表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
変わり者の物語  作者: あなぐま
第2章 北の大地
22/57

第18話 泉の魔物

 その夜。


 戦場と化した街を奇妙な静寂が支配していた。

 ついさっきまでの激戦が嘘だったような静けさだ。


 倒れるアレクは目の前の状況が理解できなかった。


 彼の視界は、自分を庇うように駆け寄ってきたクライムの背中、そして彼に振り下ろされた巨人の拳で埋め尽くされていた。まるで拳が当たる直前に時が止まってしまったかのようだ。いや、本当は既に直撃していて、二人仲良く潰れているのかも知れない。ははぁ成程。さてはこれが死後に見るという、死ぬ直前の幻という奴か。


「馬鹿な」


 それなら体中を締め付けるこの糞忌々しい痛みはいったいなんだ。

 これは現実だ。巨人が直前に止まった。

 止められたのだ。


「おい」


 アレクは不機嫌極まりない声で呼びかける。


 クライムは片手で巨人を制したまま、ゆっくりと振り向いた。異様な雰囲気だった。アレクでなければ声をかける事も躊躇われただろう。この暴威の塊のような怪物を片手で止めた、そのあり得ない奇跡が不気味さに拍車をかけていた。それこそ魔物にでも乗り移られたと言われた方がよほど納得できる。


 だが、それはこの男がクライムでなければの話だ。


 御大層な出来事など、道端の石にさえ躓きそうなこの男には似合わない。どうせ余計な気を回し、悩みを抱え込み、失敗した挙句にまたしても面倒な事態を引き起こしたのだ。戦いは終わった。だが奇跡など起こっていない。もっと厄介な何かが起こっている。


 クライムはゆっくり口を開く。


「……アレク、無事なの」

「無事に見えるかよ。それにしてもてめぇ、随分その化物と親し気だな」

「なに言ってるんだ。そんな訳ないだろ」


 敵意をはっきり言葉にされ、止まっていた巨人が唸りながら再び動き出そうとする。だがクライムはそれを睨みつけた。


「動くな。これ以上、アレクを、傷つけたら」


 その鬼気迫る様子に巨人は再び押し黙る。この男は故郷を失ってからというもの、親しい者を失う事を酷く恐れている。今のクライムからは確かに怪物さえも押し留めるほどの気迫はあった。だが実力が伴っていない。伴っていなかった筈だ。


 アレクを庇ったのも巨人を抑えたのも、考え無しに動いただけ。本来ならば二人揃って死んでいただろう。そこに何かが手を貸したのだ。軋む体にもお構いなしにアレクは体を起こす。


「まあいい。何をしたか知らないが、やり続けろ。今の俺達じゃこいつには勝てない。お前の命令が利いている内にどうにかするぞ」

「どうにかって言われても。僕には何も……」

「くそが、相変わらず役に立つのに役に立たねぇな」


 クライムは本当に身に覚えがないのか、苦し気に胸元を手で押さえていた。そこでアレクが気付く。無意識に彼が押さえている胸元。そこが赤熱した鉄でも入っているかのように、ぼんやり赤く光っていた。


「おい、お前そこに何を持ってる。胸の辺りだ」


 言われてクライムも改めて自分を見る。慌てた様子で胸元をまさぐり、何かに気付いたのか、はっとした表情で顔を上げた。


「い、いや、これは……!」

「言いたくないなら良い。つまり、そうか」


 クライムの言い訳は途中で切り捨てた。重要なのは彼が巨人に命令出来る明確な理由を持っていたという事だ。詳細はこの際どうでもいい。


「ま、まさか。でも、それなら僕が命令して、こいつを倒せれば」

「無理だ。どんな手段を使ってもこいつは倒せない」

「そんな馬鹿な。こいつが不死身だとでも言いたいの?」

「不死身なんだよ。どんな呪いが掛かってるか知らねぇが、死なないように出来てるんだ。いや、それとも元々死んでいるのかもな」


 それがアレクの敗因だった。心臓を止めて首を落とせば、どんな相手でも倒せると思っていた。だが巨人の心臓は最初から止まっていた。首を落としても動き出しかねない。


 そして今、そんな事をあれこれ試している時間はない。生き残った兵隊達が徐々に立て直し始めた。彼らが遠巻きにこちらを囲み、巨人はそれに気付いて苛立っている。マキノは気を失い、メイルは傷だらけのフィンを抱きしめて動かない。このまま再び戦いが始まれば今度こそ誰も巨人を止められない。次第に二人は焦り始めた。


