにも面白くない。メイルの気持ちなどお構いなしに、ああしろこうしろ、お説教ばかりなのだ。フィンは話を続ける。
「そう邪見にする事も無い。こいつは高官で、しかもエイセルの知り合いだ。面識もある。うまく取り入れば結構な情報源になるかもしれない」
取り入る、冗談ではない。
「相手は、スローンなんだよ? フィンまで何言ってるの。見てたでしょ。こいつは相手の話なんて聞きやしない。前みたいに結局は怒鳴り散らされるのがオチだ」
「そっちはエイセルに任せよう。それにこいつは人の話をちゃんと聞いてる。あの時の対応だって、大分寛容だったじゃないか」
大分寛容、冗談ではない。
「規律に煩いのは役人として当然だ。冤罪で閉じ込められたのは事実だけど、喧嘩両成敗、妥当な落とし所さ。魔物達のせいで相当こじれたけどね」
「捕まった事自体が理不尽だよ! すぐに解放してくれれば……!」
「無理な相談さ。スローンの言った通り、一旦ああいう形になってしまえば何かしら折り合いを付けるしかない。大人の対応だよ。まあ、アレクもクライムもブチ切れてたから、あの場では言わなかったけどさ」
大人の対応。冗談ではない、あれが大人の対応だというのか。メイルはただ子供だから我慢できないのだと、そういう事なのか。子供ならば、我慢しなくても良いのだろうか。
「変わるんだろ、メイル」
その一言に、メイルは出かけた文句を飲み込んだ。
卑怯だ。
「なら踏み出さなくちゃ」
意地悪な事を言う。メイルが焦っている事を承知で言っているのだ。
エイセルとスローンは、構わず黙々と駒を進めている。
「……」
少し考えた。
確かにメイルは焦っている。
何せ、時間が無いのだ。
王宮で働き詰めのメイルにとって、城の外の動きはマキノからの鳥文でしか分からない。偶然に流れ着いた渡り鳥を装って、定期的に手紙は来た。遠くにいながらクライムを探しながら、マキノはとことん手際が良い。続々と手紙は来る。
「ウィルとナルウィの合流を確認。リューロンも報酬次第で行動を共にするとの事。今後の調査に関して協力を期待する」
「西のヴェランダールとの国境付近でジーギルと思われる剣士の目撃情報あり。グラム軍の動き次第では対応が迫られる」
クライムは未だ見つからない。その代わりにマキノの基盤は着々と整いつつあるようだった。しかし、三日前の手紙だった。
「ロナンの森にてフレイネストの巨人と遭遇。再度戦闘となる」
第一文を読んだ時点で手紙を窓から捨てそうになり、メイルは容赦なくフィンに叩かれた。
「再度戦闘となる。結果、首一つになっても死ぬ気配が無かったため、体をバラバラにして土に埋めた。朽ちるに任せる事にする」
しかもあろう事かその巨人、クライムの遣いとして来たらしい。遂にクライムに関する手掛かりを見つけたのだ。だが、手紙は更に続く。
クライムは巨人を利用してレイを助けに黒の城に潜入した。しかし失敗の公算が大きいためマキノ達もすぐに城へと向かう。必ず二人を連れて戻ると、そう手紙は締められていた。何度も何度も読み返して、その内容を理解するのに大分掛かった。
まず安心した。
クライムは無事だった。黒の城が危険だとかレイを見つけるなんて無茶だとか、頭を過った不安もすぐに消えた。マキノもいる、アレクもいる、なら大丈夫だとメイルは思った。大丈夫で、うまく運び、全員がここに来る。
途端血の気が引いた。
ここに来る。
だがメイルは今まで一体何をした。
これまでの事を思い出す。
取り敢えず試験は通って潜入した。ある程度この宮殿にも馴染んで、重要人物の顔も覚えた。仕事の合間に歩き回って、城の間取りも頭に入った。仕事もほとんど覚えている。ここでの生活にも慣れてきた。
つまり、何もしてない。
決して遊んでいた気は無い。それでもメイルは新しい生活に慣れるのが精一杯で、マキノが期待していたような成果は何一つ出していない。人見知りなせいで随分な情報源も見逃しただろうし、後一歩の踏み込みが足りなかった事もあっただろう。
