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義経流離譚―輪廻の果てに―

掲載日:2026/09/24

怪異物語創作コンテスト「掛川百鬼紀行 第五幕」に投稿した作品です。

 矢が風を切る。義経の直垂(ひたたれ)の裾へ、矢が突き刺さった。

「いたぞ、あそこだ!」

 兵士たちが追いかけてきている。

「御曹司(おんぞうし)、ここは俺が!」

 弁慶が逃げる時間をかせごうとするのを、白く細い腕が引き留めた。それは義経がやっとの思いで再会した、母に似た顔の女性だった。

「義経さま、弁慶、ここはわたくしにまかせてお逃げください」

「なにを言う! せっかくそなたを迎えに来たのに、置いていけるか!」

 女性はふっとほほえみ、首を左右に振った。

「ありがとうございます。ですが、わたくしはもう長くありません」

「皆鶴姫(みなづるひめ)……!」

「転生の秘術を使います。きっと、尊天(そんてん)の力があなた方をお護りするでしょう」

 女性は義経に背を向け、ふところから巻物を取り出した。

「弁慶、殿を連れて早う逃げなさい」

「……はっ。御曹司、参りましょう」

「っ、待て、姫!! 早まるな!!」

「また来世でお会いしましょう、義経さま」

 皆鶴姫が巻物を広げた瞬間、まばゆい光があたりを支配した。

 それが、皆鶴姫の最期だった。

 

 ◇


「めーん!!」

 竹刀の乾いた音が道場に響く。

「次!!」

 後輩から一本取った剣道部の部長・清和(せいわ)九郎は、他の部員に声をかけた。道場の外で見学していた女子生徒たちから、わぁっ、と声が上がる。九郎がふっと笑ってみせると、黄色い声がまた上がった。

 九郎には、前世の記憶がある。最初はそれが何なのか、よく理解できなかった。しかし小学校高学年になるころには、これがどうやら源義経の記憶だと分かった。そして、自分には必ず出会うひとがいるということも。

「次っ!」

 元気よく「はい!」とポニーテールの少女が立ち上がる。

 彼女は園城寺(おんじょうじ)綾。義経のかつての恋人、皆鶴姫(みなづるひめ)の転生した姿だ。透きとおるような白い肌で、か弱そうに見える。だが、九郎も認める剣の腕前だ。来年は彼女がこの部を引っ張っていく存在になると、九郎は期待している。

