間話2 森の木陰で
そこは、暗い森の中だった。
獣の唸り声も鳥の鳴き声もしない森で、二人の男が草を掻き分ける音だけが聞こえてきた。腰まで埋まる程のシダや低木で足元は殆ど見えない。遥か頭上で木々が日光を遮り、そこでは日中だと言うのに日没直後の明るさしかなかった。
だがそれも好都合だ。
「……どうだ、来てるか」
「今の所、追手の姿は見えません。しかし油断は出来ませんよ」
そうか、と短く言うと気が少し緩んだのか、アレクは近くの木に手をついた。マキノはその腕を掴んで引っ張り、近くの木の根元に座らせた。アレクはされるがままにそこへ腰かける。マキノから水を手渡されると、一気に飲み干して、力なく咳き込んだ。
その間にマキノが体を調べる。酷い有様だった。全てが終わった途端、アレクの体にはこの一年の疲労が押し寄せてきたかのように見えた。腹の傷が悪化している。そこに比べれば体中の付けられた斬り傷など、可愛いものにさえ見えた。
体中の汚れも酷く、服もつぎはぎだらけ、髪も伸び放題で腰に届く勢いだ。その髪の向こうでは未だ激情に燃える眼差しが薄暗く、そして不気味に光っていた。そんな様子を見ているとマキノも一言言ってやりたくなる。
「どうして、ガゼッタとグレンデルを最後に回したんですか。それも二人同時に」
「仕様がねぇだろ。これ以上時間をかけたら逃げられちまう」
「逃がせば良かったんです。早死にしますよ、アレクは」
自覚があるのか、少し自嘲気味にアレクは笑う。それが傷に響いたのか、うっと顔をしかめた。マキノは出来る限りの治癒の魔法をかけた。だがそれも所詮は気休め。無いよりマシな程度のものだ。
ため息をついてマキノは上を見上げる。
地面からは鱗のような肌の木々がまっすぐ上に高く高く伸びていき、一気に横に広がった葉が空を埋め尽くしている。これだけ薄暗く障害物も多ければ、追手が自分達を見つけるのも難しいだろう。気味の悪い森、人が立ち入らない森、多くの人間の血を吸った森。マキノは、この森が嫌いだった。
フロッシュ候の領地で、うかつに森に入ってはいけない。
この土地にはあまり知られていない、しかし命に関わる重大な掟があった。森に入ったまま帰らなくなった者が多い為そのような掟がある訳だが、それがあまり知られていない事にも、また理由はあった。
大人達は、恐ろしい魔物に食べられてしまうからだと子供に言い聞かせていた。しかし実際に彼らを襲うのは、同じ人間。フロッシュ候直属の五人の騎士達だった。それは狐狩りと言う侯爵の遊び。狩り場に迷い込んだ狐を猟犬が追い詰め主人が留めを刺す。事務に追われる退屈な毎日に程良い刺激を与える、ほんの遊びである。
しかし、狩りは二度と行われる事はない。
この一年、謎の襲撃者の手によってその猟犬が次々抹殺され、今日、その最後の二人までもが討たれたのだから。
「しかしグレンデル、あいつは本当に人間か? 俺は別に背が低いつもりはなかったが、それでもあいつは俺の倍はあったぞ」
「アレクが腹の辺りで半分に斬ったから、今は丁度同じ位ですよ」
「そういう問題じゃねぇよ」
おかげでアレクの剣はもう使い物にならなかった。一年前、騎士長であるロロの屋敷を襲撃した後にはもう歯零れが酷かった剣だ。むしろ最後まで良く持ったと言える。アレクは座ったまま剣を抜き、改めてそれを眺めた。
アレクに仇を取るなどと綺麗事を言う趣味はない。それでも今は、ある種の達成感と喪失感があった。剣を見ていると、まるで自分自身を見ているように錯覚する。五匹の猟犬を逆に最後の一人まで狩り尽くすと決めた時から、いや、アレクが騎士を志すと決めた時から、運命を共にしていた剣だ。
大振りで、重みのある長剣だった。
騎士見習いのアレクが格上相手に戦うにはと下賜された、技量差、体格差を補うために間合いや重量に重きを置いた剣。