「む……」
だが今回に限っては、踏み出す気などさらさら無い。
メイルはとにかくスローンが嫌いだった。マキノの手で人生最悪の目に遭って欲しいし、アレクとクライムの手でボコボコにされて欲しい。とにかくこのスカした顔を潰してやりたい。尖った鼻っ柱をへし折ってやりたい。そう考えていると口が勝手に開いた。
「スローン」
二人がこっちを向いた。
エイセルはとぼけたような顔で。
スローンはまだ居たのかといった顔で。
「勝負だ」
頭の中が熱くなり、それからの事は良く覚えていない。
エイセルは喜んで席を譲った。テーブルは子供のメイルには少し高く、クッションを重ねて高さを調節する。その間もメイルは精一杯怖い顔をしてスローンを威嚇し続ける。フィンが何やってんだとペシペシその頭を叩くが、今は聞く耳持たない。
全ての駒を一旦下げる。砂時計をひっくり返して、スローンは文句も言わずに駒を並べ直す。メイルは本で読んだルールを必死に思い出していた。
カトル。
盤上で白い駒からなる一陣と、黒い駒からなる二陣が戦う模擬戦。今ではすっかり上流階級のお遊びだが、その起源は将官が作戦を立てる為に編み出したものだと言われている。カトルの名手は名将足り得るとまで言われる奥の深い遊戯。自陣四列以内であれば布陣が自由なのが特徴だ。
メイルは少し盤上の空気を確認し、とにかく一つ、駒を置いた。そこからは流れる様に手が動く。王を中心に前衛を歩兵で固めて両翼に騎兵を配置。初めての戦い、手堅く攻める作戦だ。二人は互いに相手の布陣を確認しつつ駒を並べる。その間も砂時計は残り時間を削っていく。いつの間にか、辺りにいた人間が彼等のテーブルを囲んでいた。
その身分を問わない人垣の中心で、盤机を挟んで二人は向かい合った。
立会人としてエイセルが二人の間にだらしなく座っている。
駒の布陣は終わった。エイセルがそこでへらりと試合開始を宣言する。
先行は白の一陣。メイルからだ。
唇を少し舐めると駒に手を伸ばす。
そして歩兵を二マス、前進させた。
***
大勢の人間が見守る中、メイルとスローンは淀みなく駒を進める。
駒を動かしながらメイルは一生懸命に歯を剥き出して威嚇しているが、スローンはそれを軽く無視する。ふかふかのクッションの上に座っているせいか、はたまた頭にイタチが乗っているせいか、周りから見てもそれはただ微笑ましい。勝負は続く。
役人の中でもカトルに詳しい者が、二人の戦いを小声で周りに解説していた。
スローンの布陣は中央が薄く両翼が固い。あからさまな中央突破の誘いをかけて来ていて、しかも来たら包囲殲滅すると宣言している。普通なら慎重に行く所だが、メイルはいきなり突撃した。包囲する暇など与えないとばかりに前線を食い続け、スローンはそれを叩き出すまでに大分駒を落とした。
その後も両陣共、少しずつ攻撃しては防いでいる。
メイルが打ち、スローが打ち、またメイルが打つ。
目まぐるしい勝負だった。
スローンがそこで槍兵を二マス、後退させた。
そしてまたメイルの番になる。
ひっくり返った砂時計がサラサラと静かに音を立てる。
「……」
周りが少しざわついた。調子の良かったメイルの動きが急に止まったのだ。見れば顔をポリポリ掻きながら何か考えている。解説好きの役人がそっと隣に耳打ちをする。
「今の一手であの子の作戦が潰れたんだ。本当は後八手で勝負が付くはずだったんだが、スローンがそれを台無しにして動けなくなった」
メイルは少し盤上に視線を走らせる。
歩兵を後退させて守りを固めれば、五十九手後に敵が王の所まで辿り着く。
前進して来ている相手の両翼を迎撃すれば、三十二手後に押し負けるだろう。
老獪で、厭らしい一手だった。
メイルは恨めしげにスローンを見上げた。
「子供相手に手加減しないわけ? 大人気ない」