「よし、来い!」

 綾が竹刀を上段に構え、勢いよく飛び込む。竹刀が重なったとき、九郎の身体の奥が熱くなった。綾が近づくたび、力が彼女から伝わってくる。

 尊天の力――鞍馬寺(くらまでら)で修行した者だけが扱える、神仏の力だ。それを、義経は鬼一法眼(きいちほうげん)という大天狗から学んだ。

 鬼一法眼の娘である姫もまた、その力の使い手だった。理由は分からないが、姫が近づくと、九郎の操る尊天の力は、飛躍的に増幅された。

 彼女がそばにいれば、自分はどれだけでも強くなれる。それが九郎の誇りだった。


 朝練後、九郎は綾の肩をぽんと叩いた。綾は相手が九郎と分かると、にっとほほえむ。おしとやかだった姫とは違い、彼女は活発そうな笑顔を見せる。

「綾。さっきの動き、とてもよかったよ。今年の大会が楽しみだな」

「本当ですか!? 先輩にあこがれて剣道部に入ったので、そうやってほめてもらえると、もっと強くなりたいって思います」

 綾はむん、と両腕に力こぶを作ってみせた。

「先輩、いつも私のことよく見てくれていますよね」

「当たり前だろ。綾は俺の彼女なんだから」

 頬をほのかに朱に染め、綾はほほえんだ。

「なぁ、綾。俺たち、前世で恋人同士だって言ったら、信じるか?」

 九郎の言葉に、綾は目をぱちくりさせた。

「なんです、それ?」

「ほら、ドラマとか漫画とかであるだろ。現代で出会ったら、前世のことを思い出す、みたいなさ」

 綾は漫画の読みすぎですよ、と笑った。彼女には、皆鶴姫だったころの記憶がない。

「そうだ。そろそろ名前で呼んでくれないか?」

 綾の顔は一気に真っ赤になった。もじもじと指先をくっつけては離す。

「で、でも、そんな急に呼ぶのは……」

「もう半年だ。いつまでも恥ずかしがってちゃ、先に進めないぞ。ほら」

「うう……。く、くろ――」

 名前を呼ばれる前に、チャイムが鳴った。

「ま、また放課後に!!」

 綾は逃げるように、慌てて剣道場を去っていった。

 遅れて道場を出たとたん、どん、と誰かにぶつかった。少し肩が当たっただけで、身体が後ろへよろめく。思わず相手の顔を見上げた。

 九郎より頭二つ分背の高い、坊主頭の若い大男。大きな目がぎょろりとこちらをのぞいた。まるで押しつぶされそうな威圧感だ。

 九郎は、この男を知っている。思わず左手に力を集めた瞬間、大きな手が左手首をむんずとつかんだ。

「――あと五分で始業です。話はあとで」

 男はそう告げて、校舎の方へ歩いていった。――あの男は、武蔵坊弁慶だ。間違いない。

 九郎は両手で拳をにぎりしめた。緑色の淡い光が、手の中でつぶれて消えた。


 ◇


 放課後、顧問から今朝の大男が紹介された。

「教育実習生として赴任された、員弁(いなべ)武蔵先生だ。今日から二週間、剣道部の副顧問をやってくださる。皆、先生の指導をよく聞くように」

「員弁です。武蔵と呼んでもらっても構いません。どうぞよろしく」

 武蔵は大きな身体を丸めるように頭を下げた。顔を上げた瞬間、魚のようにぎょろりと目が動き、九郎をとらえた。お調子者の部員からは、武蔵先生よろしく! と声が上がる。しかし睨みつけるような武蔵の目つきに、女子たちは少し縮こまっている。

 綾にちらりと視線を移す。彼女も、やや不安そうに九郎を見た。

「では清和、あとは頼む」

「はい。各自ストレッチ、始め!」

 九郎はあえて武蔵の隣に立ち、号令をかけた。部員全員が、それぞれ柔軟体操を始める。

「なにしに来た、弁慶」

 九郎は部員たちに視線を向けたまま、小さな声で話しかけた。武蔵も九郎を見ず、静かに言った。

「無論、この輪廻を終わらせるため」

「正気か? 俺たちは姫が最期にかけた秘術によって、生を繰り返す定めだ。お前ごときで終わらせられるものか」

「ですから、姫に助力を乞うのです。姫がかけた秘術は、姫にしか解けない」

「無駄だ、あいつはなにも覚えていない」

 九郎は鼻で軽く笑い飛ばし、綾へと近寄った。

「大丈夫か、綾。員弁先生、ちょっと怖いよな」

「あ、先輩……」

 綾はほっとしたように胸をなで下ろし、にこりと笑った。

「不思議です。先輩にそう言ってもらえると、なんだか安心します」

「そうか。員弁先生に言いにくいことがあったら、俺に教えてくれ」

 その後、武蔵と何度となく目が合った。いや、あちらの視線に気づいたというのが正しい。綾に近づけば、そのときは容赦しない。九郎は左手をにぎりしめた。


 夕陽が落ち、暗くなった校舎を歩く。剣道場は、ときどき鍵の閉め忘れがある。最後に部長として、確認する必要があった。

 だが、九郎は道場へ向けた足を引き戻した。生暖かい空気が流れている。それは剣道場に続いていた。

(これは――)

