表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/1

地獄、鍵付きの

人はそれぞれの地獄に堕ちている。

1 仕事

 アラームが鳴っている。いつもの目覚まし時計とは違う。そもそも今日は日曜日で、アラームを設定していないはずだった。

 手首に違和感があった。スマートウォッチが振動しているのだ。


 ()(ぐろ)陽人(はると)は目を開け、身体を起こした。すでに自分の仕事が始まっているということに気づく。暴力的とは言わないまでも叩き起こされたことに変わりない。あまりいい気分ではなかったが、呼ばれたのならどうすることもできない。


 目を何度も瞬きながら、スマートウォッチに目をやる。液晶に『エリア発生』の赤い文字がでかでかと表示されている。契約を結んでいる〈()()(しま)セーフティ〉から出動命令が下ったのだ。やはり仕事の時間だ。

 カーテンを開ける。朝日が差し込んでくる。それでも寒い。部屋がひんやりしている。


 仕事の時間だ、イントルーダー。


 急速にアドレナリンが分泌されるのを感じた。緊張とは少し違う高揚感。仕事を告げられたとき、毎度のように感じるこの不思議な昂ぶりが、最初は不快だった。だが、一年以上も仕事を続けているせいでもはや慣れっこになっていた。


 前日に買ってきていたコンビニ弁当を温めている間、着替えを済ませる。といっても上下共に黒いジャージという簡素な格好だ。一見して早朝のジョギングに行くようにも見える。だが陽人の表情は、何かに憑かれているような強迫観念をみなぎらせていた。蒼白といってよかった。


 初めて出動することが決まったとき、自分はどんな顔をしていただろう。洗面台で適当に顔を洗い、鏡をちらと見ながら陽人は思った。確かゴミ箱に反吐を撒いたことだけは覚えている。昼食を残らず戻したときのあの緊張は、今や全くなかった。一年以上の経験を経て学んだのだ。緊張の乗りこなし方を。それを力へと変える方法を。

 テレビをつけると、ニュースが流れ出す。西高東低の気圧配置。日本海側でところにより雪。海外の強盗事件。飛行機の墜落。大統領の声明。サイキックが関与したテロ。戦争。先ほど発生した〈エリア〉の速報。

 陽人がこれから向かう現場が、カメラを通してテレビに映し出されていた。すでに多数の警察車両が出動し、住民の避難と通行規制が開始されているようだ。リポーターが何かを話しているが、全て陽人の耳を素通りしていく。聞くべき情報は何一つなかった。陽人が信用するのは、〈四季島〉からスマートウォッチに送信されてくる現場のデータだけだ。


 コンビニ弁当を楽々と平らげ、玄関へ向かう。途中で、廊下に面する扉に向かってノックをする。閉め切られた扉で、ノブをひねっても開かないこともある部屋だ。目の高さに画鋲が刺さっていて、吊されたボードに自分の字で『就寝』と書かれている。


「仕事に行ってくるよ」


 こうやって声をかけるのが、外出前の陽人の日課だった。たとえ相手が返事をしないことがわかっていたとしても。




2 現着

 発生した〈エリア〉までは〈四季島〉の自動車を使う。陽人のものではない。会社が所有するAI自動運転車がアパートメントの前まで迎えに来るのだ。玄関に鍵をかけ、陽人は錆び付いた外階段を降りる。目の前にすでに停車している自動運転車に乗り込んだ。行き先はすでに設定されていて、直ちに発進する。陽人を地獄まで送ってくれる。


〈エリア〉までの道中、陽人はスマートウォッチで情報を確認していく。発生した〈エリア〉は直径約2・2キロ。異常(アノマリー)の種類は〈瞬間転移〉。最悪な部類だ。そして、発生からすでに二〇分が経過している。

〈エリア〉の中心地には中学校があるようだ。その時点で陽人は憂鬱を抑えきれない。これが意味することはつまり、中学校に〈エリア〉の原因──コアと呼ばれている──が存在し、陽人がそれを「処理」しなければならないということだ。


 車で二〇分、〈エリア〉発生から四〇分が経過した頃、陽人は現場に到着した。エリアから二百メートル以上離れた周縁部。出動した警察が規制線を張り封鎖している一帯だ。


 陽人は見知った顔を見つける。確か名前を(なお)()という。陽人の同業者で、彼女も四季島と契約しているはずだ。

 直美は規制線の前に突っ立っていた。灰色の作業着に、蛍光色のベストを着用している。〈エリア〉内の生存者が彼女を見つけやすいようにと配慮した服装なのだろう。


 自動運転車の走行音に、直美が振り返る。陽人は車から降り、近づいていった。


「朝っぱらから大変ね」

「慣れっこだ。朝は強い方だしな。今日は何人体制でやるのかな」

「今日は多いわ。なにせアレの中心に中学校があるからね。〈四季島〉は全力を尽くしたということをアピールしたい。だから、なんとしても人員をかき集めるでしょうね」


 直美はため息をついた。睡眠時間が足りないのか、目の下に(くま)が浮いている。自分もきっとひどい顔をしているだろうな、と陽人は思う。当然だろう、これから地獄へ自ら歩いて行くことになるのだ。まともな神経なら卒倒してもおかしくない。陽人らイントルーダーは、世間から英雄とも狂人とも近い扱いを受けている。彼らはどこか欠落している部分がある。そして精神が欠けている者には、その穴をちょうど埋める形に突出した、歪な仕事が存在する。隣り合わせのパズルのピースのように。


