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朝の足音

作者: 腹黒兎
掲載日:2026/08/13


 5時40分

 軽い足音が洗面所から台所へと向かっていく。

 夏だろうと冬だろうと、母が起きる時間は変わりない。顔を洗ってから台所でお湯を沸かす。仏壇にお茶とお水をお供えして、居間でお茶を飲む。何をしているのかは知らない。母の貴重なひとりの時間だから。

 6時30分

 台所から包丁の音が聞こえる。朝ごはんのメニューは大抵ご飯とお味噌汁と漬物、それと昨日の残り物だ。

 包丁の音とパタパタと歩き回る音を聞きながら、朝が来たと父や私たちが起き上がるのが日課だった。

 私や妹が結婚して家を出ても母の日課は変わらない。3年前に父が他界した後も母の日課は変わらなかった。ただ、足音が元気がなかったのは気のせいではなかったと思う。

 表向きは気丈に振る舞っていたが、前ほどの元気は無くなっていた。私も妹も家が離れているので、そう頻繁には来られない。申し訳ないと思いつつ「元気でやってるよ」と言う母に甘えていた。

 身支度を整えて台所へ向かう。

「おはよう。お母さん」

 シンっと静まり返った台所にはお味噌汁の匂いもないし、エプロンをつけた母の姿もない。何も変わらない場所なのに、いるべき人がいない。

 母の代わりにお湯を沸かしてお茶を入れる。仏壇にお茶と水を供えて、自分のお茶を持って居間へ向かう。母がいつも座る席の横に座ってお茶を飲む。

 テレビの横には甥っ子が作った貯金箱。その後ろの壁にはうちの子が書いた習字が飾ってある。飾り棚には皆んなで撮った集合写真や子供達の七五三の写真、真ん中には旅行先で撮った夫婦ふたりの写真。

 家族の気配が濃いこの居間で母は何を思っていたのだろう。

「…………音だけじゃなくて、姿も見せてよ」

 会いたい。会いたいよ。

 親不孝な娘でごめんね。寂しい思いをさせてごめんね。

 たった一人で、誰にも看取られずに逝かせてごめなさい。

 一緒に住もうって言っていれば。

 もっと頻繁に連絡していれば。

 あんなに突然にいなくなるなんて思いもしなかったの。

 ごめんなさい。

 涙が止めどなく溢れてくる。

 幾度も繰り返した後悔が押し寄せてくる。

 ごめんなさい。許さなくていいから、怒っていいから、夢でもいいから、会いたいよお母さん。

 顔を覆い声を殺して泣いていると、頭を誰かに撫でられた気がした。この優しい感触を私はよく知っている。

 急いで顔を上げて辺りを見回すが、誰もいない。

 パタパタと玄関へと向かう足音が聞こえた。

 急いで立ち上がり、ドアを開けて廊下に出る。朝日が差し込む玄関に母がいた。

『いってきます』

 私と妹で買ってあげたワンピースを着た母は、ふわりと笑ってそう告げると玄関を出て行ってしまった。

「……いってらっしゃい」

 かろうじて出た返事が適切だったのかは分からない。でも母の晴れやかな笑顔を見たら『行かないで』とは言えなかった。

 いつもは私たちが見送られていたのに、今日は私が見送る。お母さんはいつもこんな気持ちだったのかしら。



 四十九日の法要を終え、私だけもう一晩実家に泊まった。

 翌日、もう足音は聞こえなかった。

 

 

お読みくださりありがとうございます。


母が着ていたワンピースは「派手じゃないかしら」と照れながらも父との旅行に来て行った服です。

どこに入れて良いか分からず、後書きに書かせていただきました。

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― 新着の感想 ―
泣いてしまいました。やさしいホラーですね。
それは未練と後悔が生んだまぼろしか、それとも本当に亡母の霊だったのか。 スト-リーそのものは怖くはないけれど、心に刺さる。 いや……もしこの作品の主人公と同じことが自分や自分の母親にも起こったら?そう…
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