 綾の悲鳴が聞こえ、九郎は弾かれたように駆け出した。

「やはり来たか、平家の怨霊め! 薄緑(うすみどり)!」

 左手に尊天の力を込める。鞘の重さが手に収まるのを感じながら、愛刀を引き抜く。尊天の力を帯びた刀身が、緑色の光にきらめいた。

 だが道場に飛び込んだとたん、怨霊が薙刀で両断される瞬間が目に入った。道場の床には、綾が身を丸めて震えている。

 薙刀を持った大男は、武蔵だった。彼は片手で数珠を取り出し、真言を唱える。怨霊は花のように散っていった。

 武蔵は薙刀を手の中から消し、綾の前にひざまずいた。

 ――いやな、予感がした。

「皆鶴姫、お探し申し上げた。どうか我らにかけた転生の秘術をお解きください」

「え……」

「姫の力が必要なのです。どうか!」

「なに、言ってるの? 員弁先生。私はそんな名前じゃないよ、誰かと間違えてませんか」

「いえ。何度転生しようとも、姫を間違えることはござらん」

 じりじりと近寄る武蔵に、綾は後ろへと下がっていく。やがて、彼女の背中が壁に当たった。出入り口は武蔵がふさいでいる。

「もうやめろ、弁慶!」

「先輩……」

「大丈夫か、綾」

 綾は黙ってうなずく。九郎は綾の前に立った。彼女の指が、九郎の右腕に強くからみつく。

「姫は――いや、綾は俺のことが好きなのだ。姫の名を出して無理強いするな、弁慶」

 綾の心は自分にある。それをいとおしく感じながら、九郎は武蔵ににやりと笑ってみせた。

 しかし、武蔵は静かに首を左右に振った。ぎょろりと大きな目が九郎を見すえる。

「……それは違います。姫がかけた輪廻の秘術が、貴方さまと必ず引き合わせ、好きになるよう仕向けている。この者の意思ではない」

 武蔵はすう、と大きく息を吸った。

「姫を解放されよ、御曹司」

「断る、と言ったら?」

「俺が勝ったら、姫から手を引いてもらいます」

 彼は壁にかけられた木刀を、九郎の前に放り投げた。

「愚かな。……まあいいだろう」

「先輩……」

「大丈夫だ、綾。俺の方が強い」

 真っ青な顔の綾に、九郎はにこりと笑った。木刀は竹刀より重いが、手のひらにぴたりと吸いつく。むしろこちらの方が愛刀の感覚に近く、使いやすい。

「さあこい、弁慶」

「御免!!」

 武蔵は気迫を乗せ、木刀を上段から振り下ろす。九郎は軌道を読んで避け、そのままとんと床を蹴った。武蔵の背後に降りたち、武蔵の小手を叩く。

 武蔵は小さくうなったが、木刀は手放さない。並の相手なら木刀を落としているところだが、あいかわらず頑健な身体だ。ぶん、と重い風が吹く。武蔵の木刀が、九郎に追いすがった。

「お前は動きが遅い。勝とうなどと、甘い考えは捨てろ」

「それでも勝たねばならぬ!!」

 雄叫びを上げ、武蔵が突っ込む。九郎は足裏に尊天の力を込めた。風が起き、身体がふわりと浮く。

 武蔵の突きを空中でかわす。あの五条橋の欄干で、こうやって彼と戦ったことを思い出す。

 武蔵の攻撃はどれも重く、敵が何人も吹き飛ぶ威力がある。その怪力に、義経は何度も助けられた。一方、彼の攻撃は大振りで、避けるのはたやすい。

「おおおお!!!」

 中段の突きが顔に迫る。

「主に向かって容赦のない奴め」

 九郎は空中で見えない壁を蹴った。武蔵の木刀の上に乗り、そのまま武蔵の額をしたたかに打つ。どう、と巨体が倒れる。倒れた武蔵の手から、木刀を弾き飛ばす。

 勝敗は決した。九郎は鼻を鳴らし、武蔵を見下した。

「どうした、もう終わりか?」

 が、半身を起こした武蔵の目は、まったく闘志を失っていなかった。胸の奥がかっと熱くなる。この男は何度でも綾の前に現れ、九郎から彼女を奪おうとするだろう。それだけは、断じて許せない。

