第11話 魔獣の深淵
吹き荒れる風で、銀の毛並みが激しく波打っている。
山も、森も、あっという間に後ろに飛んでいく。
目指す先、まだ見えない目的の街からは黒い煙が立ち上っていた。
それは僕に、激しくあの時を思い出させる。
燃え盛る街並み、走り回る岩の怪物、泣き崩れる男。
「やっぱり、遅かったのか……!」
分かっていた事なんだ。分かっていた事だからこそ、僕はマキノに伝令を頼んだ。でもどうだったんだ。ちゃんと届いたんだろうか、そして避難出来たんだろうか、それとも間に合わなかったんだろうか。
まだ全貌の見えない事が僕の焦燥感を強めた。今はこのフィンでさえも遅く感じる。もっと速く、もっと速くと、僕は思わずフィンを掴む手に力が籠った。
近づく街。
段々と見えてくるその全様。
悪い予感は裏切られるどころか、予想以上の現実感で僕を圧倒した。
「ひどい……」
思わずナルウィが呟いた。
この世の終わりの方が、まだ、これよりマシなんじゃないのか。
街は岩の怪物で埋め尽くされていた。煉瓦造りの大きな建物がひしめく大都市、モラルタ。今やその全てが炎に包まれ、怪物達が絶えず唸り声をあげている。今まで見てきたどの街よりも悲惨な状況だった。
僕は血眼になってその中に人の姿を探す。
フィンは速度を落として街の上を旋回した。街中から吹き上げる煙で、上空にいてなお体がジリジリ熱い。まして街の中にいたらとても助からないんじゃないだろうか。瞳が焦げるような熱に耐えて、必死に街を見下ろす。誰もいない。それは逃げられたからか。それとも、やられてしまったのか。どうなんだ。どうなんだ。
「おい、シンだ!」
ウィルが叫んだ。
指さす先にいたのはシン達山猫が数人と、それに焼け出された何人もの人達。燃え盛る炎の中、誰もいなくなった大通りを全速力で街の外へと走っている。山猫達は人を担ぎながら走っていて、その先頭を走るシンは岩の怪物を蹴散らしながら道を切り開いていた。鬼のような強さだ。
隣でマキノが大きく息をつく。
「間に合った……。やってくれましたね」
「ハ。あいつら、お前の差し金かよ」
「考えたな。確かにこの街なら、我々がいたフェイルノートより、シン達のいたデライ・ディリアの方が近い。馬を飛ばせばすぐだ」
「ナルウィさんがそれに気付いてくれたんです。シンさん達も、よく駆け付けてくれました」
「そっか。そうだったんだ。間に合っていたんだね」
深い溜息が出た。どうやら避難はほとんど終わっている、怪物達が襲っているこの街は、もう蛻の殻なんだ。
そう胸を撫でおろした直後だ、一瞬で頭が沸騰しそうなものを見た。山猫達の行き先に交わるように、横の通りから熊のような大きさの怪物達が押し寄せてきていた。鉢合わせる。
「フィン!」
僕の声に、すぐさまフィンは身を翻して急降下した。僕らは振り落とされまいと必死にそれにしがみつく。
空を切る様に落下しながら、フィンは大きく息を吸い込んだ。その体に力が入るのを感じる。僕はこの予備動作を知っている。小さい時にもたまに見せるフィンの炎。それもこの姿だと、桁が違う。