「子供相手に手加減するなど、大人の対応とは思えん」
メイルはむくれながら弓兵を前進させる。何とか相手の注意を逸らそうと、ひたすら口を動かした。
「あっそう。フレイネストでもそうやって大人の対応をした訳だね」
「まだ根に持っていたか。お前もあの喧嘩っ早い若造と同じだな」
「枯れ木みたいな体して、その若造に手も足も出なかったのはどこの誰だよ」
周りには二人が何の話をしているか分からない。それでも、話しながら二人はきびきび駒を進めている。いい勝負だった。カトルの名手は名将足り得ると言うのなら、二人とも十二分にその才能がある。
「フレイネストでだって、城に篭って全然助けてくれなかったくせに」
「戦うのは兵士の仕事だ」
「戦わせているのはスローンでしょ」
「私ではなくこの国だ。統一国家を成し遂げ誇りと秩序を取り戻す。それが……」
「それがこのフェルディアと言う国。フンだ。聞き飽きたよ」
フレイネストでの待遇から王宮での悪名まで、悪態を付きながらも二人の駒は止まらない。経験からスローンが繰り出し、直感からメイルが生み出す一手に全員の目が釘付けになる。魔法使いはヒソヒソと戦況を解析し合い、通の役人は一手残らず記録を取っている。
駒の数が減るごとに戦闘は加速する。
メイルの目は勝負の決着を見始めていた。
「文句を言う為に役人になるとは、短絡的にも程がある」
「スローンにはまだまだ文句を言い足りないからね」
「言うならタダだが意味もない」
「じゃあ最高議長にでも言ってやる」
スローンの騎兵がメイルの歩兵を崩す。
崩した所でスローンの手が止まった。
「……」
最高議長に文句を言う。子供のメイルだからこそ、周りにその発言は冗談にしか聞こえなかっただろう。メイルも何気なくカマをかけただけで、フィンも別に叱らなかった。しかしスローンはかかった。かかった事が二人には意外でならなかった。
「……一つ、忠告をしておく」
それでも続く相手の言葉に注意する。
「どんな思惑があろうと、ガレノールに手を出すのは止めておくことだ。一つ二つの言葉を交わしただけでも、もし奴がお前を不要と判断したなら、命はない」
命。
飛躍し過ぎだとメイルは思った。
構わず駒を進めに手を伸ばす。
「命はって、ここ王宮でしょ?」
「奴の後ろに冬がいるのを知らないのか」
伸ばしたその手が、ピタリと止まった。
「…………は?」
思わぬ事を聞いた気がして頭を整理する。
勝負などそっちのけで整理する。
整理して、しかし一体どういう事だ。
このティグールにおいて冬と名の付くものは一つだけ。冬の魔法使い、マキノの言う要注意人物だ。まだ見た事も無いが宮殿での噂は嫌というほど聞いた。まとめるならば「絶対に怒らせるな」だ。しかし今のスローンの口振りでは、その魔法使いはガレノールの食客として迎い入れられている事になる。
「ま、まさか。ガレノールが今の地位に上り詰めたのも、それに誰も文句を出せないのも、みんな彼の後ろに魔法使いがいるから?」
「どちらが先かは知らんがな。力があるからこそ冬にも出資出来るし、冬がいるからこそ奴の力も重みを増す」
「えっと、魔法使いがガレノールに付いている理由は、単純に、金?」
「金を含めた全面的な援助だ。真理の探求と統一国家実現。奴らは互いに全く興味の無い分野で援助し合う共存関係にある。要請があれば手も貸すが、それ以外は放任だ。思想も主張も関係ない、あるのは実利のみだ」
メイルは混乱していた。気にも留めていなかった掠り傷が、実は致命的だったと聞かされた気分だった。
最高議長ガレノールは戦争推進派筆頭、いずれは蹴落とさなければならない相手だ。ウィルにもエイセルにも、恐らく自分達にとっても。それが無理とは一体どういうことだ。謀略のみが物を言うこの宮殿の奥深くに、なぜ現行最強の魔法使いが、それも敵方になって居座っている。混乱したままメイルの口は止まらなかった。