 九郎は武蔵の肩を木刀で強く叩いた。骨に当たったのか、じん、としびれが手に伝わる。

「ぐあっ!?」

「どうだ、まだ足りないか!!」

 背中を丸くする武蔵を狙い、木刀を上段に構える。

「先輩、やめて!!」

「綾――」

「もういいでしょ? 先輩、先生に勝ったんですよ! こんなことするの、先輩らしくないです!!」

 綾は武蔵をかばうように両腕を広げた。再び、ふつふつと怒りの炎が巻き上がってくる。九郎は木刀を綾に向けた。

「――黙って見てろ。お前は俺の女だ、口答えするな」

「せ、先輩……」

 思わず、その言葉が口をついて出ていた。びくり、と綾は一歩しりぞく。口元は震え、目はうるんでいた。それでも、九郎の目をじっと見つめる。

 九郎も綾を睨みつけた。彼女がここを去れば、全て終わるのだ。それなのに、綾は立ち退かない。

 ぬっ、と人影が立ち上がった。武蔵が九郎の視線を遮るように、顔を近づけてくる。九郎は武蔵のすねに木刀を思いきり振り下ろした。

「興がそがれた。俺と綾の前から、さっさと去れ、弁慶」

 木刀を放り捨て、九郎は剣道場をあとにした。


 剣道場を離れれば、少し冷静になると思っていた。だが、九郎のいらだちは消えなかった。

 皆鶴姫は、義経が幼いころに別れた母、常磐(ときわ)によく似ていた。姫は義経が他の女性を迎えても、彼女たちを受け入れる心の広さを持っていた。だが、その彼女が九郎を止めた。

 過去に受けた屈辱が、ふと思い出される。

『大工たちにほうびとして馬をわたす。九郎、お前が馬を引け』

 兄・頼朝は、ある日義経にこう命じた。

『しかし兄上、私と馬を引ける者はおりません』

 自分は頼朝の弟だ。そもそも、馬を引くのは下人の役目であった。

『畠山重忠(はたけやましげただ)や佐貫広綱(さぬきひろつな)がいるではないか。それともなにか? 兄の頼みを、卑しい役目と断るつもりでおるのか』

『い、いえ!』

 兄の冷たい視線に射貫かれる前に、義経は立ち上がった。結局、馬をわたす役目を二度も務めた。

『見よ、あれを。鎌倉殿の弟ぎみが馬を引いておられるぞ』

『さすがは鎌倉殿、たとえ弟といえども、我らと同じと示されておられるのか』

『ふん、いい気味だ』

『突然鎌倉殿のところにやってきたが、まことに弟かどうか分からんしのう』

 御家人たちは、ひそひそと話していた。義経は、手綱を持つ手の震えを必死に堪えた。これまで源氏の御曹司として育てられてきた義経の、初めての屈辱だった。

『おいたわしや、義経さま』

『いくら鎌倉殿とはいえ、御曹司にあまりのなされよう!』

 皆鶴姫と弁慶は、義経の代わりに悲しみ、怒ってくれた。それだけでずいぶんと慰められた。二人とも義経をかばい、ついには命をささげてくれた。

 だが、綾は自分に味方するどころか、刃向かった。おびえながらも、少しも退かなかった。

 そして武蔵。いつも自分や姫の後ろにひかえていた、無口な男。

 かつては頼もしかった男が、今や自分から綾を引き離そうとしている。決定的な打撃を与えないかぎり、武蔵は教育実習後も姿を現す。そう思うと、腹の底の釜が再び煮えたぎってくる。九郎が尊天の力をより強大に操るには、武蔵から綾を守らねば。

 九郎は武蔵が校舎から出てくるのを待った。武蔵は九郎の姿に気づき、何事もなかったかのように近づいてくる。

「御曹司、まだなにか」

「さっきの続きだ、弁慶。――鞍馬寺で待つ」


 ◇


 鞍馬寺。そこは九郎が牛若丸だったころ、預けられていた場所だ。ここで大天狗・鬼一法眼(きいちほうげん)に鍛えられ、尊天の力を操るすべを覚えた。いわば、運命の場所だ。九郎は尊天の力で、一気に鞍馬寺へ飛んだ。