 それがイントルーダーという仕事だったわけだ。


「考えるだけで気が滅入ってくるな。中学校が中心とは……」

「こういうパターンは意外と多いのよ。わたしは昔、小学校が中心の〈エリア〉に突入したわ。そのときからなのよ、タバコを吸うようになったのは」

「ストレス解消か。でも、あんたの超能力は物体浮揚(レビテーシヨン)だろう? 役割は人命の救出──担架(ストレツチヤー)のはずだが……」

「そうね。処理役(シユーター)のあなたほど過酷な仕事じゃない。長期間〈エリア〉にとどまることも、まあ少ないわね。けれど、あのときの異常(アノマリー)の種類は〈変容〉だった。そのとき学校にいた小学生のほとんど全員が、別の動物に変わっていた。助けられなかった。想像してみてよ。学校の廊下や教室のあちこちに大量の死骸が山のように積み重なってるの。そのほとんどが、混じり合ってるの。いろんな動物のパーツが身体からめちゃくちゃに生えてる。蟹の鋏、魚のヒレ、クラゲの触手、何十本もの鳥の脚、目玉、タコの腕、猿の毛。しかも、子供同士が繋がっている場合もあった。シャム双生児みたいになって死んでるの」

「もうわかったよ。今回はそうならないこと祈ろう」


 陽人は鬱々とした声で直美の話を遮った。直美は個人的な思いを吐き出したいのだろうが、過去に起きた異常(アノマリー)の詳細を聞くなど願い下げだった。考えるべきはこれからのことだ。


 案の定、思い出したくもない記憶がよみがえる。頭に弟の顔がちらついた。


 弟がこちらに向かって笑っている。地獄のような暑さだった。空気が揺らめいている。弟がコンビニのレジ袋を掲げてみせる。中にアイスが入っているのがぼんやり透けて見えている。蝉が鳴いている。うるさいほどに。アスファルトの上を蟻が這っている。

 次の瞬間、弟の姿が忽然と消える。彼の顔があったあたりに、虚空からサッカーボールが出現する。それがアイスの袋と同時に落下する。袋ががさりと音を立てる。サッカーボールが、地面で一度、ぽーんと跳ねる。


 地獄のような暑さだった……。


「送られてきたデータを見たでしょ? 今回は〈瞬間転移〉。〈変容〉よりはマシかも」

「……ああ。一人でも多く助けられるといいな」


 直美の言葉に、陽人は強引に思考の海から引き揚げられた。やはり過去のことは考えるべきではない。それは未来の選択を妨げる。目の前の判断を狂わせる。


 地獄は過去ではなく、目の前にある。目の前に集中しろ、イントルーダー。


「プレッシャーをかけるつもりはないけれど、あなたに懸かってるのよ。処理役(シユーター)


 背後から車が近づいてくる音がした。〈四季島〉の自動運転車の大群。続々とイントルーダーが集まってきていた。中には陽人の顔見知りもいた。近隣で〈エリア〉が発生したとき、駆けつけるイントルーダーの顔ぶれは似たり寄ったりになる。今回もその例に漏れなかった。


 陽人は規制線の先を見据える。二百メートル先の〈エリア〉を。現在、常識をあざ笑うような異常現象によって地獄と化した区域を。


「幸運を祈るわ」


 直美が煙草を咥え、火をつける。ライターは使わない。煙草の先で指を振るだけで火がついた。サイキックの能力の一端だ。

 直美は突入前に煙草を吸う。初めて会ったときからそうだった。緊張を和らげるだけでなく、ちょっとしたおまじないの意味も込められているのだろう。イントルーダーは、大抵そういうルーティンを一つは持っている。これから死地へ向かう自分のために、ささやかな幸運を祈る儀式。


 陽人にもそれがあった。陽人は場合は鍵を握りしめる。強くきつく。何の飾り気もないアパートメントの鍵が、陽人のお守りだ。それを首から紐でかけている。首元でそれを握り込んだ。祈りの言葉は唱えないが、代わりに何か言葉にできないものを握力に込めた。


 ただの鍵が、開けるべき扉があることを教えてくれる。帰らなければならない場所があることを、生き残らなければならないことを意識させてくれる。


(母さん──)


 廊下に面した扉がまぶたの裏に浮かび、


(仕事に行ってくるよ──)


 帰ってこなかった返事が聞こえた気がした。




3 エリア

 現在、地球人口の三〇パーセントが、程度の差はあれど、何らかの超能力を有していると考えられている。彼らサイキックの能力は、その子孫へと遺伝していくことが確認されていた。つまり、サイキックの子供はサイキックになるため、その数は将来的に増加の一途を辿るとされている。


 サイキックの能力を分類する試みは、今のところ終わりが見えない作業だった。彼らの能力の原理もまた、充分に解明されているとは言えない。サイキックの起源である第一世代は、あるとき突然、世界中に出現した。しかし彼らの大半が、自分自身に起こった異変に気づかずにいた。わかっているのはそれぐらいだった。科学者たちはいたって真面目に超能力の研究を始めたわけだが、未だ科学は超能力者たちの正体を明らかにすることができていない。どちらかというと、オカルトの信奉者と、さらに信用ならない団体の唱える「学説」の方が大衆に支持されているほどだった。


