第20話 少女の話
カリカリと羽ペンが羊皮紙を引っ掻く音が響く。
メイルの頭の上では、フィンが暇そうにその手の動きを追っていた。目の下に見事な隈を作ったメイルは、がむしゃらにペンを動かして白い用紙をどんどん黒く埋め尽くしていく。
その恐ろしく広い部屋では無数の長テーブルが機械的に並べられ、メイルを含め千を超えようかと言う人数が詰め込まれていた。試験官が見回りをする中、彼らは揃って配られた問題用紙と奮闘している。ある者は頭をしきりに掻き毟り、ある者は書いては消してを繰り返している。手際良くそれらを捌いているのはメイルくらいなものだ。
「ん」
その手がようやく止まった。規則正しいその動きに催眠術にでも掛けられているようだったフィンが目を覚まして尋ねる。
「どうしたのさ」
「……ひっかけだ、それも相当質の悪い。問題文が内容を断定してないから、どう書いても点数を貰えるかどうか」
「くだらない、飛ばそう。メイルがそんな物に付き合う必要はない。最後までやって時間が余ったら、暇潰しにでも相手をすればいいのさ」
「ヤダ。絶対解いてやる」
そう言ってメイルはペン先を舐めた。
メイルとフィンは王都ティグールに潜入して、内部から軍と議会の動きを探る。そうマキノから聞いていたが、問題はどうやって潜り込むかだった。
マキノは冬の魔法使いを警戒して小手先の方法を取る事は一切しないと決めていたらしい。ではどうするのかとメイルが訊けば、マキノはコンジェルスって知ってますかと訊き返した。不思議に思いながらも、メイルは思い出すその内容を諳んじた。
第一級王国中央総合試験、別名コンジェルスと呼ばれる中央職への登竜門。
フェルディアで半年に一度行われるこの試験に合格すれば、犯罪歴を除く一切の経歴を問わず、その人物は中央議会管轄下の役人として起用され、ほぼ将来を約束される事になる。千人に一人も受からない難関であるが、受験者は毎期定員を軽く越し年齢層も様々である。
マキノが微笑んだ。
メイルは引きつった。
一瞬で全て理解した。つまりマキノの計画ではメイルはこれに合格し、正式な役人として中央に登用され、堂々と機密を閲覧出来る立場になる必要があるのだ。一番確実で、安全で、難しい選択だ。どこから手に入れたのか、コンジェルスの受験票を取り出してマキノは言う。
「やるって言ってくれましたよね。後は任せましたよ」
マキノとアレクは身を軽くすると一秒でも惜しむようにクライムを探しに出発した。逆に取り残されたメイルは、真っ青になってすぐさま首都に向けた定期便に駆け込んだ。そして金に物を言わせるようにして、二人は短期間で無理矢理ティグールに到着した。
フェルディアの首都、鉄の街ティグール。
世界最大の都市とまで言われる巨大な街。
メイルは門を通って、一歩、足を踏み入れる。散々な目に遭って、ようやくここまで辿りついたと考えると感慨深い。しかし今まで感じた事も無いような都会の熱気と賑やかさに当てられながらも、ずきりと、胸が痛んだ。
長い長い旅の終わり。
待ち望んだ目的地。
本当はここに六人で来るはずだった。それが今は、たった二人。
思わず涙を零したメイルを、フィンは優しく撫でた。
涙を拭う。今はそれどころではない。
すぐさま宿を取ってあらん限りの情報をかき集める。数日後に迫る試験の実態を知れば知るほど、後から後から冷や汗が流れ出た。出題範囲の異常な広さ、人間の限界を超えた記憶力の必要性、人格や頑健性まで求められる選定基準。頭が爆発しそうだった。
泣きそうな顔をしたメイルに、すかさずフィンが助けの手を差し伸べる。
「街で大きな図書館を見た。潜り込めメイル、今すぐに」