 門を軽々と飛び越えたところで、つむじ風が起きた。暗がりの中、ぎらりと目が光る。たいまつに照らされ、天狗の面を着けた山伏が姿を現した。

「なにしにここに参った、牛若よ」

 低くおごそかな声が、面の奥から発せられた。この声には聞き覚えがある。自分の師、鬼一法眼だ。

「師匠……。ごあいさつが遅れ、申し訳ございません。弁慶と決着をつけるために参りました」

「皆鶴のことでか」

 九郎はうなずいた。姫は鬼一の娘だ。なにもかもお見通しだろう。

「この聖域を荒らす前に、弁慶と話し合え。そなたらは互いを補い、最期まで共に戦った仲であろう。戦うのはそれからにいたせ」

 つむじ風が再び起き、鬼一の姿は消えた。

「弁慶と話しても、無駄だと思うが――」

 尊天の力を足裏に込め、木へ飛びうつる。ここからは自分と武蔵の戦いだ。誰にも邪魔はさせない。

 しばらくして、武蔵が鞍馬寺行きのバスから降りるのが見えた。

「員弁(いなべ)先生、待って!!」

(な、綾!?)

 それは綾の姿だった。武蔵も九郎同様、彼女の登場に驚いたようだった。とまどいながら、仏頂面の口を開く。

「なぜついてこられたのです。お帰りください」

「心配だからついてきたんです!」

「これはもう、姫――いや、貴方には関係のない話だ。お帰りください」

「ちょっ、関係なくはないでしょう!? さっきは力を貸せとか言ったくせに!!」

 痛いところを突かれたように、武蔵は視線をそらした。

「だったら、なんだと言うのです」

「先生はどうして、一人で戦ってきたの? これまで転生してきたなら、姫に助けてもらう機会だってあったんじゃないの? 私はともかく、姫の他の生まれ変わりなら、秘術の解き方を知っていたかもしれないでしょ?」

 武蔵はそれには答えず、綾に背を向け、鞍馬寺の急斜面を登り始めた。綾ははじめこそ追いかけてきていたが、やがて姿が見えなくなった。だが、いずれ追いついてくるかもしれない。どこかで綾を止める必要がある。

 九郎は木々のあいだを跳び、武蔵を追った。冷えた空気が身体をかすめる。

 奥の院へ先回りし、巨木の上にとどまって武蔵を待つ。立ち止まった瞬間、苔や木々の発する匂いが、鼻をつんと突いた。この匂いも、汗の匂いも、木刀の感触も、全て覚えている。

(俺は、帰ってきたのだ)

 だが、懐かしさにひたってもいられない。ここで決着をつけなければならない相手が、もうすぐやってくる。

(――来たか)