地面に突っ込む直前に大きく翼で空気を捕え、街のど真ん中、大通りが交わる広場にフィンは身を躍らせた。急停止の重みが体にかかって骨が砕けそうになる。左手には走ってくる山猫達、そして目の前には押し寄せる怪物達。フィンは聞いたこともないような低い唸り声を上げ、少し首を後ろに反らせると、一気に炎を噴き出した。
一瞬で、目の前を埋め尽くす炎に、僕は目を背けた。
フィンの炎は怪物達を道ごと薙ぎ払う。
次いで衝撃で壊れた建物が、その全てを押し潰した。
山猫達が足を止める。
先頭を走っていたシンは、煤と汗にまみれて疲れ切った様子だった。それでも体は、溢れる覇気で膨れ上がっているように見える。目の前の雪の竜を、敵か味方か測りかねた目で睨んでいた。それでも説明する暇もなく、フィンは羽ばたいてその場を飛び去った。僕らは再びモラルタの上空を飛ぶ。この調子なら、シン達は無事に街を抜けられそうだ。
「痛っ!?」
指輪に鋭い痛みを感じた。
フィンの飛ぶモラルタの空はどこもかしこも黒い煙で溢れている。その中に、一際煙が暗く深くなっている所に、僕は何かを見た。ゆっくりと空気を掻き乱して、何の感情もなく焼けた街を見下ろしている。直感で分かった。まだ、ここにいたんだ。
「フィン! ドラゴンだ!」
「は、なんだって?」
「本当だ、いたぞ! 目の前の煙の中だ!」
闇の中から刺す様な視線を感じる。
目が離せない。煙の中の、まだ姿も見えないドラゴンから。
「……そうよ」
レイが険しい声で呟いた。
「ええ、私よ。会いたかったわ」
指輪越しで顔も見た事がないのに、レイがぎゅっと目を細めるのが僕には見えた気がした。ドラゴンは、レイを見ていた。本来ここにいる筈のない彼女の存在に気付いたんだ。自分の手で閉じ込めた筈の女が、どんな手段を使ってか牢を抜け出し、仲間を集めて立ちはだかっているのだと。禍々しい赤い光が閃いた。
煙の中、ドラゴンが動く。こちらに背を向けると、翼を動かしてゆっくりと前に進み始めた。
「逃げる!」
僕が叫ぶのと同時に煙が爆発するように弾けて、その中からドラゴンが姿を現した。
「……冗談だろ」
ウィルが呆然と呟いた。
大き過ぎる。以前見た時よりずっと。
まるで巨大な山が動いているようだ。
「大きくなっている。何があったんだ」
事実は厳然と、圧倒的な存在感で僕らの目の前にあった。トレントで見た時より、ふたまわりも体が大きい。小さな岩のドラゴンが、無数にその周りを飛んでいた。
エレンブルクの作戦。天変地異にあったような様だった平原。あの時、戦いで削り取られた破片は一つ残らず怪物となり、地形を変える程の岩を吸収したドラゴンは更に巨大化した。岩を吸収する目的は回復なんかじゃない、成長だ。
絶望的だった。対する僕らは、野鳥を前にした羽虫のような小ささだ。敵わないかもしれないと、心のどこかで思っていた。でも、ここまでなのか。みるみる速度を上げるドラゴン。次第に距離が開く。
「逃がすな!!」
アレクの一括で体が飛び上がる。
そうだ。ここで逃がしてたまるか!