「どうしよう。街の人も、この人達も、これ以上傷つける訳にはいかない」

「知った事か。だが俺達の身も危なくなってきたな。くそ」

「そうだ。とにかくこいつを街から出そう。ひたすら北へ走り続けろとか命令すれば……」

「駄目だ。こいつの本物の主に見つかったら命令を上書きされる。上手い手を思いつくまで手元に置いておくしかねぇ」

「そうだね。それじゃあ近くに荒れ山があったしそこで待たせよう。聞いてたか?」


 バタバタと意見をまとめて、クライムは再び巨人に向き直る。


「街の東にある山で待っているんだ。僕達が戻るまでそこを動くな。誰も傷つけるな。何も壊すな。分かったら今すぐここを離れろ」


 巨人は命令を聞き入れた。すぐさま踵を返し、周囲の兵隊を警戒する素振りを見せつつも、誰に手を上げる事もなく城門へと歩いていく。それを阻める者もなく、包囲網は道を譲るようにしてその様子を見守った。


 だがその二人の行動は。

 マキノにもし意識があったなら。

 絶対にやらせなかった筈の悪手だった。


 今にも決壊しそうな緊張の中、何かが空を切る高い音がする。


「え?」


 飛んできた一本の矢が、クライムを撃ち抜いた。


「あ、れ……?」


 クライムは痛みを感じて、右手を見た。

 掌が貫かれていた。


「くそ!」


 動いたのはアレクだ。巨人がいなくなって油断した。アレクは雨霰と降り注ぐ矢を必死に剣で振り払うが、それでも動きに繊細さはなく、肩に、膝に、次々と矢が刺さる。それでクライムも我に返った。顔を上げて敵を見る。


 そして愕然とした。

 二人を攻撃していたのは、フェルディア軍だった。


「なんで……」


 別の矢が腕に刺さって苦痛に顔が歪む。


「や、やめろ! やめてくれ!」


 クライムは思わず前に出て叫ぶ。すると兵はざわめいて攻撃をやめた。手を緩めたのではなく、怯えたように。


「何をするんだ! もう魔物はいなくなった! 戦わなくていいんだ!」

「黙れ!」


 兵の一人が切り捨てる。


「よくもそんな事を! 貴様が魔物共を引き入れたせいで、どれだけの仲間が死んだと思っている! 構うな! 殺せ! 仇を取れ!」

「なんだと、くそ、そうか……!」


 アレクは失策に気付く。クライムは魔物に命令して街から出した。それは同じく命令して街に入れられる事も意味している。誤解だ。だが説明など出来るだろうか。そう思って兵達の顔を見る。そして悟った。無理だ。しかしクライムは構わず叫び続けた。


「さっきまで一緒に戦っていたじゃないか! とにかく、攻撃をやめてくれ! まずは僕の話を……」

「騙されるな! こいつはそもそも検問で捕まっていた奴等だぞ! 人に化けた魔物を連れてきたのだと聞いた! 自分が助かる為に仲間を呼び寄せて、だからこんな事になったのだ!」


 滅茶苦茶な憶測を振りかざすのは砦にいた兵の一人だった。それが下らない冤罪だった事も知らず、ただ耳にした事柄だけを勝手に組み立てて周囲を煽る。そしてその考えはあっという間に伝染し、疑いようのない事実となった。クライム達が抵抗しないと踏んでか、兵達は槍を構え包囲網を狭め始める。