 初めからここが目的の場所だったかのように、武蔵は奥の院でひざまずき、手を合わせた。

「……輪廻を絶つことこそ、姫がまことに幸せになれる道だと信じ、ここまでやって参りました。しかし――姫に拒まれ、分からなくなりました。俺はどうしたらよいのか」

「お前は姫のため、よく戦ってくれた」

 旋風が起き、九郎は思わず目をつぶった。森の中に声が響きわたる。大声ではないが、心の奥に響いてくる低い声。先ほど九郎の目の前に現れた、鬼一の声だ。

「もう、お前の生きたい人生を歩むといい。弁慶。お前は今、なにを望む?」

「俺は――」

 武蔵は何かに気づいたように、立ち上がる。九郎は彼の行く手をはばむように、大木から飛び降りた。

「ノウマク・サンマンダボタナン・オン・マリシエイ・ソワカ!」

 摩利支天の真言を唱え、結界を張る。たとえ綾が追いついても、ここには入ってこられない。

「御曹司……」

 九郎は降りたつと同時に、薄緑を手にした。

「ここなら綾を巻き込まずにすむ。俺とお前だけだ、弁慶」

 武蔵はすうと息を吸い、九郎をまっすぐ見すえる。

「貴方さまはなぜ、姫を手放さない。もう我らの世は終わった。姫にこだわる理由もないはず」

「意味ならある。見ろ」

 九郎は薄緑を引き抜き、境内の木に切りつけた。一陣の風が、その木をまっすぐ縦に切り裂く。

「これは俺が操る力だけではなしえない。綾が近くにいればこそだ。それをお前は、俺から奪おうとしている。お前は俺の屈辱を一番理解しているはずだろう、弁慶!」

「兄ぎみや御家人どもから受けた屈辱、俺も分かります。ですが、貴方さまの求めるものは、本当に力なのですか。輪廻を繰り返し、本当の自分を忘れてしまわれたのか!」

「弁慶、貴様の言うことは分からん。なにが言いたい」

 理由は他にもあるが、それは口が裂けても言えなかった。姫に――いや、綾に母の面影を求めていると、知られたくなかった。

 武蔵は目をつぶり、頭を左右に振った。

「もうやめましょう、御曹司。彼女は我らの知る姫ではない。園城寺綾です」

 突き放すような口ぶりに、九郎は血が沸騰していくのを感じた。

「――貴様。いつから主君に口答えするようになったのだ」

「俺はこれまで主従として、貴方さまと姫が幸せになるよう願うだけで、なにもしなかった。何度となく、貴方さまが他の女に心移りするたび、あの方が陰で悲しみに暮れる姿を見てきたのにです」

 武蔵は顔をしかめ、右手を強くにぎりしめた。

「俺はなにもできないと思い込んでいた。愚かな男です」

 武蔵の右手に、青白く光る薙刀が現れた。

「貴方さまといれば、必ず姫は不幸になる。あの方が幸せになるために、俺は立ちはだかる。そう決めたのです!」

「それが貴様の願いか」

 薄緑を武蔵に向ける。刃に宿る新緑の色が、煙のように揺らめいた。武蔵は大きな目を見張り、むん、と息を吐いて突進する。

 薄緑と薙刀がぶつかる。武蔵の力は格段に上がっていた。薄緑に宿る光が後方に弾かれ、刀身が悲鳴を上げた。

(っ、先のは本気ではなかったということか!?)

 舐めた真似をする。どこまでこの男は、自分を馬鹿にすれば気がすむのだ。

「弁慶ぇぇぇ!!」

 薙刀を後ろへ弾き返し、追撃に転じる。繰り出した中段の一閃を、武蔵が柄で受け流す。金属音が火花と共に飛び散り、九郎の目の前に薙刀の刃が迫った。

 一歩下がり、それを避ける。背筋を冷や汗が一気に伝った。この男は本気だ。否定しようにも、その刃に宿る思いは本物だ。やはりここで決着をつけねば、綾は奪われる。

「綾は俺のものだ! 貴様にはわたさん!!」

「人を所有物にたとえるなど、恋人のすることではござらん!!」

 振り回された薙刀に、薄緑が弾き飛ばされる。九郎は足裏に力を込めて跳んだ。弧を描く薄緑を宙でつかみ、大上段から振り下ろす。

「薙刀ごとへし折ってやる!!」

「できるものなら、やりなされ!!」

 青と緑の光がぶつかる。綾を想う気持ちでは誰にも負けない。ここで勝つのは自分だ。

「二人ともやめて!!」

 響く声に弾かれたように、九郎たちは互いに離れた。そこには、綾が立っていた。

「綾……なぜここに」

 摩利支天の結界は道を隠す。たとえ道を見つけられたとしても、術者の邪魔者は通さない。はずだった。綾は信じられないものを見るように、目を見張っていた。

「……ねえ、先輩。さっきの話、本当?」

 聞かれていたのか。だが嘘をついてごまかしても、綾はすぐに気づくだろう。

「本当だ。綾がいるからこそ、俺はこの力を強く引き出すことができる。なにがあっても、俺のそばにいれば大丈夫だ、綾。俺が守ってやる」

 こちらの気持ちを伝えれば、綾は分かってくれるはず。だが、綾は首を左右に振った。

「な――綾?」

「先輩は、私を気づかってくれていると思ってた。本当に、私は先輩のことが大好きだったよ。……でも」

 綾は胸の前に手を当て、目をつぶった。

「私は先輩の彼女だけど、物じゃない」

 九郎に視線をまっすぐ向け、彼女は前に踏みだした。

「私は、道具じゃない。私は確かに姫の生まれ変わりかもしれない。でも私は園城寺綾っていう、一人の女の子だよ。私は私として生きたい。私のままを、先輩に見てほしかった」

