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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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蝸牛は空を駆けてゆく

今日はじとじと雨が降っている。

雨はいい。

空に色のない代わり、傘の花がかわるがわるに開くから。

最近はこうして窓の外の百花繚乱を見下ろしている。

時たま上を向く人の視線の先を追いかけながら。


裏口の紫陽花は飽き飽きとして四方八方で首を垂れて水の重みで眠っている。

葉の上に、立派なカタツムリを見つけた。

紫陽花を起こさぬよう、そっとさらってくる。


幾分か、身体が軽い。


階段に左足をかけたところでイヨさんに呼び止められる。


「朔ちゃん、あんたいくらなんでも握り飯ひとつくらい食べたらどうなんだい?」


よりにもよって一番身体の受け付けないものを提案されて、下唇を噛んだ変な笑いを浮かべてしまった。


「じゃあなんでもいいから、食べられそうなもん! ある?」


俺はふと、後ろ手に隠した虫籠を思い出す。


「人参……なら……」


イヨさんは迷宮入りした難事件に挑む名探偵の如く眉間に深い深い谷を作りつつ重々しく口を開いた。


「朔ちゃん、あんた熱でもあるのかい?」


そう言って俺の額に手の甲を当てる。


「何?!」


と叫んで足元を見て今度は雄叫ぶ。


「足ィ!! あるね!! 大丈夫ね!!」


そしてドカドカと台所へ行き、小皿に人参をひとかけら乗せて持ってきてくれた。

白滝が絡まっている。


訳がわからない、と言った様子でプスプスと頭から湯気を出しながらまた台所へ戻って行った。


俺は左手に虫籠、右手に小皿で階段を昇る。

ここのところ、のぼりは赤ん坊のように手を使って這いつくばっていたものだから、身体に堪える。


登りきったところでハアハアと息切れに押し倒されてしばらくそのまま梁を眺めていた。


「そんなとこで寝るんじゃないよ!」


下からイヨさんが叫ぶので仕方なく、匍匐前進で部屋へ入った。


原稿用紙が湿気でヨレている。

その上に虫籠を乗せてみると、なんだかちょっとした御供物のように見える。


「腹、減ってるか?」

物言わぬカタツムリの前、俺は人参を前歯でかじりとる。

それを虫籠の中に入れ、残りの半分は鼻を摘んで自分で食った。


しばらく見ていると、歯型のついたところを奴がかじり始める。


「そうだ……いい子だ。たくさんお食べ。」

嬉しくなって途方もない時間眺めていた。


殻の螺旋を数えては、空が近いと笑ってる。

のんびり昇れ。


目に映るものが左回りで転げ落ちていった。


鼻がむず痒くて目を覚ますと睫毛越しにはすっかり人参を食べ切ったカタツムリが悠々と遊んでいるのが見える。

頭の後ろの方で紙をめくる音がする。


音のする方に身体を転がし顔を上げる。


「ハハッ! おめぇなんだその顔は!」

大ちゃんだ。

大ちゃんが俺を指を差し、ほんの少し日に焼けた顔で大笑いしている。


「え?」


要領を得ない俺の手首を引っ掴んで左頬に当てると、

「ほれ! 触ってみ!」と涙を流し真っ赤な顔で言う。


「あ……」


大ちゃんは俺の頬をはらいながら、

「寝んなら布団でな、風邪ひくぞ。」と尤もらしいことを言いながら、まだまだ笑い続けていた。


「ん? 何か食ったか?」

「お。わかるかい?」


今日は妙に鼻が効く。

鼻がむずついたのはこの匂いに誘われたせいだ。


「心してかかれよ。」


突然大真面目な顔をした大ちゃんは自分の後ろから厳かに紫の小さな風呂敷包みを差し出してくる。


「どうぞ、お納めください。」


膝の前に三角を作り、深々と頭を下げる大ちゃん。


わずかに肩が揺れている。


「では。」


と大ちゃんがしたように頭を下げる。


一つ目の結びを解いていく時、後ろめたいような喉のあたりのむず痒いのを感じた。

二つ目を解く時、もうすでに布越しに知る柔さへの躊躇いから第二関節がぎこちなくなる。

もうあとは、じりじりと焦らした残りをずらすのみだ。


俺は唾を飲み下した。

大ちゃんの喉も音を立てた。


瞳で合図をする。


二人で角と角を持つ。


ひとーつ、ふたーつ……


三つ目の瞬きで露わになったのは、豆大福だ。


俺から見て右側の大福が、関節の目立つ指で掴み上げられた。

待ち構えているのは大きく開いた口。


痛い!