既に夜も深いが関係ない。転がるように無人になった街を駆け抜け、図書館に押しかけた。当然のごとく閉館している。メイルは素早く辺りを確認すると、建物裏手の人気のない広場を素手で掘り返した。地中の賢者の名の通り、図書館真下まで掘り進み、床の敷石をぶち抜いて侵入する。手段は選ばない。
その時丁度、日付が変わった。
試験当日四日前。
深夜の誰もいない建物で二人は走り回った。フィンが図書館中のランプに火を付けて回り、メイルは出題範囲に関係のありそうな本を山と抱えて片っ端から読み始める。火を付け終わったフィンが戻ってきた時には、メイルは既に三冊の本を読み終わっていた。
試験当日三日前。瞬き一つせずにひたすら知識を詰め込む作業が延々と続く。フィンはその鬼気迫る様に声をかけることも出来なかった。それでも気分転換にと木苺を届けてやると、メイルは花が開くような笑顔を見せた。
試験当日二日前。体力切れでメイルの様子が変わった。らしくも無い無茶をして、少女の体はあっという間に限界を迎える。それでも本に齧り付くメイルをフィンが宥め、昼になり夜になり、また一日が過ぎる。
試験前日。メイルは倒れた。泣き喚きながらも宿から出ようとするメイルをフィンが押さえつける。全ての本を没収し、少女を布団に押し込んで魔法で眠らせた。
試験当日。何て事をしてくれたと起きるなり再び泣き喚くメイルに、しれっとフィンは言う。
「急がないと間に合わないよ」
メイルは宿を飛び出した。
起きる前と同じ服装で、必要書類だけ抱えて試験会場を目指す。溢れる人混みに揉まれ、受付の役人に散々嫌味を言われ、席に着いた頃には疲れ果ててボロ雑巾さながらの有様だった。
大きな扉を通った先の豪華な建物の豪華な会場。その豪華さと大きさに合わせて皆が身なりを整えていた中、普段着のままのメイルは完全に浮いていた。規則違反でこそないものの「ペット」を連れて来ているのも当然メイルだけである。周りは皆怪訝な目で二人を見ていた。
千人単位の書類が確認され、とうとう試験官が入ってきて緊張が走る。役人が何か喋り、回答用紙が配られ、けたたましく鐘が鳴る。大きな砂時計がひっくり返されるのと同時に、メイルは死にかけのような顔をしながらも食らいつく勢いで問題に取り掛かったのだ。
「メイル、残り時間、少ないよ」
フィンは試験官の机にある砂時計に目を遣った。
「待って、待ってよ。もう少しで終わるんだ」
「この試験は終わる様には出来てないよ。次もある、手を抜かないと身が持たないさ」
現に二人の前の席に座っていた茶色い髪の受験者は盛大にイビキをかいていた。三十代位のやたらガタイの良い男だが、一体何をしに来たのか。
「イヤだ。一回きりの機会なんだ。マキノがくれたボクのやるべき事。絶対にしくじってたまるか。絶対に、しっかりやってみせるんだ」
「出来なくてもマキノは責めやしないよ」
マキノは人に当然のごとく限界を要求してくる加虐嗜好者だが、同時に嫌になるほど現実主義者だ。本人が自分で言った通り、問題に直面した時は常に数段構えで挑む。
「ちゃんと次の手だって僕が言付かって、」
「イヤだ!」
ペンの動きが止まる。
その顔は見えなかった。
フィンは黙ってメイルの様子を見守る。
その間も、砂時計がサラサラと残り時間を削る。
「ボクは、置いて行かれたくないんだ。戦えなくても、力が無くても、これからもみんなの隣を歩きたい」
独り言のようにそう呟く。自分の気持ちを、改めてなぞるように。
「……違うな、そうじゃない。本当は、ボクがいないと駄目だってマキノにも、アレクにも、クライムにも言わせてやりたいんだ。はは、結局ボクも小さいや。レネの事は言えないな」
紙に穴が開くほど強く書き出した。
再びペンが走り始める。