「……っ!!」

 九郎は思わず、後ずさっていた。心の奥で、何かが音を立てて砕ける。これは、綾の求める愛し方ではない。今からどれだけ取りつくろっても、彼女にはもうとどかない。それが分かってしまった。

 綾は武蔵に向き直り、その手を伸ばす。

「員弁先生。ううん、武蔵。貴方はずっと、姫を救うために戦ってくれていたんだよね。お願い、力を貸して」

「無論、このときをお待ちしておりました」

 薄緑の柄に自分の手が食い込み、痛みが伝わる。それでも、にぎりしめるのを止められない。

「……貴様らも、兄たちと同じか。俺から全てを奪って、笑いものにするつもりか!!」

 綾や武蔵、そして兄たち。彼らだけがほしいものを手に入れ、自分だけが全てを失う。これは理不尽だ。このみじめさを抱えたまま、生きるのは堪えられない。

 冷たい感覚が全身を支配するのを感じながら、九郎は突進した。武蔵が綾をかばうように、前に立ちふさがる。

「邪魔をするな!!」

 九郎は叫びながら尊天の力を薄緑に乗せ、地面に振り下ろす。対する武蔵も薙刀を振り下ろした。互いの力は地表を割りながら突進し、ぶつかった。

「ぐ……!」

 武蔵がうなる。姫の力の増幅分が、武蔵の力を押していく。武蔵一人では、九郎は止められない。

「認めろ、弁慶!! 綾を守れるのは、俺だけだ!!」

 切り返し、薄緑を再度、地面に叩きつけた。薄緑から放たれた力は、ついに武蔵を吹き飛ばす。

「武蔵っ!!」

 駆け寄る綾に、武蔵はよろりと立ち上がった。まだ彼の戦意は失われていない。九郎は薄緑を下段に構え、息を吐いて踏み込んだ。そのときだった。

「――オン・バザラタラマ・キリク」

 尊天の一人、千手観音の真言が奥の院に響く。樹上から響いたその声と同時、地面から白く輝く腕が現れた。それは幾重にも伸び、九郎の足を、手を捕らえた。

「くっ、なんだこれは!!」

 九郎は膝から崩れ落ちた。九郎の身体に満たされていた姫の力が、地面に吸い込まれていく。

「邪魔はせぬつもりであったが――。まだ姫の力を使うというのなら、話は別ぞ」

 大木の上に、天狗の面を着けた男が立っていた。

「師匠……っ、な、なぜ!?」

「姫はそなたを愛した。ゆえに、来世こそ幸せにならんと誓ったのだ。だが、その想いをそなたは踏みにじった。親として、師として、もはや見逃せぬ」

「邪魔するなあああ!!!」

 九郎は持てる力を右腕に集中させた。力任せに千手観音の手を振りほどき、樹上の鬼一へ力を放つ。しかし鬼一は難なくかわし、武蔵たちに叫んだ。

「弁慶、尊天に願うのだ! 今のそなたなら、尊天も応えようぞ!!」

 武蔵はうなずき、薙刀を地面に突き刺した。

「森羅万象をつかさどる千手観音菩薩、毘沙門天王、護法魔王尊(ごほうまおうそん)よ! その力、我に貸したまえ!! 輪廻を絶つ力を、我に!!」

 白い光が、九郎たちのいる場所を包み込む。光は武蔵に注ぎ込み、彼の身体を満たしていく。

「御曹司……、お覚悟!!」

「俺は、貴様ごときには負けんッ!!!」

 九郎は残った力を振りしぼり、自分を縛りつける千手観音の手を引きちぎった。つまずきそうになりながらも立ち上がり、振り下ろされた武蔵の薙刀を、薄緑で受け止める。

 だが、そこまでだった。足下の地面が砕け、九郎の身体が沈み込む。みぞおちに薙刀の柄が叩きこまれ、息が詰まる。九郎の手から、薄緑がぽとりとこぼれ落ちた。

「今だ、綾! そなたの手で、輪廻を絶ちきるがよい!」