 そんな混迷した状況で、〈エリア〉が発生した。


 精神を錯乱させたサイキックが、自分の力をコントロールできずに生み出す異常な力場──すなわち〈エリア〉は、半径数キロを地獄に変える。〈エリア〉は混沌そのものだ。サイキック以上に解明の進んでいない領域だ。その中では何もかもが起こりうる。どんなことが起ころうとも、笑い飛ばすことなどできない。そこでは悪夢でしか見ないような病的な光景が、シュールレアリスムの絵画のようにめくるめく展開される。


〈変容〉、〈発火〉、〈精神交錯〉、〈時間遡行〉、〈溶解〉……。分類しきれない数々の異常現象(アノマリー)に対し、自らの意思で踏み込み、人命の救出を担う者たちは、侵入者(イントルーダー)と呼ばれていた。


 それこそが、自らもサイキックである陽人らの肩書きだ。


 人員が揃うと、地図の確認と役割の分担が行われた。取り仕切るのは〈四季島〉の突入監督官と、ベテランのイントルーダーだった。そのイントルーダーは〈エリア〉発生の歴史の初期から活動し、生き残ってきた伝説的な存在であった。彼の的確な指示に、他のイントルーダーたちは終始無言でうなずくだけだった。陽人は予想通り処理班(シユーターズ)に加えられた。直美は救出班(ストレツチヤーズ)。これも能力の適性を考えれば当然の帰結と言えた。


 イントルーダーたちがそれぞれの役割に応じた装備を身につけ、点呼をとる。陽人は腰に下げた拳銃の重みを意識する。それを使うことなど考えたくもなかったが、意識がそこから離れてくれない。


 だが、いつかは自らの手でやらなければならない。陽人は一年以上この仕事を続けているが、実際に「処理」したことは一度もない。いつも周りの処理役(シユーターズ)が最後の手順を担っていた。〈エリア〉を発生させたサイキック──根源たるコアを殺害すること。陽人にとっては今日がその日かもしれない。何かの事情で誰も引き金を引けないときは、自分がやらなければならない。


 辿るべき道筋を各々が頭に叩き込むと、リーダーが号令をかける。


「よし。総員、やることはわかったな? すでに〈エリア〉発生から一時間が経とうとしている。すぐさま前進を開始せよ」


 全員が前へ進み始めた。規制線を破り、五〇メートル先の〈エリア〉へ突き進む。〈エリア〉は時間を経るごとに少しずつその範囲を拡大し、半径が広がっていた。周辺部で住民の避難が完了しているとはいえ、巻き込まれた家屋の持ち主たちが不憫でならない。それも、地球上を無限に拡大し続ける〈エリア〉を前にすれば些細な問題かもしれない。


 この地獄を終わらせるは、地獄を創り出したサイキックを殺すしか方法がない。


 その責務は陽人たちに託されている。


〈エリア〉の境界が近づいてくると、その内部で何が起こっているかが見えてくる。陽人の目にはその領域の全てが点滅しているように見えた。

 建物の一部が瓦礫の山と化し、かと思えば全く別の建物となって現れる。電柱や電線の明滅により頭上で大量の火花が散る。路肩に車が現れたかと思えば次の瞬間には消滅し、あるいはタイヤだけとなって現れる。家の壁が消え、そのはらわたが見える。どういうわけかその中から大量の水が流れ出してくる。地面にウサギの人形や料理器具や瀕死の魚が流れて散らばる。

 大量のカラスの死骸が地面から湧いて出る。カラスの死骸が消え、そこに大量の冷蔵庫が整然と並ぶ。冷蔵庫が突如爆発し、中から血液と臓物と骨の破片が飛び散る。それらはおそらく人間で、〈エリア〉内の超常現象に巻き込まれた人たちの残骸だ。


 少し見ただけでも、異常極まる有様だった。


 今回起こっている〈瞬間転移〉は、物体の位置が瞬時に移動し続けるという現象だ。外からでもその恐ろしさがわかる。転移は物体まるごとだけでなく、部分的にも起こる。家電の部品が移動し、家の一部が崩壊し、人体の一部がどこかへいく。巻き込まれた人たちの生存確率は極めて少ない。時間を経るごとに、指数関数的にゼロに近くなる。


 それでも、やらなければならない。一人でも救えれば御の字。〈エリア〉は止めない限り無際限に拡大するため、やらないという選択肢はなかった。陽人ら処理班(シユーターズ)が、どんな犠牲を払ってでもこの地獄を終わらせなければならない。


 全員の間に緊張の波が伝わっていく。すでに〈エリア〉は目と鼻の先だった。


「突入!」


 リーダーが声を放つ。奇妙な高揚感と共に、陽人は足を大きく踏み出す。地獄へと走り込んでいく。単純な二択に、身体が支配される。生きるか死ぬか。地獄は、極めてシンプルな法則に支配されている。




4突入

 サイキックに関する研究は、世界中で最先端の課題と目されているものの、遅々として進まない。科学者たちは、超能力に関する学説の根拠を厳密な科学に求める者から、根拠のない単なる予想をさも真理であるかのように披露する者から、疑似科学やオカルトに道を踏み外す者まで様々な態度を取った。そんな四散五分の状況でも、超能力に関するある一つの見方が、世界中で広く受け入れられていた。


