第15話 囚われの姫
窓から差し込んでいた淡い光が、ゆっくりと細くなった。
太陽が沈むのと同時に、図書館中の蝋燭に火が付けられ、柔らかで怪しげな光が辺りを包む。
背の高い本棚が嫌々道を開けてくれたような空間。昼はここに並ぶ長机で何人もの人が思い思いに本を読んでいた。でも今は僕だけだ。建物の端まで続いていく机で、灯りが点いているのはここ一つだけ。周りを囲むような本棚はいつまで居座るつもりだと圧迫しているようだったけど、無視して僕は先を読み進める。
僕は灯りを一つ近くに寄せて、今まで読んでいた本に必要な事が何一つ載っていなかった事を確認した。諦めてそれも脇に寄せようとするけど、既に読み終わった本が山と積み上がっていてこれ以上は積めない。仕方なくその山を抱えるだけ抱えて、僕は机を離れた。
この図書館に籠り始めて僕は五日。
マキノ達に至ってはもう九日になるだろうか。多分明日には再び首都を目指して出発する。本当は今日には発つはずだったけど、僕が頼んで一日遅らせて貰った。完全に僕の我儘だ。だからもう今日しかない。今日中に手掛かりでもいいから何かを見つけなくちゃ。
そう思って一人延々と居座って。
でも結局まだ、何一つ見つけていないまま夜は更けようとしている。
レイは一体何者なんだ。
どうして捕まった。
今どこにいる。
魔族に詳しい組織でも一族でも、なぜこう少しも情報が掠らないんだ。
両端には当たらないなりにマシだった本が積んである。
机の上は手掛かりにならないかと書き散らかした羊皮紙。
油を足したランプはまだ明るい。
目覚ましに入れた紅茶からも湯気が立っている。
ペンをどけてそこにまた新しい本を追加する。
今度こそ。
何度目かも分からない、それでも自分のそう言い聞かせて本を開く。
瞼の重い目をこすって、紅茶を喉に流し込んでペンを取った。僕にはそもそも向いていない作業だ。しかも昨日もほとんど徹夜みたいなもので、集中力の代わりに焦りと苛立ちが体を必死に動かしている。次の頁へ、次の頁へと狂ったように。
マキノはかなり早めにレイに関する情報収集を打ち切った。正規の文献を漁っても真実には辿り着かないと早々に手段を切り替えたんだろう。
アレクに引き摺られるように地下闘場に連れて行かれたのは昨日の事だ。気分転換と財布代わりにって事だったんだろうけど、悔しい事にその後は確かに気分が冴えた。
メイルはずっと僕に付き合ってくれていた。僕より早く作業を始めて疲れきっていたのに、僕より一生懸命に動きまわり、僕には読めない言葉を翻訳してくれたりと頑張ってくれた。
フィンはいつも何もしない代わりにずっと見守ってくれていた。限界が来て座ったまま寝そうなメイルを、軽く口に咥えて宿まで運んでくれたのは、もう随分と前になるのか。
レイは……。
レイは今、何をやっているんだ。
仲間だと思っていたのは僕だけか。
何もかも勝手すぎる。思い出しても腹が立つ。
ドラゴンが倒されて南部の人達はこれからも平和に暮らしていける。北部の人達なんて素知らぬ顔で統一戦争だかの準備をしている。それもこれも彼女の事を知らないからだ。彼女のように陰から支えてくれる人がいるから、その平和があり僕が無事にここにいられる。
放っておけない。
忘れちゃいけない。
彼女と話して、一緒に戦って、その全ての積み重ねの上に今の僕があるのだから。
顔の無い男を僕としてくれるのは、今まで出会った全ての人達のおかげなんだから。
それなのになんだ。
レイにとって僕らは一体何だったんだ。
「何とか言ってよ!」
返事が来ないと知りつつも僕は指輪に怒鳴る。誰もいなくなった図書館でその反響だけが空しく響いた。僕の声はすぐに静寂に呑み込まれる。その静けさに腹が立って顔をしかめた。灯りに照らされて赤く見えるレイの指輪。顔色一つ変えないとはまさにこの事だ。
この指輪が。
この指輪さえ口を開いてくれれば苦労は無いんだ。
喋らないだけで、こうしている間にもレイは僕を見ているのか?