「なんだ? 朔ちゃん、これも食えねえか?」


もごもごと頬を膨らませて喋る彼は恐らくそんなようなことを言ったはずだ。


自分でもわからない。

大福が大ちゃんの歯と指の間で伸びた瞬間、どこというわけではないが身体が痛む気がした。

俺は手で顔を覆ったまま、左手の中指と薬指の隙間から、まだ丸のまま残る大福を覗き見る。


「大丈夫だ。毒なんか盛ってねえ! ほれ、見てみろ。俺はこんなに……」


恐る恐るその危うい輪郭を摘み上げると、豆の一粒飛び出しているところを前歯だけでかじりとった。


「目ェ開けて食え? 詰まるぞ。」


その通りかもしれない。

視界もなく、唇と歯の感覚、そして自分の咀嚼音だけが脳を支配している状態はあまりに不健全だ。


しかし、脳はやはり馬鹿な臓器で禁忌的なものに触れると途端に悦び出してしまう。


きっと、大ちゃんは今俺を見ている。

おおよそ唇だろう。

視線の突き刺さりは痛いのだ。


一度、目を開ける。


「へえ……それで、日がな一日そいつを見てんのか!」

「人参食ったら人参色の(クソ)すんだ。なかなかかわいいもんだよ。」

「朔ちゃんおめえ……」


大ちゃんは残り一口にも満たないほど小さくなった豆大福を訝しげに見つめた後、「もの食ってる時に(クソ)の話するもんでねえぞ!」と真っ白な唇で笑った。


甘い香りに誘われたのか、ヒメアリが一匹歩いてくる。


「蟻は働きもんだねぇ。」

「言ってる場合か! おめえこれほったらかしてると部屋中蟻になっぞ。」


大ちゃんは少しむきになっている。


「だけども……」

俺は大ちゃんに、畳の跡のついた頬をむける。


「屋根もないのに。外にやったら濡れちまうだろうよ。」


大ちゃんはふぅと息をつき、こう俺に問うた。


「カタツムリ様にだけお水くれてやって蟻は飼い殺しかい?」


途端、目を閉じていた俺はその言葉への答えで喉を詰まらせた。


背骨が粉々になるほどに()たれ、なんとか胃に落とす。


「だから目ェ開けて食えって言ったのに。ほれ……水、水飲め?」


肩を支え、コップを口元で傾けてもらう。

唇の端から水が溢れ出して、俺は畳を叩く。

欲張りすぎた鼠の如く膨らんだ頬のまま必死に笑いを堪えている。

大ちゃんの目が一瞬、光をなくしたように見えたのは、鼻先まで垂れていた自分の髪のせいだろう。

水を全て飲み込んでしまうと、濡れた襟元なんか気にならないで二人で大いに笑った。


それから蟻を潰さぬよう、一匹ずつ捕まえては手に這わせ腕に這わせた。

全部で五匹にくすぐられ、いざ行かんとした時に丸める前の紙の上に最後の一匹を見つける。

瞬間、その文字の群れの前に怯んだところ、見失ってしまった。

俺はそれとなく、書きかけを裏返してから部屋を出た。


やはり外はまだ雨が降り続いていて、蟻の巣穴らしき穴は水の下だ。

「戻るかい?」

問いかけてみたが、蟻たちはみな指伝いに地に降りてそれぞれに歩き出した。


部屋に戻ると、大ちゃんはまた本を読んでいる。

俺は食べかけた大福の続きを始める。


「ちゃんと目、開けて食え?」

本に視線を落としたまま、言うその声も畳に向かって落ちていった。


「なあ、朔ちゃん。おめえ知らないだろうけど……」

やはり俺の方は見ていない。


「藤の花の枯れた頃、死んだんだ。小村教授。」


「え?」


もう一度目を閉じた。

一口かじる。

──研究棟の藤の花は見ましたか?

その声と言葉が蘇る。


二口目。

両肩に凸凹とした温かさが蘇る。


三口目で身体の震えが止まらなくなった。

──瞼の向こう、お外では小鳥が水を浴びていて、それを君が追い立ててチュンと鳴き鳴き逃げていく。

君の涙を攫うのは、藤のお花の死んだあと……


心臓が凍るおぞましい感覚のあと、俺は光の中で目を擦る。


昨夜の空は街のあちこちに、宝石を落として眠りについたようだ。

久方ぶりの朝の陽射しの柔らかなこと。

相変わらず低い天井は惨めったらしく辛気臭い顔をしているが、「元気を出せよ」と声をかけてやる。

遮蔽のない窓は、容赦なく生活の始まりを促してくる。


でもどうだい?

今この部屋に、二度三度とうつらうつら頭を揺らしている奴が見えるのかい?


俺は虫籠を抱えて階段を降りる。

鞠が無邪気に跳ねるように。


自分のではない少し履き心地の悪い下駄でぬかるむ裏庭へ飛び出した。

夜着の裾の濡れるのもかわまず、コロコロと駆け回る。


紫陽花はおめかしをしてよそいき顔ですましている。


翡翠色の角をした、螺旋背負ったカタツムリ。

両手に乗せて、腕を伸ばし俺は言う。


「ご覧、空だ。空の紫陽花も、美しかろう?」


とたん、黄色の嘴をした小鳥がやってきて手から飛び立つカタツムリ。


行ってきますも何もなく天高く、天高く。


これから小鳥の相棒と、大きなお空を旅します。

返事がないのは元気な証拠。


「お迎えにあがりました。」

どこかの家から声がする。


青い花は身包み全部剥がされて、それでもどこか満ち足りた気だるげ顔で項垂れていた。


空は相変わらず青くって、陽射しは夜着の露だけ残したまま。

僕を眠りに誘うのでしょう……?

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