 それはサイキックを能動型(アクティヴ)受動型(パツシヴ)かで区別するという分類の方法である。


 能動型(アクティヴ)は自らの意思で超能力を行使することができる者のことだ。物体を浮遊させたり、火をつけたり、光を出したりすることを、自分の意思で行う。超能力の普遍的なイメージの体現者である。


 一方の受動型(パツシヴ)は自分の意思とは無関係に超能力を行使する。こちらは本人が自分がサイキックであることに気づいていない場合もあり、能動型(アクティヴ)に比べて確認されている数が少なく、実際の数はわかっていない。その理由は能力が端から見て確認しづらいことにある。彼らの大半は、火をつけたり物体を浮遊させることなどできない。せいぜい第六感とでも言うべき感覚を身につけていることぐらいだ。それも、本人が気づかないほど微弱な場合も多い。


 羽黒陽人は受動型(パツシヴ)であった。それもかなり特異な能力である。


 陽人の能力は、他のサイキックに対して効果を発揮するものだった。端的に言って、彼の精神は、他のサイキックの超能力の影響を受けない。心を読む〈読心者(ピープ)〉には心を読まれない。精神を操る〈操作者(コントローラー)〉に精神を操られることもない。まさしく、極めて受動的(パツシヴ)に働く超能力なのだ。


 そして他のサイキックの能力を受け付けないという珍しい能力ゆえに、イントルーダーとして非常に重大な任務を任せられていた。


〈エリア〉内に入るとすぐに、イントルーダーたちはそれぞれの仕事を開始する。頭に叩き込んだ地図に従い、自分の持ち場へとまっすぐ走っていく。救出班(ストレツチヤーズ)は道を走りながら呼びかけを行う。生存者を捜し出し、彼らを連れて迅速に〈エリア〉から離脱することが救出班(ストレツチヤーズ)の役割だ。


 陽人は他の処理班(シユーターズ)のメンバーと共に一目散に〈エリア〉の中心へ走っていく。今回は救出班(ストレツチヤーズ)も多い。なにせ中心部に中学校があるせいだ。少しでも生きている者がいれば、救い出すのが彼らの仕事だ。その中には直美もいた。だが、陽人も直美ももはや言葉を交わすことはなかった。皆、自分自身に集中することで手一杯なのだ。


 次の一歩ごとに確実に地面を蹴って進む。心を落ち着かせることが必要だ。なぜなら、彼らの周囲では常に物体が瞬間移動を繰り返す異常現象が起きているのだ。パニックを起こそうものなら生きて帰ることなどできはしない。


 彼らは常に道の真ん中を走る。見通しの良い場所を走る。突然目の前に物体が出現しないとも限らないからだ。思い切り激突すれば、ものによっては即死もあり得る。


 そして何よりも恐ろしいのは、自分のいる場所に物体が転移してくることだ。そうなれば、助かることはまずない。何も感じることすらないまま、物体の占める空間から押し出される形で身体が破裂して絶命する。運が悪ければ身体の一部のみが破裂し、長い間苦しんでから失血死する。

 そして、陽人を除くイントルーダーが恐れるもう一つの可能性は、自分自身が瞬間転移することだ。


 転移は、常にランダムに起こる。何が転移してどこに現れるのか、何一つ確かなことは言えない。何をしようとも、転移は平等な確率で起こる。〈エリア〉内で生き延びる可能性を高めるためにできることは、せいぜい転移してきた物体と重ならないよう祈ること、自分が転移しないよう祈ること。それだけである。


 それでも、陽人は自分が転移しないとわかっている分、気持ちが楽だと言えた。


 他のサイキックから影響を受けないという能力がゆえ、陽人は転移に巻き込まれることがない。正確には、〈エリア〉を引き起こすサイキックから能力の効果を受けないからだ。この噛み合いこそ、陽人が処理班(シユーターズ)を──半ば頼み込まれる形で──続けられる理由だ。


「上だ! 避けろ!」


 処理班(シユーターズ)のリーダーが叫んだ。頭上から大量の瓦礫が降ってくる。何かの建物の破片か、アスファルトの破片か、その両方だ。処理班(シユーターズ)救出班(ストレツチヤーズ)のそれぞれが逃げ惑う。隕石のように降ってきた瓦礫が爆発のような轟音を放ち、地面で飛び散った。数人がまともに巻き込まれ、血まみれになって倒れる。一瞬で頭を潰された者までいた。


 生き残った者たちに、止まっている暇はない。常に前へ走り続ける。次の瞬間、転移してきた電柱が、そこにいたはずのイントルーダーを押しのけた。身体の内側から爆発したように血しぶきが舞い、一瞬で原形を失った。確か陽人と同じ班のメンバーだった。言葉を交わしたことこそなかった。それでも罪悪感がこみ上げてくる。自分一人は転移しないとわかっているせいだろう。他の皆は自分よりもさらに危険な状況に身を投じているのだ。陽人は不思議な疎外感に包まれる。この地獄を共有しているはずなのに、自分だけ隔たった場所を走っているように感じられた。


「生存者だ!」


 メンバーが声を上げた。道ばたで座り込んでいる女の子の姿が見えた。すぐさま救出班(ストレツチヤーズ)が行動に移る。直美らが前に出る。少女の容態の確認は後回しだ。すすり泣いているということは生きているという意味で、救出すべき対象になる。