 鬼一が羽扇をかざすと、鞍馬山が震え、白い光が綾を包んだ。その瞬間、綾は電流を受けたように硬直し、そしてゆっくりと目を開けた。

「あ、綾……? ――いや、そんな、まさ、か」

 九郎の問いに、綾は答えなかった。ただ寂しくほほえみ、彼女は胸元に手を当てた。その場所が白く輝き、ひと巻きの巻物が現れた。それは皆鶴姫がかつて持っていた、転生秘術の巻物だった。

 綾が巻物をひもとくと、蜘蛛の糸のように光る細い糸が見えた。それは綾、武蔵、そして九郎をつなぎ、複雑に絡みあっていた。

「やめろ……っ!!」

 九郎は這いずるように身を起こす。あの糸を切ったら、すべてが終わってしまう。そんな気がした。薄緑に手を伸ばしたが、愛刀は綾の手招きに呼ばれるように、彼女の下へふわりと浮かんで飛んでいった。

「薄緑……!」

 綾の手に収まった薄緑は、新緑の光を放った。

「待ってくれ……やめてくれ!!」

 綾と武蔵が巻物につながる糸ごと、巻物を両断した。

 ぷつん、と切れる音。薄緑から放たれた光が風を巻き起こし、両断された巻物は風に揉まれ、ちりぢりに破れていく。

 もはや、九郎は立てなかった。残った最後の紙片を綾が斬ったとき、九郎は声にならない声で叫んだ。終わってしまう、すべて。巻物の小さな紙片は桜吹雪と化し、九郎の視界をさえぎっていく。

「終わりだ……」

 尊天の力も、過去の栄光も、姫も、自分の中からこぼれ落ちていく。死んでしまいたい。この屈辱を抱えたまま、生きていたくない。

「先輩、それは違います」

 綾は九郎の前にしゃがみ、首を振った。

「私たち、これからです。これから、やっと始まるんです。私は、綾として生きていく。だから先輩も、義経じゃなくて、九郎として生きて」

「っ、俺に、どう、生きろというのだ……!!」

 九郎は血を吐くように叫んだ。それが限界だった。視界が次第に薄れゆく。

 そのときだった。こつ……こつ、と杖をつく音が、桜吹雪の風に混じって聞こえてきた。人影が、ゆっくりと近づいてくる。

「牛若、どうかしたのですか?」

 桜吹雪の中から現れたのは、旅装束の美しい女性だった。

「なにを泣いているのですか?」

「あ、ああ――」

「泣くのはおよし、牛若。母はここにいますよ」

 それは幼いころに別れた母、常盤(ときわ)だった。これは姫の見せる最後の秘術か。それとも幻覚か。――いや、もうどちらでもいい。これこそ九郎が――義経が、ずっと求めていたものだった。

「母上……!!」

 心の奥でずっと会いたいと願っていた女性の下へ、牛若丸は桜吹雪の中を駆け出した。


 武蔵のかたわらを、牛若丸の幻影が母親に駆け寄っていく。母親は彼を優しく抱きとめ、桜吹雪の中、手をつないで歩いていき、やがて見えなくなった。

「ようやく貴方さまの求めるものに出逢えたのですな、御曹司」

 武蔵は倒れた九郎に近づき、彼に息があることを確かめた。先ほどまでの鬼気迫る気配は消えている。目が覚めればきっと、彼は清和九郎として新たな生を送れるだろう。

 武蔵は九郎を担いだ。かつての主を、このまま放ってはおけなかった。

「ふふ、武蔵は本当に優しいね」

「――仮にも、教師だからな」

 綾のからかいにそう答え、武蔵は綾と共に歩き出す。

 桜はいつしか雪に変わり、鞍馬山は静かに白く染まっていく。誰も歩いていない真っ白な道だ。

 武蔵は空を見上げ、それから綾へと笑みを向けた。それは、ぎこちないながらも、彼なりの笑顔だった。



完

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