もう会う事も無いって、それすらないのか?
思い返せば僕はレイに揶揄われてばかりだ。
マキノとは一緒にドラゴンへの対策を練って。
アレクとはいつも口喧嘩をして。
メイルとは楽しく御洒落の話をして。
フィンとは何やらコソコソ話しては一緒にクスクス笑って。
どうしてそう簡単に切れる。
どうしてそれを諦められる。
僕は、もっと、……。
「!!」
机に頭を打ち突ける寸前に僕は顔を上げる。
今、寝そうになってた。冗談じゃない。
自分で机に頭を打ち突けて無理矢理目を覚ます。
駄目だ、もっと真面目に探さなきゃ、でも時間も無い、もっと効率よく見て行かないと間に合わない。大丈夫、まだ朝は当分先だ。
そうだ、絶対何か見つかる。
絶対、手掛かりがあるはずなんだ。
絶対に……。
***
鉄臭い、血の臭いがした。
体が冷たい。なんだか凄く重くて、起きたくないのに胸の辺りがざわついて寝てもいられない。
「え……」
絞めつけるような寒さと服を湿らせる氷のように冷たい水で、僕は否応なしに目を覚ました。震える手を床についてなんとか上体を引き上げた。視界がはっきりしない。どこにいて何をしているか分かっているのに、目の前が良く見えなかった。いや、違う。
「……どこだ、ここ」
僕は、知らない場所に来ていた。
僕がいるのは薄暗い石造りの廊下のような所だった。黒っぽい石や鉄で造られた細長くてざらついた通路が、歪に曲がりながら延々と続いている。等間隔に松明が付けられてはいたけど、灯りはない。どの松明も蜘蛛の巣が張っていたり腐り落ちていたりで、全く使われた様子も無かった。
「寒い……」
思わず白い息を吐く。ここはひらすら暗くて、何がある訳でもないのに落ち着かない所だった。霞む目をひたすら擦って少しでも良く見ようとするけど、一向に視界は良くならない。まるで水の中を覗き込んでいるように目の前の景色はぼやけたり揺らいだりしていた。
確かアグナベイの図書館で調べ物をしていたはずで。
それでもやっぱり寝ちゃったのか。
つまりこれは、夢なのか?
僕は立ち上がって辺りを見渡す。感覚は鈍いし現実感も無い。こんな奇妙な場所にいきなり放り出される覚えもまるで無い。もし夢なら、悪夢だ。
不安や恐怖が押し寄せてくるこの空気。
水の滴るわずかな音。
錆びついた鉄と血の臭い。
闇が、体に沁み込んでくる。
落ち着かなくて僕はふらふらと歩き始めた。
わずかに造られた窓から辛うじて光が入ってきて何とか足元は見える。でも奥へと続く通路の先は暗闇に飲み込まれていて、脚は動いている筈なのに前に進んでいる気がしない。脚は、本当にちゃんと動いているのだろうか。
「うわっ!」
突然、目の前に人間の手が飛び出してきた。
反射的に、倒れこむようにそれを逃れて距離を取る。
驚いた。何なんだ一体。信じられない位の速さで脈打つ心臓が徐々に落ち着きを取り戻す。見れば二本の腕が壁から横に直接生えていて、狂ったように何かを求めて宙を掴み続けている。気持ち悪くて僕は更にじりじりと後ろに下がった。
「!」
首筋に気味の悪い生温かさを感じて飛び起きる。
何を感じたのか自分でも分からないまま、とにかく離れて身構えた。何かの気配だ。今、後ろに何かいた、壁だったはずなのに。今この瞬間にもまた後ろに何かいるのかと不安になって、しきりに背後に振り返る。でもそこにあるのは冷たい暗闇だけだ。その奥に何がいるのか、見えないだけに不安は募る。
気付けば体中に嫌な汗をかいていた。
もう嫌だ。本当に、ここはどこなんだ。
もうこれは夢なんかじゃない。
一体何があったのか、どういう形でどういう経緯か。