「ママが!」


 少女が叫ぶが、直美は構わず能力を発揮する。物体浮揚(レビテーシヨン)の力によって少女の身体が宙に浮かび上がる。


 そのまま数人の救出班(ストレツチヤーズ)らと共に来た道を引き返しはじめる。物体浮揚(レビテーシヨン)は一人では長く続けられないが、数人が交代で力を発揮することで少女を〈エリア〉外に持ち去ることができるのだ。


 少女が泣きわめいている。直美たちの背中が遠ざかっていく。陽人は彼らの幸運を祈って、鍵に触れた。


 それだけでなく、無意識のうちに弟の無事も祈っていた。自分でも、それが馬鹿らしい妄想だとはわかっていた。〈エリア〉に巻き込まれて生き残る者は、死者も合わせた全体に比べてわずかでしかない。あんな状態になった弟はとっくに死んでいるはずだし、ましてや別の〈エリア〉に行けば会えるかもしれないと考えるのは愚の骨頂だった。


 時折自分がおかしく感じられる。くだらない妄想のために自分の命を危険に晒し続けているのだ。自分はすでに狂っているのだろうか。


 いや、違う。そもそも前提が間違っているのだ。弟を捜すなど、ただの口実でしかない。後ろめたい衝動に耐えきれない自分をだますための。これは、生きることを終わらせるための短い生なのだ。〈エリア〉を走り回る自分たちは、待ち受ける死に向かって進み続けているのだ。その瞬間が訪れることを願っているのだ。




5 理由

 家族が壊れたのは、三年前、羽黒陽人が一八歳のころだった。サイキックの両親の元で生まれた陽人と弟の宗司は、どちらもその血を引いてサイキックだった。だが、父親は物心ついたときには蒸発していた。母は女手一つで二人を育てたが、学費を払うのに十分な稼ぎはなく、弟は高校に進学してからバイトを始めていた。


 夏休み、バイト先に弟を迎えに行ったときのことだった。


 そのとき発生した〈エリア〉は、今ではあらゆる物体の変形が起こる〈変容〉の型に分類されている。直美が体験したそれは人体が別の動物のものに変わるというパターンだった。他にも物体が全く別のものに変わったり、変形したり、物体同士が融合する現象と言われている。


 そして弟の身にも、それが起こった。


 陽人と母がコンビニに着いたとき、ちょうどバイト終わりの弟が歩いてくるところだった。その手にレジ袋を提げている。こちらに気づいた弟がレジ袋を掲げると、中にアイスが入っているのがぼんやり透けて見えた。


 おそらく、そのときすでに〈エリア〉が出現し、〈変容〉が始まっていたのだろう。


 弟が忽然と消えると同時に、サッカーボールが出現した。アイスの袋が落下する。サッカーボールが地面でぽーんと跳ねる。その光景が、まぶたの裏に焼き付いた。


 その瞬間に、家族は壊れた。


 サッカーボールに変容した弟を、陽人たちは持ち帰ることができなかった。すぐさま駆けつけた救出班(ストレツチヤーズ)が、二人を〈エリア〉の外に連れ出したせいだ。別れを告げることすらできなかった。サッカーボールに手を伸ばす母親の叫びが、今も耳元でこだましている気がする。

〈エリア〉が終息した後、弟を捜しに行った。何度も何度も。来る日も来る日も。しかし、弟はもちろん、サッカーボールを見つけることすらできなかった。


 それから、街中のサッカーボールを探す日常が始まった。病人のような顔の母に連れられ、街中を歩き回った。生まれてこの方入ったことのない路地裏まで入り込み、サッカーボールを探し回った。他人の敷地に入り込み警察沙汰となったことも何度かあった。ときにはサッカーをして遊んでいる子供たちの間に怒鳴りながら割り込み、ボールを取り上げたこともあった。その間、陽人は変わり果てた母の姿を遠巻きにただ眺めていた。


 弟の影を捜す日々が始まってから一年が経った。母から全ての希望が失われた。ある日突然、何も言わずに、弟を捜すことをやめてしまった。それだけでなく、外に出ることもしなくなった。生存に必要な最低限すら危うくなった。一日中、自室のベッドに座るか横になるかして過ごしている。陽人の呼びかけにも返事ができない日があり、食事は陽人が作るか、カップラーメンになってしまった。捜すという気力だけでなく、生きる気力も今や根こそぎにされてしまったようだった。


 それは陽人も同じだった。


 陽人に残されたのは孤独だった。地獄の出口は、別の地獄の入り口だった。母が廃人になった今、稼ぎは陽人一人にかかっていた。壊れた母と二人、何の展望もない人生が待ち受けていた。


 陽人がイントルーダーをやっている理由の大半がそれだ。日々を生きるための稼ぎと、日々を終わらせるための自殺の手段。そして残りは、この仕事を続けていれば弟に会えるかもしれないという空虚で狂った妄想だった。世界中で発生する〈エリア〉のどこかに、サッカーボールとなった弟がいるかもしれない。


 自分は捜しているのか。それすらわからなくなることがあった。しかし、他にしたいこともなかった。




6 地獄

 気づけば、陽人と共に走っていたイントルーダーは、半数以上が消えていた。転移してきた物体に激突し、引き裂かれ、もしくは自らが転移してしまったのだ。転移してしまったイントルーダーは、まだ生きている可能性がある。問題はどこに出現するかだ。たとえ建物の壁の中に転移してしまったとしても、イントルーダーは即死を免れる。ただし壁の崩壊によって建物は倒壊し、遅かれ早かれ生き埋めになるか潰れることになる。