「ボクは変わる。そして見返してやる。もう昔のボクじゃないんだ」
あっと言う間に集中するメイルを、変わらずフィンが座った目で見守った。前の席の男が眠ったままガタッと身震いして、メイルは顔も上げずにその椅子を蹴り飛ばす。
「うっさい!」
さらりと最後の砂粒が落ちた。少しの休憩も挟まぬまま受験者達は次の会場に移動していく。一次試験がようやく終わってメイルは魂が抜けたようだった。フィンに頬を叩かれてぎりぎり我に返る。
二次試験。更に小分けにされた部屋での試験となり、圧迫感が彼らの集中力を削る。気が遠くなりそうになるのを何とか繋ぎとめて、メイルは新たな羽ペンを取った。遠くで砂時計が動くのが見えた。再び鐘が鳴り響く。
事務作業を模した実技試験なのか、山の様な書類が目の前に積まれる。
フェルディアの法律を延々と書く為の、絶望的に真っ白な回答用紙が配られる。
ほとんど知られていない様な魔法使いの、聞いた事も無い様な論文を読まされる。
それをメイルは片っ端から捌いていき、死に物狂いで書き殴り、湯気が出そうな頭を必死に働かせて説明した。
手加減、一切抜き。
「大丈夫? 生きてるかい?」
メイルは座り込んだまま呻き声だけでそれに答える。
現在、彼女を含む受験者七人は部屋の扉の前に並べられた椅子に座っていた。これから順々に呼び出されて二次面接に赴く。もうこれで幾つめの試験になるか分からない。中でどんな面接が行われているかも気になったが、もうそれを伺う余裕も無かった。
同じくして別の呻き声も聞こえてきた。
フィンが見ると隣の席で呻いていたのは、さっき試験中に大イビキをかいていた茶色い頭の男だ。起きたら起きたで具合も悪いらしい。ざっと見るだけでも他の受験生がガチガチに固まっている中、この二人だけが死にかけの体でだらけている。うつ伏せのままのメイルが、仰向けのままの男に話しかける。
「おじさん、酒くさい」
「お兄さんだ。悪ぃな、朝まで飲んでて水も浴びてねぇから」
「まだマシだよ。ボクなんて昨日は熱出して寝込んでたのに」
「俺は対策練り始めてまだ十日も経ってねぇぞ」
「ボクなんか、受験しろって言われたのがそもそもつい最近だよ」
「勝った。俺は今でも真面目に受ける気なんて無い」
お互い顔も合わせないまま何故か不幸自慢が始まった。フィンも口を挟まなかったが、どうにも見た事がある顔だと男を眺めていた。そんな中、ようやく部屋の扉が開いて面接の終わった受験生が出て来た。顔が真っ白だった。
「次! 七十五番、メイル・リィ・メイ!」
メイルが飛び起きる。
それと同時に、ぐらっと眩暈がした。
こんなふとした弾みで今までの疲れが一気に噴き出してきたのだ。よりにもよってこんな時に。冷や汗が出て頭が冴えていくのに、逆に視界はぼやけていく。しかし中から試験官が呼んでいる。メイルは壁に手をつきながら、なんとか部屋に入った。
中にいたのは大きな机の向かいに座った五人の男。藍色の上等なローブを身に付けている。メイルは気持ち悪さのあまり彼らが何を言っているのか分からなかった。今更になって抜ける所で手を抜けと言っていたフィンの言葉が蘇る。
手振りで席に座れと言われているのは分かった。傍にあった小ぶりの椅子に座る。
面接官は手元から何かの資料を取り上げて、抑揚のない声で延々と読み始めた。視界がどんどんぼやけていく。フィンが耳元で何か言っているのも聞こえない。完全に限界だった。
椅子に座ったまま。
五人の試験官の目の前で。
重い眠気に耐えられず、メイルは意識を手放した。
「おい! 呼ばれるまで入ってくるな!」
怒鳴り声がして意識が戻る。危なかった。何にせよ助かった。
しかし今のは、自分が言われたのか?