「フィン! 行け! あいつを落とすぞ!」
一度大きく尾を振ると、フィンは目の前のドラゴンに向かって一気に加速した。速さだけならフィンの方がずっと上だ。あっという間にドラゴンは近付いて、その横を並走する。
ドラゴンは相変わらず僕らを無視した。それでも周囲の岩の怪物は僕らに気付いて集まってくる。心臓が震えた。とうとう始まる。
「お前ら、構えろ!」
飛んでいるフィンに乗っている以上、僕等は立つことが出来ない。片手で掴まりながら片膝をついて剣を振るう事になる。背中合わせに体を起こし、僕らは各々剣を抜いた。
「いよいよだよ。自分の身は自分で守ってね」
「上等だ。お前こそ落とされんじゃねぇぞ」
「ウィル、クライム、左舷は任せる。アレク、リューロン、右舷だ。マキノとナルウィは後方を。私が前を受け持つ」
「了解だジーギル。さあみんな、勝つぞ!」
「来る!」
フィンの周りを飛んでいた怪物達が、一斉に僕らに飛びかかった。
***
真っ直ぐ突っ込んでくる怪物を、僕は殴り飛ばすように斬り捨てた。
まずは。一匹。
小型ドラゴンは大鷲程度の大きさで、何とか僕にも倒すことはできた。でもそこからは必死だ。次々襲ってくる怪物相手に、もうがむしゃらに剣を振るう事しかできない。
背中に飛びつかれて反射的にそれを殴る。左手に噛みつかれて必死にそれを斬り払う。何を考える余裕も無い。その時目の前にいる怪物を倒す、それを延々と繰り返すしかない。腹に噛みつかれて、顔に切り傷を入れられて、それでもひたすら剣を振り続けた。
七匹を倒した。腕が張って信じられないほど息が上がっている。体の限界はあっという間に訪れた。
「くそ……!」
悔しい。どんなに頑張っても、所詮僕はアレク達に遠く及ばないのか。
みんなはまだ戦い続けていた。でも振り返ると、一際大きなドラゴンが後ろから取りついていて、フィンは必死に尾を振りまわしてそれを弾こうとしている。
僕はそれを倒そうとして、そう考えた瞬間メイルが視界に入った。髪に食いついたドラゴンが振り払えずに、泣きながら短剣で切りつけている。それを見て疲れ切った体に怒りで力が蘇った。
「離れろ!」
腰から短剣を振り投げてドラゴンの頭に突き立てる。ドラゴンは一瞬痙攣すると、力が抜けて動かなくなった。メイルはそれを掴んで振り落とした。荒い息を吐いてぺたんと座りこむ。
危なかった。フィンに乗ると決めた時点で、戦いには全員強制参加だってことは分かっていたのに。もう辺りは怪物達でいっぱいで、目が追いつけなくて、頭も追いつかなくて、そこでどっと冷や汗が出た。
「そうだ! フィン!」
見ればフィンに取りついていたドラゴンは口を開けていた。咄嗟に感じた嫌な予感を証明するかのように、すぐにその口から炎が漏れ始める。このまま撃つ気だ。
その口に丸盾が突っ込んだ。
ジーギルだ。腰から投げられた盾はその口を塞ぎ頰を裂き、勢い余って頭まで食い込んでいる。ドラゴンは瞬時に鉄の盾を噛み砕く。でもその隙にアレク、ウィル、ナルウィ、三本の剣がその体を貫いた。
「フィンさん! 一旦離脱して下さい!」
マキノはそう言うと、懐から取り出した小さな宝石を宙に放った。フィンは急に速度を上げ、目の前を邪魔する怪物を跳ね飛ばして一気に岩のドラゴンの前にまで出る。危なかった。ようやく、僕も息継ぎが出来る。
後ろを振り返ると、僕らの周りには岩のドラゴンに追従していた殆ど全部の怪物が集まっていたようだ。一瞬でいなくなった僕等から遅れて、まだ怪物達はそこに留まっている。
「目を閉じて!」
