第13話 小さな村の小さな家
夢を見ているのは分かっている。
これは遠い昔の、思い出したくもないあの頃の光景だ。
僕にはそれが一番だと思えていたんだ。でも、何もかもが間違っていた。あのクライムの言う通り、間違っていたんだ。そう思わなければやってられない。夢の中でくらい幸せな最後を迎えたいのに、それもまた夢だからか、いつも最悪の形で目が覚めるんだ。
僕はいつも通りに村を歩いていた。
とても晴れた日だった。男達は朝から畑を耕し、秋の収穫に備えている。村の中心の井戸では女達が水を汲み上げ、ぺちゃくちゃと何か話していた。それが暇な子供達は群れをなし、犬を追いかけて村中を走り回っていた。誰も僕に話しかける事は無い。でも、僕はいつも通りにいつも通りの村を歩いて回っていた。
いつも通り、男達に麦の選び方を教え、女達に美しい花を見つけさせ、転んだ子供を泣きやませた。
どこからか別の泣き声が聞こえてくる。鍛冶屋の家だ。老人はもう半年も前から肺を病んで苦しんでいた。寝たきりの彼を娘が付きっきりで看病している。本当なら老人は望む生を全うし、満足してその終わりを待つつもりだった。
しかしそれを娘が許さない。
娘は父が死ぬ事に耐えられなかった。あらゆる手段を使って彼を生き永らえさせ、それだけ彼の苦しみは長引いた。半年に渡ってだ。暇さえあれば必死に父の手を握って頑張ってと励まし続ける。雪の竜が、助けてくれると。
それに対する答えはない。もう一カ月前から老人は話せなくなってしまっていた。彼の喉は二度と声を作る事は出来ない。鍛冶屋はもう半分諦めた様な顔で、それでも優しく娘を見つめていた。
僕は誰かに幸せを運ぶ。でもその幸せは欲望と何が違う。父の幸せと娘の幸せは違う方向を向いている。肉親の間でさえ、皆が等しく幸福になれる訳じゃない。誰かの幸せは、時に別の誰かの苦しみで贖われているのだから。
僕は彼らに近づいた。
娘は僕にまるで気付かない。でも、老人の目はしっかりと僕を捉えていた。不治の病に侵されていると言うのに、その目はどこまでも澄んでいた。僕はそんな彼の額に手を当てる。
ゆっくりと、彼の体が冷たくなっていくのを感じた。それと同時に彼の体から痛みが抜けていくのも。娘がそれに気付いて慌てる。どうにかして自分が父を助けなければと。それを背後に僕は彼の額から手を除けて、壁に背をもたれた。
娘は薬の入った瓶を開けようともがく。
汗で滑って上手く開かない。
力んでもやり直しても上手くいかない。
次第にその目から涙が溢れ始める。
「エリザ」
老人の言葉に、彼女の手が止まる。
「この慌て者が。泣くんじゃない」
それが娘の聞いた、父親の最期の言葉だった。
鍛冶屋は、静かに目を閉じた。
もっといい形は無かったのか。
本当はどうするのが一番だったんだ。
後味の悪い昔話だ。
「このお人よし」
少年は僕をそう笑う。
「なんでもかんでも幸せになんか出来っこないさ。頼まれたからって、それを律儀に聞く奴があるか。あんたはどうにも真面目すぎるんだよ」
でもそれが僕だから。聞こえるんだよ、雪の竜が守ってくれるって。男達は疲れている、女達は悲しんでいる、子供達は泣き続けている。なら僕がしっかりしなくちゃ。
「誰もあんたを幸せにしてくれないのに? 誰かを幸せにするあんたは、一体誰に幸せにしてもらえるんだ? 俺くらいだろ。あんたとまともに話せるのは」
そうだね。なつかしいよ。崖の上に輝く石を見つけて、それを取りに登ったあげくうっかり足を滑らせた坊やが。そのまま頭を打ったらどうするつもりだったんだか。
でも本当に、彼くらいだ。僕と話してくれるのは。
誰も僕が見えない。
誰も僕と顔を合わせない。
誰も僕に口を利かない。
彼らは今日も祈る、雪の竜が守ってくれるようにと。でもそれはただの祈りだ。竜に対して願っていても、僕に対して頼んでいる訳じゃあない。確かに少し寂しくもある。悲しくもある。それでも僕が雪の竜なのだから、皆の願いを叶えないと。