「メイル、起きて。まだ試験中だ」
「大……、大丈夫。でも、今のは?」
顎でくいっとフィンが指して見せる。
指されるがままに振り返った。自分を含めて六人しかいないはずの面接部屋、その入口から別の男が入ってきていた。さっきの隣の男だ。面接の順番はメイルの次の筈だったが。ぼやけた視界に改めてその顔が飛び込んでくる。
「あれ?」
緊張で周りを見る余裕も無かった。まして他の受験者の顔など頭の端にも留まっていない。だがメイルはこの男を知っていた。ここで初めて完全に目が覚める。
「……エイセル?」
そうメイルが呼んでも、フィンは誰だか分からない。つられて男の顔を見るが、そもそもフィンは人の顔と名前を覚えるのが苦手である。ましてこんな酷い顔ならなおさらだ。いつ倒れてもおかしくないという様子だった。その喉から絞り出す様な低い声が漏れる。
「み……」
男もまた、壁に手をつくようにしてかろうじて立っていた。それにしても、顔が白い。
「水を……」
くれと。
言い切らぬうちに。
男はその場で吐いた。
***
エイセル・ベイン。
ジーギルが率いる十二人の騎士の一人。
メイルとフィンがこの男と初めて出会ったのは忘れもしない、あのフェイルノートの雨の夜。同じ山猫の騎士であるディグノーとアレクはあっという間に喧嘩を始めた。そのアレクをクライムが、ディグノーをエイセルが止めたのだが、問題はここからだ。
暴れるアレクを押さえて椅子の上で力尽きたクライムに、お疲れさんとエイセルはコップを差し出す。クライムはあり難く一気飲みして、直後噴き出した。中身が酒だったのだ。何すんですか、おー良い飲みっぷりだ、誰だ俺の酒を取ったのはと話は進み。結果、三人仲良くクライムに酒を流し込む形でエイセルはその場を収めた。
「ああ、あの時の適当なオジサンか」
「お兄さんだ」
フィンは至極どうでもいいと言った顔でそう言った。あの時フィンはナルウィと言う別の山猫とひたすら話していたが、思えば確かにこんな男もいたかもしれない。
「つらい事があった時は酒飲んで忘れる。それが大人ってもんだ」
「あっそ。それで大人のオジサンは試験前日にどんなつらい事があったわけ?」
二日酔いの状態で他人の面接に乱入したエイセルは、有無を言わさずその場で失格となった。すっかり目の覚めたメイルが介抱しなければ、命があったかも分からない。
「うっ。あ、あの時はシルヴィを怒らせちまって……」
「おかわり!」
メイルの元気な声と共に空になった大皿が突き出される。エイセルはにやっと笑った。
「子供はこうでなくちゃな! どんどん食え!」
「いただきます!」
再び山盛りになった食べ物をメイルは無心に詰め込んだ。
あれから二日。
二人が泊る埃っぽくて狭苦しい宿。今朝メイルが起きると、そこにこの間の礼だとエイセルが押しかけて来たのだ。
すぐに山積みの本を全て片づけ、代わりに鍋やら飾りやらを次々持ち込む。味気ない勉強部屋があっという間に立派な食堂に様変わりした。しかも部屋の隅では煉瓦と木屑でぬかりなく簡易の厨房が作られている。
鍋の中身は、米にチーズや肉を混ぜ込んで炒めた簡単な料理だった。香辛料のせいか何とも言えない良い香りがする。そんなこんなで、もうその半分近くが無くなっていた。
不意にエイセルは瓶の中のペーストをおたまで適当に取ってフライパンにぶち込み、適当に水を入れて適当にかき混ぜる。すると炒め物は魔法のように一瞬でシチューに変わった。
「凄い! おかわり!」
メイルは目を輝かせて喜んだ。一方フィンは、まじまじとフライパンを混ぜるエイセルを見ている。