僕は確かに今、この最悪の場所にいる。しっかりするんだ。
「しっかりしろ!」
そう声に出して気合いを溜める。
そうだ。落ち着こう。
現状に変化は無い。目の前では相変わらず、壁から生えた誰かの腕がバタバタと動いている。でも違う。この壁は、いや、この通路は。
薄暗く細長い通路。
ここは牢獄だ。
果てしなく続いている廊下の壁には、びっしりと鉄格子で仕切られた牢屋が並んでいた。姿も見えない鉄格子の向こうの囚人は、たった今捉えた誰かを捕まえようと必死だ。でも目は、どうやら見えていない。恐る恐る立ち上がって、再び前へと進む。体を屈めて囚人の腕を頭上にやり過ごし、何とかその道を通り抜けた。
注意しつつ、歩き出す。
意識していると無数の牢の向こうには沢山の気配を感じた。
ある牢には端に誰かが座りこんでいてブツブツとひたすら唸っている。また別の牢では他の倍はありそうな巨大な鉄格子の向こうで、とても人間だとは思えない遺体が力無く横たわっていた。まともな人間の囚人は一人もいない。
ここには、およそ外では見た事がないような異形の何かが押し込められている。
寒さと悪寒で体が震えた。
なんて所だ。早く出口を見つけないと。
それにしても、おかしい。もし誰かに捕まって連れて来られたなら、僕もこの牢の一つに閉じ込められていても良さそうだったのに、どうして通路に倒れていたんだろう。よりにもよって、こんなお誂え向きの場所で。
「君、迷子?」
その声に、僕の足が止まる。
ここで人の声を聞くとは思ってなかった。
しかもとても澄んだ、女性の声。
それは僕の前から、遥か先の暗闇の中から聞こえてきた。見える限り通路には誰もいない。ならまさか、牢の中から? どんな怪物が僕を呼んでいるって言うんだ。迂闊に返事をするのも危ないと思って、出来るだけ足音を消して近づく。
「駄目よボク。夜はお父さんと一緒にいなくちゃあ」
澄んだ声がクスクス笑った。僕をからかってるのか? 声の元からかなり距離を取って様子を見る。相手から見えない様に、まずはこの辺りからだ。もしかしたら何かこの牢獄について教えてくれるかもしれない。まだ姿も見えない牢の中の何かに、僕は重い口を開けて話しかけた。
「君は誰?」
緊張してそれ以上言葉が出てこない。
まずいかな。こんな一言じゃ相手が怒るだろうか。
「……ふふ」
そう思っていると、相手がまた少し笑った。
なんだか、拍子抜けだ。女の人の態度はとてもこんな場所に似つかわしくない。得体の知れない怪物と話している筈なのに、これじゃあ初対面の誰かに自己紹介しているのと変わらない。僕が戸惑っていると相手が話し始めた。
「騎士は大抵、女性を前にすれば、まず軽く名乗り出るものよ」
ん?
「姿勢を正して左の拳を胸の下の辺りで構える。少しだけ頭を下げて出身と名前、それに高名な主の名前でも出れば文句は無いわね」
……いやいや。
何なんだこの人。
よりにもよってこんな場所で、なんだって? 騎士の礼?
「僕は騎士じゃない。それより君は……」
「教えてあげない」
おい。
「礼儀もなってない野蛮人に答える事は無いわ。教えて欲しければ、ここで私の話し相手になりなさい。そうすれば考えてあげない事も無いわよ?」
くっくっと笑い声がする。
まずい、空気を握られた。僕が迷い込んだ余所者で、しかもここから出られず途方に暮れている事が一言二言交わしただけでもうバレてる。僕は自由の身で彼女は囚われの身、でも今は完全に向こうが優位だ。どうしよう、このまま時間を潰す訳にも。
「前に相手をしてくれた人は、私に月を見せてくれたわ」
……月?