……ハッ。
それが間違いだって言うんだ。
考えなかったのか。その願いが無くなったらどうするのか。
男達は新しい麦の品種を見つけ、有り余る食べ物を手に入れた。
女達はそれと引き換えに、美しい宝石と服を手に入れた。
子供達は学校に押し込められて、僕の元から離れてしまった。
彼らが剣を取って人を殺す時、僕を見ることは無い。
人を騙して幸せを奪う時、僕と顔を合わせる事は無い。
仲間を見捨て友を売る時、僕に口を利く事は無い。
気付けば、誰も雪の竜の名を呼ぶ事は無くなっていた。
「俺はもう、あんたがいなくても大丈夫だよ」
青年は荷物をまとめて、僕にそう言った。
「分かってるだろ。あいつらだって、もうあんたがいなくても勝手に欲を、あんたの言う幸せを叶えていく。その結果だって自分で払うのさ。それが不幸であってもね」
僕が、いなくても。
「だからあんたもいい加減、自分の幸せを見つけろよ。誰かを幸せにする事が自分の幸せなんて、そんな奴いるもんか。いや、元々あんたはそうじゃなかったろう」
違う、僕は、僕の幸せは。
「元気でいろよ。いつか、本当のあんたを見てくれる奴が、本当のあんたの友達が、沢山出来る事を祈ってるよ」
地面にぶつかる直前に、僕に命を救われた少年。
彼はいつの間にか、一人で崖を登り切れるようになっていた。
そして輝く石を見つけたんだ。
僕がいなくても、彼は幸せになれるんだ。
じゃあ、僕は。
どうすればいいんだ。
***
「フィン」
頭を小突かれて、フィンは目を覚ます。
無理矢理起こされて気分は悪かった。折角ゆっくり寝ていたというのに、何の用なのか。いや、しかし、どんな夢を見ていただろう。重い目を擦る。
「どうしたのさ。もう着いたのかい?」
目的地である彼が探していた村に、名前はなんと言ったか。
彼の背中の荷物から這い出し、頭の上に登って周囲を見る。しかし二人がいるのは眠る前と変わらず、緑の溢れる森の中だ。クライムは地図を手に立ち尽くしていたが、目印になる川も山もないこんな場所でそんな物が役に立つ筈もない。
その様子を見て、面倒な事になぜ起こされたのかにも察しはつく。
フィンは先に溜息をついた。
「迷った」
こんなこったろうとは思ってたよ。
***
風も無い、昼過ぎの木漏れ日の中。
マキノは石柱に手をついて、その手触りを感じながらゆっくりと歩いていた。
こびり付いた灰を拭い取り、消えかけた刻み文字に目を凝らす。何か痕跡はないか、何か手掛かりはないか、一つも見落とさないように神経を尖らせながら。
「アレク、そっちはどうですか?」
向こうにいるはずのアレクに声をかける。返事がない。
石柱を調べ終わった所で今度はアレクを探したが、それもすぐに見つかった。丁度日陰になっている所を見つけたのか、頭に布をかけて居眠りしている。その姿に呆れを通り越してある意味関心すると、起こさない様に放っておいてマキノは再び調査を続けた。
岩のドラゴンを倒してまだ日も浅い。しかしマキノ達は皆で北へ向かうと決めていた。目指すは旧大戦の最前線にして北の火種、フェルディア王国の首都ティグール。ただその前にマキノは寄り道を申し出た。
以前、レイと騎士団の情報からマキノはドラゴンの進路と行動傾向を予測し、それを落とすに至った。
その後、マキノはすぐさま次の作業に取り掛かった。要はその進路の逆算。ドラゴンが現れてからどこを通りどこに立ち寄ったのか、今までの全ての行動を割り出しにかかったのだ。収集した過去の目撃情報などから、それはかなり正確に予測できた。
だが疑問が出てくる。
ドラゴンはこの世の全ての物を破壊する事を目的としている、そう、レイとクライムは言っていた。しかしそれとは合わない場所に一度だけ立ち寄っている。それがここ。フェルディア最南端、国境すれすれに位置する小さな森の中だ。