「で、でも。それなら冬の魔法使いは政治に興味はないんでしょ? それとも魔法使いは司法にまで影響があるの?」
メイルの髪が、さらりと揺れた。
同時に粉雪を乗せた一迅の冷たい風が吹き抜ける。
熱くなったままのメイルはそれに気付かなかった。スローンが顔をしかめたのも。周りの観客達が一斉に狼狽えたのも。頭の上のフィンが感じたこともない魔法の気配に気付いたのも。そして自分が、この宮殿においてどれだけ不用意な発言をしたのかも。スローンは更なる失言を重ねかねないメイルを、溜息と共に押し止めた。
「真名封じ、という魔法がある」
白夜の間は急激に冷えていった。
次第に吐く息まで白くなる。
「ある一定範囲内において言葉を定めるのだ。その言葉を発した者は瞬時に居場所を悟られる、つまりは禁句だな。単純な魔法だが、内部事情を知らない裏切者を炙り出すには効果的だ」
壺に活けられていた花に霜が降り始めた頃、メイルの背後で人垣が割れた。お喋りな魔法使いも、見物だけの下級役人も、カトル好きの上級貴族も、気付いた者からバタバタと、その場に集まった者は散り散りに逃げていった。いつしか押し込めたように人の詰ったその場にはメイルとエイセル、そしてスローンしかいなくなっていた。ガランと空いたその空間で、空気は益々冷えていく。
新たにそこに現れた、たった一人の来訪者のために。
いつから現れたか分からない、ただ一人の男のために。
「ま、真名封じ? まあ、知ってるよ。でもあれ、その一定範囲って狭いんだってね。本当に部屋一つ分が精一杯だって」
フィンは振り返らないよう注意しつつ、相手とメイルとの間合いを測っていた。
だが既に余りにも近すぎた。来訪者は歩を進め、どんどん距離を詰める。
「知っている、か。……ふふ、懐かしいな。昔ある女がそんな事を言っていた。知識を持っている事と使う事は別物で、持っているだけでは全くの役立たずだとか。お前はそれだけ知っていて、それでもなぜ我々が奴の事を冬としか呼ばないか、それを考えようともしない」
男が自分の背後に立って、そこでようやくメイルは気付いた。
身を斬るような寒気にも、圧倒的な威圧感にも。
スローンは構わず言葉を紡ぐ。
「だからいつまで経っても小娘なのだ」
メイルはゆっくりと。
後ろを振り返った。
「ふ、成程。亜人か」
透き通るような声だった。
震える声でメイルが訊ねる。
「……だ、誰?」
それに対して男はゆっくり微笑んだ。背筋が凍る。マキノのような柔らかいものではない。ぞっとするような冷たい笑みだった。
真っ白で、美しい男だった。
透明に見えるほどの純白の髪は、長く背中まで伸びている。
薄手の布を重ねて流したような白い服に、全身に纏った銀細工。何枚も重ねていてもどこか質素で高貴だった。
そしてその手には、身の丈を超えるほどの細く美しい杖。
端整な顔立ちはまだ二十代のようにも、既に五十を超えているようにも見えた。
名前を体現したようなその姿を見て、メイルは悟った。
この男が、冬の魔法使いだ。
「自己紹介が未だだったな。私は冬の魔法使いを名乗る者。聡明なる地中の賢者よ。其の小さな頭に、是非とも今後、我が名を加えて頂きたい」
そう言って。大仰に魔法使いは頭を下げ、銀細工が細く音を立てる。
「あー、魔法使い様よぉ。この子はまだ入って日が浅くてな、実は、」
「しかし感服した。私の施す真名封じは余り知られていない魔法でね」
制服の刺繍を一瞥するだけ、冬はエイセルを無視してひたすらメイルに話しかける。
「知っているだけだ、冬の」
「同じ事だぞアグロバール。其の女は間違いだ。使わずとも知識は知識、役立たずであるものか。現にこうして年端も行かない小さな賢者は私の関心を集めている」
当のメイルは、冬の威圧の前に一言も喋れずにいた。「亜人か」。そう開口一番に吐き捨てた魔法使いが、今はやたら仰々しく振舞っている。親しみの込もった口調に反して、その態度は氷のように冷たかった。