「一生懸命想い出話をしてくれて、沢山の場所へ連れて行ってくれて、私の後悔にも付き合うと言ってくれて、だから私も協力した。それで? あなたは私に何をくれるの?」
頭が麻痺していた。
こんな所に居る筈がないと。だから全然分からなかった。でも、この声。人を揶揄ったような話し方。自分が楽しむ為に相手を振り回す様な態度。その全てが否応なしに彼女の事を思い出させる。
「……レイ?」
「ふっ。ふふふふ」
そんな馬鹿な。
レイの筈が。
ここにいる筈がない。
ここがどこかも分からないのに、そんな場所に偶然レイがいるなんて。しかも今の声は肉声だった。指輪を通した、僕の知っているレイの声とは違う。確かに誰かがそこにいる。まさか、そこに、その牢の中にレイ本人がいるのか?
「あはははは! もうダメ! だって全然気付かないんだもの!」
大笑いしているのは、確かに僕の知った声だ。
牢屋中に響くほどの声で、さっきまで僕を縛っていた緊張が吹き飛ぶ。
こんなの、嘘だ。だってレイは捕まってるはずで、僕はそれがどこかも分からなくて必死に探してて、それでも手掛かりすら得られなかったのに。
気付けば脚が勝手に動いていた。ここにいるんだ。この、すぐそこに。
「あっとと。ちょっと待って。出来ればそこから話してくれると、……あぁ、まあいいわ」
レイの言葉は全然耳に入らなかった。
脚が縺れるのも、別の牢から何かが叫ぶのもどうでもよかった。
僕はがむしゃらに走って、転んで、迷う事なくそこへ辿りついた。
辿りついたそこに、その牢の奥には座りこんだ一人の人間の影があった。
息が切れて肺が冷たい空気を吸い込んでいる。
一瞬、暗がりの中で微笑む彼女と僕の目が合った。
……僕は。
レイの姿に、何を期待していた訳じゃない。
それでも、予想もしていなかったその姿に言葉を失くした。
長く、黒い髪だった。
真っ直ぐに伸びた髪は腰を通り越して、床で更に広がっている。
隠れて顔は見えなかった。わずかに見えるのは、髪の間から伸びた尖った耳。
身につけているのは擦り切れた、それでも立派な作りの黒いローブだった。
でも、何より目に付いたのは、その背中から生えた、大きな翼。
漆黒の、水鳥の羽。
ふっと髪の中から笑いが漏れた。
「女性の恥ずかしい姿なんて、そうじっと見つめるものじゃないわ」
悪鬼のように恐ろしい、禍々しく赤く光る目が僕を見つめ返していた。
「久しぶりね、変わり者」
***
「どうしてだ」
その顔を見た瞬間、僕の中から不安も緊張も消し飛んだ。
「なんで一言も返事をしてくれなかったんだ! もうあれきりだって、そう言いたかったのか!」
「おっと?」
ただこの数日間、溜めに溜め込んだ苛立ちと焦りをぶつけた。
こんな状況で場違いなのは分かってる。でも口が止まらない。
僕は鉄格子を掴んで、頭から突っ込む勢いで近づいた。
「ドラゴンを倒して僕らはもう用済みだって事!? それでお終いって、馬鹿にしてるのか! ジーギルやナルウィが疑っていても僕は大丈夫だって言った! 僕だって、レイが余りにも大事な事を話さないから不安になる事だってあったのに、それでも、それでも信じるって言ってきた! その結果がこれなのか!」
そんな僕の怒鳴り声を、レイは微笑んで聞いている。
「メイルだって会いたがってる! レイが急にいなくなって、あの子がどんな顔をしたか! いや! いや、違う……」
違う。
僕はそんな事を言いたかった訳じゃない。
ふわっと、冷たい両手が僕の頬を包んだ。
細い指だった。腕から伸びる錆びついた鎖が重い音を立てる。
「そっか」
レイはこつんと鉄格子に頭を突いた。