その怪物の渦の中から、ばっと閃光が迸った。さっきの宝石が弾けて目も眩むような光を放っている。僕は目を瞑るのが一瞬遅れてそれをもろに食らい、フィンから振り落とされそうになった所をウィルに助けられた。
怪物達はみんな目が眩んで上手く飛べず、一か所に集まり過ぎたせいか、互いの翼がぶつかり合って次々と空から落ちていった。一網打尽だ。僕の胸に一瞬、勝利という名の油断が鎌首を擡げる。
「逃げろ!!」
ジーギルの叫びに僕らは気付く。
目の前に迫っていた岩のドラゴン。
なんて迂闊な。顔が、もう、すぐそこだ。
巨大な頭部からは熱の赤い光が漏れ始めている。
くっついていた顎を無理やりこじ開け、亀裂のような口が開かれていく。
その奥からは噴火前の火口のように、紅蓮の炎が噴き出てきていた。
眩い光が放たれる。
フィンが大きく身を翻すのと、ドラゴンが炎を吹いたのはほぼ同時だった。炎の一撃はすぐ横を突き抜け、焼けつくような熱さと激しい衝撃に僕らはそこから吹き飛ばされた。
少し遅れて、轟くような振動と共にドラゴンの一撃が遠くの山に直撃した。
山の斜面が、大きく抉れていた。
湖がなくなり、森が燃え、たった一撃で全てが一変してしまっている。
天を裂き地を割るこの怪物は、軽い一吹きでどれだけの命を奪ったんだ。
「なんて力だ……。こうやって、街を破壊してきたのか」
「まともに食らえば一巻の終わりだ。フィン、少し距離を……」
「ちょっと掴まってて」
フィンは低い声でそう呟くと、僕らが構えるよりも早くドラゴンに再び近づいた。
低い唸り声を上げ、ゆっくりと首を後ろに反らせる。でも、いつもと違ってすぐには撃たない。次第にその口には溢れんばかりの炎が宿り始めた。それでも撃たない。どんどん炎を膨れ上がり、その異常さに僕はあのフィンに畏れさえも感じ始めた。
フィンがぐっと体に力を込める。僕は思わずメイルを引き寄せた。
遂に溜めこまれた炎が噴き出した。反動でフィンは大きく後ろにのけ反り、翼を広げてそれに耐える。渾身の一撃は真っ直ぐドラゴンに向かっていく。それを防ぐ怪物達も今はいない。
直撃。らしくもない対抗心か、今まで見た事もないような強力な炎がドラゴンの翼に当たった。轟音と共に片翼が吹き飛ぶ。岩の破片が飛び散り、背中からは大きな粉塵が糸を引いた。でも。
「おい、なんでまだ飛んでるんだ」
忌々しそうにアレクが唸った。
「落ちるだろ普通はよ! なんで翼が片方なくなっても浮いてるんだ!」
「いや、そう言えば浮いているんだ、あのドラゴン。フィンのように羽搏いている訳じゃないから翼はそもそも必要ないんだよ」
「じゃあどうやって落とす。縄でも括りつけて下から引っ張るか?」
「ね、ねえ、みんな。なんか動いてない?」
メイルに指摘された時にはもう遅かった。
翼の粉塵の向こうから巨大な岩の怪物が飛び出し、身の毛もよだつ速さで突っ込んできて一気にフィンに組みつく。手を伸ばせば触れられるほどの近さから、怪物は怒りを孕んだ恐ろしい声で吠えた。
「なんだこいつ!」
その重さに大きく揺れて、フィンの動きが鈍る。こいつは僕が今まで見てきた中でも最大の怪物だ。アレクやジーギルがひたすら斬りつけるけど、巨大な体に効果は薄い。
見た事もない生き物の姿をしていた。巨大な蝙蝠の翼で空を飛ぶ三つ首の獅子だ。でも右の首は山羊、そして左の首は蛇だ。爪がフィンの体に食い込んで振り落とせそうにない。三つの首がフィンに噛みつこうとするのを、僕らが必死に防いでいた。
「こいつ、まさか切り離したドラゴンの翼か!?」
「他にも来ている。さっき倒した小型がまた生み出されたみたいだ」
「無敵なのかこいつは!」
「体を修復する様子はない。いずれは全てを破壊し尽くす事も出来るだろうが」