 上空に転移してしまった場合も似たような運命を辿る。生き延びる可能性があるとすれば、上空一キロに転移したとして、墜落までの間に再び自分に転移が起こることだろう。そうすれば次の転移先に望みを託すことができる。ただし、落下による運動エネルギーは転移先でも保存されるため、大抵は運命を避けることができない。〈エリア〉は常にそこにいる人間たちを嘲笑う地獄なのだ。


 それでも陽人らは走り続けた。中心部めがけて一直線に。陽人は他のイントルーダーがなぜこの仕事をやっているのか、知らない。聞いたこともない。聞かれたこともなかった。それでも、彼らには彼らの人生があった。そして、彼らの家族、彼らが抱く理想、彼らが背負う過去、彼らが思い描く未来があったはずだった。それら一つ一つに思いを馳せるような感傷は少しもなかったが、それでもそのことを意識せずにはいられなかった。


 人は皆、離ればなれに立っている。人は皆、それぞれの地獄を持っている。


 唐突にわき上がってきた想念を振り切るように、陽人は速度を落とさずに倒壊寸前の建物の角を曲がった。


 そこに、自宅があった。


 陽人は思わず立ち止まった。立ち止まろうとして勢いを殺しきれず、躓いた。痛みにも構わずアスファルトに手をつき、もう一度それを確認する。


 アパートが建っている。陽人が暮らしてきたアパートが。


 信じられず、ただ凝然とそれを眺めた。周囲の建物が瓦礫の山と化すなか、そのアパートは無傷だった。不気味にも悠然とそこにあり続けている。


 ついに自分がおかしくなったのだと思った。これまで蓄積されてきた精神的な負荷が〈エリア〉での緊張によって限界に達したのだと。しかし、その考えとは裏腹に自分の頭はまだしっかりしているように感じられる。だというのに、目の前の光景は自分の全ての感覚と矛盾しているのだ。


 陽人はよろよろと自宅に近づいていった。その外壁に触れてみる。手のひらはしっかりとざらついたクリーム色の壁を捉える。手を離すと、擦りむいた箇所から流れた血がついた。


 陽人は階段を上り始めた。外階段を一歩ずつ確実に踏みしめていく。唐突に建物が消えたりはしない。身体がすり抜けるようなこともない。建物は確かに陽人の身体を支え、陽人の身体から力を受けていた。


 羽黒家のドアの前で立ち止まる。表札を確認する。確かに自宅だ。何も変わったところはない。何の異常も見当たらない。

 陽人は震える指で鍵を持ち、鍵穴に差し込んだ。心臓がうるさいほどに高鳴っていた。おそらくは走っていたせいではなかった。


 鍵は難なく入り込み、施錠を解除した。ドアを引く。簡単に開いた。陽人は恐る恐る中に入った。


「兄ちゃん、おかえり」


 宗司が出迎えてくれた。どう見ても宗司だった。あの日と同じジーンズを履き、Tシャツ姿だ。宗司はその一言だけで、当たり前のようにトイレに行った。陽人は呆然と立ち尽くしていた。まるで幽霊でも見たかのようだった。実際、幻覚か何かを見たのだと思った。陽人はしばらく金縛りに遭ったように硬直していたが、勇気を振り絞って足を動かした。靴を脱ぐ。玄関には他に靴が二足並べられていた。廊下を進む。母の部屋の前で立ち止まる。ドアに画鋲が刺さっていない。当然、看板も吊されていない。陽人がかけたはずの看板がなかった。


 陽人はふらふらとリビングへ向かった。夢遊病者のような足取りだった。どこを見ても、自宅としか思えない。だが、何かが違う。少しずつ違う。なぜ違うのかがわからない。


 リビングでは食事の準備が済んでいた。テーブルの中央には大きな器があり、そこに蕎麦が盛られていた。それぞれの小皿にも蕎麦が取り分けられている。三つのグラスには麦茶が注がれている。陽人は奇妙な暑さを意識した。今がいつなのか、季節は何なのか、思い出そうと努力したが、できなかった。頭に靄がかかっているような感じがした。目に映る全てが暖かさを備えていて、奇妙だった。均一なのだ。盛られた蕎麦も、取り分けられた蕎麦も、皿も、箸も、テーブルも、椅子も、テレビも、茶色のソファも、花柄のカーペットも、見た目は違うのに、全てが同一の物体のように感じられるのだ。


「おかえり、陽人」母がキッチンから顔を出した。「今日のお昼は蕎麦よ。外は暑かったでしょ。まず手を洗って」

「そうだね」


 陽人は洗面台に向かった。手を洗っている最中、手首からスマートウォッチが消えていることに気づいた。どこに行ったのかを考えようとしたが、うまくいかない。先ほどまで感じていた不安が、遠くに離れていくのを感じた。何も考えるべきことなどないような気がした。


 再びリビングに向かうと、宗司がすでに椅子に座っていた。確かに、宗司は昔からそこに座っていた。昔からとは何だ? いつものことではないか。昨日もそこに座っていた。高校の課題もそこに座ってやっていたではないか。