魔法使いは再びメイルに微笑みかけた。
目が全く笑っていない。やはりマキノとは、まるで違う。
「安心しろ。禁句を口にしたとて、どうするつもりも無い。賢者も時には手を打ち間違う。私の真理の探究に、そう新たな注釈が付くだけの事だ」
「つ、つまりは御咎め無しか。ありがてぇ、恩に、」
「魔法の真理に興味があれば、是非とも我が工房を訪ね給え。皆が喜ぶだろう」
冬はとことんエイセルを無視し、スローンは面倒くさそうにカトルの駒をいじっていた。だがフィンはホッとしていた。終始小馬鹿にされたが、ひとまず何事も無く終わりそうだ。
「見た所、魔法の心得は無さそうだが、それでも……。おや? 誰かに魔法を習った事があるな? これはこれは素晴らしい。一体どこの魔法使いに……」
グラムの間者、王都の上級役人、最強の魔法使い。こんな地獄絵図の様な面子の中に、これ以上メイルを置いておく事は出来ない。後は何か理由を付けて、一刻も早くこの場を抜けなくては。
「……」
だが、急に静かになった。
喋り続けていた冬の魔法使い。
彼が急に黙ったのだ。緊張が走る。
「……ハッ」
冷えた笑いが、そこから零れた。
「小娘。貴様、杖無しの臭いがするぞ」
そう言って冬はメイルに杖の先端をかざした。
そこから冷気で小さな煙が上がる。フィンが毛を逆立てた。
冬の態度が一変した。見せかけだけの友愛な雰囲気が消し飛び、小馬鹿にしたような笑みさえ剥がれ落ちた。だが明らかにこちらが本性だった。唾を吐きかねない様子で、冬は言葉を続ける。
「馬鹿な奴め。此の私の目を欺けるとでも思ったか。甘いのだ。いつもいつも甘いのだ。礼節を弁えず、視野も狭く、小賢しいだけ面汚し。さあ吐け。何が目的で私の城を汚した。何が目的で此処に足を踏み入れたのだ」
その答え如何では命は無い。冬の杖はそう言っていた。
ここまでだとフィンは思った。何が気に障ったかは分からないが、もう王都での活動は不可能だ。後は王宮を破壊してでもメイルを連れ出す。だが炎を溜めるその一瞬に、誰がメイルを守る。そう頭を巡らせる、その時。
「まぁ待てよ」
貴族の溜まり場。
王宮の最深部。
そこで急に、一本の剣が振り抜かれた。
剣は突如出現した氷塊に阻まれて冬を仕留め損ねる。
フィンはようやく目の前の状況を捉えられた。
エイセルだ。
役人用のローブのまま、どこから出したのか剣を持っていた。横薙ぎに振られた剣は氷塊に深く食い込み、冬の首を捉えた軌道のままで動きを止めていた。それをフィンは、ようやく捉えた。全く見えなかった。エイセルはいつも通り惚けた調子で言う。
「こいつは俺が先に唾をつけた女だぜ。横取りは感心しねぇなぁ」
「下級如きが、此の私に剣を向けるか。覚悟は出来ての事だろうな」
出現した第二の氷塊が、エイセルを押し潰しにその頭上から降ってくる。だが無言で斬り上げられた剣がそれを一気に両断した。剣が空を走る音と鉄が裂けたような耳障りな音が、一瞬遅れて聞こえてくる。真っ二つに裂けた氷は床に叩き付けられて派手に砕けた。
エイセルは鷹のように鋭い目で剣を構える。
だらしなく、頼りなく、しかし親しみやすい男。そんなフィンの印象が消し飛んだ。こいつは武器を取らせると豹変する化物の類だ。戦っている所など一度も見た事がないが、剣士としての力量は、恐らくアレクを優に超える。
冬は傍にあった飾りの鎧に目を遣る。いつの間にか剣が抜き取られていた。
そしてまた、張り付いたような顔でふっと笑った。
「そうだな、私も大人気が無かったようだ。子供は後で、遊戯ででも懲らしめれば良い事だ」
そしてメイルに向けていた杖を、エイセルに向けた。
ドスの利いた声で、冬は短く吐き捨てた。
「貴様は今、此の場で身の程を弁えるが良い」