体が熱くなって口から白い息が出ていた。この場所を支配していた寒さや静けさが帰ってきて、僕は口を噤む。一方的に八つ当たりをした僕を、レイは黙って見つめていた。今更ながらに初めて見る彼女の素顔に新鮮さを覚える。
「ごめんなさい」
痩せた顔、細い手足に巻き付く無骨な鎖、何もない冷たい牢獄。レイは今まで、ずっとこんな所から僕達に話しかけていたのか。ここから助かる訳でもなかったのに僕達に協力しようだなんて、あの岩のドラゴンを倒そうだなんて、そんな事ばかり考えていたのか。
レイは、綺麗だった。こんな所にいてもなお、捕まった怪物ではなく囚われの姫という言葉が彼女に似合う。その姿を見て焦りと怒りで引っ込んでいた気持ちが胸に広がる。
もう一度、溜息をついた。
「心配したんだ……」
少し落ち着いて、恥ずかしくなった。
たったそれだけが、どうして真っ先に出て来ない。
レイがいなくなって僕は怒った、裏切られたとさえ感じた。でも怒鳴り散らしたかった訳じゃない。レイは僕らをどう思っていたのか、一緒に時間を過ごして楽しかったのは僕だけだったのか。ただ、それを確認して安心したかっただけだ。そう、僕の勝手な独りよがりだ。
怒っているのか落ち込んでるのか訳の分からない僕を、レイは微笑んで見ていた。まるで癇癪を起した子供と、それを見守る親みたいだった。
「それ」
少し離れて、レイが口を開いた。
「まだ、つけてたのね」
レイが見ていたのは僕の右手、魔法の指輪。
僕には外せなかった。今は駄目でもいつかはと、外した瞬間話しかけてきたらどうしようと考えて、いつまで経っても女々しく嵌めていたんだ。これを外す事は、僕にとってレイを見捨てる事と同じだった。
「なるほど、ね。迂闊だったわ。まさか今更こんな形で働いてくるなんて」
「どういう事? こんな形って……」
まさか僕がここにいる事だろうか。目が覚めて、いきなりこんな所に飛ばされていた理由は、またしてもこの指輪が何か関わっているのか。
「ここはどこなの? いや、レイが捕まっている所なら、どうしてそこに僕が? 僕はフェルディアの街にいたはずで、ここに迷い込んだ覚えは全くないんだ」
「君は多分、今でもそこにいるわ。眠っている間に指輪を通してこの場所の夢を見てしまっているのね。君はここには居ない。ここにいるのは夢の中を彷徨う君の魂と、もう一つの指輪を嵌めているこの私だけ」
「ここには、いない?」
そうか。どうりで頭がはっきりしない。体を図書館へ置いてきたまま、今の僕は遠くの現実を夢に見ている形になっていたんだ。
現実。
やっぱりここがレイが今いる場所。どこにも記録の無い、僕が探していた場所なんだ。マキノもメイルも手掛かりさえ見つけていない場所を、僕は全ての段階をすっ飛ばして見つけてしまった。でも正確には、どこなのかは全く分かっていない訳だけど。
必死に探していた事なのに、いきなり目の前に突きつけられると現実感がない。
一方でレイは、ここぞとばかりに喋り出した。
「それよりあれからどうしてた? あの連中はみんな元気なの?」
「マキノは元気ね、悪い顔で悪い事企んでいるのが目に浮かぶわ」
「メイルは寂しがってないかな、私も調子に乗って友達感覚で話しちゃったし」
「フィンはまた酸っぱい事言いながら拗ねてるんでしょ。口煩いお爺ちゃんみたいよね、彼」
「アレクは、あぁ、いいわ、あんな女の敵」
なんだろう、随分とレイははしゃいでるようだった。
でも、どこか無理があるというか、空元気にも見える。
「レイこそどうしてたんだよ、あれから、ずっと」
「どうって、何がある訳でもないわよ。ほらここ、何もないもの」
「何もなくても、何か言ってくれても良かったろ」
「またそうやって怒る」
「それでだんまり決め込んだってのか」
思ったよりずっと低い声が出て自分でも驚いた。
