平坦な微睡み
あの男はまた俺を通り越して芍薬を眺めている。
身体だけを人の輪の中に残し、意識だけでその毒を移しとる。
頬杖をつく彼の憂鬱を、俺はちっとも知りたくなかった。
陽がかげり始め、紫はやや薄らいでいる。
外、音もなくまとわりつく小蝿。
凝らした目のような西陽がこちらを睨みつけてくる。
群衆の中へと消えていく先輩の背中を見送り、一人街を彷徨う。
電信柱の行方不明の犬の絵は、ほんの少し腑を楽にした。
絵の下、意味ありげな線の交差からは目を逸らす。
鎖の外れた白犬の身軽さを羨んだ。
雨降る夜の屋根無しを、腹の鳴るのに餌無しのその身を案じ、呟いた。
「達者でな。」
馴染みの書店。
用もないのに横目で見れば店の奥、積み上げられた本の上。
小さな黄色が乗っかっている。
ただ、惹かれた。
吸い寄せられた。
春、キャベツの花に魅せられる蝶々のように。
「あ。」
奥へ、奥へと進んでいく。
いつもの無愛想な書店員は見当たらない。
埃がキラキラ、季節はずれの雪のように舞っている。
腕を広げ、指も広げて見上げればほら全部僕のもの。
木造りの床、キシと鳴る。
もう一歩、キシ。
もう二歩進んでキシキシ。
踏み込むたびに音の鳴るのに胸を高鳴らせた。
まだまだだ。
君のいるのは最果ての、寂しくいじけた山の上。
──檸檬だ。
その黄色のみずみずしいこと!
その温度に、触れてみたい。
その重みを、感じてみたい。
その香りは、胸をきっと胸をくすぐるのでしょう?
あまりにも無防備な黄色を輪郭ごと奪い去ってしまいたい。
本の背が、ギロリと僕を睨んだ気がする。
──一緒に逃げよう。
心の赴くまま、腕を伸ばす。
瞬間、甲をピシャリと叩かれるような感覚を覚えた。
鼻の奥がツンとする。
まるで、何かを諦めた……
──リンリン……
外で自転車のベルの鳴るのが記憶の逆行を阻んだ。
途端、檸檬以外の世界が色を取り戻す。
たじろぐ僕を突き動かすように、心臓は穏やかに、それでいて乱雑な拍を刻み出す。
紙とインクの匂いの中をタンッタンッと走った。
その度に床はキシキシと答える。
走るほどに出口が遠退いていく感覚。
振り向けばもう、あの檸檬は随分と小さくなっている。
──おにさ……こ……、……………なる……うへ……
きっと今俺の頬は薄っすらと赤らんでいる。
微かに吹く風が汗ばんだ首筋を掠め、優しく熱を奪っていく。
どこかむず痒い感覚の中、安堵と疲労の狭間で喘いでいる。
あの一瞬の恍惚が胸を灼き、脳を蕩かした。
まだ外は明るいというのに、街灯が煌々と灯っている。
吸い寄せられる二匹の蛾が舞うのが見える。
その内一匹は天と地がわからぬとでもいった様子で、もがくように鱗粉を撒き散らしている。
「おめえ、随分と翔ぶのが下手だな。」
一匹が墜落する。
俺の足元でバタバタと地面で羽根を打つ。
一回と半分ほどだろうか。
歪な円を描き、動かなくなった。
もう一匹はまだ、平気な顔して飛んでいる。
その奥に、見慣れぬ看板が見える。
唇をすぼめ、舌の奥を口蓋に当て「く」。
そのまま舌先を前歯の裏に当て「す」。
歯の裏を叩く。
唇はわずかに横へ広がる「り」。
小さく縦に、吐き出す息で世界を追いやる「や」。
──薬屋。
途端に街が色を失くす。
薬屋の看板は錆びつき、ギィギィと音を立て始める。
どこか無関心で、どこか他人事だ。
なぜだろう、立ち尽くしている俺の顔は笑っていたような気がする。
どこかの家の桑の実三つ、こっそり噛んだあの日のように。
奥歯に挟まる罪悪に誇らしげに胸を張った少年のように。
追い立ててくる砂埃に咳払いをひとつ。
そこからどうしたのかわからない。
瓦礫にでも埋まっているかのような重苦しさの中、目を開けた。
ささくれ立つ畳に埃が捕らえられ、窓から差し込む光できらきらとしている。
上になっている右でそれを掴もうとして、手からシワクチャに丸まった紙が落ちる。
なぜだかひとつかみで捕らえられないような場所で、おちょくるように揺れている。
ウンウンと唸りながら指を伸ばしても、あとわずかに中指が届かない。
腹の形に沿うように押し潰れているのはせんべい布団だった。
それを押し除けるように右の手で、もう欲しくもなくなったきらめきを掴む。
すると潰れた左腕がひどく痛んだ。
ウグゥ、と声が出て同時に腹も鳴る。
仰向けになり、唇に掛かる前髪の先を吹き飛ばす。
シミだらけの天井の節を六まで数えては忘れ、五まで数えては忘れ、そんなことをひたすら繰り返しているうちにまた瓦礫の下へ潜り込んでいる。
瞼の向こう、お外では小鳥が水を浴びていて、それを君が追い立ててチュンと鳴き鳴き逃げていく。
君の涙を攫うのは、藤のお花の死んだあと。
──ドドドドドドドド!!!!