「その破片の全てがこんな怪物になって世界に散るって言うのか!」
僕らの剣を受けながら、またしても怪物は口に炎を溜め始めた。三つの首、全てにだ。まずい、まずいまずい。これじゃあ止められない。
「クソが! 面倒くせぇな!」
「アレク! やめなさい!」
アレクが遂にフィンから両手を放し、怪物に躍りかかった。剣を振り上げて蛇の頭に突き刺す。切っ先がその上顎を貫くと怪物は激しく身悶えし、フィンから離れた。アレクと、一緒に。
「だめだ! アレク!」
悶える怪物にアレクは剣の一本でしがみついている。それも怪物が滅茶苦茶な飛び方をしているせいで今にも振り落とされそうだ。もう僕らの手の届かない空でアレクと怪物の乱闘は続く。どうする、どうしよう。仮に倒してもアレクも下に真っ逆さまだ。
「フィン! アレクが落ちる! 向こうへ!」
「待て。折角奴が抑えてくれているんだ。私達はドラゴンを……」
「ふざけんな! ここで見捨ててたまるか!」
「なら俺達が行く」
リューロンが口を開いた。何か言いたげにしていたナルウィも片手で制する。その口が、耳まで裂けた。顔にざわりと鱗が浮き出る。やっぱりフェイルノートでのは見間違いじゃなかったのか。彼は普通の人間じゃないんだ。
「あいつは俺達が相手をする。ナルウィ、乗れ」
「キミはまたどうして、ああ、もういいよ」
四つん這いになったリューロンにナルウィが乗って、改めて剣を構える。まさかここから飛び降りようって言うのか。でも一方で岩の獅子はアレクと揉み合いながら、どんどん下へ落ちていく。
「で、僕らはどうするんだい? 今度はもう片方の翼でも落としてみる?」
「同じ事になるだけだ。今度狙うなら頭にするぞ」
「それも無駄よ。私達も行くわ。フィン、あいつの背に近づいて。降りるわ」
そして、レイがとうとう動き出す。
誰よりもあのドラゴンの事を知っていた彼女だ。口にはしなくとも、最後の切り札になるかも知れないと皆が思っていた。いや、でも待て。ちょっと待て。今何て言った。
「降りる!? レイが!? つまり僕が!?」
「ドラゴンは任せたぞ」
「任せたって、ちょっと!」
そう言い放つと、僕らを尻目にリューロンは強くフィンを蹴って宙に身を躍らせた。その余りの力強さにフィンの体はぐらっと傾く。信じられない程大きく跳躍している。僕の目は彼の軌跡を追い、その遥か下で見事怪物の上に着地するのを捉えた。
怪物に掴みかかるが早いか、リューロンが鷲掴みにした山羊の頭を力づくで引き千切った。ショーロの村でも見た出鱈目な怪力だ。次いでナルウィも獅子の頭に剣を振るう。怪物は急に高度を落として小さくなり、後ろの方で一瞬土煙が上がったかと思うと見えなくなってしまった。
「アレク……」
「大丈夫さ、彼等なら。それより俺達の相手はあのドラゴンだ」
「周りの怪物はこちらを囲むつもりらしいな。これで振り出しだぞ」
「泣けるね。ところでレイ、もう大分近付いたんだけれど」
「降りるわよクライム! ウィル! 君も来て!」
「よし! 二人とも、行こう!」
ウィルに言われるがままに身を乗り出す。でも下を見ると、脚が竦んだ。
ここまで近付いてもなお背中は遠い。何よりあの岩のドラゴンに飛び移るなんて。でも四の五の言っている場合じゃない。ここで降りなきゃ、わざわざ翼の怪物を相手にしてくれている三人が無駄になる。覚悟を決めるんだ。
ウィルと目を合わせて互いに頷く。
そして二人で、フィンから飛び降りた。