「ち、違う! 僕達は敵じゃない!」


 戦いは終わったのだ。もう敵はいないのだ。

 それなのに、ここまできて同じ人間に殺されるなど意味が分からない。

 どんな言葉なら彼等の心に届くだろうと、クライムはとにかく必死に訴える。


「傷ついた人が沢山いる! こんな事してる場合じゃないだろ!」


「僕はあなた達の事も助けていたつもりだったのに!」


「分かった! もう街から出て行くから! だから!」


 兵は無言で迫ってくる。その顔には張り詰めたような恐怖が見て取れた。血走ったその目は見ているだけで吸い込まれそうだった。言葉が届かない。


「僕達は、仲間……!」


 飛んできた矢が、それを最後まで言わせなかった。

 狙い違わず腹を射抜かれ、クライムは膝をつく。


「っ……」


 もう言葉が出て来なかった。

 どんな言葉も、彼等には届かない。


「おい! しっかりしろ! 立て!」


 遅れて飛んでくる矢をアレクは必死に叩き落す。だが動いているだけでも精一杯だ。とても誰かを庇っている余裕などない。クライムは腹を押さえたまま動かない、当たり所が悪かったのか、微妙に震えている。


「……はっ」


 不気味な、低い声が聞こえた。

 震えていたのではなかった。笑っていた。


「ははっ。そうか。こういう事だったのか」


 その言葉は、やけにはっきりアレクの耳に残った。


「こうやって五百年前も、あなた達はレイを切り捨てたんだね。彼女はどれだけ苦しくても、あなた達を責めはしなかったよ。仕方ないんだって笑っていた。でも、でもそんな訳ないだろう。なんであんな淋しい顔をさせるんだ。なんで、この五百年で何も変わっていないんだよ」


 何を言っているのか、アレクには全く分からない。だが猛烈に嫌な予感がした。


「どうして簡単に切り捨てられるんだ。ふざけるな。僕が、それを探し集める為に、どれだけ苦労していると思ってる。ずっと探し続けているんだ。僕を僕とする全てを。僕の名前を、僕の顔を。僕の、大切な仲間を」


 アレクも幾度となく聞いた口癖だった。いつだったか、それが変わり者という魔物の根幹なのだとフィンが言っていた。その為なら何でもすると。どんな犠牲でも払うと。どんな手段でも取るのだと。


「おい、お前、何か馬鹿な事考えて……!」


 遅かった。ざわっと、クライムの髪が逆立つ。


「……もういい」


 いつしか、包囲の兵隊も足を止めていた。

 アレクもクライムから目が離せなかった。 


「分かってくれないなら、分からなくて良い。僕が分かり易くしてやる。敵が欲しいんだろう。戦いたいんだよね。それなら……」


 そして、それは始まった。


 ぼさぼさの黒い髪が、後から後から伸びてくる。

 その中から、一対の捻じ曲がった角が伸びてくる。

 子供っぽい顔からも体からも、ごわごわと毛が溢れてくる。

 体が膨らみ、溢れた毛が服も靴も埋めていく。

 その恐ろしい光景を前に誰一人としてまともに動けなかった。


 苔色の毛に覆われたその何かの奥には、濁り切った黄色い目が光っていた。包囲する兵は脚を震わせている。追い打ちをかけるように、黄色い目は兵達を射すくめた。はっきりと、敵意を持って。それが限界だった。


「それなら。僕が今から、あなた達の敵だ」


 一人の絶叫を弾みに、兵隊は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 逆にアレクは目の前の怪物を見上げたまま、一歩も動けなかった。


 苔色の毛で覆われた二本角の化物だ。

 体中から水が滴って、泉から上がってきたばかりのようだ。


 蹄の付いた後脚で立ち上がり、長い腕は肩からだらりと垂れていた。見るからに堅そうな剛毛で包まれていて、ずんぐり大きく見えていた。後からは山羊のように小さな尾が、頭からは歪に捻じれた角が生えている。