五人揃って地図を前に頭を抱えた。何も無く誰もいないはずだ、何かの間違いではないのか。マキノもそこに何があるか知らないし聞いた事も無い。しかしそこには確かに、あのドラゴンが立ち寄るべき何かがある筈なのだ。別行動を取るクライムとフィンを除く三人は、何もない筈の地図上のその一点を目指した。
半日探し回って見つけたのは、森に埋もれるようにして佇む小さな神殿だった。
そこには明確にドラゴンの痕跡が残っていた。
徹底的に破壊されていたのだ。
しかし傭兵団を抱えるかつてのフェイルノートならともかく、ここが襲撃された理由が分からなかった。何かあるはずだ、そうマキノは考えて更に神殿を探しまわった。
「流石に、疲れましたね」
だがそれも徒労だった。途方もなく昔に建てられたこの神殿は、ドラゴンに破壊されるまでもなく既に半壊状態だったらしい。しかも元々は木々に覆われて森の一部になっていたのか、焼け焦げた残骸の山は瓦礫と炭が良い塩梅に混ざってぐちゃぐちゃだ。
わずかに残された装飾や碑文も、長年の風化とドラゴンの炎でほぼ解読不能。それでも何かないかとメイルは今なお走り回っている。だが犯人がわざわざ証拠隠滅に立ち寄った場所に、何の証拠が残っていると言うのか。
無駄足だった。マキノは頭を切り替える。
その顔にはいつも変わらずあるはずの笑顔が無かった。
あの岩のドラゴンの目的は他にもあったのではないか。
仮にそうなら、それは未遂に食い止めたのか。
それとも一歩及ばず成し遂げられたのか。
この破壊された神殿はそれを暗示していると言えるのか。
笑顔の消えた頭の中では無数の考えが渦を巻いていた。
以前、山猫騎士団のシンはここまでやられて逃がすつもりは毛頭ないと言っていた。今はマキノがそう考えている。目標は既に定まっている。あのドラゴンは最早正体不明の怪物などではない。世界を巻き込む戦争を引き起こした生ける伝説、ヴォルフと言う名の災厄なのだ。
空を見上げる。
あの日、トレントで初めてドラゴンに遭遇した時に感じた重苦しい威圧感。ドラゴンを倒した今でもそれは消える事は無かった。そして北に進むに連れ、威圧感は強くなっている。岩のドラゴンも怪物達も所詮ヴォルフが遠くから操るだけの木偶人形だった。ならばこの先にはもっと直接的に黒の王に所縁のある何かが待ち構えているのかも知れない。
皮肉な事に旅の目的地に間違いはない。だがはっきりとした手掛かりを掴む前に、その何かに遭遇する事は絶対に避けたかった。これはある意味、時間との勝負なのだ。膨らむ胸騒ぎを押し止めてマキノは腰を上げた。
「アレク、起きてください。出発です」
クライム達より一足先に、三人はフェルディア南部の都市、アグナベイを目指す。空に感じる威圧感が、気のせいである事を証明するために。
***
つ、疲れた。
熊に追われ、林を掻き分け、ようやく村が見える場所に辿りついた。
ここまで道に迷ったのは生まれて初めてだ。
土壇場で右か左か迷った時は、もう二度と左は選ばない。二度とだ。
「まぁなんて言うか、ご苦労さん」
頭の上でフィンがもう一度欠伸をした。手は貸さないからとは言っていたけど、本当に何もしてくれなかったな。凄い悔しい。空が飛べるってやっぱり反則だ。
「良い身分だね全く。寝てる所起こして悪かったけどさ」
「もういいよ。なんか気持ち悪い夢だったし」
「普段言いたい事を呑み込み過ぎているから夢でまで腹が立つんだよ。もっと吐き出せばいいんだ」
「なるほどね、じゃあ早速そうするか。クライム、ずっと気になっていたけど頭臭いよ」
言うんじゃなかった。
最近はみんなで旅をしているせいか、一人になった時の自分の間抜け具合に頭が痛くなる。昔はフィンと二人で、もっと前は一人で旅をしていたんだから、こんな馬鹿はなかった筈なんだけど。