***
強い風切り音が耳を貫く。岩の背中があっという間に目の前に迫り、そして僕の足はそれを捉えきれずに派手に転んだ。体勢を崩して無様に固い岩肌を転がり、そのまま飛ばされそうになった所を咄嗟に手近な岩に掴まって堪えた。隣でウィルは綺麗に着地していたけど、僕はお世辞にも格好いいとは言えない。
痛む体を押さえつつ、なんとか体を起こす。
改めて、周囲を見渡した。
「ここが、ドラゴンの背中」
岩のドラゴンの外表はじっとしていれば火傷をしそうなほど熱かった。遠くからは分からなったけど、あちこちから仄かに蒸気が立ち込めて視界が少し白い。ここまで大きくなると、本当に大地に立っているようだ。地面から岩を取り込んだ際に巻き込まれたのか、森や街並みも食い込むようにあちこち雑多に混じっている。まるで滅びた世界に迷い込んだみたいだった。
「ほら歩いて! ここじゃないわ!」
「ここじゃないって、ちょっと待って」
辺りはごつごつした岩山のようだし、風は強い。飛ばされないように体を屈めながら少しずつ前へ進んでいく。
「ここでもない、でも近いわ。もっと前よ」
「クライム、彼女は一体何を探しているんだい?」
「分からない、レイに訊いてよ」
指輪はさっきからほんのり暖かくて、赤熱した鉄のように赤く光っていた。彼女は魔法を使って何かを探していた。レイに導かれるように、少しづつ向きを変えながら僕等はドラゴンの背中を徘徊する。だんだん、指輪の熱が強くなってきた。噴き出す蒸気が体力を奪う。それでも一歩、一歩と足を進めた。
「ここ、かしら」
かなり歩いた所で僕らは止まった。遠くに見える突起はドラゴンの角。もう頭部が近いんだ。ならここは丁度胸の辺りだろうか。
「出番よ。ウィル。その剣でここを斬りつけて」
「任せてくれ。でもどこまでやればいいんだい? ドラゴンを両断するなんていくらなんでも無理だよ」
「情けない事を言わないの。あら?」
地震。いや、ドラゴンが震えている。
辺りの地面、ドラゴンの背中が幾つも盛り上がり、それぞれが形を成していく。岩の怪物、人間型だ。こんな所でまで立ちはだかるのか。僕らは完全に囲まれて、周囲に岩の人垣が出来ているようだ。人型の怪物は大きさも僕らとそう変わらない。でも、この数は。
「どうやらここで間違いないらしいわね。正直でいいわ」
「間違いないって何の話! どうするのこれ!」
「ウィルは言われた通りに! クライム、私達はこいつらの相手にするわよ!」
「だから! どうしろって言うんだ!」
僕はアレクやジーギルみたいに強くない、マキノみたいに魔法も使えなければリューロンみたいな怪力もない、それがこんな敵の真上でこんな敵に囲まれて。
「すまないが背中は任せる! 少し時間をくれ!」
「来るわ!」
「来るな!」
怪物が一体よろめくように向かってきた。不気味な足取りに思わず一歩退いてしまうけど、後ろにも山のように敵がいる。それにウィルを守らなきゃ。ここで退いちゃ駄目なんだ。体が熱くなって頭が真っ白になり、無我夢中でそいつを斬りつけた。
腕の筋肉が膨れるような感覚がした。剣が怪物の体に食い込むと、固い岩を斬る重い手応えがして、気が付くと一気に剣を振り抜いていた。真っ二つになった怪物が僕の目の前で倒れる。
「え?」
振り返ると後ろからも怪物が迫ってきていて、咄嗟にその頭を殴りつけた。拳に異常な力が湧き出て、僕は一撃で岩の頭を粉砕した。そう言えばもう身をかがめて体を守る必要もない。足に不思議と力が入って、僕はこの強風の中でも全くグラつかずに立っていた。考えられる事は一つしかない。
「レイ、これって」
「ほら、まだ来るわよ!」
レイを信じて思いっきり剣で怪物を薙ぎ払う。剣術もへったくれも無いその一撃で、怪物達は五体も吹き飛んだ。