五人分の死闘を経て、五人分の傷を負い、そして五人分の血を吸った彼の相棒。ここで捨てれば、昔マキノから聞いた伝説のように魔剣にでもなるのだろうか。
「ふん」
アレクは気にせず捨てた。
やれ忠義がどうの恩義がどうの、余計な理屈を捏ねるなどアレクの柄ではない。彼はいつも物事を単純化して考える。剣は剣だ。そこにしがらみは要らない。使えないなら必要ない。
それに、ここはまだガゼッタの屋敷に近い。追手を相手にこんな鈍らでは話にならない。マキノは捨てられた剣を複雑な顔で見ながら、預かっていたもう一つの剣を差し出した。それを取らずにじっと見て、アレクは切り出す。
「何度でも言うが、もう俺に付き合う義理はねぇんだぞ」
「何度でも言いますが、それも私の勝手です」
やれやれと、剣を受け取った。
本人の言う所の世界のあらゆる真理を見に旅を続けていたはずのマキノは、アレクの計画を知るとその全てを捨てて飛んで来た。本来ならアレクがマキノの護衛をする約束であったが、それも今回はすっかり逆転してしまっている。
約束を果たすなら、それはこれから始まるマキノの旅でだ。
アレクは世界の真理などに興味は無い。
それでも今後、彼らは今までとは違う生き方をする事になる。
この際、旅の連れが増えるのも面白いかもしれない。
「私がいなくてどうするんです。アレクなんて一晩もちませんよ」
「なめてんのかよ。助けなんざいらねぇって言ったろ」
「確かに一度も手は出しませんでしたよ。それでもあの五人に勝てたのだから、まあ文句はありませんが」
「後五人いたって倒してやる。一人でだってな」
「頼もしいんだか、危なっかしいんだか」
五人の猟犬はこの上なく強かった。その上、侯爵の騎士とは名ばかりに、招集が無ければ多くの私兵を抱えるそれぞれの屋敷を動かない。勿論、彼らにもしもの事があれば、今後フロッシュ候領全域を敵に回す事にもなる。
マキノは一人目を追う前に、その危険性を一晩かけてアレクに説いた。
それでもこの男の態度に変化は無かった。
馬鹿ではあっても頭は良い。話が分からなかった筈はないだろう。マキノにこそ分からない。この男は、死ぬのも負けるのも恐ろしくは感じないのか。こうと一度決めた事をなぜ迷いも無く押し通せる。脈絡も無くマキノは訊いた。
「アレク、怖いものってあります?」
「ねぇよ」
反射で返って来たとしか思えないその答えに、マキノは何度目かも分からない溜息をついた。
草の擦れる音で、二人はばっと身構えた。
人影はない。
どこかに隠れているのだろうか。
じっと耳を澄ませる。
まだ遠い。
「やっぱりいたか、先回りされていたとはな」
「アレク、ここは一端私に、……聞いて下さい」
マキノが何か提案する前にアレクは音の元に走り出した。さっきまでの様子が嘘のような素早さだ。あっという間に距離を詰め、アレクはそこに剣を突きたてた。手応えが無い。すぐさま引き抜くと間髪いれずもう一度構える。
「わっ!」
相手が叫んだ。その声にアレクの調子が狂う。聞こえたのは若い子供の声だ。目深にフードを被り武器で身を固めた追手などどこにもいない。
そこにいたのは、小さな少女だった。
「なんだお前」
当てが外れて間抜けな声が出た。
少女は服らしい服を着ておらず野人の様な格好だった。赤茶色の髪の毛はボサボサで、体中泥にまみれている。身に纏っているのは服と言うより、麻の布をそれらしく巻き付けたようなものだ。
アレクは剣を下ろさない。少女は歯をむき出して獣のように唸っていた。四つん這いにその有様は本当に犬か狼のようだ。そう思って尻の辺りを見る。こいつなら尻尾でもありそうだ、と。
「……おいおい」
実際少女に尻尾はあった。服の下から覗いているのは鼠のように細い尻尾。それに見れば耳も少し歪に尖っている。