 陽人も自分の定位置につく。当然のことだ。これから蕎麦を食べるのだから。


「今日は夕方からバイトなんだ。だから夜ご飯はいらないよ」

「ふうん、大変ね」母が椅子に座り、麦茶を飲んだ。

「買いたいものがあるんだよ。そのためには貯金しないと」

「勉強をおろそかにするなよ。まだ高校生なんだから、本分は勉強だ」


 陽人は蕎麦を口に運びながら言った。そうすることがこの上なく自然に感じられた。麺の冷たさが喉を通っていく。


「いやいや、兄ちゃんも高校生だろ? しかもそっちは受験生。人のこと言えないだろ」

「確かにそうだな。忘れてたよ」

「大丈夫なの? 夏期講習はしっかりやってるの?」母が呆れ混じりに笑った。それから宗司の方を見て「勉強もバイトも頑張りなさい。バランスをとることを身につければ、将来役に立つときが来る。勉強ばかりしろとは言わないから……」

「ありがとう」弟が言う。「じゃあ、当ててみてくれよ。俺が何を買いたいのか」

「そうだなぁ……」陽人は考えるように天井を見る。「服か?」

「ぶぶー。母さんはどう思う?」

「どうせゲームでしょ」

「違うよ。兄ちゃんじゃないんだから」

「失礼な。受験生になってからは控えてるってのに」


 しばらく弟の欲しいものを当てる時間があった。だが、どうやら正解にかすりもしないようだった。やがて母が飽きたのか、テレビをつけた。昼の情報番組が流れ出す。三人でただそれを漫然と眺めるだけの時間が過ぎた。


「夕方に雨が降るらしいよ。傘を持って行きなさい」


 天気予報を見ていた母が言った。陽人もテレビを見ていたが、上の空だった。頭の中では宗司のクイズの答えを探していた。なぜかそうしなければならない気がした。数学の復習もしなければならないのに、どうしてもクイズが頭から離れなかった。


「宗司、答えを教えてくれ」

「え?」

「さっきのクイズの答えだよ。降参するから教えろ」

「答えは」


 宗司は一呼吸置き、


「サッカーボール」


 その瞬間、陽人は立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、盛大な音を立てたが、何も気にならなかった。


「それじゃあ、そうなのか?」

 陽人は弟を見つめた。弟は屈託もなく笑っている。視界から弟以外が消える。周囲にあるリビングの全てが、いや、リビングという場所すら消えたように感じられた。

「おまえがこの〈エリア〉を発生させたのか?」

「サッカーボールは、中学校の体育倉庫に紛れ込んだんだ。だから〈エリア〉の中心は中学校になった」

 陽人は呆然となる。そこで起こったこと、かつて起こったこと、今起こっているこの異常事態の全てが繋がった。

「あのコンビニからここまではけっこうな距離があった。そこを、俺は蹴られながら移動した。誰ともわからない子供に、ときには大人に、犬に。その結果、中学生に拾われ、校庭で仲間たちに蹴られ、そのまま倉庫に入ることになった」


 弟はため息をついた。「兄ちゃんにはわからないだろうさ。正真正銘のサッカボールでも、俺は人間の精神を持ち続けていた。来る日も来る日も蹴られ、雨に打たれ、坂を転がり続ける痛みなんて想像することもできないだろうよ」


「すまなかった」陽人は反射的に言った。声がみっともなく震えた。どこかで蝉が鳴いている。そんなはずはないのに。今が夏のはずがないのに。

「酷いね。兄ちゃんも母さんも、諦めちゃったわけだ。俺を捜すことを。俺はずっと待っていたのに」

「違う、少なくとも俺は……」

「違わないよ!」弟が叫んだ。壁がびりびりと震えるような衝撃があった。「兄ちゃんが〈エリア〉に行く理由は自殺のチャンスを探しているからだ。自分から死ぬのは怖くて踏ん切りがつかないから、〈エリア〉に殺してもらおうとしてるんだ。俺を捜しているからなんて自分に言い聞かせているようだけど、それは嘘だ」


 陽人は打ちひしがれるほかない。「……〈エリア〉を発生させたのは、俺たちへの恨みか?」


「いいや。〈エリア〉は精神を錯乱させたサイキックが生み出してしまうものだ。実際の俺はもう正気を失ってるんだろう。長い間サッカーボールでい続けたせいでね。今こうやって話せてるのは、残りわずかな俺の正気の部分に兄ちゃんが触れてるからだ。このアパートは俺の見ている夢みたいなものだ。でも、それももうじき消えてなくなる。このアパートも壊れる。なぜなら兄ちゃんが、俺を殺すから。〈エリア〉を終わらせるために、サッカーボールになった弟を銃で撃つんだ。そうだろう?」


 陽人は床に膝をつく。身体に力が入らなかった。視界がぼやけていく。


「許してくれ。俺も母さんも弱かったんだ。おまえが見つかるはずはないって思ってしまった」

「もうどうでもいいのさ。できることは他に何もない。この地獄を終わらせろ。それで日常に帰っていけ。元の地獄を生きていけ。壊れた母さんと二人で」


 これまでなど、陽人にとっては地獄ではなかった。本当の地獄はこれからなのだ。


「銃を持ってるんだろ? 撃てよ。そうしないと〈エリア〉は拡大する一方だぞ? この世界が地獄になる前に、やれよ、イントルーダー」


 陽人は銃を構える。目の前のテーブルにサッカーボールが載っている。白と黒の、何の変哲もないサッカーボールが。そこからどんな景色が見えるのか、陽人は未だ知らないままだ。