だらしない印象だった。馬の鬣を思わせる白髪交じりの茶色い髪は寝癖のようにあちこち跳ねている。シャツのボタンは掛け違えているし、胸元はいい加減に開いていた。背も高くてガタイもいいのに不思議なくらいエプロンが似合う。騎士をやめて料理人をやればいいと、フィンは純粋にそう思った。それが口に出たらしい。
「余計な御世話だ。大体お前、いきなり喋り出したかと思えばまた随分と口が悪いな白いの」
「ダメオヤジをダメだと言って何が悪いのさ。こっちこそ余計な御世話」
「まさかお前が雪の竜だったとはな。団長の奴め。俺らにも一言話してくれればよかったのによぉ」
フィンとメイルは顔を見合わせる。咳払いすると、そのまま二人でジーギルの声を真似た。疲れ切ったような、ゆったりした低い声だ。
「エイセル、私はいつも必要と思った事だけ話している」
「くだらない事で私を煩わせるな、馬鹿め」
「……ガキ共が。似てるじゃねぇか」
その後もしばらくメイルは猛烈な勢いで食事をしていたが、エイセルの料理がほとんど無くなりかけた所でようやくスプーンを置いた。
「ごちうさまー」
満足そうにそう言ってころんとベットに横になった。布団を抱き枕にして幸せそうな顔でごろごろ転がる。それにしてもこの少女は本当に餌付けされやすい。エイセルがおたまでフライパンを叩くと、カンカンと気持ちの良い音がした。
「よく食ったもんだなぁ嬢ちゃん。こんな沢山よ」
「メイルはここ数日まともに食べてなかったからね、それにまだ食べ盛りだ」
実際、マキノから預かった金はほとんど全て定期便に消え、更にこの宿を取った時点で二人は無一文だった。試験前は非常食を齧って腹の足しにし、試験後はすぐに倒れて飲まず食わず、丸一日寝ていたのだった。
「それであの有様か。正直よく試験なんかに出られたもんだな」
「ボクは良く分かんなかったよ。ここ数日はあっという間で……」
「その歳で大したもんだ。まあ今日の夕方には結果も分かるし、それまではゆっくりしていけよ」
「今日!?」
メイルは目を見開いて飛び起きた。そして再びひっくり返ってベットの上で悶え始める。エイセルはそれを楽しそうに眺めた。
「それにしても意外だったな。まさかお前らとこんな所で会うとは」
「お互い様さ。あれから随分遠くまで来たと思ったのに」
「それもよりにもよってコンジェルスとは。何やってんだぁお前ら」
「色々さ。ドラゴンの跡を辿って、ウィルに手紙をもらって。いつの間にやら、ね」
「ウィル? あのアデライド家の騎士のか?」
フィンが頷くとエイセルは乱暴に頭を掻いた。ぱらぱらとフケが飛ぶ。鍋を片づけ、エプロンを畳んで椅子に座る。フィンもテーブルに飛び乗った。
「どうやらここで会ったのは、ただの偶然じゃないみたいだね」
「ボク達がマキノに言われたのは、首都にウィルの仲間がいるから合流しろって事なんだけど、ひょっとしてエイセルがそうなの?」
「ひょっとしなくてもね。でしょ? オジサン」
「お兄さんだ。ったく面倒臭ぇ。だから柄じゃないんだ、俺なんかには」
「何が柄じゃないってグラムのお兄さん。大体ここ敵国でしょ。何やってんのさ」
「それ、ボクも聞きたい」
再びエイセルは頭を掻く。フィンは飛んでくるフケを無言で躱した。
「そうは言っても、下っ端役人とは言え俺はこの前からここで働いてるしなぁ」
「で、グラムのお兄さん。ただ働いてるだけ?」
腕を組んで話を頭で整理し、まとまらずにまた考える。
口が開いては閉じてを繰り返した。
待つのも面倒でフィンがずばり聞く。
「お兄さん、間者?」
「あー……。そうなるのか?」
煮え切らないが、どうやら当たりらしい。エイセルはまるで緊張感の無い様子だったが、万が一にでも誰かに聞かれたら冗談抜きに首が飛ぶ。話が一気に物騒になって、メイルが布団を抱えたまま起き上がった。
「間者って、何が目的なの? 誰の命令で?」