 だが問題はそんなものではない。この、身に覚えもない恐怖と嫌悪感だ。こんな姿の物が存在していい筈がない。世界の全てから忌み嫌われるような魔物が、なぜまだ同じ姿を晒しているのか。


「どういう事だ……」


 聞いていた話と違う。クライムは今、何に変身する事も出来ないと言っていた。では今、これは、一体何に変身しているのだ。


 だがその姿を見て、もう一度フィンの言葉を思い出す。変わり者は森の泉が人の姿を映すように、あらゆる形を写し取る。変わり過ぎて既に誰の記憶にも残っていないが、泉の魔物という名前と共に彼等自身さえ忘れ去った元の姿があるのだと言う。それは、つまり。


 いや、どうでもいい。それよりなぜ変身した。悪手に悪手を上乗せして、もう収拾がつかない。この場で姿を変えて自分が人間でない事を見せつけては、誤解を解くどころかその誤解をますます強めてしまう。


「アレク」


 気味の悪いしゃがれた声で、クライムは声をかける。

 ゆっくりと、その大きな腕を振り上げた。

 そこでアレクは分かった。

 この馬鹿が、また馬鹿な事を考えている。

 だがそれは余りにも遅きに失した。


「みんなを、任せたよ」



***



 既に朝になっている筈の時間帯だ。

 だが空は暗雲に包まれたまま、昨日からずっと夜が続いている。

 昇ってきた筈の太陽はどこにも見えなかった。


 辺りは屍の臭いで満ちていた。いつ終わるとも分からなかった戦いが終わり、街では兵隊達が救護と復旧に追われている。皆が疲れきっていた。人々はその家から出る事を許されず、未だに街は死んだままだ。


「……ふん」


 アレクは兵隊が慌ただしく走り回る中を、ゆっくりと見て回っていた。


 軍の被害は甚大だった。多くの者が傷つき、担架で砦に運ばれていた。魔物の傷は毒のように膿んで、誰もが苦痛の叫びを上げている。


 一方で掻き集められた荷馬車にはその魔物の死体が積み上げられていた。元々死体同然だった魔物が街中に散ってしまったのだ。いつ疫病が流行り始めても不思議はない。魔物の骸は城外の荒野で焼かれたが、耐えがたい程の臭いが街まで流れてきていた。


 アレクは夜明けから街を一周。

 ようやくメイルとフィンの待つ裏路地に戻ってきた。


 背の高い建物の間を押し分けるようにして細い階段が伸びている。そこでメイルはフィンを抱えながらじっと座り込んでいた。アレクが発つ前と全く同じ体勢で。


 フィンは変わらず顔をしかめていた。無事ではあったものの、まだ傷が痛むようだ。本人は大丈夫だと言うものの、やられた瞬間を目の当たりにしていたメイルはそれを信じない。しっかり抱きしめたまま、もう二度と離さないのではという様子だった。


「どうだった?」


 フィンが言った。アレクは辺りの気配を確認する。不問とはなったものの一行はフレイネストから厳重注意を受ける身だ。下手な行動や会話を拾われれば、どんな口実に使われるか分かったものではない。


「最低だ。見るまでは分からないと思ったが、見るまでも無かったな」

「そう。城壁の様子は?」

「破られた門はガラクタを寄せ集めて完全封鎖だ。もう、この街は駄目だな」


 実際、全滅しなかったのが不思議なくらいだった。兵隊達が片端から倒され、そのまま巨人の魔物に蹂躙を受け、今頃この街自体が文字通りの死体の山になっていてもおかしくなかったのだ。


「マキノの方はまだ大分かかりそうだ。それまではここに釘付けだな。まあ、あいつの事だ。上手くやるだろうさ」

「相手は、スローンだっけ、あの石頭の役人なんだろ。大丈夫かい?」

「知った事か」


 アレクは忌々し気に唾を吐く。


 クライムに殴られた傷がまだうずくのだ。アレクが再び意識を取り戻した時には既にクライムの姿は無く、マキノもフィンも無事な様子で街は後始末を始めていた。全てが終わっていたのだ。自分が気絶している間に、全て。苛々しながらも事の経緯はメイルに聞いた。