アレクを殴り飛ばしたり契約書に署名したりと、面倒事の記憶しかないレイの力。でも本気を出せばここまで強くなるって言うのか。いつもの頼りない体が嘘のようだ。全身に力が漲って、感じた事もない熱い何かが宿っている。
これなら怪物もいくらでも相手に出来る。
そう心の余裕が出来てウィルに振り返った。
彼は静かに剣を構えていた。
目を閉じて、集中する。
剣が、不思議な光を帯び始めていた。剣身に刻み込まれた何かの文字を中心に、その切っ先までぼんやり柔らかく光っている。あれが、レイやメイルが言っていたアルカシアの剣なのか。大きく剣を上に振りかぶって、その腕に力が籠る。ウィルの目が開いた。
「打ち砕け! アルカシア!」
黄金の一撃が、轟音と共に岩の体を叩き割った。
ドラゴン全体に衝撃が走って僕も怪物達も転びそうになる。
「うそでしょ……!?」
信じられない。なんだこの威力。
この人は、本当に何者なんだ。
黄金に輝く剣で怪物に立ち向かう、その姿はまさに英雄そのものだ。
「足りない! もっとよ!」
「どこまでもか! やってやるさ!」
もう一度振り上げ、横に地面を抉った。削り取られた岩が跳ねて僕の横を掠る。ウィルはドラゴンの背中を斬り続けた。何度も、何度も、叩きつけては斬り裂いた。その激しさと地面を削る衝撃で僕も怪物達も動けずにいた。もう本当にドラゴンの巨体を両断しそうな勢いだった。
そして遂に、何かが剣に触れた。
岩ではない、固い何かが。
その瞬間、世界の大気が震えた。
ドラゴンの咆哮。
低い振動は空気を震わせ、その全ての動きを止まらせた。
指輪に、再び激痛が走る。
***
頭に鋭く差し込んだのは、激しい敵意。
目を閉じてなお見えたのは、何も見えない暗い広間。
闇の中、大きな黒い玉座に座る一人の男。
体中を太い鎖で締めあげられて動けずにいる。
微動だにしないその男からは、深い怒りが滲み出ていた。
男はもう何百年も前から、そこに囚われていた。忌々しい八人分の力が、今なお男と、勢力の全てを抑え込んでいた。
北の国は、既に抑えた。油断を誘い、軍備を整え、ただひたすら時を待つ。あの敗北の屈辱と憎しみは、時を重ねる毎に膨らむばかりだ。だが彼の意思は、彼の在り様は、あの戦争が始まる遥か以前から揺るぎないものだった。
私は、全てを滅ぼす。
森を、国を、街を、人を。
この世の、全てを。
***
見開かれた赤い目の禍々しさに、僕は正気に戻った。
気付けば、ぶらりと揺れる足の下には地面がなく、遥か下に大地が広がっている。僕もウィルも、フィンに胴の辺りを掴まれてドラゴンの背中から助け出されていた。レイから流れ込む力は消え失せ、代わりに激しい疲労感で指一本動かせない。
「クライム! クライム! 大丈夫なの!?」
「メイル……、僕は……」
フィンの上からメイルの声がする。
ジーギルとマキノに手を貸してもらって、なんとかフィンの背中によじ登った。
気を失っていたのか、こんな時に。
あれは、ただの夢だったんだろうか。
フィンはドラゴンを遠巻きにしてゆっくり飛んでいた。ドラゴンの周りにはもう怪物達の姿がない。僕らをしつこく追いかけていたあの怪物は、体が固まったままばらばらと落ちていた。
ウィルが滅多打ちにした背中の傷からは白い煙が立っている。ドラゴンの動きは止まっていた。その顔にはもう赤い光が宿っていない。さっき夢で見た、あの赤い光が。他の怪物達と同様、ドラゴンはまるで元の岩の塊に戻っているかのようだった。異様な雰囲気だ。当のウィルでさえもこの状況を捉え切れずにいる。
「これは、どうなったんだ。倒したのか?」
「まだよ、迂闊に近づかないで」