「亜人、ですね。恐らくリュカルと呼ばれる穴掘りの一族ですよ」
後ろから来たマキノがそう言った。アレクは勿論、マキノも亜人は滅多に見ない。この地域では元々少ない上に、彼らも滅多に人前に姿を現そうとはしないからだ。しかし今はそれどころではない。彼らの直面している問題は別にある。
「要するになんだこいつは。奴らの仲間じゃないよな」
そう言ってアレクは剣を少女に近づける。少女はびくっと体を震わせた。少女にとって敵意を持って剣を向けられるなど初めてだった。ましてこの剣からは、そしてこの男からは何人分もの血の匂いがする。ついさっき人を斬ったばかりの剣が自分に狙っていると考えると、少女は頭が真っ白になり……。
「殺されてたまるかー!」
「なんだー!?」
アレクに飛び掛かった。たかが子供と油断していたアレクは度肝を抜かれた。剣で切りつける訳にもいかず、やられてたまるかー! と喚きながら顔を引っ掻く少女と必死に掴み合う。
二人の騒がしい乱闘にマキノは手を出せずにいる。本人達が本気なのは分かっていたが、頬をつねったり髪を引っ張ったり、なんだか兄妹喧嘩の様だと遠目に考えていた。しかし、とうとう少女はアレクの首を絞めにかかった。
「!?」
息が出来ない。目を見開く。
こんな細い腕のどこにそんな力があるのか、少女の力は大の男のそれを遥かに上回っていた。万力のように締め上げられ、本気で息が出来ずにアレクの顔が真っ赤になる。首を絞められるどころか、そのままへし折られそうな勢いだ。
剣も取り落とし、肩に乗る少女に首を絞められたままアレクはよろめいた。流石に見ていられないとマキノが加勢に近づいた時だ。木々の葉の小さな隙間から森に差し込む光が少女の目を眩ませた。
「にゃ!?」
少女の力が抜けて息が戻る。この機を逃すかとアレクは首にかかる腕を払って、猫でも掴むように少女の首の後ろを摘まんで引き離した。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫な訳あるか! なんだってんだ一体!」
アレクには何ともない程度の光が、何故か少女には効いたらしい。地下に住む亜人らしく光には敏感だったようだ。小さく唸りながら必死に目を擦る少女を、アレクはマキノに押し付けた。
肩で荒い息を吐く。首には今も少女に掴まれた手の跡が痣になっている。片手で摘まめるこのチビに、人一人殺せる力があるとは到底信じられなかった。
「リュカルって言ったか!? こいつめどうしてやろうか!」
「落ち着いて下さい。多分ただの勘違いですよ」
「勘違いだと? 殺される所だったんだぞ!」
少女を尻目に言い合う二人。
そしてアレクが足元に違和感を覚えた時、それはもう遅かった。
足元、地面から急に大量の水が間欠泉のように噴出し、そのままアレクを森の奥へ押し流した。まだ十分に肺を休めていないアレクがまたも息を詰まらせる。
溺れていた。
湖も無く雨も無い森でだ。
何が起こっているのか分からないままアレクは必死に体を動かして、ともかくこの苦しみから逃れようとした。だが。
剣が無い。
一瞬の油断が命取りになると分かっていながら、取り落とした剣を拾わずにいた自分を呪った。しかしどうにもならない。上も下も分からないまま、目も開けられず息も出来ない。必死の抵抗も空しく、アレクはひたすら流されていった。
一方、その一瞬の出来事にマキノは驚愕していた。地面から噴き出し、アレクを捕え、押し流す。その一連の動きは、はっきりと意思を持ったものに見えた。
「まさか……」
マキノも沢山の書物を齧り旅の途中で沢山の話を聞いて回った。魔物にも当然詳しい。しかし水の姿をした魔物など聞いた事も無い。