 あの夜。


 魔物の姿になったクライムに殴られ、今度こそアレクは気を失った。

 そして入れ替わるように動き始めたのが、マキノだった。


 治癒の魔法と気付け薬で蘇るように起き上がったマキノは、アレクが倒されたのを見て完全に逆上。見た事もない苔色の魔物に、雨のような攻撃を浴びせ始めた。その勢いに当てられて逃げ腰だった兵隊達が再び結集。今度こそ、全ての魔物を街から追い払ったのだった。


 苔色の正体はクライムだった、そうマキノが兵隊から聞かされたのはその後の事だ。驚きを隠せない様子だったと言うが、自分の知るクライムと言う男は確かに人間だったとマキノは弁明。つまり、偽物が入れ替わっていたのだと。


 兵の言う通りあれが魔物の手先であるなら、クライム本人の命は既に無い。よりにもよって仲間の姿を取って敵の手引きをし、アレクに瀕死の重傷を負わせ、自分を殺そうとした。断じて許せない。


 こちらの情報を洗いざらい吐く。

 代わりにフレイネストの協力が欲しい。

 仇は、必ず取る。


 大嘘である。


「よくもまぁ、次から次へと嘘を思いつくもんだよ」


 フィンは感心した様子で溜息をつく。 


 あの夜、どう言う訳だかクライムは命令一つで魔物を押さえこんでしまった。弁明のしようもないあの状況。クライムは自分を犠牲に仲間を無関係と印象付けるにはどうするか考え、真っ先に思いついた最も短絡的な手段を取ったのだ。


 そしてマキノはすぐにそれを理解した。

 彼はクライムという男をよく知っていた。


 本気で怒り、殺す気で攻撃し、仲間の死を忘れないと、ヨヨとばかりに泣き崩れた。二人の計略による効果は抜群。今や魔物を倒すと言う共通の目的のため、マキノは完全にフレイネストを味方につけていた。そして事態は一変した。


 メイルを吊し上げた門番は釈放され、逆にその功績を称えられた。旅人に化けた魔物の手先、よくぞ見破って捕えてくれたと。スローンも恩赦を出した。給金もたんまり出ただろう。


 だが当の本人達だけが目を白黒させていた。太った商人との取引で亜人を魔物に仕立て上げただけの筈が、意図せず本物を捕まえていたのか。全く訳が分からない。その背後でマキノやクライムがほくそ笑んでいた事など、彼らにとっては知る由もない事だ。