いけない、怒るつもりはないのに自然とそうなってしまう。自分で自分が良く分からない。レイは話を挫かれたせいか、叱られた子供みたいにしょんぼりしていた。僕は努めて落ち着いた声を出そうとした。
「せめて、一言欲しかったよ。僕達は仲間なんだから」
「でもこんなの見られたら、そうは言ってくれなくなるでしょ」
そう言って、レイはざわりと翼を揺らしてみせた。
「君達が私の事を信じてくれているのは分かっていたけど、もし疑われて見限られたりしたら悲しいわ。私が魔族だって、知られて」
「やっぱり、そうなんだね」
黒い髪に黒い翼。
人を越えた力と知恵を備えた過去の種族。
岩のドラゴンと、あのヴォルフと同じ魔族。
「だから頑なに、自分の事を話したがらなかったんだね」
「魔族の私が魔族のヴォルフを止めに動いているなんて、一体誰が信じるの?」
「黙っていた分、余計な事ばかり疑う羽目にもなったけど? ドラゴンと同じ魔法の力、ヴォルフと同じ魔法の指輪。過去の戦争にも詳しくて、ヴォルフについてはなお詳しい。案外マキノはもう気付いているのかもしれないよ」
「あり得るかもね。知られないまま、普通に別れられれば一番だったんだけど」
またそんな事を言う。
僕は少し冷たく言った。
「つまり、僕らがレイを信じていても、結局レイは僕らを信じ切れなかったんだね」
「そうじゃないわ。誰も魔族の事なんか信じられない、ただそれだけよ」
「僕が信じているのはレイであって、魔族の一人じゃない! どうしてそう……」
「誰も信じなかったから、私は今ここにいるのよ」
「そんなの……!」
「誰も私達を信じられなかったわ」
信用されていなかった事が悔しくて、僕はもっと話したかった。マキノやアレクが僕を仲間にしてくれたように、レイもみんなに受け入れられていたんだって、そう言いたかった。でもその顔を見ると、もう僕は何も言えない。
「もういいでしょうね。全部話してあげるわ。だから、終わったら君はすぐに元いた所に帰る。いいわね」
ふっとレイは溜息をついた。
そして語り始める。
思い出す、五百年前の出来事を。
「彼は私達の首領だった。魔族とは彼から始まり、彼に終わる。でも皆がただ従っていた訳ではないわ。私みたいにね。縛られるのが嫌い、思うがままに生きる。それが私達魔族を人間でもエルフでもなく魔族たらしめている根源。前提からして魔族が一枚岩である筈も無いのよ」
懐かしそうに、レイは言葉を繋ぐ。
「だから私達はフェルディアに手を貸した」
本に記される古い戦い。彼女は実際にその時代を駆け抜けて、生ける伝説として今なお生きている。目の前の女性は僕とそう変わらない歳にしか見えないけど、五百歳は軽く超えた、僕らなんかは手も届かない存在なんだ。
「そうね。私は別に人間が好きだった訳じゃないわ。ドールやタリアみたいに、戦争が長く続いた分、友情や愛情が芽生えた奴もいたけれど」
「ちょ、ちょっと待って。つまりレイは、と言うかレイを含めた魔族の一部が、ヴォルフと手を切って人間の側に付いたって事?」
「それこそ信じられない?」
揶揄うように笑うレイ。本人を目の前にすると指輪を通していた頃よりますます真実が遠ざかっていくような気がした。彼女は平気で嘘をつく。僕の目を試すように真っ直ぐ見据えたまま。
「……ううん。信じるよ」
これが、マキノが言っていた裏の歴史なのか。
人間の側についたという存在を抹消された魔族の一団。
つまり、こう言う事か。フェルディアが建国以来の仇敵と蔑んでいた魔族は結局人間達だけで倒す事は出来ず、こともあろうに同じ魔族の手を借りてそれを討った。その話の真偽は分からない。でも、なに、みんなが力を合わせて悪を退けた?