だめだ、こんなんじゃ一人に戻った時に何も出来ない。いや、みんなも居るし一人になる事なんてもう無いだろうけれど、何にせよ気を引き締めないと。
しばらく歩いて、やっと人の手の掛かった場所に下りた。
踏み固められて草が生えていない道。その先には道の両端に木の柵が立てられて村の入り口へと続いている。外部の者を拒む塀も無いのにこの村には門だけが立派に立っていた。雑な造りの立て札に荒い文字が書いてある。ようこそ、リブロ村へ。
「ふん、小さな村だね。森を抜ける道の途中に無ければ、本当に誰も来ないよ」
「だからこそだよ。僕もここを見つけた時は驚いたよ」
それはドラゴンを追って皆で地図を眺めていた時だ。
大事な作戦前だというのに、偶然に、本当に偶然に、僕は自分の旅の目的である故郷の仲間の一人が住んでいる場所を見つけてしまった。知っていた手掛かりに噛み合う谷間の村だ。確証はない。でも確信はしていた。ここで、間違いない。
オデオンは僕の故郷の酒屋の息子だった。村一番の酒屋として繁盛してはいたけれど、父親がとんだ酒飲みで店の酒にまで手を出していたから、母親の工面がなければあそこの店はとっくに潰れていただろう。
彼の夢はいつか自分の店を開く事だった。普段は親の酒屋を手伝っていたけれど、よくそれを抜け出して僕に将来の夢を語っていたものだ。そもそもある日、料理の腕一つで宿屋を支える僕の父さんに弟子にしてくれと土下座しに来て、彼との付き合いもそれからだ。
僕としてはあんなに良い村を離れようとする彼の気持ちは良く分からない。でもひた向きに夢を追う姿勢は立派だったから、文句を言いつつも協力はした。
「で。結局この村の名に聞き覚えは?」
「リブロ、か。聞いた事もないよ、オデオンめ」
「ハッ。えーと何だっけ。質の良いハーブが取れる森が近くにあって、都市と繋がっていても適度に離れ、河が流れる谷間の村、か。まるで宝探しだね」
「まったくだよ」
異常に勘の鋭い姉やしっかり者の母親にばれないよう、彼は店の場所を誰にも言わなかった。僕ですら知っていたのは謎々の手掛かりのような曖昧な情報だけ。おかげで見つけるのにとんだ時間をかけてしまった。
ああ、でも懐かしい。
村が焼かれた時に見かけたのが最後だから、もう何年ぶりだろう。
ここまで僕に探し回らせて、あいつめ、どうしてくれようか。
「そんなの決まってる。食うだけ食って、踏み倒す」
「まだ食べるの? フィンのせいで、僕は本当にそれくらいしかないよ」
「僕は馬車馬じゃないんだ。ドラゴンが要求する対価としては格安だと思うけどね」
これからみんなでフェルディアに向かう以上、この村を訪れる機会は今だけだった。先に合流場所へ向かうマキノ達に追い付くために、僕はフィンに乗って山を越えた。そしてその代償に、僕の所持金のほぼ全額がフィンの胃袋に消えた。今後のいい教訓になったと思っておく事にする。
さて。
早いとこ見つけて、オデオンに文句を言って、すぐにでもこの村を出発しないと。しかし、なんだか最近はずっと街から街へ、慌ただしく動いてばかりな気もするな。根無し草ってきっとこう言う事を指すんだろう。
「しかし穏やかな場所だね。眠くなってくる」
「また? しっかりしてよ」
隆起の覆い森の中と違って、谷間の村ではなだらかな土地が続いている。そして話に聞いていた通り、村を二つに割る様に山から続く川が流れていた。幾つかの家がそれに沿うように建てられていて、見るとそのどれもが大きな水車を回していた。カタンカタンとゆっくり回る、それは見ているだけで心が落ち着く感じがした。
この村は、時間が水車と一緒にゆっくり流れている。人の歩く速さ、生活の速さ、村を包む優しい空気。良い場所だ。メイルもこっちに来たそうにしていたのに、何故かフィンが止めたんだよな。日の光が気持ちいい。