エイセルは無言で剣を構え直す。大人気の無い、だが一級以上の実力を持つ二人の男によって、今まさに脈絡も無くなりふり構わぬ戦闘が始まろうとしていた。
スローンはその事後処理の為に、今から書類を書き始めた。
フィンはいつフェルディアから飛んで逃げてもいいように、大きく息を吸った。
だがメイルは。
そんな事など頭の端にも留まっていなかった。
スローンの話を聞いたからだ。冬の態度を目にしたからだ。隣で響く剣戟の音など、今は耳にも入らなかった。何もかもが遠い彼方の出来事だった。メイルの心は、クライムと、マキノと、そして北の大地全てにある。
「……」
メイルは今、ようやくこの国の実態を掴んでいた。
王都に潜入して役人として散々遠回りをし、ついにマキノが求める答えを得た。ここまで背伸びをしてきた甲斐もあったという事だ。だが何も嬉しくなかった。
マキノとウィルの情報、そしてクライムの見た夢からも、この国にヴォルフの手が伸びている事は間違い無いだろう。その目的は建国史と同じく内から国を疲弊させる事、メイルはそう思っていた。
だが違った。
むしろ逆だ。
ヴォルフは恐らく国の軍拡を助長している。このフェルディア自体が、誰一人気付かぬまま既に乗っ取られているのだ。近頃あまり姿を見せないという国王アルバトス、彼が敵に操られているのかもしれない。
フェルディアはその圧倒的な力で周囲の国々を滅ぼすだろう。北方地方全域、いや、世界中にまで勢力を拡大しかねない。だがこの国では軍事力が増大する一方で、国力が低下し続けている。戦争終結と同時にフェルディアは自滅し、その後に満を持して魔族の軍が後片付けにやってくる。
そして、統一国家は成し遂げられる。人間達の理想は叶うだろう。その支配者が自分達ではないという、ただ一点を除けば。
人間達が、勝手に滅びの道へ踏み出している。
まさに今、その道を全力で走り続けている。
しかも終着点はもう目の前だ。
メイルは全てを理解した。
もう手の付けようが無い所まで来ているのだと。
自分には、何も出来る事は無いのだと。
クーデターは失敗だ。
だが、もう後戻りは出来ない。
クライム達が、やってくる。
***
冷たい空気が肺を切る。
しわがれた声が僕をせせら笑う。
荷物を捨て松明も落とし、剣がただ一本。
全速力で駆け抜ける。
痛みも疲れも、僕はもう感じなくなっていた。
この歪な通路を、僕は知っている。鉄格子の向こうの殺気立った囚人達に激しく見覚えがある。ここに入って幾つ目の城になるか、その曲がりくねった階段の先で、とうとう僕は自分が目指していた場所に足を踏み入れた。
夢で見た光景とは随分と様変わりしていた。大人しかった囚人達は至る所で滅茶苦茶に騒ぎ立てていて、腐り落ちていた松明には一つ残らず火が灯っていた。でもここで間違いない。階段の先に、分かれ道の先に、延々と続く無限の牢獄。どこにレイはいる。あの夢の場所は、一体どの辺りだ。
「レイ! どこだ!」
走りながら叫ぶ。周りの声に負けないように腹から声を出す。敵に見つかるとか囚人が騒ぐとか、考えている余裕はない。
「返事をして! 僕だ! クライムだ!」
大声を出しているつもりなのに、自分の声が人外の喧噪に飲み込まれる。
でも闇雲に走っていても、僕は正しい方へ来ているんだろうか。それともどんどん遠ざかっているんだろうか。急に不安が胸に広がって足が止まった。ぐるりと辺りを見回す。でも様変わりした景色じゃ何も分からなくて、僕はその場でもう一度絶叫した。
「返事をしてよ!」
違う。
そんなはずない。
レイは生きてるんだ。間に合わなかったなんて嘘だ。夢の最後で鋼の兵士が剣を振るったのは、殺す為じゃなく連れ去る為だった。でも連れ去られて、その後ちゃんとここに戻されたのか? しわがれた声が再び強くなる。
まさか今は別の場所にいるのか?
僕は見当外れの場所を探しているのか?
タリアさんは僕に、嘘を教えたのか?