「勿論団長の命令だ。出来るだけ奥まで入り込み、その時の為に準備を整えろってな」
「……その時? 団長のジーギルは何を考えてるの!? まさかグラムとフェルディアの戦争でも引き起こそうって言うの!?」
「おいおい落ち着け、な? 俺らもお前らもここではよそ者だ。助け合ってこうぜ」
そう言って、エイセルは人懐っこい顔でへらっと笑った。何だか毒気が抜けたようで、メイルは口をつぐむ。
「誤解しないでくれよ。俺はグラムの命令下で動いてはいるが、ドラゴン狩りで南で会って以来、ありがてぇ事にウィルにも手を貸してもらってるんだ」
フィンがピクリと動いた。
「嬢ちゃんが考えてるような表立った面倒事は、俺だって勘弁して欲しいのさ」
「グラムのお兄さんにウィルが助けを? まるでお互い、自分の国を裏切っているように聞こえる」
「俺がここに入れたのはあいつの紹介なのさ。お前ら、ウィルの本当の立場はもう知ってるんだろ?」
二人は頷く。マキノの話では、ウィルはトライバルと言う名の統一戦争反対派の議員の下で動いているはずだ。推測では戦争推進の裏に魔族の影を見ていると。
「俺達も目的はほとんど同じだ。この国は面倒臭ぇ事に今は戦争一直線だが、それをひっくり返してしばらく中央議会を黙らせたい。早い話、ウィルに手を貸す事が俺達の祖国の安全にも繋がる訳だ」
「グラムから仕掛ける意思は無いってわけかい? フェルディアが表立って敵対しているのは隣国のヴェランダールだけど、一番辛酸を舐めさせているのはお兄さん達グラムでしょ?」
「攻撃は最大の防御なり。要は俺らの王がそう言う性格でな。頭が痛いぜ」
そう言って要するに、と言葉を繋げようとして、また腕を組んで押し黙る。
再びフィンが助け舟を出した。
「クーデター?」
「……そうなるのか? まあ議会の決定権を握っているガレノール最高議長。そいつの首をすげ変える事が目的だから、血を見るような事にはならないと思うがなぁ」
フィンは目の前の威厳の欠片も無い男をじっと見つめる。疑問点が山ほどあった。ウィルはなぜジーギルをそこまで信頼している。この男はどうしてこうもスラスラと両国の内部事情を説明してくる。それに聞き間違いでなければ、さっきグラムの命令下で動いていると言った。団長の命令下ではなく。
「!」
エイセルと目が合った。
間の抜けた顔でへらっと笑う。
フィンの疑念を見透かしたかのようだった。
「……」
きっとこいつは見かけ通りの男ではない。切れ者だ。何せジーギルが敵を撹乱する為に送り込んできた男なのだ。ウィルがそうであったように、ジーギルもグラムにおいて相応の地位がある男なのだろう。であればこのエイセルにも同じ事が言える。
アグナベイにフレイネスト。徒歩でここまで来るのには確かに相当かかった。しかしいくら馬を飛ばし、内部からの紹介で潜り込んだとは言え、短期間でここまで溶け込むものだろうか。そう考えると、フィンには途端この男の全てが嘘臭く見えてきた。
メイルの今後には有用な人脈だが、状況次第では敵にもなりかねない。
フィンは一人、必ずメイルを守ると覚悟を決めた。
この子の面倒は僕が見るなんて、くそ。
もしかしたら、それこそ面倒な事を請け負ったかもしれない。
「でも、でもさ。それならどうして一人とは言え、騎士のエイセルが送られたの?」
「一人じゃねぇよ? 俺とシルヴィ、ギブス、ドミニク……」
「ちょっとちょっと! 今この国に何人の騎士が潜り込んでるの?! 本当に血を見ないって?!」
騎士の名前を指折り数えるエイセルを見て、改めてメイルは怖くなる。議長の代わりに王の首でもすげ変えるつもりなのではないのか。
「それ位しないと、ろくに探れもしないのさ。噂に名高い冬の魔法使いってのが思った以上に曲者でな。俺も役人って肩書があって初めて堂々と動けるようになったんだ。他の連中は冬の魔法のせいで城に近づけもしない」