 フェルディアとの亀裂。

 正体不明の魔物の襲撃。

 事態はやっと、収束に向かいつつある。

 めでたし。めでたし。


「ふざけんな」


 だがアレクとフィンは、キレていた。


 あの野郎にこんな形で庇われるなど冗談ではない。いらぬ心配、余計なお世話、そうやって無駄に気を回される事こそ裏切りのようなものだ。


 結局あの馬鹿は自分達を欠片も信じていなかったのか。しかしそんな文句も助かったからこそか。だが奴に助けられたなどと認められるか。二人揃って延々と悶絶している。


「それでいつ出発するわけ」

「マキノが戻って来次第すぐだ」

「そうじゃない。僕とアレクだけでもすぐ追うべきだ。あんな状態のクライムを放っておく訳にはいかないだろ」


 フィンはそう言ってメイルから逃れようと必死にもがいた。だがアレクはフィンと同じく腹を立ててはいても、酷く落ち着いていた。


「まだ追わない」


 そう言った。それに対してフィンがこれ以上ない位怪訝な顔をする。


「なんだって? どこに行ったかも分からないんだよ? しかもあの巨人が付いている。今すぐにでも取り押さえないと危険だ。どっちの意味でも」

「口に出すのも癪だが、そこまでしてなんとかなってる俺達の立場だ。悪くしても仕方ねぇだろ。少なくともマキノがスローンを丸めこむまで、ここは動かない」

「そんなものはどうだっていい。兵隊が復旧に追われる今しかないんだ。それが終われば、怒りの対象が僕らに戻るかもしれない」

「はっ、火炙りにされるかもな。その前には逃げ出すが、ともかく今は駄目だ」

「そんな事を言っている時間はない。アレクは変わり者を甘く見過ぎだ」


 フィンがアレクを睨む。


「誰にでもなれて何にでもなれる、それがどういう事だか分ってる? あの馬鹿が一度逃げに入れば見つけるのは不可能だ。この世にある全てを片っ端から問い詰めて回る気かい? 道端に落ちてる石ころから、世界最強のドラゴンにまで」

「大げさ過ぎだろうが。大体今の奴は早々変われないんだろ」

「でも何がきっかけに変わり始めるか分かったものじゃない。僕だって何でクライムが変われなくなったのか知らないんだ。それを、」

「……行ったらいやだ」


 二人を割って、メイルの小さな声がした。


 アレクもフィンも、口をつぐんでしまう。理屈抜きの、有無を言わさぬ言葉だった。メイルはますますしっかりフィンを抱える。フィンはしばらく複雑な顔をしていたが、やがて諦めたように力を抜いた。


「分かったよ」


 アレクも肩をすくめる。なんだかんだ言ってクライムもフィンも、メイルには頭が上がらないのだ。


 フィンは少し頭を掻くと、急に口の端を自分で噛み切った。そして少しだけ血を口に含むと、霧のようにふっと宙に吹きだした。それはどこか、元の姿に戻る時の仕草を思わせる。


「何やってんだ」


 アレクが訊くと、むっつりした顔でフィンが答える。


「ちょっと釘刺しに」



***



 森の向こうから黒い煙が上がっていた。

 フレイネストは、みんなはあの辺りか。


 朝が来た筈なのに、夜が明けた気がしないのはどうしてだろう。ぼんやりとそんな事を考える。


 僕は、完全に気が抜けていた。何とかなったという思いと、やってしまったという思いが混じっている。後ろ目に見た時、フレイネストの兵隊は半信半疑でも傷ついたマキノやアレクを保護していた。多分これから最悪の対応を迫られることもないだろう。


 それでも。溜息が止まらない。


 草木一本育たない荒れ山の一角で、辺りを見回すのに丁度いい突き出した岩を見つけた。昨晩からずっと、僕はそこに陣取って街の方向を眺めている。僕に仕えるように隣でしゃがむ巨人が低く唸った。僕は座ったまま、何度目になるかも分からない命令を繰り返す。


「動くなよ、まだここにいる」


 分かっている、と唸り声が返ってくる。不気味だった。濁った赤い目が爛々と光り、焦げた体が未だに白い煙を上げていた。こんな怪物が僕の命令に従っているなんて。


 でも正確に言えば恐らく僕のではなく、レイの命令に、だろう。


 僕は胸ポケットに手を添えて、その中の割れた指輪が暖かくなっているのを確認する。以前レイが魔術を使った時もこんな反応を見せていた。女々しくいつまでも持っていて、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。でも。


「これは、まだレイが生きているって考えても、良いのかな……」


 僕の独り言にも巨人は答えない。


 魔族と同じ目をしたこの巨人は、間違いなく彼等の眷属だ。恐らく主の命令に従う事が彼の全てで、それ以上の複雑な状況は把握できていない。アレクの推測は多分当たりだ。死体狩り達が人の屍から作られたように、彼もまた誰かの屍を利用されて生み出されたんだ。それこそ元はレイの顔見知りだったのかも知れない。