 人は皆、離ればなれに立っている。人は皆、それぞれの地獄を持っている。


 そしてそれを共有することなど不可能なのだ。


 自分の地獄への鍵を持っているのは、自分しかいない。


 それから、自分がすべきだと思うことをした。




7 変容

 生存者は二一六名。なんと〈エリア〉に巻き込まれた全ての人が無事に救出された。


 これは歴史的な快挙と言えた。ひとえに救出班(ストレツチヤーズ)処理班(シユーターズ)が迅速な働きをしたおかげだとして、ニュースで大々的に報じられた。


 しかし、陽人にとってはどうでもいいことだった。仕事を終えた直後は毎度のように疲労が酷かった。押し寄せていた報道陣の取材に応じることもなく、〈敷島〉の自動運転車に乗り込んで現場を後にした。建物の多くは倒壊してめちゃくちゃな状態だったが、それを修復するのは自分たちの仕事ではない。


 静かに走行する自動運転車に揺られるうち、眠気が押し寄せてくる。一眠りする前にしなければならないことがあった。雇い主への報告だ。これをしなければ報酬が支払われることはない。


 家に帰ったら母の食事を作らなければならないな、もう夕食時なのに今から作るのか、カップラーメンにしようかなどと考えながら、手首のスマートウォッチに触る。


 だが、スマートウォッチがなかった。


 陽人はぎょっとする。いつからなくなっている? どこかに落としたのか?


 だが、車内にはスマートウォッチは落ちていない。仕方がないので、報告は本社に行ってしなければならない。スマートウォッチも新しいものをもらわなければ。


 しかし、それも明日でいいだろう。とにかく家に帰りたい。


 アパートに着いた。自動運転車が走り去る。と、外壁の角に赤いペンキがついているのが見えた。手形のようにべっとりとついていた。アパートの壁は真っ白だったから、鮮明に見えた。


 誰かのいたずらだろうか。まあ、どのみち俺には関係ない。


 階段を上っていく。母はおそらく寝ているだろう。いつものように首から提げた鍵を取り、鍵穴に差し込んだ。


 しかし、入らない。


 陽人は呆然として周囲を見回した。突然、この世界には自分一人しかいないのではないかという疑念が湧いた。何の音もしない。風が全くない。アパートは斜面に建っているから街を見渡すことができたが、何かが動いている気配はなかった。夕闇が迫る中、ちらほらと電灯が灯っているだけで、車の一つも見えはしない。


 突如不安に駆られ、陽人は一縷の望みをかけてインターホンを押した。


 しばらく気の狂いそうな静寂が続いたが、突然中で物音がした。それからドアが開いた。


「陽人、おかえり」


 母さんだった。蒼白な顔の陽人を見て、母さんは首を傾げた。なぜ玄関を開けてくれたのか。いつもは部屋で寝ているはずではないか。鍵が突然合わなくなったのはなぜか。そういった疑問を口に出そうとしたが、喉に蓋でもされているかのように一言も出てこなかった。


 母さんを押しのけるように家に入る。廊下を進む。確かここには母さんの部屋があったはずだ。目の高さに画鋲が刺さっていて、看板が掛けられていたはずだ。それは俺が作ったのだから当然だ。

 それなのに、なぜトイレの扉がある?


 リビングに行く。身体から汗が噴き出す。部屋の中は暑いのに、身体が震えていた。


「今日の昼は蕎麦にしたの。外は暑かったでしょうから」


 蕎麦が大皿に盛られている。小皿には二人分の蕎麦が取り分けられている。箸が並べられている。コップが並んでいる。テーブルが、椅子が、テレビが、グレーのソファが、紺色のカーペットがある。


「どうしたの、そんなに怖い顔をして……」

「何でもない。暑さのせいだ」


 そう、何も問題はない。テレビがついている。台風が近づいているらしい。海外で山火事が起こっているらしい。企業の不正が暴露された。大統領が関税をかけるという声明。サイキックについての研究結果。戦争が終わったようだ。日本のどこかで〈エリア〉が終息したらしい。


 いつもと変わらない日常だ。陽人は安堵のため息をつく。何も変わっていない。震えが収まっていく。クーラーから冷たい風が送られてきて、汗が引いていく。


 そこで思い出したことがあった。


「今日は夕方からバイトがあるから、早めにご飯を食べたいな」

「そういうことは早く言ってよね」母さんがため息をつく。陽人はごめん、と謝る。


 そのとき、インターホンが鳴る。続けて、乱暴にドアが叩かれる音がする。母さんは怯えたように身をすくめる。「何なの、一体……」


「大丈夫だ。俺が出てくる」


 怒号が聞こえる。ドアを叩く音は今や打ち破ろうとしているかのようだった。

 陽人は廊下を進んでいく。


 その手にはいつの間にか銃が握られている。


 そうだ、夏休みの課題をやらなくては。受験生なのだから、今が頑張りどきだ。くそっ、もっとバイトをして「あれ」を買いたいのに。待てよ、「あれ」ってなんだ? 俺は何を買おうとしてたんだ?


 陽人は玄関のドアを開けた。


 銃を構え、すべきことをした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