凄まじい音に、気づけば俺は布団を投げ飛ばし、部屋の扉を開けていた。
「イヤアアアアア!!!!」
女が……いや、寮母のイヨさんが古ぼけた布団に顔を押し付けたままこちらを指さしている。
「え?」
おおよそ、化け物か触覚の長い虫か何かでも見たのだろう。
俺はあたりを見回した。
そこはいつも通りのオンボロの下宿だ。
隣の部屋の扉には穴、壁にはわけのわからないシミ、そこの柱の傷は二年前に俺が本棚をぶつけてできたものだ。
少し違うことといえば柱にかけた花がシャガからアヤメに変わったことくらい。
こんなに明るいんじゃ化け物はお寝んねだろう。
ともすれば、茶色のてらてらとした虫だろうか。
「朔ちゃん……あんたなんて格好してるんだい?」
やっと口を開いたイヨさんの言葉に俺は赤面した。
「ご……ごめんなさい……」
慌てて襟を合わせ、帯を結んだ。
「ああ、そうだ。昨日の夕刻、六時くらいだったっけね。背の高い、賢そうな……男前の学生さんがあんた訪ねてきたんだけど。その、書き置きね、ちゃんと読んだかい? まったく昨日あんたなーんも言わんでひったくっていっちまうから……」
「ごめん……なさい。」
部屋に戻ると、俺が投げ捨てた原稿用紙とは違う上品な紙の死骸らしきものがある。
しばらくそいつの隣に身体を横たえて、睫毛の影越しに雲のちぎれるのを眺めていた。
──ああ、青い。
そう呟いた瞬間に、空は色を失くしてしまう。
──雉鳩の飛び立ちの音が「プン」というのはなぜだろう。
そう思いを巡らすと、色なき空から羽が降る。
窓の木枠がひんやりとして、気味が悪いほど正確に四角い空を見せている。
ここは籠のどちら側?
気づけば夢中で格子を掴み、下を向き、人の往来を眺めている。
知らぬ幼子、膝擦りむいて「痛い、痛い」と泣いている。
空の鳥が申しますには、私にできることがございませんが、歌ならお聴かできましょう。
その歌声に誘われて、それならここから出してくれ!
そう叫んだ俺が見ているのは横向きの世界のままだ。
緑の間を通ってきた風が、髪を梳いていくのが心地よい。
風の真似して指で髪を撫でてみる。
ふいに、あの紙の死骸がカサリと揺れるのを見た。
瞬間、背中を冷たい小指でなぞられるような感覚に襲われる。
肋の間も一本ずつ、途方もない時間をかけて。
声を殺した。
息を殺した。
頭の中では意地の悪い言葉と試すような笑いが響いていた。
喉が渇いている。
透明の硝子を包む光はわずかに傾きかけている。
俺はまだ、見えない鎖に繋がれたまま。
恐れと恍惚の間でゆらゆらと間違った切り取り線で今日という日の輪郭を求めようともがき続けていた。