「今更探すのも面倒だ。クライム、訊いて回ろう」
「そうだね、時間も無いし」
そう広くもない村だし、オデオンの事だ。
どうせすぐにでも見つかるだろう。
「いや、別にそんな奴知らないけどね」
「店なら何軒もあるさ、しかし料理の旨い店か」
「デニオンなら知ってるわよ。ほら、向こうに住んでんの」
「間違えたんじゃないかい? ここに人を訪ねに来たのはあんたが初めてさね」
「何代か前にそんな名のじいさんがいたらしいけどよ。今はいないな」
「クライム、絶対に場所を間違えたんだ。絶対に」
「もういい! 訊いてだめなら足で探す!」
そうだ。もともと僕はそっちの方が性に合ってるんだ。
「負け惜しみ」
「うるさい!」
もう村の人達から不審な目で見られるのも気にしない。よそ者だって事も考えずに片っ端から見て回る。この村全部の店を虱潰しにしてでも探し出してやる。オデオンめ。
「いい加減諦めたら? 頑固なんだから」
「あいつの適当さに振り回されるのはしょっちゅうなんだ!」
「なるほど適当か。どうりで仲の良い訳だ、この似た者同士」
言い返そうと口を開く。
でもその時、向こうから薪を割る澄んだ音が通ってきた。
自然と首がそっちに向く。
まだ行っていなかった所だ、あんな所に家なんてあったろうか。フィンを無視して足を進める。そこは本通りから一本逸れた川沿いの家だった。ここでも、やっぱり水車が回っている。
小さくまとまった店だった。改築したのか少し歪な形で、あちこちに窓が付いている。雨を流す赤い三角屋根に、天辺についた煙突から煙が上がっている。薪割りは裏手にいるらしく、ここからは見えなかった。
入口の横には鉄製の看板が付いていた。名前は。
「アイネシエル? オの字も無いけど。何笑ってるのさ」
「ここだよ、間違いない。アイネはオデオンの初恋の人なんだ。子供の頃の話なのに」
とうとう見つけた。
なんだか少し緊張する。
でも探し回った甲斐はあった。ドアノブに手をかけて、少しオデオンの今の姿を想像する。中から聞こえる油の音、ポッドが蒸気を吹く音、少しは腕を上げただろうか。フィンがさっさと入れと頭を叩いた。一気に扉を開く。
「いらっしゃいませ」
そこにいたのは、女性だった。
彼女が一人で接客している。小さな店だ。テーブルは五つだけで、それぞれ椅子が二つずつ、赤い模様の可愛い織布が掛けられている。本棚には並べられた沢山の本、壁には掛けられた多くの絵。これがオデオンが叶えた夢だと思うと感慨深い。でも本人はどこだろう。
嫌な予感がする。
「すみません、店主は、今、どちらに?」
「ええ、今丁度、森に入った所ですが」
「……」
行き違い。
ここまで来て、行き違い。
「こんなこったろうとは思ってたよ」
もう反論する元気もない。
「恐らく夜には帰ると思いますが……」
「さてお疲れさん。どうする? 待つかい?」
「ああ、なんか、もういいや」
行き違い、この時間がない時に行き違いだって? 店主なんだから店にはいてよ。何やってんだまったく。森を迷っている時に都合良く会えれば、なんてのも都合が良すぎるか。僕は不思議がる彼女にお礼を言ってふらふらと店を出た。
「残念だったね。期待はしていなかったけどさ」
「うるさいよ。でも置き手紙でも残しておけば良かったかな」
「……やめときなよ。クライム、字汚いんだから」
「失礼な、結構上手なつもりなのに」
マキノにわざわざ断りを入れて飛び出して、結果がこれか。僕の計画が上手くいった試しはないけど、いつも通り過ぎると腹も立たないな。でも元気でやっているならそれでいい。思い出話が出来なかったのは残念だけど、また時間を見つけて来れば良い話だ。
フィンは最初から予想がついていたからメイルを置いてきたんだろうか。でも、なんだろう。店の看板を寂しそうな目で見ている。そんなにおかしいかな。模様めいた女性の髪が文字を飾る意匠の看板。まあ確かに美化しすぎか、アイネは可愛いけれど、ちっちゃい。