不安に耐えきれなくて僕は再び地面を蹴った。
「どこなんだ! 僕は! 助けに……、っ!」
急に喉が締まった。いつの間にか後ろから伸びてきた腕が、僕の首を絞めていた。息が、喉を通らなかった。枯れ木のように細い腕が首に食い込んでいる。びくともしない相手の腕を掴みながら、僕はひねるように後ろを振り返った。
目を見開く。鉄格子の向こうから延びる二本の腕。捕まえた何かを放すまいと、その奥で揺らめく双眸。忘れもしない、アグナベイの夢で、最初に出会った城の囚人。
興奮が苦しみを消し飛ばした。腕に力が入って相手の間接に肘鉄を叩きこむ。緩んだ所を力任せに振り払った。
「元気そうですね!」
相手は声にもならない叫びを上げて、再び僕を掴もうとしてきた。口角が緩んだまま、その顔面を鉄格子越しにブン殴る。
「また会えて僕も嬉しいですよ!」
駈け出した脚には確信の力が宿っていた。興奮と不安で混じり合った、夢で初めてレイの声を聞いた時と同じ気持ちだ。見たいのに見たくない。走っているのに、その先を知りたくない。
でも、信じろ。
レイはいる、いるんだ。
「レイ!」
僕は力任せに鉄格子を叩いた。遂に辿りついた牢には、誰の姿も見えない。牢の中が、空だ。心臓が震える。狂ったように彼女を探す。ほんの数瞬が永遠のようだった。
そして、いた。
牢の端、影の中に人が倒れている。
黒くて長い髪、水鳥の翼。レイだ。
もう一度声をかけようとするけど、鉄格子が邪魔だ。もどかしくて何度も叩く。でもびくともしない。鉄格子の隙間から腕は伸びるのに入れない。じれったくて体を泉に水に戻し、格子の隙間から滑りこんだ。
駆け寄って気付いた。レイは生きている。でも血だらけだった。ひたすら何かを呟きながら、寒さからか恐怖からか、身を縮めて震えている。一瞬ためらわれたけど、僕はその肩を掴んで揺さぶった。ビクンとレイが痙攣する。
「大丈夫? しっかりして!」
「…………許し、て……」
な、に?
何を言ってるんだ? 僕が見えていないのか?
少し無理矢理、僕はレイを引き起こした。服があちこち裂けて、血はそこから滲んできている。両脚は、あの時の傷が少しも癒えずに残って真っ赤だった。
「もう、やめて。私が、悪かったの。全部、私のせいなの……」
泣きながら、レイは僕じゃない誰かに謝り続けていた。
掴んだ手首を見て愕然とした。
白い肌を埋め尽くすように、赤黒く変色した擦り傷の痕が走っている。重ねて付けられたようにくっきりと、服の奥まで続いていた。鞭の痕だ。殴られた痕もある。服にしみ込んだ血は、まさか、全部、これが。
「っ……!」
なんでだ。
僕は今まで何をしていたんだ。
どうしてもっと早く来れなかった。
アグナベイで、フレイネストで、僕が無駄に時間を使っている間もレイはずっと痛みに耐えていたのに。間違ってた。遅すぎた。悩んでいる暇があったら、どんな手を使ってでも駆け付けるべきだった。
「痛い、痛い、もう二度としないから、だから。だからやめて。逆らわないから。言う通りに、するから……」
「起きてレイ、もう大丈夫だ。助けに……、来たんだ」
助けに来た。その言葉が酷く残酷に響く。胸が張り裂けそうだった。それでもしっかり手を握って、僕は必死に呼びかける。
「や、やめて。もうやめて。行きたくない、行きたくない」
「もう行かなくていい。僕だよ、クライムだ。一緒にここを出よう」
僕を引き剥がそうとレイは力無くもがく。その目は僕を映していなかった。
「違う、彼は、来ない。私が振り払った。私、もう、来るなって……」
「でも。それでも、帰ってきたんだ! 僕はここだ!」
再び、レイがビクっと震えた。
虚ろだった目が、初めて僕を捉える。
「だから、帰ってきたんだ。助けに来たんだよ」
「…………あ、れ……?」
涙は止まらない。震えも止まらない。手は氷のように冷たかった。でもレイは僕の手をしっかり握り返した、痛いくらいに。穴が開くくらい僕の顔を見つめた後、握っていた手に、僕の体に、視線が動く。目が合うと言葉に詰まった。でもレイを安心させるために、僕は重い口を開いた。
「助けに来たんだ。もう、大丈夫なんだよ」
目を合せる事がつらかったけど、逸らす事は出来なかった。
「……だって、もう、来るなって」
「うん、言われた」
「私、これで、お別れだって」
「遅くなって、ごめん」
レイは唇を噛んだ。
驚きで茫然としていた顔が、くしゃっと歪む。
頭が僕の胸に埋まった。
一度だけ、拳で力なく叩かれた。
「うっ……、ああ……あぁぁ…………」
胸の中から、掠れるような泣き声が聞こえてきた。他に何も出来なくて、僕はレイを抱きしめる。牢獄の喧噪がどこか遠くに聞こえる。涙も、震えも、少しも止まらない。
腕の中のわずかな温もりが、酷く切なかった。