ふざけんな。
みんなって誰だ。
人間の事か。
「仲間なんてものじゃなかったわ、ただの同盟よ。お互いあのヴォルフさえ倒せれば文句は無い。結果的に殺す事こそ出来なかったけど」
気持ちの悪い結末が胸を掠めた。
誰もレイを信じなかった。そう切り出して、なぜ今こんな昔話をしているんだ。
魔族の一部が人間に手を貸した。
フェルディアは劣勢をはねのけて戦争に勝利した。
でも彼らは、仲間じゃなかった。
まさか。
「まさかここにレイを閉じ込めたのは、五百年前のフェルディアなの?」
「察しが良くて助かるわぁ。なにせ時間がなくてね」
戦争が終わった途端、フェルディアはすぐさま味方をしていた筈の魔族まで閉じ込めて、全てをなかった事にした。私達こそが「悪」を討ち滅ぼしたのだと。
僕には、何が何だか全然分からなかった。でもその一方で、得体の知れない不安が迫ってくる。ようやくレイが本当の事を語ってくれているのに、僕は今この牢獄で、この牢屋に迫る足音に気を取られてしょうがない。時間が無いって、一体どういう事だ。
「でも、でもレイをここに閉じ込めたのはヴォルフだって! そう言ったじゃないか!」
「この城は君が思っているより広いのよ? それをこんな狭苦しい所に押し込めたのは……」
「待って、分からないよ! レイとヴォルフは同じ所に閉じ込められたって事!? それがつまりここで……、ここはどこ! 城って何!」
「あの頃のフェルディアにヴォルフの軍隊を全滅させるほどの力はとてもなくてね。彼も、彼の兵隊も、彼の仲間も何もかも。全てをこの城に押し込めて建物ごと封印したのよ。当時の物が、そのままにね」
「じゃあここは、ヴォルフが一日で創り上げたって言う黒の城なの!?」
「そう言う事」
そう言ってレイは優雅にお辞儀した。
「ようこそ。私達、魔族の牙城へ」
なんてことだ。
大昔の怪物が形を変えて南部を騒がせたってだけじゃなく、当時の城がその兵隊ごと残っているなんて。何が勝利だ。世界を滅ぼしかけた魔族の軍勢が、今も力を蓄えている。しかも当時の魔法使い達が倒しきれなかったって言う一際手に負えない伝説の怪物が。
もし万が一、この城の封印が解けたらどうなる。
また五百年前の戦争が今に再現されるのか。
もう本当に何が何だか分からない。
しかも僕が今いるここが、まさにその城の中なのか。
「さあ、もうおやすみの時間よ。子供はおうちに帰らなくっちゃ」
足音はもうすぐそこまで迫っていた。もうこれ以上、何があるって言うんだ。自分が相手に見えないであろう事が分かっていても、その不気味さに身構えてしまう。
通路の向こうからゆっくり現れたのは二つの影。鋼の鎧で身を包んだ大柄な兵士だった。鎧で覆われて中は見えなかったけど、その体躯はとても人間のものとは思えない。
人のような姿をしていても、しきりに周りに注意を払って落ち着かない様子は、まるで獲物を前にした獣のようだ。無骨な兜の奥からは鈍く荒い息遣いが聞こえてくる。僅かな光を反射して狼の様に光る目が、暗闇の中から段々と近づいてきていた。
「なんだ! あいつら!」
「フェルディアにしては同じ魔族を一緒に押し込めたつもりでも、私達とヴォルフは敵同士だから」
「じゃあ、あいつらがヴォルフの!」
「しかも私の場合、岩のドラゴンと派手にやり合ってしまった訳だし。そろそろ来るだろうとは思ってた。でもドラゴンは倒したし、私も一矢報いれて、君達も無事。満足したわ」
「何言ってるんだ、そんな……」
「君ともこれでお別れよ。故郷の仲間、見つかると良いわね。私はもう一緒には行けないから、ただ、祈ってる。もう人の夢に迷い込んだりするんじゃないわよ、君ときたら、間の悪い時に現れるんだから」
事実をただ淡々と話すレイ。彼女はもうすっかりこの状況を受け入れてしまっている。まるで以前から分かっていたかのように。