 でも本当に彼が不死身なのだとしたら目を離す訳にはいかない。僕がみんなと会う訳にもいかない。


 僕はまた溜息をつく。

 頭の中では昨日の光景が何度も繰り返される。


 もし会えても、一体どんな顔をしたら良いか分からない。

 いや、受け入れよう。もう会えなくなってしまったんだ。


 今にして思えば、僕が仲間と一緒に旅をしていたなんて、本当に夢みたいだった。結局僕はまた一つ失くしたのか。それともいつか偶然にでも、もう一度会えるだろうか。


 巨人が再び唸った。


 理由は分かる。僕らが本当に街から離れたか、フレイネストが偵察の騎兵を飛ばしたんだ。今更見つかる訳にもいかない。もっと遠くに離れないと。だるい体を動かして僕は立ち上がる。


「行こうか」 


 力なく言葉が漏れる。

 街に背を向けて、どこへ続くかも分からない道へ向かう。

 もう何も考えない。僕は今、自分のするべき事をする。



「そうはさせるか」



 !!


 誰だ。


 突然肩の辺りを強い力で掴まれた。胸倉を掴まれて強引に引き寄せられ、顔を確認する間もなく殴られた。視界がぶれて鈍い痛みが走る。


「っつ……!」


 頭が混乱していた。誰もいる筈がないんだ。さっきまで僕と巨人だけだった筈で、僕はともかくこの巨人が気付かない訳がない。まさかフレイネストの兵隊がもうこんな所まで来ていたのか。それとも最初から近くにいたのか。


「もう一発いるね」


 訳の分からないまま更に引き寄せられて、言葉通りにもう一発殴られる。

 口が切れたのか少し血が出る。それでも相手は僕を離さなかった。ぐっと僕を引き寄せる。


「僕は怒っている。理由を聞きたい?」


 長い銀色の髪をなびかせて。

 彼は僕にそう言った。

 相手に気付いて一瞬体が固まる。


 フィンだ。


 よりにもよって、こんな時に「来る」なんて。驚く前に気まずかった。今は、会いたくなかった。無意識に顔を背ける。


「……聞きたくない。聞かなくても、分かる」

「ほ、そうか、嘘をつけ。僕が目を離すとすぐこれだ。こっちを見ろ」


 嫌々目を合わせる。


 銀色の髪の、細身の青年。彼は目の前にいる筈なのに、相変わらずどんな顔をしているか分からなかった。でもどんな様子かだけは分かる。美しい青い目が猛烈に不機嫌だと僕に訴えてきていた。


 そもそもフィンがこうやって僕の前に現れるのは、昔から決まって怒っている時だ。目が逸らせなかった。でもそうやって僕が何も言えずにいると、彼の方から耐えられずに再び口を開いた。


「クライムの事だ。何を考えているかは大体分かる、でもそんなのは駄目だ」

「駄目って。僕が何を考えているかって、」

「もう二度と彼等と会わないつもりでいるんだろう。全く。仲間だ友達だと妙な事ばかり大事にするくせに、その実そんな関係を何よりも恐れている」

「仕方ないじゃないか! 僕が一緒にいたら何もかもが台無しだ!」

「だからもう一緒にはいれない? 自己犠牲ってか。御立派過ぎて涙が出るね」

「何とでも言えよ。僕には、もうこれ以外にどうしたらいいかなんて、」

「知るか。でもこの僕との、ドラゴンとの盟約を破ってただで済むと思ってるのかい? いや、まだ口約束だったかな」

「口約束って……」


 約束。

 その言葉に再び目を逸らすと、彼はますますその細い指に力を込めた。


「忘れたなら何度でも思い出させてやる。僕らが初めてあの子に会った時、二人で約束をしたはずだ」


 初めて、メイルに出会った時。また随分と昔の話を持ち出されてしまった。知識ばかり大切にして、現実を軽んじる地中の賢者の里。少女はそこから連れ出して欲しいと僕等にせがんだ。夢見がちな子供の我儘だ、なのに僕はそれを聞き入れた。だから最後まで責任を持つと二人で決めた。


 あの頃の事を思い出して、重かった口が自然と開く。


「……世界は、この子が思っているほど美しくなんかない。汚い人もいるだろう。救えない事もあるだろう。悪は強くて、闇は深くて、人はそれに敵わない。それを知れば、きっとこの子も現実を思い知る」