「お兄さんがコンジェルスを受けたのもそれかい? もっと向こうの信用を得る為に?」
「ボクらと違ってもう城で働いているなら、わざわざ試験なんて……」
「俺が持ってるのが三級でコンジェルスは特一級、等級にしても信用にしても格が違うのさ。それにどうやら、その信用って奴がカラクリのタネらしくて、やってみた、訳だが……」
「オジサンは酒で全部を台無しにしたと。ハッ、大人って大変だね」
言い負かされてエイセルが唸る。
「……お兄さんだ」
エイセルからの一連の話を聞いて。
メイルは布団をぎゅっと抱えて考え込んでいた。
まだたった一歩、足を踏み入れただけだと言うのに、事態は思っていたより数段複雑になっていたのだ。戦争の裏に魔族の影が透けて見え、内乱の火種が燻り、それに乗じた敵国の間者が潜り込んで暗躍している。
試験問題に頭を悩ませていたのが遠い昔のようだ。これからの事も考えると、あの苦しみが続いた方がまだ楽だったかもしれない。
「そう言えばもうすぐ時間だな」
何気なくエイセルがそう言って、メイルは心臓が飛びあがった。
駄目だ。やはりあんな苦しみはもうごめんだ。それに今聞いた話もこれからの事も、全てメイルが試験に受かっていればの話なのだ。エイセルには既にそれなりの立場があるがメイルには無い。もし合格していなければこれ以上は一歩も踏み込めなくなってしまう。行き止まりだ。
合格に全てをかけたのだ。金はもう無い。これからは生きていくのも難しいかもしれない。
マキノが任せてくれた事を失敗したら。頼みましたよと言ってくれた彼の顔が、鋭い棘のようにメイルの心に突き刺さる。もしあの期待を裏切る事になったら。
これからメイルはただ何もせずに三人の帰りを待つ。クライムを助け出したマキノに、メイルは結局駄目だったのだと報告する。仕方ありませんねとマキノは笑うだろう。メイルが無事で良かったとクライムは言うだろう。アレクはどうでも良いような顔をするだろう。
それでまた、守られるだけの日々が始まるのか。
結局、自分は何一つ変わらないままなのか。
それとも、今度こそ、自分は捨てられていくのか。
「ほら、行くぞ嬢ちゃん」
固まったままのメイルを、ひょいとエイセルが持ち上げる。何一つ心の準備が出来ていないまま、肩に担がれてメイルは宿を出た。
「街の広場で発表って。上のお役人は何を考えているのさ」
「盛り上がるんだよ毎年。名前じゃなくて受験番号で発表されるから、賭けの対象にもなってるしな」
なんだかんだで二人も楽しそうに話していた。だがメイルは恐怖で声も出ない。今すぐ布団に潜り込んで消えてしまいたい。どんどん遠くなる宿を、メイルはすがる様な目で見て必死に手を伸ばした。
もう死にたい。
***
フェルディアの首都、鉄の街ティグール。
建物が整然と並び上品さと尊厳を形で現したような街並みは、どこかフレイネストを思わせる。これほど大きな家が並ぶ街をメイルは生まれて初めて見た。近代建築の粋を凝らした建物は、遠い昔の歴史の臭いをそのままに他に類を見ない頑健さと大きさを実現している。
伝統と歴史を臭わせる落ち着き。
そして規律と真新しさを感じさせるきらびやかな街だった。
エイセルは歩きながらつぶさに街を二人に紹介する。あれが街一番の商業会館。あれが庶民向けのバザールで向こうが金持ち向け。あの武器屋は剣より包丁を作るのが上手い。あの娼館は美人が多いが胸が足りない。そこまで来るとフィンがエイセルの頭に齧り付いた。
街の中心に進むと、確かに人は多くなってきた。外に出ているほとんどの人が、自分達と同じ方向を目指している。窓からは沢山の人が顔を出し、子供たちが親に連れられてはしゃいでいた。