……あぁ、あの時だ。雨の降るフェイルノートの村で、山猫騎士団に入るよう僕をけしかけたレイ。覚悟を決めなきゃと呟いてから急に態度を変えた彼女。あの時からレイにはこの結末が見えていたのか。なのに僕達は、何も知らずに。
「本当に、よりにもよって酷い時に現れたものよね。いや……」
そう言葉を切って、レイは自嘲気味に微笑んだ。
「私が、君に会いたかったのかな。あはは、格好付かないわね、私」
そう呟く。近づく足音も気にせずレイは落ち着いていて、逆に僕はそんなレイの態度が我慢できなくて叫び出した。矛盾だらけの気持ちが抑えられずに噴き出してくる。
「またそれか! こうなるって分かっていたなら、どうして僕らに協力した! どうしてドラゴンを倒した! どうして、何も言ってくれなかったんだ!」
「……前にも、そう言われたわ。石頭のメルキオンが最後に私にそう言って喚いてきた。こんな事になったのに、どうして笑っていられるんだって。いっそ全員殺してでも逃げてくれれば、ともね」
兵隊は僕を完全に無視してレイの牢の前に立った。僕は体が石のように動かなかった。錆びついて切れ味の悪そうな剣が目の前でちらつく。
「でもそんなの私の勝手じゃない。私は私のやりたいようにやって、自分の心に従っているだけ。そうね、強いて言うならやっぱり、……ただの気まぐれよ」
そんな事を聞きたかったんじゃない。
こんな結末を見たかったんじゃない。
もっと言いたい事があったはずで。
もっと沢山の物を見せたかったんだ。
なのに今は何も出来ない。鎧の兵士がレイを牢から出してどこかへ連れて行こうとしているのを、ただ見ている事しか出来ない。僕の両脇にいた兵士が鍵を開けて牢に入る。その剣がゆっくりと振り上げられた。
「駄目だ! 駄目だ! 何をするんだ!」
僕は必死に兵隊に掴みかかる。がむしゃらに頭を叩いて、剣を持つ腕にしがみついて、なんとかレイから遠ざけようとした。でも何をしても兵士はびくともしない。怯むどころか気付きもしない。まるでここには自分達とレイを除いて誰もいないかのように。
「最後に嫌な所を見せちゃってごめんなさいね。こんなつもりじゃなかったんだけど。でも、本当は……」
微かにその声が震えた。剣の狙いは彼女の両脚。兵士はレイを縛る縄も鎖も持って来ていなかった。でも魔族であるレイをどうやって無力化するかは、二つの剣が全て物語っていた。
「……本当は、会いに来てくれて、嬉しかった」
鈍い閃きが視界を掠めた。
「さよなら」
鋭い悲鳴が響いたかと思うと、あっという間に遠ざかり、目に見える物全てが滅茶苦茶に混ざって何も分からなくなった。頭が割れるような激痛が走り、あまりの痛さに手足が震えて体を支える事も出来なくなった。
途端に地面が抜けて体が下に落ちた。
目を閉じてなお視界がぐるぐる回って吐きそうだ。
暗い牢獄も。
囚われた女性も。
鋼の兵士も。
今はどこにいるかも分からない遥か彼方に飛んでいた。
***
月明かりに照らされた埃っぽい床に僕は膝をついた。
天井の窓から差し込む光が、夜の寒さと一緒に図書館に広がっている。辺りには何とかレイとヴォルフに関する手掛かりを掴もうとした、悪足掻きの跡が散らばっている。
書き散らかした羊皮紙。
火の消えたランプ。
空になったティーカップ。
震える体を支えようと床に手をついた。
悪夢を見て飛び起きた後のように、汗が額を伝っている。
悲しい夢から覚めた後のように、涙が頬を伝っていた。
右手に違和感を覚えて、僕は指輪を見た。
冷たい色に光っている銀の指輪。
わずかに見える傷が一瞬震えると、指輪は真っ二つに割れて床に落ちた。
落ちる瞬間の澄んだ金属音と、少し転がる軽い音が響き渡る。
でもすぐに音は消えて、夜の図書館は再び静かな眠りについた。