「よぉ、オデ……、なんとかは見つかったかい?」
「丁度クッキーが焼けたんだ、食べていきなよ」
さっきまで走り回っていたから、帰り道に村を歩くと嫌でも目立って沢山の人に声をかけられた。恥ずかしい。でも本当に良い場所だ。僕も、いつか落ち着くならこんな場所もいいのかな。
「……クライム、確か腰のポケットに川魚の燻製があったよね」
急にフィンが変な事を言う。
それよりなんでバレた。僕の最後の命綱。
「駄目だよ、あげない」
「それでもうひとっ飛びしてやるって言ってるんだよ」
「う、いや、でも」
「行きに比べて更に格安だよ。何だっけ、蜂蜜酒に鶏肉のバター焼きに、魚の塩焼き蒸かしたジャガイモ、トマトにチーズに青豆のスープ」
「それに兎のシチューと内臓の珍味だ」
何も残っていない僕にとっては、懐の非常食はそれと等価だけど、これから山を越えるとなると更に五日はみんなを待たせる事になる。何の気まぐれか知らないけど、それでもフィンにしては随分と気前の良い条件だ。
背に腹は代えられない。僕は燻製をポイと上に放った。いつも通りフィンはそれを口で捕まえて遠慮なくバリバリと齧る。食べ屑がこぼれているけど、僕の頭が臭いのってフィンのせいじゃないだろうか。もう今日は踏んだり蹴ったりだ。
「はあ」
でも、用は済んだ。
気持ちも切り替えよう。
「村から見えない位置まで来たら頼むよ。マキノ達はもう例の場所を離れて進んでるだろうし」
「あそこね、何があったか知らないけど。しかしなんでアグナベイなんかに向かうんだい? 首都を目指すんだろ?」
「その道中にある都市なんだ。北の国の歴史を見返すなら、あそこは避けて通れないって言ってたよ」
門を抜けて街道を通り、僕はまた森の中へと戻る。このまま山の奥にまで入ったら、それからはフィンに頼む事になるだろう。なにせ時間が惜しい。
岩のドラゴンを倒した時に見た夢。囚われた男、激しい殺意、そして悪鬼のように赤い目。それが一日として忘れられない。彼の目は既に次を見ている。それどころか手をつけ終わっているかも知れない。北の大国、フェルディア王国を彼は既に押さえたとまで言っていた。
あのマキノが本気なんだ。僕のように漠然とした不安じゃなくて、もっと差し迫った問題として見ている。まるでかつての戦争が繰り返される事を、恐れているかのように。
山猫のジーギルがそうであったように、北国の人達は今なお旧大戦、魔族との戦争を語り継いでいる。対して僕なんかは歴史として知ってはいても無知に過ぎる。だからまずは、それを見返さない事には始まらない。アグナベイがどんな所か知らないけど、メイルが目を輝かせていたから本に溢れた場所であるのかもしれない。
僕も知りたい。
昔、何があったのか。
戦争中に魔族の首領、ヴォルフと戦っていたのはどんな人達だったのか。そしてレイは、なぜ現代になってそんな奴に掴まったのか。
この村に来て改めて思った。ドラゴンの脅威は本当に去ったのだと。もう岩の怪物達が押し寄せて来る事はない。急に空が暗くなって、一瞬で街が消えて無くなる事もない。オデオンはこれからもあの村で平穏に暮らしていくだろう。今度来る時は、たくさん思い出話がしたいな。
でもその代償がレイだ。
レイだけがどうにもならなかった。そもそも自分が助かる気が無かったんだ。もうこれ以上関わるなと僕らに念を押して、それっきり指輪は喋らなくなってしまった。今も僕の右手にある指輪は、オーバンを離れてからただの鉄の塊になってしまっている。
喧嘩を売ってるとしか思えない。
僕がそれで納得するとでも思ったのか。
「クライム、この辺りで良いよ」
フィンが飛び降りてそう言った。
そして目を閉じて。
ふうっと長く息を吐く。