ウィルが斬りつけたあの場所、レイが探していたドラゴンの中心にあったもの、あれがドラゴンの急所だったのかも知れない。そこにウィルの剣が届いた瞬間のドラゴンの様子は明らかに今までと違った。怪物達が新たに生まれる様子もない。
でも、なんだったんだ。今のは。
「レイ。さっき僕は、何かを見た」
「……そう」
「あれを見たのは、本当はレイなんでしょ。彼は一体、」
岩の崩れる音にその質問は遮られた。
ドラゴンの顔が崩れてきている。顔だけじゃない。翼も、手足も、尾も、全て端から壊れて地面に落ちていく。次々と落ちる岩でドラゴンの真下は酷い土埃で何も見えない。でも、そこから怪物達が押し寄せてくる事はなかった。
それが意味する事は一つだ。じんわりと、体に熱いものが染み渡る。
やった。
やったんだ。
「倒した! とうとうやったぞ!」
ウィルが叫んだ。みんながそれにつられて喜ぶ。
あのドラゴンを倒した。
あぁ、これで何もかも終わったんだ。
崩壊は止まらない。もうドラゴンは形を失って宙に浮かぶただの岩の塊になっていた。それも端から砕けてどんどん小さくなる。その中心は胸の辺り、丁度あの何かがあった場所だ。
何かが。
「……」
何があったんだ。
レイは、一体何を探していたんだ。
あの崩壊の中心には、誰が、いるんだろう。
自然と歓声も小さくなる。とうとうそれが見えてくるはずだ。あのドラゴンの正体が。
でも、それはちっとも見えない。岩はもう随分小さくなってしまっているのに、まだ何も見えなかった。ただの岩の塊だったのか。本当にあそこには何も無いのか。そう思った時、それは見えた。
全ての岩が地面に落ちたその宙の一点に、小さく光る何かが変わらずそこにあった。遠すぎて、小さすぎて良く見えない。あんな物が、あのドラゴンの正体なのか。良く目を凝らす。手が震える。何かが僕を不安にさせた。
「……!」
背筋が凍る。
ざわっと鳥肌が立った。
そこにあったのは。
指輪。
古びた鈍い光を、擦り傷のついた銀の輝きを、僕が見紛うはずがない。
あの闇小人の鉱山で拾ったこの旅の始まり。
そして今、それは僕の右手にも嵌っている。
「やったわ……」
レイが呟く。かすかに笑いながら。
指輪を引き抜いて、今すぐ捨ててしまいたいという激しい衝動に駆られた。
あのドラゴンが齎した悲劇が、全て自分のせいであるような罪悪感を覚えた。
レイの正体は誰も知らない。あのドラゴンに囚われているだなんて彼女の口からしか出てこなかった話だ。レイは優しかった。仲間だと思った。僕を助けてくれた。何より、あのドラゴンに詳しかった。
僕はすっかり彼女を信用してしまっていた。
いつしか本気で彼女の素情を問い詰めなくなった。
それは、取り返しのつかない過ちだったのか。
宙に浮いていた指輪はふっと力を無くし、そのまま下に落ちていく。
岩の山と化したドラゴンの亡骸の上を、一度、二度跳ねると、少し転がって動かなくなる。一瞬ひびが入ると、砂のように崩れて風に吹かれ、跡形もなく壊れてしまった。
「お疲れ様ね」
レイが再び笑った。僕もみんなも何も言えずにいる。何が起こったのか分からない。僕らは一体何をしてしまったんだ。あの指輪の持ち主は、一体誰なんだ。
「君達なら必ずやってくれると思っていたわ。本当に、よくやってくれたわね」
どうして僕は彼女を信じてしまったんだろう。目に浮かぶようだ、一つの指輪で僕に語りかけ、もう一つの指輪で怪物を生み出す彼女を。捕えられて動けないとレイは言った。なぜ捕えられていたんだ。本当に捕えていたのはドラゴンなのか。
そしてこれで、レイは開放されたのか。
「今まで、本当にありがとう」