「その時にはもう花が綺麗だと笑わないかも知れない。人が優しいと喜ばないかも知れない。でも、それでも世界は美しいと、あの子がそう言ってくれるように、僕等はこの子の事を見守ろう」

「どんな事があっても、二人でこの子を守っていこう」

「僕達、二人でだ」


 忘れていた訳ではないけれど。彼は僕の事を睨んだまま言葉を続ける。


「あの子はクライムに突き放されたと泣いているんだよ。いつもは過保護なくらい世話を焼く癖に、肝心な時に限って役に立たない。ここの所ずっと子供みたいに不機嫌で、どうせその間は周りの事も目に入らなかったんだろうね。そんなにフェルディアの事が気に入らないの? それとも指輪が割れた事をまだ引きずっている訳かい?」


 ぎくりと、心臓が震えた。

 いや、知っていても不思議は無いけれど。


 フィンはいつも寝てばかりいるくせに、僕がヘマした事は必ず知っているんだ。僕が間違っていると思ったら、どこまで逃げても説教に来て、どこに隠れても必ず隣に現れる。


 今回も、僕は答えられなかった。沈黙が答えになっていると分かってはいても、卑怯だと分かっていても、目を逸らして向こうが何か言ってくれるのを待っていた。その間も彼の視線が痛いくらい突き刺さる。


「あの子の面倒は僕が見る」


 きっぱりと、そう言われた。


「クライムはしばらく感傷にでも浸っていればいい。でも必ず戻ってくるんだ。クライムから言い始めた約束だ、反故にするのは許さない。僕があの子を守るのはクライムが帰ってくるまでの間だけだ。いいね」


 必ず戻ってこいか。

 そうだね、約束は約束だ。


「アレクもマキノも、怒ってただろうな……」

「当然だよ。だからクライムは二人にも謝らなきゃいけない。言い訳があるなら、それでもちゃんと言ってみろ。仲間だの友達だのと口にするなら、相応の筋を通すんだ」


 想像するだけで気が重い。勝手に決めて傷つけて、今度こそ見限られたかも知れない。でも駄目だ。殴られても罵られても、ちゃんと向き合わないといけない。向き合わないと、いけなくなってしまった。


「……悪いね。いつも世話ばかりかけて」

「いいさ。でもタダじゃない。貸しはちゃんと返してもらう」


 腕がようやく離れて、ごんと、拳が胸を突いた。


 荒い風が戻ってくる。

 気付けば、また岩場には僕と巨人だけになっていた。


 巨人がしきりに辺りの臭いを嗅いでいた。さっきまでここにいたはずの誰かを、確かに感じ取っていたようだ。でもそれが何だったか分からなくて苛立っている。分かりはしない。僕以外、みんなだってあの銀色の彼を見た事がないんだから。


 雪の竜は幸せを運ぶ。運ぶ時は人には見えず、見えた者には不幸を運ぶ。そうやってフィンは男達に麦の選び方を教え、女達に美しい花を見つけさせ、子供達を泣き止ませてきたんだ。


 誰も彼が見えない。

 誰も彼と顔を合わせない。

 誰も彼に口を利かない。

 まさか僕の見た幻じゃないだろうな。


 でも、腹は決まった。


 離れていた所でやる事は変わらないんだ。みんなはマキノの主導で、これからはもっと露骨にフェルディアに探りを入れ始めるだろう。なら僕は何をすればいいか、それを考えなきゃいけない。こいつをどうするかも、街にどうやって潜り込むかも考えないとな。


 軽く自分で頬を張って気合いを入れた。

 そして魔物を叩いてせかしつける。


「行こうか」


 さっきよりも、しっかりした言葉が出た。

 道の先は、まだ見えない。

 みんなとは暫くお別れだ。


 また、一人の旅が始まる。

 みんなと、もう一度会うために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