「凄いね。本当にお祭りみたいだ」
フィンは半分呆れた様子でそう言った。
「本当にお祭りだからな。ああ、見えたな、あれだ」
それと同時に大きな歓声が聞こえて来て、エイセルの肩の上でメイルがびくっと震えた。
広場の中心には百人単位の人だかりが出来ていて、皆がやいのやいのと騒いでいた。その中からは見上げるほど巨大な掲示板がそびえていて、十数人の役人がそれを管理していた。
掲示板には無数の小さな穴が開いていて、その一番左上の穴にはたった今はめ込まれたのか、数字の書かれた木の札が見えていた。九十一番と書かれている。それにある者は大喝采を送り、別の者は泣きながら大声で喚き散らしていた。そのどちらも受験生九十一番では無かった。
「本当に賭けてるんだね。こうなると競馬やカードと変わらない」
発狂寸前の民衆から発表を守る為に衛兵まで付いている始末だった。
見ればフレイネストの即席の兵隊と違って、王都の正規軍は装備からして別物だった。美しい文様の彫り込まれた灰白色の重厚な甲冑で、体は一回り大きく見える。肩から伸びた大きなマントが時折風にたなびく。腰には真っ直ぐな剣を下げ、そして手には軍旗の付いたハルバード。暴徒同然の市民は武器が無くては対抗できないらしい。
「点数の低いものから順に、ああやって表示されるんだ。高得点の奴に賭けた分配当金も跳ね上がる。しかしなんだ。当たらねぇもんさ」
「賭けたのかよ。アレク並みの馬鹿だねオジサン」
合格者自体は最後に発表される数名のみだったが、賭けの対象となるのは上位数十名全員である。一つの番号が壁に現れる度に歓声が起こり、その度にメイルの寿命はごっそり削れた。二十名が発表されたが、まだそこにメイルの番号は無い。
「まあ、ここで発表されても意味無いけど。無駄に緊張するねコレ」
「どれ。その体勢じゃ見えねぇだろ」
そう言ってエイセルは担いでいたメイルを肩車した。
一気に視野が開けて、人だかりの海が目の前に広がる。何とも余計なお世話だった。今やメイルはこの場にいる誰よりも高い位置で、誰よりも見やすい場所から発表を突きつけられる羽目になった。目が離せない。さっきまで見えなかった、役人の一挙手一投足に、いちいち体がびくつく。
「そうしてると本当に親子みたいだね」
「お? 嬉しい事言ってくれるな」
なんだってこの二人はこんな能天気なんだ。メイルはもう泣きたかった。
発表は続く。遂に五名の合格者にまで辿りついて、広場を埋める声も耳を覆わんばかりに膨れ上がる。しかも何のつもりか、合格者の番号は、もったいぶる様に一の位から小出しにされるようになった。メイルはもうすっかり麻痺して体が動かなかった。さっきから瞬き一つせずに発表に釘づけになっている。
三番。
五百二番。
八十三番。
「……これ、もしかして駄目だったんじゃ」
「……いや、もしかすると最高得点でとか」
とうとう二人の声まで落ち込んでくる。メイルの番号は七十五番。第二位の一の位が五と来て胸がざわついたが、十の位が零と来て心が砕けた。
しかし。
空気が震える大歓声と共にエイセルが叫ぶ。
「メイル! お前一位だぞ!」
「七十五番だよね!? 見間違いじゃないよね!?」
数時間ぶりに瞬きをして、メイルも壁を確認した。
何度も何度も確認した。
確認して、間違っていないだろうか。しかしそこにあるのは、壁の一番右下、今期最高得点保有者の欄には、確かに七十五番、自分の番号が載っているように見える。二人は歓声に負けない程の大声で叫び、メイルに向かって笑いかけた。
「凄ぇなメイル! お前何者だよ畜生!」
「やったじゃないか! おめでとう!」
おわった?
うまくいった?
もう何が何だか分からないまま。
メイルは白目を向いて、その場でひっくり返った。