まだ目を擦っている少女に持っていた遮光用の伊達眼鏡をかけてやると、逃げないよう足が地に着かない高さまで抱えた。彼の勘が正しいなら、あの魔物はこの少女の仲間だ。既にアレクは見えなくなってしまったが、向こうがそう来るならこちらも人質を取らなければならない。魔物は必ずこの少女を取り返しに来るはずだ。
再び耳を澄ませる。
じっと耐えた。
「おい!」
しばらくして、思わぬ所から思わぬ声がした。
振り返るとアレクがそこにいた。流された方とは正反対に。しかしひとまずホッとする。
「アレク! 無事でしたか!」
「無事なもんか! 酷い目に遭った。こっちはどうだ」
「さっきの魔物はこちらには来ていません。あなたを離して逃げた様ですね」
「逃げるなら逃げちまえ。この際そいつも放っておけ。さっさとこの森を抜けるぞ」
頷いて少女を離そうとしたその時だ。
何かが、マキノを押しとどめた。
それは違和感としか表現できない何かだった。
アレクとは長い付き合いだ。だが、やり返しもせず逃げるという冷静さ、首を絞められた少女を見逃すという判断、その発言は少しらしくなかった。確かにそれも気にする程のものではない。
「どうした! 早くしろ!」
しかしマキノは考えていた。
必ず魔物は、少女を取り返しに来ると。
マキノは基本的に誰も、何も信じない。どんな書物に載っている事でも、どこの旅人に聞いた事でも、それが例え親友のアレクでも。
「……アレク、そっちはガゼッタの屋敷がある方ですよ」
「あ? それがどうした」
決定的だった。
マキノは目の前にいる男から一歩離れ、ますますしっかり少女を抱える。
普段のマキノであれば、相手の嘘に乗ってともかく情報を引き出そうとするが、今回に限ってはそんな余裕はなかった。改めて目の前の男を見る。足元から頭の天辺まで。しかしどこからどう見ても、間違いなくその男はアレクそのものだった。その事実にますますマキノは危機感を高めた。
「見つけたぞ!」
それはすぐに証明された。息せき切った声にマキノは視線だけ飛ばす。アレクが来たのとは反対方向、そこから別の男が現れたのだ。しかし、それもまたアレクだった。
「……まるで悪夢ですね」
右にはアレク、しかし左にもアレク。二人は寸分違わず同じ姿に同じ声だった。だがどう考えても先に来たアレクが偽物で、たった今やってきたアレクが本物だ。
偽物に比べ本物は疲れ切っていた。目は血走って息は荒く、腕は一流のはずなのにどこか三流の小悪党の臭いが漂ってくる。対して偽物はすっと背筋が伸びてどこか精悍だった。嘘をついているはずなのに正直者の臭いが漂ってくる。
本物のアレクと偽物のアレク。
今後一緒に旅をするなら絶対偽物の方ですね。
場違いにもマキノはなんとなくそう考えた。
三流の小悪党は今にも死にそうな足取りで、それでも仕返しをしないと気が済まないのか取り落とした剣をどうにか拾った。少しも絵にならない。全く無様で格好が悪い。それでも何故かその姿に複雑な安心感を覚えてしまう自分にマキノは苦笑した。
正直者は迫りくる小悪党の不気味さに一歩退く。
「くそが……、今、ブッ殺して……」
「ちょいとお兄さん達」
そこで更に別の声が、遥か上から降ってきた。
「そんな所で何をやっているんだい?」
高くそびえる木々の更に上から声がする。そこまで離れているのに、澄み渡る声は彼らにしっかり聞こえていた。思わず全員の動きが止まり、硬直の後、その全員が上を見上げた。
二人が逃げ込んだ暗い森を、更に暗くするほどの大きな陰が落ちる。見上げた先にいたのは圧倒的に巨大で美しく、だからこそ二人にとっては絶望的な存在だった。アレクもマキノも茫然とし、抱えられた少女だけが、呑気にそれに手を振っていた。
何も、怖くは無かった。
凶暴な猟犬と戦っても。
少女に首を絞められても。
森でいきなり溺れても。
しかし流石にこの時は、死んだ、と思った。
後にアレクはそう語っている。